第170話 まあ……場所が悪いよね。
「お嬢様。ウチのお風呂より大きいですよ」
「そうですね。今度皆でもう一回り大きく作り変えましょうか」
モウモウと上がる湯気の中、湯船に浸かるリズとリタは完全にリラックスモードだ。そんな二人と違い、キャサリンは一人浮かない顔のままである。
「アンタたち、良くそんな呑気でいられるわね」
口を尖らせたキャサリンが、「自分の男の心配はいいの?」と湯船に入りながらリズを見た。
「ランディですか?」
「ああ。エリザベスお嬢様。今の言葉をセドリック様に聞かせてやりましょう」
一人「コレで目が覚めます」と鼻息が荒いミランダに、キャサリンが小さくため息をついてまたリズに向き直った。
「アンタの彼氏、バカ強なのは知ってるけど……今回は相手が悪いわよ」
キャサリンが語るのは、【北壁】ロルフ・フォン・ヴァルトナーの実力だ。もちろんキャサリンが知っているロルフは、ゲーム『うせやろ』での強さだが、その強さはいわゆるぶっ壊れである。
終盤公国でエレオノーラと対峙する主人公たちだが、そこにたどり着くまでに、ユリウス率いる帝国軍、そしてもちろん王国軍の支援があって初めてラストダンジョンへとたどり着ける。
そうしてたどり着いたラスダンも、入口には恐ろしいほど強い門番がいる。【深淵の守り人】と言う名前の黒い人型だが、それがとてつもなく強い。何とかそれを倒した……と思った矢先、【深淵の守り人】は立ち上がって、真っ黒な闘気を纏うのだ。
どこからどう見ても、まさにパワーアップ。乙女ゲーにあるまじき展開に、誰もが「うせやろ。なんなん? このク◯ゲー――」という言葉を呟きかけた時、ロルフが颯爽と現れるのだ。
王国一の武芸者が、本気になった【深淵の守り人】を抑え込む。主人公のピンチに駆けつける、めちゃくちゃ強いキャラとしてロルフは設定されている。
ラスダンへ乗り込む頃の高レベル、かつ全員で何とか倒せる相手。それの本気を一人で抑え込める設定のスペックがロルフなのだ。
「つまり……化け物クラスに強いってことよ」
天井を見上げたキャサリンが、「流石に今回はマズいわよ」とリズに視線を戻した。どこか心配しているような瞳に、リズが小さく微笑んで「ありがとうございます」と呟いた。
「大丈夫ですよ……。ランディなら――」
湯気の向こうを見つめるリズに、「そ。アタシは忠告したからね」とキャサリンは湯船に深く浸かるのであった。
☆☆☆
一方その頃ランディは……
「さて。立会人をどうするかな」
……訓練場の真ん中で、ロルフと二人向かい合っていた。勝負をするなら立会人は必須である。しばし視線を動かしていたロルフが、「ウォーカー卿。頼めるか?」とハリスンを指名した。
「仕方ありませんね」
ため息混じりのハリスンだが、その顔はワクワクしているようにしか見えない。無理もない、【北壁】と言えば、王国最強だと道中嫌というほど聞かされてきたし、ランディの強さはハリスンが一番良く知っている。
そんな二人が立ち会うのだ。楽しみじゃない方が嘘である。
「お互い武器はどうしやす?」
「要らねー」
「私も要らん」
ほぼ同時に首を振る二人に、周囲からどよめきが上がった。それはもちろんランディへの驚きだろう。【北壁】相手に、武器もなく素手で挑むなど、彼らからしたら舐めてるとしか思えない宣言だ。
だが当の【北壁】本人は、「おもしろい」と楽しそうだ。
「ルールはさっきのやつと同様。あっしが勝負がついたと思ったら、すぐに止めますんで……つーか止まってくだせえ」
ハリスンのルール説明に、二人が黙って頷いた。もう既に二人共相手しか見えていない。ランディとてロルフの強さに興味がないわけではない。いや興味しか無い。
ただ優先すべきは自分の興味ではなく、商談だと思っていただけである。
だがその相手が、戦いを望むのなら……ランディに拒む理由など一つもない。
向かい合う二人が、ゆっくりと構えた。
「では……はじめ!」
開始の合図で、二人が同時に動いた。
繰り出される右と右。拳が真ん中で交わった瞬間、ランディが耐えきれぬように両足で床を滑った。
「ザー」と音すら聞こえそうな勢いに、ランディが「チッ」と舌打をもらして滑る足を無理やり止める。
真正面からの打ち合いで、ランディが負けたのははじめてかもしれない。そのくらい久しぶりの現象に、立会人のハリスンすら目を丸くしているのだ。
だがそれはロルフも同じだ。
ロルフはランディと打ち合った右拳を握りったりして……ニヤリと笑った。
「恐ろしい力だな」
「そっくりお返ししますよ」
たった一撃。それだけでお互いがお互いの力を認識した。もちろんランディは肌着に〝抑制〟のルーンを刻んでいるが、それを抜きにしてもロルフの膂力は凄まじい。
「次はもう少し上げるぞ――」
ロルフの巨体が消えた。
かと思えばランディの目の前に、巨大な拳が迫る。
ウィービングで躱しつつ、ランディがカウンターを合わせた。
交差する右と右。
どちらの拳も、お互いの頬を掠めた。
引き戻されたそれぞれの右。
ゼロ距離でお互いの拳が唸りを上げる。
常人の目には見えぬ二人の拳が、連続して衝撃を放ち空気を震わせる。
再びぶつかった右と右で、今度は二人とも同じ様に滑って間合いを切った。
「フフフ。ハハハ! 良いぞヴィクトール。もっと楽しませてみろ!」
笑うロルフを前に、ランディが腰を落とす。
(しゃーねーな。借りるぞ、ハリスン)
ランディが思い切り踏み切った。
弾ける床石。
消えるランディ。
「見えているぞ!」
ロルフの右カウンター……はランディの鼻先で空を切った。
ジャストタイミングでの失速。そこからの急加速にロルフが身構え……
――来ない。
一撃を警戒していたロルフの脳内が、一瞬だけ止まった。
その虚を突いたランディの右。
ロルフの鼻っ柱に、ランディの拳がめり込んだ。
飛び散る鼻血と涎。
湧き上がる歓声
時間が動き出す。
体勢の崩れたロルフに、ランディの両拳が唸りを上げる。
右左だけでない、足も絡めた怒涛のラッシュがロルフの巨体を浮き上がらせた。
ランディの右踏み込みが床を踏み抜く。
足から腰、背中、肩と連動させた動きがランディの左拳へ収束。
「吹っ飛べ――」
その左がロルフの顔面を捉えた。
どこから見てもクリーンヒット。
誰もがランディの勝ちを確信したその時、
「ぬるいわ!」
ロルフの強烈な膝が、ランディのボディに突き刺さった。
ランディの口から涎と酸素が吐き出される。
浮き上がるランディの身体……へ、ロルフのハンマーパンチ。
訓練場へ叩きつけられたランディ。
尚も止まらぬロルフがストンピング。
転がり躱したランディへ、今度はサッカーボールキックだ。
たまらず両腕でガードしたランディだが、勢いまでは殺せず訓練場を跳ねる。
二度、三度バウンドしたランディが、床を押しのけるように跳ね起きた。
再び切れた間合いに、ランディが「プッ」と口の中の血を吐き出した。
「無駄にデカくなりすぎて、痛覚が全身に行き渡ってないんじゃねーのか?」
ニヤリと笑うランディの軽口に、ロルフ以外の全員が「ギョッ」とした表情を浮かべた。それはそうだ。客人とは言え子爵の息子程度が、侯爵へ利いていい口ではない。
全員が緊張する中、ロルフだけが笑顔で口を開いた。
「おやおや。少々強く殴りすぎたか? 口の利き方も忘れたらしい」
何ともロルフらしい煽り返しに、ランディもニヤリと笑う。
「ならもう一発殴って思い出させてくれよ……出来るならな」
煽り返すランディに、ハリスンが「若、流石に不味くねえですかい?」と口を開くが、ランディは「フン」と鼻を鳴らして腰を落とした。
「拳を交えてんのに、よそ行きの言葉遣いなんてするかよ」
「道理だな」
獰猛な笑みを浮かべた二人が消える。
そこからはまたラッシュの応酬だ。ほとんど見えない二人のラッシュだが、時折ランディが吹き飛ばされロルフがそれを追いかけ、逆にロルフが吹き飛ばされランディがそれを追いかける。
訓練場のあちこちで発生する衝撃波に、「何なんすかこれ……」とレオンが呟いた。
「男として嫉妬しちゃうよね」
セドリックがそれでも楽しそうに見つめる先で、ランディとロルフが姿を現した。ちょうどお互いがそれぞれの拳を受け止める形で。
「驚いたぞ。ここまでやるとはな」
「そりゃこっちの台詞だ。ロートルが」
お互いがニヤリと笑った瞬間、弾かれるように間合いが切れた。
開いた間合いに、二人がゆっくりと訓練場の周りを回る。
間合いとタイミングを測る二人だが、お互い攻めあぐねているという一面もある。
「本気は出さんのか?」
「おたくが出すなら」
同時に止まった二人が、また同時に笑みを浮かべた。
「流石に訓練場を壊すわけにはいかんのでな」
「それについちゃ同意だ」
ランディが言い切った瞬間、再びロルフがその姿を消した。
二合目と同じく、ランディに迫る右拳。
今度はそれをランディが左手で外へいなした。
ロルフの勢いを利用するように……
わずかにつんのめったロルフの胸に、ランディの右肘が突き刺さった。
「ぐっ……」
突進の勢いも乗った右肘から、ロルフが逃げようと踏み込みをバックステップに……
わずかに開いた間合いに、ランディが受け流しの勢いで回転。
ロルフの左側頭部に、左後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
完全に捉えた一撃でロルフが吹き飛び、城の壁に勢いよくぶち当たった。
城全体が揺れる衝撃に、内側から悲鳴が響き渡る。
だがぶつかった本人は……
「面白い。誘っていたな」
……至って元気である。
「では……我ももう少し力を――」
「お父様!」
構えようとするロルフの真上から、幼い声が響いた。
「エ、エレイン……」
急にしおらしくなるロルフに、エレインと呼ばれた少女が上の窓から眉を釣り上げて叫んだ。
「あんまり煩くしないでって言ったじゃない!」
プンプン怒る少女に、「エレイン、これは――」とアイリーンが口を挟むのだが、
「お姉様は黙ってて!」
逆にエレインに怒られる始末だ。
「お母様が寝てるの知ってるでしょ!」
頬をふくらませるエレインに、「すまん」とロルフとアイリーンが二人して頭を下げた。
完全に水を差された形だが、どうやらランディたちの知らない事情があるようだ。
流石にこの空気の中、再び拳を合わそうなど言うこともなく、ランディとロルフはお互い顔を見合わせて肩をすくめた。
まるで「悪い」「構いません」とでも言いたげな仕草に、お互いが笑顔で歩み寄る。
「閣下。ありがとうございました。それと生意気申しましたこと、お詫び申し上げます」
「構わんさ。こちらこそ、久々に楽しかったぞ」
訓練場の隅で握手を交わす二人に、誰ともなく拍手が送られる。
「次は外でやりましょう。その時は全力で――」
「それはいい」
笑い合う二人が、もう一度強く手を握りあった。
「今日の訓練はこれまで」
ロルフの声に、騎士たちが一斉に背筋を伸ばして礼をした。
「セドリック。積もる話はディナーでよいか?」
「構いませんが……逆に、そのような場所でよいのですか?」
まるで身内のような扱いに、セドリックも思わずと言った具合だ。
「構わん。お主らは拳で己を示したのだ。ならば礼を尽くすのがヴァルトナーの流儀よ」
豪快に笑い飛ばすロルフだが、再び窓から顔をのぞかせたエレインのしかめっ面に、その笑い声が小さくなっていくのだった。




