第231話 閑話 騎士と令嬢④
ルークが体内のアルコールを全て追い出し、急ぎ皆のもとに戻った頃には、既に歓迎の宴会は終わりを向かえていた。
明日に控えた合同訓練を見越した早々の解散らしいが、そこにあったのは、死屍累々の光景だ。
床に転がる男。
壁に向かってブツブツと話し続ける男。
空の杯を何度も煽る男。
「明日の訓練、大丈夫かよ……」
苦笑いのルークに、「大丈夫だろ」と声をかけたのはロベルトだ。酔っている雰囲気のないロベルトが語るのは、ここに転がったりしている連中は、明日も非番だそうだ。
「非番ですか……」
「そう。俺達にはしばらくないけどな」
笑顔のロベルトがルークの肩を叩いて続けるのは、宴会の後片付け……などではなく、コンラッドとの交代だ。ここに来てからずっとアルフレッド達に付きっきりで、まともに食事もしていない筈だと言う
「その栄誉ある代理をお前に頼む」
ニヤリと笑うロベルトの顔には、「お嬢様に会わせてやる」と書いてあるかのようだ。何ともお節介だが心優しい先輩に、ルークは「了解です」と頭を下げて足早に宴会場となった詰所を後にした。
屋敷を警護している兵に断りを入れ、メイドに案内されたルークがたどり着いたのは、既に照明を落とされ薄暗くなった廊下だ。突き当りに見える扉の前に、真っ直ぐ立つコンラッドの姿が見える事から、そこが客間なのだろう。
「隊長、休憩交代です」
小声で敬礼をするルークに、「すまんな」とコンラッドが小さく肩を回した。既に廊下の明かりが落とされ、コンラッド以外に――メイドなどの――人の姿がない事から、客間にいるセシリア達は、完全プライベートの時間、もしくは就寝中のようだ。
「何もないと思うが、頼んだぞ」
ルークの肩を叩いたコンラッドが、ルークを案内してくれたメイドとともに廊下の向こうへ歩いていく。コンラッドとメイドの姿が曲がり角の向こうに消えた時、ルークは小さくため息をついた。
今回ハートフィールド家は、使用人の類を一切連れてきていない。だからガードナー家から何か要望がある場合、こうして誰か騎士を通す形になるのだ。いわば今のルークは護衛というより、執事に似た仕事の真っ最中というわけだ。
「せっかく来たってのに、もうお休みじゃどうしようもねえな」
扉を振り返ったルークがもう一度ため息をついた。もしかしたらセシリアと挨拶くらい交わせるかと思っていたのだが……。仕方がない、とルークがまた前を向いたその時、暗い廊下がわずかに歪んだ気がした。
「なんだ?」
ルークが眉を寄せ、現象を確認しようと一歩踏み出した瞬間、扉の向こうから『コンラッド?』とよく知る声が話しかけてきた。
「コンラッド隊長は現在休憩中です」
廊下を気にしながら小声で返したルークに、扉の向こうが静かになり……そしてゆっくりと扉が開いた。
「ルーク?」
「はい。何でしょう、セシリア様」
たった半日ぶりだというのに、ルークは凄く懐かしさを覚えている。それはどうやらセシリアも同じようで、ルークを見た彼女は分かりやすく表情を明るくした。
一瞬だけ部屋の中を振り返ったセシリアが、するりと扉を抜けて廊下へと出てきた。
緩くなった巻き髪。わずかに香るシャボンの匂い。そしてナイトドレス。ルークにとっては見慣れたセシリアの一面だ。そう見慣れている。王都にある別邸で何度となく見て知っている姿だというのに、知らぬ場所と薄暗い廊下のせいでやけに艶めかしく見えてしまう。
それはどうやらセシリアも同じなようで、二人して若干俯いて視線を彷徨わせていた。
そうしてどちらともなく、真っ直ぐ扉の前に立ち、長い廊下の先を見つめる形に落ち着いた。廊下は至って普通に見せている。
「……喉が渇いてしまいまして」
ポツリ呟いたセシリアに、「そうですか」とルークはそれが、彼女がコンラッドを呼んだ理由だと理解した。
「では、何か飲み物を――」
「いいのです」
「ですが……」
「今は、飲み物より――」
俯いた赤い顔のセシリアに、ルークも「はい」と赤ら顔で小さく頷いた。
「大変ではありませんか?」
前を見たまま呟くセシリアに、ルークは「いいえ」と首を振って、コンラッドを始めとした皆が良くしてくれていると笑顔で続けた。実際隊長であるコンラッドも、補佐のロベルトも、他の先輩達も、皆がルークを可愛がってくれているのだ。
「ただ宴会は大変でしたけどね」
肩をすくめたルークに「宴会ですか?」とセシリアが思わずルークを見た。
「ええ。ガードナーから歓迎の宴を開いてもらったんですが」
そう切り出したルークが続けるのは、つい先程まで開催されていたあの宴会の話だ。ちなみに途中でキャサリン謹製の怪しい薬で、便所に籠もっていた事も自嘲気味に語ってみせた。
「まったく。あなたは何をしているんですの」
いつものように呆れたセシリアの笑顔に、今度ランディにも飲ませるつもりだと、ルークもいつものように笑顔を見せた。ようやくいつも通りな雰囲気に戻った二人だが、ふと訪れた会話の谷間に、ルークはチラリとセシリアを見た。
否、見てしまった。彼女の物憂げな表情を。だから、思わず口をついて出てしまった。
「フリード様は、どうですか?」
その言葉にセシリアの肩がピクリと跳ね、そしてゆっくりと口を開いた。
「良い方です……悪い部分を探す方が難しいですわ」
セシリアの力ない言葉は、ルークにとっては巨大なハンマーで殴られたかのような衝撃だった。もちろんセシリアがフリードに対して、愛だの恋だのを抱いていない事は分かる。
だが貴族同士だ。政略結婚において、マイナスがないということは最大のプラスだ。
逆にルークなどマイナスしかないのだ。
身分もない。稼ぎはそこそこ。たまに抜けている。伯爵家の嫡男で、商売もある程度成功させた男と比べれば、顔が良くても剣の腕が立っても、「それがどうした」というレベルだ。
そんなルークの気持ちを察してか、セシリアがポツリと呟いた。
「私、婚約などしたくありませんわ」
その言葉にルークは思わず息を飲んだ。ルークの中に、上手く返せる言葉がなかったのだ。
「ごめんなさい。今の発言は忘れて――」
笑顔で首を振るセシリアに、その悲痛な笑顔に、ルークは締め付けられた心から、「俺も――」と声を絞り出した。
後には退けぬ。こんな形の情けない吐露だとしても、ここで言わぬわけにはいくまい、とルークは、深呼吸をしてセシリアに向き直った。
「俺も、セシリア様に婚約なんてしてほしくありません」
何と言う情けない吐露だ。それを言ってどうなる。セシリアをただ困らせるだけだと分かっていても、ルークは言葉を口にせずにはいられなかった。
セシリアは、ルークの言葉に一瞬驚いた顔を見せるものの、「駄目ですわ」と小さく首を振った。
「嬉しいですが、あなたにそんな事を言わせて――」
「俺は――!」
少し張り上げ気味の声に、ルークが思わず口をつぐみ、そして小さくゆっくりと、だがしっかりと言葉を続ける。
「俺は、セシリア様が好きです。だから、他の誰にも取られたくない」
真剣な表情のルークに、セシリアが一瞬固まり、そして顔面を真っ赤に染めて
「る、るるるるるっるルーク、い、いいいいいいい今の言葉は――」
慌てふためき、目をぐるぐると回している。そんな普段と違うセシリアを、月明かりが照らした時、ようやくルークも、自分の発言が踏み込みすぎたと気付いたのだが、時既に遅し。
だが伝えてしまったのであれば、もう取り繕う必要もない、とルークはセシリアに身体ごと真っ直ぐ向き直った。
「本当です。俺はセシリア様を――」
「わ、分かりましたわ!」
真っ赤な顔で視線を逸らしたセシリアが、「しょ、少々落ち着かせて下さいまし」とルークから一歩離れた。
しばし赤い顔で「すー、はー」と深呼吸をしていたセシリアだが、不意に「フフッ」と笑みをもらした。それは抑えきれぬといった心からの笑みで、未だ赤い顔ながらようやく笑顔をルークへと向けた。
「あなたの気持ちはとても嬉しいですわ。だって私も――」
そう言って俯いたセシリアは、耳まで真っ赤だ。
「でも。せっかく想いが通じたというのに……このままでは婚約させられるかもしれません」
「俺から明日にでも伯爵様に――」
「ねえルーク。二人でどこかに逃げましょうか?」
セシリアの懇願するような瞳が、月明かりにキラリと輝いた。
「逃げる?」
「ええ。私はただのセシリアに、ルークもただのルーカスに。二人で遠くに逃げて、二人だけで幸せに暮らすんですの」
微笑むセシリアがゆっくりとルークへ手を差し出した。その手にルークも思わず息を飲んだ。
この手を取れば、少なくともセシリアを誰かに渡す事はなくなる。先程の物憂げな笑顔をセシリアから取り除ける。
そう思えばルークの手は、自然と伸びていた。ゆっくりと……震えながらゆっくりと伸びる己の手を見ながら、ルークの脳内で声が響いた
――おい。尻尾を巻いて逃げんのかよ?
不意に響いたのは、聞き覚えがある不遜な声だ。いや聞き覚えしかない。いつも響いているから知っている。これは自分の声だ。
(うるさい。セシリア様を守るために――)
顔をしかめたルークの脳内で、声は止まらない。
――セシリア様を守るだぁ? セシリア様にそんな事言わせてるやつが、よく言うぜ。
(言わせた? 俺が?)
――そうだ。この場を逃げてどうなる? 一生逃げて暮らすのか?
(それは……)
――それがお前のやりたかった事か?
(うるせえ! 強くなるのに場所も身分も……)
――本当にそう思ってんのか? もう一度よく考えてみろ。お前が今、本当にやりたい事を。
脳内で響いた声に、ルークがセシリアへと伸ばしていた手をピタリと止めた。
「俺がしたいこと……」
「ルーク?」
首を傾げるセシリアを守りたい筈だ。だが今のルークはセシリアの手を取ることが出来ない。気付いてしまったから。
ここでセシリアを連れて逃げれば、ヴィクトールにもハートフィールドにも迷惑をかける。両家の関係は悪化するだろうし、何よりセシリアは今後二度と家族にも、親友であるエリザベスにも会えない。
それが守る事だというのだろうか。そんな道を示すことが、そんな道を選んでしまうことが、果たして本当にセシリアを守れるというのだろうか。
それどころか、今ルークは間違いなくセシリアに守られているではないか。己の全てを捨てて、ルークを選ぼうとする彼女に、守られているとは言わず何と言うのか。
いや、だけではない。ずっとセシリアの庇護下にあったということを、今こうして認識させられたのだ。
だから……だから眼の前のセシリアは、こんな事を言ってくれたのだ。
ルークの為に、ルークの為だけに、彼女はそんな選択を見せたのだ。
何とも情けない状況に、ルークは伸ばしていた手を握りしめた。
「本当に、何がしたかったんだろうな」
つぶやくルークに、目の前のセシリアは首を傾げている。こんな無様を晒して、守りたいと思う人に守られ、情けない己は、本当は何をしたかったのだろうか。
――天国の母さんに届くくらい。
そうだ。強くなりたかった筈だ。天国に名前が轟くくらいに。今まで歩いてきた道は、そのための道だった筈だ。
――強くなりたいだけなら、どこでもいいんじゃね?
響いてきたのは、幼いルークの声だ。そうだ。強くなるだけなら……でも、今はそれだけじゃない。強くなるだけ、名前を響かせるだけ。それが変わったのはいつからだったか。
アランに言われて、このハートフィールドに来た頃からだ。
最初の頃は優しいお嬢様で、騎士として仕えるに値するという認識だけだった。確かに綺麗な令嬢だとは思っていたが、それがいつから恋心へと変わったのだろうか。
そのキッカケもタイミングも思い出す事など出来ない。もしかしたら、出会った頃から、意識していなかっただけで想いを抱いていたのかもしれない。
――母さんにも紹介したもんな
そうだ。母マーサにも紹介した。仕えるべきお嬢様だと。
(今の俺がしたいこと。それはセシリア様を守れるくらいの男になって、その名声を轟かせること)
――ならいいじゃん。お嬢様を変なヤツから守って、ついでに強くなればいい。
そうだな。確かに。この手を取っても、自分がやりたかった事と何ら変わらない……
「そんなわけ、あるか!」
歯を食いしばったルークが、握りしめた拳を思い切り自分の鼻っ柱へ叩き込んだ。
廊下に響いた鈍い音に、「る、ルーク?」とセシリアが驚いた声を上げた。
ルークの脳内で響くのは、いつから師匠に言われた言葉だ。
――何のために剣を取る? 何のためにつよくなる?
「俺が……俺が今剣を取る理由は、セシリア様の全てを守るためだ。そしてそのために俺は強くなる」
歯を食いしばったルークが、「弱いままでいられるか」と目の前のセシリアに向き直った。
「お嬢様。申し訳ありません。俺が不甲斐ないばかりに、そこまで追い詰めていたとは」
ポタポタと鼻血を垂らしたルークに、「な、何を言っているんですの?」とセシリアが慌てるが、ルークはもう十分だと首を振った。
さっきの一撃で全て繋がったのだ。目の前のセシリアも、廊下の違和感も。まだ自分が彼女を「セシリア」と名前で呼べる男では無いことも。
「俺の弱さがあなたを不安にさせました。でももう不安にさせません。すべて終わったら、ちゃんと思いをお伝えします。そしてアルフレッド様へのお願いも。だから……だから、もう消えて下さい」
「何を言っているんですの?」
「すみません。あなたのお陰で気づけました。今のあなたは、俺の願望が生み出した幻影です」
ルークが頭を下げると、セシリアの姿がわずかに薄れた。
「良いんですの?」
「はい。私はあなたを……本当のあなたを、その全てを守れるよう強くなりますから」
顔を上げたルークの宣言に、セシリアが微笑んだかと思えばグニャグニャと歪み、そうして霧のように消えていった。
静寂が包む廊下に、ルークのため息が響いた。幻影のセシリアに幻影だと気付かされる。ここでも守られたという事実は、ルークにとって苦い思い出にしかならない。だがそれと同時に心地よさもある。
迷いが吹っ切れた心地よさが。
「……出てこいよ。悪趣味だが、気付かせてくれた礼はしてやるよ」
首を鳴らして手招きするルークの眼の前で、廊下の一角がグニャリと歪み、黒いローブをまとった老人――ホレス――が現れた。
「ワシの気配に気付くとはのう……」
「さっきまではテンパってて気付かなかったけどな。お陰で色々気付いたぜ」
笑顔を見せたルークに、ホレスが苦虫を噛み潰した。
「思えば違和感だらけだ。とりあえずテメェが誰か知らねえが、悪者で合ってんだろ?」
「面倒そうな隊長を……と思っていたが、まさか釣れたのが若造、しかも幻影を見破られるとは」
顔をしかめたホレスが、最近計画の進行ばかりで、まともな修羅場に身を置いてないからだと続けた。
「稚魚とはいえ、餌に気付いたのだ。ワシの糧となり消えてもらうぞ」
「言ってろ爺。稚魚は稚魚でも、とんでもねえ出世魚だからな」
首を鳴らしたルークが、「覚悟しとけよ」と手招きをした。
悪い笑顔のルークを前に、ホレスが一瞬背後を気にした。それはルークにも分かる、近づいてくるコンラッドの気配だ。
「生意気な小僧が。貴様の死に場所に連れて行ってやろう」
ホレスが杖で床を一突き……二人を包んでいた景色がグニャリと歪んでいく。
コンラッドが廊下の向こうから顔を見せた頃には、ルークとホレスの姿は無かった。
「ルーク、待たせた……?」
訝しむコンラッドの声だけが、暗い廊下に小さく響いて消えていった。




