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海につづく坂道

作者: 東堂杏子

 あれから9年が過ぎ、迂闊にも僕は27になっていた。


 春に九州に転勤してきた。9年ぶりに実家に戻ってきたことになる。

 去年の夏、父は糖尿病で視力をなくし、仕事をやめて荒れてしまった。失明してしまうまで、僕も母親も父本人も糖尿病を患っているとは知らなかった。

 なんでここまで放っといたんだ、と眼科と内科の医師に怒鳴られた。


「もう母さん、ひとりで父さんのこと面倒みきれんけ。あんた、そろそろ戻ってこんね」


 母親に乞われて、会社に転勤願いを出したのが去年の11月頃だったと思う。

 そして運良く受理された今年の春、僕は9年ぶりの引越しと転勤先の挨拶回りで慌しく過ごした。

 父は糖尿のうえに胃癌をこさえてしまい、今年の正月すぎからずっと入院している。

 そのうえ不幸は重なる。

 父が友人たちと共同経営していたという会社があっけなく潰れてしまい、親戚じゅうに無心しまくった多額の借金だけが残った。自己破産でチャラにするわけにはいかない義理と人情と誠意の問題で、迷惑をかけた親戚たちには僕が一生かけて返していきたいと思っている。……なんて格好良く啖呵をきったものの頭が痛い。

 父と借金のことを除けば、実家は相変わらずに見えた。

 変わったことといえば、一人息子の僕の部屋が、飼い猫の正宗と愛姫の居城になっていたことぐらいだ。

 僕の実家も相変わらずだったし、お隣さんも相変わらずのようだった。

 隣の家には、生まれた年から高3になるまで僕とずっと一緒だった、幼馴染の女がいる。





「なぁ。お祭り、いかん?」


 けだるい土曜の夕暮だった。

 世の中は夏休みに浮かれているが、あの大渋滞のなか出掛ける気分にもなれず、地元友人ご一同からの誘いもなく、つきあっている女もいない。

 縁側で飼い猫の正宗と愛姫の相手をしながら、夕飯ができるまでパチスロにでも行くか、なんて思っていた時だった。


「彰。聞きよると?」


 庭の柵越しに、女が怒鳴っている。


「聞きよるよ」


 僕は顔をあげた。

 隣の敷地は僕の家よりも20センチくらい高い。坂道に並んだ二軒の家だ。

 多感な頃、僕はそれが厭だった。いつも見下されているような気がしていた。


「な、行くやろ、藤公園の夏祭り」


 笙子は、幼稚園の子がするように、ねッ?とこくびを傾げている。


「あんた全然カワイくない。笙子はババアになったなァ」

「そういう彰は相変わらずのアホ」 


 この春、この実家に戻ってきて何より驚いたのは、お隣のひとり娘も僕と同じく27になったにもかかわらず、相変わらず実家でダラダラしていたことだ。

 昔と変わらないブ厚いメガネ。化粧ッ気まるでなし。図書館で働いてるとかいっていた。

 公務員だと、生意気すぎコイツ。

 やあどうもお久しぶり、なんて他人行儀な挨拶をごにょごにょと交わしたのは再会の瞬間だけで、あとはまるで昔と変わらぬ関係に戻ってしまった。


「あぁ――今日からか。藤公園のお祭りは」


 藤公園、とうちの近所の人間はその広場を呼んでいた。

 もちろん通称だ。正式な名前は知らない。

 藤の花が見事で5月の連休にはいつも満開になる。狭い公園で藤棚を愛でながら甘酒を頂く。

 それで夏がくると、夏祭りがある。

 この高台からは海が一望にできるから、隣町が港で開催する花火大会がちょうどよい距離で観えるのだ。


「いくやろ。今夜は港の花火もあるし、な、はよ、支度してき」


 笙子がせかす。


「行くのはかまわんけど――急にどうした」

「あたし、あんたに話あるけん」

「話って何なん」

「後で、でいいやろ」


 笙子が急にそんなことを云いだすから困る。


「……っていうか、彰もあたしに大事な話があるはずやん?」

 

 眸を覗かれる。


「――何かあったっけ…?」

「ま、いっけどね。すぐ迎えに来てね、待っとるけん」 


 そう云い捨てると、笙子はさっさと引っ込んだ。

 僕はちょっと嘘が下手になったかもしれない。





 笙子が男だったら良かったのに。

 と、いつも思っていた。

 こんなに近しく話の合う人間はいない。特撮マニアでゲーム好きでファンタジー小説に詳しくてアニメに理解があって、そして僕のラグビーの試合は必ず応援にきてくれた。

 何の話をしても、笙子だったら僕が思ったとおりの反応をくれた。

 物心つく前からずっと、ふたりで遊んでいるときが、一番、楽しかった。

 笙子が男だったら良かったのに。

 中2のときそう思った。僕がクラスの夏川って女に告白されて、なりゆきで付き合うようになったときだ。

 笙子ちゃんと遊ばんといて、喋るのもメールも禁止、と彼女が僕に命じたから、僕は笙子と口をきくこともできなかった。笙子も僕たちに遠慮をしていた。

 夏川は可愛かった。でもつまらない彼女だった。

 ジャニーズのドラマとガッコの人間の悪口しか云わない女だった。

 でも彼女に云わせると「笙子ちゃんたちの話してることってオタクで気持ち悪い」。

 それでもつきあって速攻でセックスまで済ましてしまったのは、僕も一応は男で、制御できなかったからだ。おまけに当時、体育会系の男子中学生で筋肉の塊だった自分の性的衝動は犬並みだった。

 笙子ゴメン。と思った。

 僕はたぶん、誰より笙子が好きだった。

 でも、好きになるのが怖いと思った。夏川とはやれても笙子はやれないと思った。

 だから、いっそ笙子が男だったらいいのにとそのことばかり考えていた。

 それが恋愛感情だという自覚はあった。

 どうしようもできなかった。つきなみな云い訳だけれど、単純に、幼馴染の関係性を失うのが怖かった。


 っつうかあんなメガネブスに惚れるなんて物好きは僕だけやん。

 そう思っていた。 


 でも高3のとき、笙子は文芸部の男と付き合うようになった。

 司馬遷の史記がどうのこうのとかいう中国史オタクだった。頭のきれる奴で、笙子の理想のタイプそのものだった。あの女は戦記アニメの軍師キャラが好きなんだ。

 僕が血反吐はく思いでセンター試験を突破した頃、笙子のカレピはとっくに超がつくほど難関の私立大学に推薦で合格して遊びほうけていた。

 悔しかった。

 何より、カレピの合格を自分のことのように喜ぶ笙子に裏切られたような気がして悲しかった。糟糠の妻を寝取られたかのような屈辱を覚えて、悔しくて涙が出たのだった。

 ちなみに笙子は浪人した。そのときには僕はもう実家を離れていたので、よく知らない。

 彼らは遠距離恋愛になったとたん別れたらしい。

 かなり悲惨な破局だったようで、あのクソバカあたしの処女膜返してほしいマジで、と笙子はえげつなく笑った。 

 でもたぶん、その分厚い眼鏡の奥の眸から、いっぱい、涙を流したはずだ。

 僕は笙子が辛いとき傍にいなかった。





 財布と携帯だけポケットに突っ込んで、玄関に向かう。


「あんた、どこ行くんね」


 母親が奥から声をかけてくる。


「笙子ちゃんと、ちょっと祭りに行ってくる。花火みて帰ってくるけん遅くなる、飯もテキトーに済ますけん」


 僕は答える。

 母親は「あら」と歓声をあげ、いやらしいほどねっとりと笑った。


「あんた。笙子ちゃんに会うんやったら、今夜こそはちゃんと、あの話をせんと。こないだお母さんがあんたに云ったこと覚えとるでしょ?」

「わかっとる」


 何をわかってるというんだ。僕は。

 30秒歩いて隣の玄関に着く。インターホンを押すまでもなく笙子は庭で待っていた。


「遅いよ。彰」

「財布とってきた」

「何か買うの、あんた」

「買うやろ。たこ焼きとか。出店で」

「アホな子供みたいやん」


 くすくす、と、笑った。

 そしていつの間にかするりと隣に並んだ。

 笙子はメガネを外していた。


「笙子コンタクトしてきた?」

「うん。たまにはね」


 笙子はメガネを外すと嘘みたいに表情が整う。

 眸が大きいのだ。そして用もないのに潤んでいる。

 眼球そのものがデカい。病的だといわれるスレスレのレベルでデカい。

 そして目玉の大きな人間というのは、みな極端なド近眼だ。角膜と水晶体で屈折された光の焦点が、目玉の奥行きが長すぎるもんだから網膜まで届かない。だから世の中がぼやけて見える。

 メガネを外した笙子に見つめられると、思わず我を見失いそうになるから厭だ。

 こういうところも昔と変わらない。

 笙子が駄々をこねたので、僕は彼女の自転車を漕ぐことになった。後ろに彼女を乗せた。

 幼い日々のことが思い出される。

 甘くて懐かしい。あの頃は笙子ひとり背中に乗せて坂道を登るなんて楽勝だった。

 ――なのに、今日はしんどかった。 

 ラグビーをやめて、もう5年たつのだな、と唐突に思った。


「どしたん。マッスル彰、もうバテたんかい」

「もうぜんぜんダメばい」

「すっかり、牙が抜けたね。彰」


 時が流れすぎてしまった。笙子が背中に頭をおしつけてきたから、ますますしんどかった。


「5年やもん。5年間、京都で頑張って仕事してやっともうすぐ本社で係長や、っちゅうときにオヤジ死にかけて田舎に戻ってきたんやもん。こっちの営業所じゃ新入社員同然に扱われてさ、本家への借金はアホみたいにあるし、いくら何でも牙抜けるっちゃ」

「なに云い訳してんの。ダサっ」

 笙子はこういうときいつも叱りつけるのだ。今みたいに。





 坂をのぼりきってしまうと、やっと藤公園が見えた。

 僕は自転車を停めた。駐車場の隅に放っておくことにした。ここが花火の穴場スポットだというのは割と有名で、狭い道は縦列駐車であふれていた。

 笙子とふたり階段を登った。

 登りきったら懐かしい広場にたどりついた。

 縁日の露店が並んでいる。


「非日常サイコー。冷凍のフライドポテトうめえ!!」

「体に悪い油は美味い!!」


 僕たちは顔を見合わせる。

 日が暮れてしまうまで笙子と小学生みたいに遊んだ。

 焼きソバを食べたり、りんごアメを貪ったり、くじ引きでおじゃる丸の人形を貰ったりした。


「いいなあ、新婚さんですかぁ」


 くじ引き屋をやってるテキヤの兄ちゃんが笑いかける。


「いや、友だ……」

「そおなのお、来年には赤ちゃんも生まれるんですぅ」

 

 友達です、と答えようとした僕を制して笙子はそんなことを云いやがった。さっき焼きソバと一緒に胃に入れた缶ビール2本が暴れだしたか。


「うひょー、それはめでたーいッ!」


 兄ちゃん調子に乗って大当たり用の鐘をカランカランと鳴らしまくった。

 ―――恥ずかしッ!

 僕は笙子の手をひっぱり、その場から逃げ出した。




 それからさらに笙子は金魚をすくった。


「彰はやんないの?」

「うちじゃ飼えんだろ。正宗と愛姫が食っちまう。――あんたいい年してなんてカッコしてんだ。金魚やらぬいぐるみやら引き連れて」

「お小遣いで豪遊してるあたしが羨ましいんでしょ」

「誰がッ!!」 


 夜がきた。

 ここはオレンジ色に染まっている。夏祭りの夜の色だ。

 ここはハレの世界だ。秋まで命がもたないかもしれない父親を抱えたしがないサラリーマンの日常をケの世界としたら、この祭の夜はここだけのハレ。


「笙子」

「ん」

「僕に話って、何だ」

「ああ、それはね――うわあ、花火!」


 皆が一斉に海の方向を見る。花火大会が始まった。





「ごめんなさいって、云いたかったんよ」


 赤。連発。スパンコールみたいに、散る。


「何が」

「彰が帰ってくるの、あたし、ずっと待ってた。だから彰んちのおいちゃんの不幸がちょっとありがたかった。彰が京都から戻ってくるって聞いて、あたし、嬉しかった」


 白が流れる。柳のように尾をひいて天からこぼれる。しなやかな光の軌跡。


「何で待ってたんだよ。僕なんか」

「さあ。何でかなあ」


 はぐらかして笑う彼女の横顔だけが、閃光に照らされる。


「彰が、欲しいな」


 また連発。白。赤。緑。青。息つく暇もなく。


「それどういう意味なん」

「彰は、あたしに尋ねるばっかりやね。少しは自分の話をしたら」

「自分の話って」

「聞いてるよ、彰んちのおばちゃんに、あたし」

「親父があんなふうになっちまって、気が弱くなってんだ。ババアの戯れごとは聞き流しとって」


『もう母さん、ひとりで父さんのこと面倒みきれんけ。あんた、そろそろ戻ってこんね。

 あんたが笙子ちゃんと結婚するのが、最後のお父さん孝行になるんやないとね?』


 僕の母親はそう云って電話で泣いて、僕を京都から呼び戻したのだった。


「僕はひとり息子で、母親はああいう自分の都合しか考えん人間で、おまけに父親は人生カウントダウンに入っとる。親戚じゅうに借金があってハブられて法事にも呼んでもらえない。僕は完全に出世コースからドロップアウトした。でも転職するよな勇気もない。誰がこんなところに喜んで嫁にくるよ?」


 ひとつ。ふたつ。小さな花火。

 ここに来る前も母親に念を押された。今日こそは求婚してこいと。あんなメガネの不器量な行かず後家、あんたが貰ってやらんでどうする、と。


「うちの母親があんたに声をかけたのは、あんたがお隣のお嬢さんで、しかも県立図書館で立派に働きよるからや。あんたの家からの援助を吸い上げて介護もさせて、自分が老後ラクしたろって魂胆なんだよ」

「よくもまあそんな卑屈な台詞がバンバンでてくるね」


 笙子は笑っている。我儘をいう子供の相手をするみたいな顔で、笑っている。


「それって、あたしに、後ろめたいことがあるからなん?」

「もちろんそれもある」

「どんなこと?」

「僕は笙子に、心底、長いこと惚れてる」

「まあまあ、それはどうもありがとう」

「それなのに、中学んときも高校んときも別の女とつきあってた」

「夏川ちゃんとその他大勢の元カノ軍団でしょ。ちな夏川ちゃんは今バツイチでふたりの子を育ててる」

「あんたがあの男に振られたとき、傍にいてやれなかった」

「振られたんじゃないよ、あたしが振ったんだよ。彰のことが離れなくて」

「でも僕は、大学んときも別の女と暮らしてた」

「さすがにむかつく。彰はモテるもんねえ」

「それから」

「それから…何?」

「それでも僕は、今でも、あんたが、笙子が欲しい」


 何重にも見える、大きな、花火。腹の底を突く音に衝動が重なる。抱きしめる。

 流されたんじゃないよ。

 あんたが幼馴染だからこうしてるわけじゃないよ。

 幼馴染なんかじゃなくて、初めて僕の視界に登場したときからあんたはすでに「女」だった。

 僕はあんたが女であることを、友として悔しがりながら、同時に、男として愛してた。


「やっと云ってくれた。彰、それ云うのに何年我慢してくれた?」

「13年」

「彰。いっぱい女の子とつきあって、失恋して、別の子と同棲して、その間もずっとあたしのこと考えとった?」

「考えてた」

「彰は、あたしが待っただけの価値がある男かな」

「どうかなあ。家つき病人つき根性腐れの姑つき、おまけに借金つきやけどな」

「あたしは、そういうの、嫌いじやないよ」

「マゾか」

「近いかもね。彰に付随してるものなら、不幸でさえも愛しちゃう」


 キスをした。


「――笙子。ホテルいこ」

「あたしもそれ云おうと思ってた」


 ああ、惚れて惚れて仕方ない。 





 自転車に乗った。


「あたしたち道交法違反やん!」

「おまわりさんに見つからないように祈ってろよ」


 花火大会の後の、どこかこげ臭くて、せつない匂いがする。

 背中に笙子を乗せている。

 右手でハンドルを握り、左手はそっと背後にしのばせて、笙子と手を繋いでいた。

 冗談のつもりで太腿の奥をさすったら、本気で後頭部を殴られた。

 僕と笙子の恋は、純情でも可憐でもない。年老いた人間たちの思惑に雁字搦めにされる未来が待っている。おそらく、金と家庭環境に関しては苦労続きの夫婦になる。

 それでも。

 夏祭りの夜だから、県道沿いのラブホテルはどこも満室だった。でもそんなことはだんだんどうでもよくなってきた。最後にはふたりで笑い転げてしまった。

 いい年した大人の男と女が、自転車の二人乗りでホテル探してるなんてさ。おかしいよな。

 もう一度、海まで続く坂道をくだった。

 勢いをつけて車輪を転がしていると、突然、ポジティブな気分になれた。求婚に成功したせいもあるかもしれない。ときどき首筋にくれる彼女の優しいキスのせいかもしれない。

 僕は状況を憎まない。目の前に不幸があるならば、闘って倒すのみだ。

 笙子。僕はあんたとなら生きていける。

 生き抜いてやる。


 



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― 新着の感想 ―
[一言] 苦難の道とわかっていてもずっと好きだった彰と結婚したいと言える笙子が格好良いなと思いました。 様々な経験をしてきたふたりが、実はずっと両想いだった相手と結ばれるというシチュエーションがとても…
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