モザイクが間に合わない!1
22
数か月後、『プロジェクトコンコルド』は封切となった。結果は大好評。中でも、友引が務めたビルから駆け下りるシーンと、先負が務めたバイクチェイスのシーンは象徴的なシーンとなり、大きな話題を呼び込んだ。勿論、このシーンを代役が演じているということもばれずにすんだ。大安も三隣亡もこの結果には、満足していた。
そんなある日、場所は久々の事務所。大安・友引・先負の三人が定位置にて座っている。いつもの風景だ。そこへ、いつもどおり三隣亡が仕事を持ってきた。
「やあ、今日はみんなおそろいで」
「なんだ、三隣亡さんか」
「なんだとはなんだ。仕事の話だぞ」
「また仕事?少しは休みたいよ」
このところ、仕事が確実に増えてきている。友引と先負のおかげであることは言うまでもない。しかし、仕事が増えすぎで働きづめになっていることも確かである。まさにうれしい悲鳴だ。
「まあ、そう言わずに話だけでも聞いてみようじゃないか」
そういうのは大安。最初のころは、代役の仕事に否定的であったくせに金になることが分かった途端、わりかし代役業に協力的になってきた。分かりやすい人だ。
「社長はいいですよね。働くのは私たちで、椅子にすわってりゃいいんだから」
「そんなことはないぞ。俺にもたくさん仕事があるぞ」
「例えば?」
「例えば…ええと、なんか、調整とか?」
「疑問文で言われても」
「他には、ええと、営業とか?」
これ以上仕事を増やす気か。
「とにかく、俺は俺で忙しいの」
半分逆ギレ気味でいう大安。
「ブラック企業め。労働基準監督署に通報してやる」
「あ、それはやめて」
急に涙声になる大安。分かりやすい人だ。
「まあまあ、ケンカせずに」
大安と友引をなだめる三隣亡。
「で、仕事の内容は?」
一人冷静の先負。
「ドラマだ」
「ドラマ」
「それも連続ドラマだ」
「連続ドラマ」
「勿論地上波だ」
「地上波」
地上波の連続ドラマには、友引も先負も何度か出演している。特段目新しい仕事ではない。
「連続ドラマかあ。それも地上波。腕が鳴るねえ」
それでもやる気を見せる先負。
「個人的には映画よりもドラマの方が好きかな。映画よりもテレビの方がたくさんの人に見られるし」
友引もやる気満々だ。
「そうか。それはちょうどいい」
にんまりと笑う三隣亡。
「何がちょうどいいんですか?」
「今回は二人必要なんだ」
「二人」
「それも男と女は一人ずつ」
「ということは」
自分の顔と先負の顔を交互に指さす友引。
「二人とも必要ということになる」
三隣亡は言った。この間の『プロジェクトコンコルド』以来の二人出演ということになる。
「ドラマは『警視庁捜査一課・磯山浩介』」
「磯山浩介!」
「知っているのか、先負!?」
「知っているも何も、青川太郎先生の小説じゃないか」
「青川太郎?」
首をかしげる友引。
「やっぱり知ってたか」
「そりゃあ、勿論。青川太郎の小説は全部読んでますよ」
興奮気味に話す先負。しかし、このやりとりをぼんやりとした表情で眺めている友引。
「有名な人なの?」
「めちゃくちゃ有名だよ」
口角泡を飛ばしながら言う先負。
「社長も知ってますか?」
「勿論」
「三隣亡さんは?」
「当たり前だよ」
当たり前とまで来た。もはや、『青川太郎』を知らないのは非常識の域にまで達している。
「知らないの?」
先負は非難めいた声色で友引に訊いた。
「まったく」
友引は読書をしない。するのはマンガだけだ。図書館なんか何のために存在しているのかすら分からない。図書館なんか完全に税金の無駄遣いだろ。すべての図書館なんか廃館にして、その分、一人一万円ぐらい現金をくれたらいいのに、とまで思っているぐらい読書に縁のない人間であった。
「ベストセラー作家だよ」
「ベストセラーサッカー?チョッキを売るのが得意なサッカー選手なの?」
だめだこりゃ。友引に説明する調子で説明していたら完全に日が暮れてしまうので、簡単にかいつまんで説明すると、青川太郎は先負が言うようにベストセラー作家。書く本書く本がすべて、初版で100万部近く刷られるという、この出版不況のご時世においてとんでもない作家である。各出版社は、この作家に書いてもらおうと大争奪戦を繰り広げている。毎日どこかしらの出版社の編集者が、長蛇の列を作って青川太郎宅前で待機しており、その待ち時間は最後尾でおよそ120分。「ここから60分待ちです」とか「ここから120分待ちです」とか書かれた立て看板が行列のところに設置されており、開店時間(青川太郎の起床時間)を1分でも遅れたら、長蛇の列に加わらないといけないので、一時期は徹夜で並ぶ編集者もおり、周辺地域への問題とまでなった。最近では、事態を重く見た地元自治体が『青川太郎宅前徹夜で並ぶの禁止条例』を設定して、前夜から並ぶこともなくなり平和が戻ったと聞く。
「とにかくすごく有名な作家なんだ」
三隣亡は、上記の旨を説明した。
「よく分かった。とにかくすごく有名なサッカー選手なのね」
よく分かっていない。
「まあいい。青川太郎のことはこれから勉強すればいい。大切なのは、ドラマの話だ」
大安が本題に話を戻す。
「そうでした」
三隣亡も追従を言う。
「改めて、ドラマは『警視庁捜査一課・磯山浩介』」
「有名作品ですね」
「そう。シリーズで15作品ほど続いている人気シリーズだ」
「15作。それはすごい」
警視庁捜査一課・磯山浩介シリーズ。青川太郎の人気長編シリーズだ。主人公の磯山浩介は警視庁捜査一課の敏腕刑事。様々な難事件を次々に解決していく本格推理小説である。本格刑事小説としても名高い。
「人気シリーズだけに視聴者の期待値も大きい」
「責任重大ですね」
「それで、今回の代役の内容なんだが」
来たっ!本題だ。
「磯山浩介役の池スカナイだ」
「池スカナイ!」
「知っているのか、先負!?」
知っているに決まっているでしょ。そう、少し前に一緒に仕事した池スカナイだ。よりにもよって、今度は池スカナイの代役をすることになるとは。芸能界は広いようで狭いものである。
「池さん、今回は主役なのかあ」
『プロジェクトコンコルド』では悪役だった池。しかし、今回は主役。マルチにこなす俳優である。
「でも、今回も二人必要ってことだけど、私は?」
池の代役は先負で確定。友引はどうなるのだろうか?
「このドラマには狼垓アケミさんも出演予定なんだ。捜査一課のお局様役として」
「狼垓アケミ!」
「知っているのか、先負!?」
だから知っているに決まっているだろ!そう、これまた少し前に一緒に仕事した狼垓アケミだ。
「まさか、私の代役って…」
震える声で言う友引。
「そのまさか」
平然と言う三隣亡。
「そうなのね」
珍しくしゅんとする友引。それもそのはず、一悶着のあった狼垓アケミの代役である。よりにもよって、今度は狼垓アケミの代役をすることになるとは。いやはや芸能界はやはり狭い。ヘタなことはできないものである。
「結構ヘタを打っている」
友引はつぶやく。ヘタを打っているというより、逆恨みされている感じである。確執があるのは確かである。
「まあ、代役だし。直接顔を合わすことはないと思うし」
「えっ?そうなの?」
先負と友引は声を裏返して言う。少し嬉しそうだ。
「だって、これまでの仕事でも本人と一緒に仕事することなかったじゃん」
思い返してみれば、これまでの出演した映画・ドラマ・CM、すべてモノマネ歌番組よろしくご本人が登場したことは一度もなかった。本人と会ったことすら一度もない。もっとも、本人が出て来れないから出演しているんだけれども。
「言われてみればそうね」
「安心した?」
「安心した」
それならば一安心だ。
「受けなさい」
大安が厳かに言う。
「受けますとも!」
友引と先負は力強く言う。
「それは良かった!」
三隣亡は安堵した。
「さて、概要の説明だが」
声色を通常に戻して説明を始める。
「今回の内容は、『警視庁捜査一課・磯山浩介』。連続ドラマ。さっきも言ったけど。それで、仕事の内容がこれがまたすごいんだ」
えらくもったいぶって話す。
「どこらへんがすごいんですか?」
友引が身を乗り出す。
「ドラマは一クール12話を予定」
「ふむふむ」
「一話目は撮影完了。無事に終わっている」
「一話目『は』?」
大安がたずねる。嫌な予感がする。
「二話目は途中まではいたんです。二人とも」
「途中まではいた?」
なんだ途中までいたって。
「まずは、狼垓さんからでした。インフルエンザにかかってしまいまして」
「ああ、季節がらね」
「今週の収録ができなくなりました。続いては池さん」
「池さんもインフル?」
「インフルじゃなくてノロです」
「ああ、これもきついやつだ」
ノロに感染したことのある友引は言った。
「はい。というわけで二人とも体調不良でダウン。今週の収録ができなくなりました」
三隣亡は肩を落としながら言った。
「でも二人とも一週間程度で復帰できそうだろう。来週から収録すればいいんじゃないのか?」
大安が言った。
「撮影スケジュールがものすごく押していまして。一週間も休めない状況なんです」
それはまた切羽詰まった状況である。
「一週間とはいえ、急に主役とベテランの二人に抜けられて、いやはや、なんとも困ったことになっていまして」
「それは困ったな」
困ったことである。
「話数を減らすことはできないのか?」
「それは絶対にできないんです。スポンサーの意向で」
「スポンサー?」
「はい。なんでも、大口スポンサーの社長が、『警視庁捜査一課・磯山浩介』の原作の大ファンで、テレビドラマ化を誰よりも喜んでいたんです。当初から予定している一クール12話を絶対に放送しろと。どのような形でもいいから一クールまっとうしろと。一話でも減らしたらスポンサーから降板するとまで言っています」
「わがままだなあ」
どんなにわがままであっても、テレビの世界において、スポンサーの力は絶対である。
「それで代役を立ててでも、今週中に収録をすると」
「そういうことです」
無茶がまかり通る世界。それがテレビの世界。
「でも今まではチョイ役ばかりでごまかしが利いていたけど、一話まるまる代役をやるのはさすがに無理があるんじゃないの?」
「そこは、なんとかするとディレクターが言っている」
なんとかできるのだろうか?
「まさか、そのディレクターさんって」
「お察しがいい。仏滅さんだ」
またまたまた、仏滅D登場である。もっとも、前回は映画監督であったが。まあ、ディレクターも映画監督も呼称の問題であって、実態は同じものである。
「仏滅監督のご指名ですか?」
「ご指名」
どうやら、大分仏滅に気に入られているようだ。ここまで重用してくれるなら、いい加減、正規の役をあてがってもらいたいものだが。まあここは役者としてのステップアップのために必要なことであると割り切るしかないのであろう。
しかし前々回の『ママヤツ』といい、前回の『プロジェクトコンコルド』といい、役者に欠員が出ることが多い監督である。気苦労が多そうだ。ここまで多いとむしろ仏滅に原因があるのではと勘ぐってしまう。
「知ってる人で良かったね」
先負は笑顔を見せる。
「確かに」
友引もそう思った。少なくとも、仏滅は自分たちの味方だ。制作現場において責任者が味方になっていることほど心強いものはない。
「撮影は押しに押しに押しまくっている。明日から現場に入ってもらうけど。大丈夫だよね?」
この状態で無理ですとは言えない。
「はい」
力強く答える二人。
「よし、それじゃあ行ってみよう」
23
次の日。空はピーカンいい天気。撮影日和である。もっとも、どんな撮影になるかは分からないけれど。
都内の某スタジオ。とりあえずここに来いと三隣亡は言っていたが、どんな撮影になるのであろうか。
「おはようございます」
三隣亡がやって来た。すでに二人は現場到着済みである。
「おはようございます」
あいさつを返す二人。
「どんなシーンの撮影なんですか?」
友引が聞きたかったことを訊く。
「さあ。僕も聞いていないんだよね」
なんとも頼りない。こりゃ、仏滅監督待ちになりそうだ。とはいえ、所詮はテレビドラマの撮影である。映画に比べて予算も桁違いに小さい。前回のようにビルから駆け下りたり、爆発シーンをやったりすることはないだろう、と二人は若干タカをくくっていた。そんな風に思っているうちに向こうから仏滅がやって来た。
「おはようございます」
「やあ、おはよう。いつもすまないね」
いつもどおり、仏滅は苦笑いしている。もはや顔なじみともいえる間柄である。
「いえ、仕事を回してくれてありがたいです」
「そういってもらえると助かるよ」
「で、撮影内容は?」
友引が聞きたかったことを訊く。
「会議のシーンだ」
「会議のシーン?」
友引が首をかしげる一方、先負はピンと来たようだ。
「ああ例のシーンですね」
「おや、知ってるのかい?」
「はい。原作のファンなんで」
「そうか。勉強済みか。それはいい」
なんだなんだ、二人で何の話をしているんだ?
「ちょっと、私を置いてけぼりにしないで」
「友引さん、ひょっとして原作読んでないの?」
三隣亡が呆れながら言う。
「そりゃ、昨日の今日だもの」
ましてや活字アレルギー持ちである。原作なんかを読むつもりなんか毛頭ない。
「このドラマの原作で、会議に入る前によくあるセリフなんだ。『事件は現場で起きているんじゃない。会議室で起きているんだ。』ってね」
なんじゃそら。
「まあ、決まり文句だ。会議に入るときのね」
「で、その決まり文句を言うのは」
先負は目を輝かせながら言った。
「無論、主人公・磯山浩介だ」
「と、いうことは」
「先負君だね」
「やったー!いやっほおうううう!!」
先負は小躍りする。
「そんなに言いたかったのか?」
友引は冷めた目で言った。
「そりゃ、原作の大ファンだもの。主人公の決め台詞をドラマで言えるなんて、これ以上の幸せはないよ」
珍しくテンション高めだ。
「いやあ、代役業をやってて良かったあ」
お安い男である。
「では、さっそく撮影に入ろう」
見れば他の役者陣・スタッフも勢揃いだ。大半はエキストラのようだが、中には友引・先負も見覚えのある役者もいる。会議のシーンに出演する役者たちだろう。二人は、彼らに軽く会釈した。
仏滅は、流れの説明を始めた。内容は簡単。例の『事件は現場で起きているんじゃない。会議室で起きているんだ。』のセリフから会議に入るシーンまで。一応、会議のシーンの収録をするが、そこは基本バックショットで友引・先負の顔は極力映らないようにする。友引はまったくセリフがなくただいるだけ。楽なシーンだ。
「では行こう。スタート!」
仏滅がディレクター席から声をあげた。
カメラがまわり出す。さあ、お気に入りのセリフだ。発声練習はもうしている。これだ。このセリフだ。このセリフが言いたかった。今、この場で、あろうことか本物俳優と同じようにセリフが言える。池スカナイのモノマネはマスターしている。声マネもお手の物だ。さあ、言うぞ。言うぞー!
「事件は現場で起きているんじゃない。会議室で起きているんだ。」
言った。言えた。言ってしまった。どうだ。スタッフ陣よ。ディレクターよ。素晴らしいだろ。素晴らしい演技だろ。もはや本物を超えていると言っても過言ではないだろう。先負はちらりとディレクター席を盗み見た。しかし、そこには浮かない顔をした仏滅がいた。
「カット!」
止められた。
「あれ、ダメでした?」
おかしい。会心の演技のはずだ。止められるはずがない。一世一代の大演技のはずだ。これでダメだったらどうすりゃいい?先負は声を震わせながら言った。
「うーん。ダメじゃない。ダメじゃないよ。少なくとも」
仏滅は歯切れが悪い。何だ?ダメじゃないんだったらなんで止めた?ダメじゃないのに止めるはずがないだろう。ダメだから止めたんだろう。
「ちょっと、やりすぎな感じがするんだよなあ」
仏滅は頭をかきながら言った。やりすぎ?どういうことだ?きちんと説明してほしい。ちょっとと言われても困る。
「なんというか。力が入りすぎなんだよね」
力が入りすぎ。そうか。自分はこのセリフが大好きだ。めちゃくちゃ好きだ。その気持ちが表れすぎていたのか。
「池君は、こう、もっとクールな感じだったんだよね」
確かに棒読みはいけない。しかし必要以上に気持ちを出しすぎてもいけない。セリフひとつとっても奥が深い。それが決め台詞なら尚更だ。
「分かりました」
先負は冷静さを取り戻していた。そう、自分はあくまでも磯山浩介だ。先負マケルではない。役どころを忘れてはいけない。先負はすっきりとした気持ちになっていた。初心に戻った気持ちだ。
「では、テイク2いこう」
テイク2。簡単なシーンだ。ちゃちゃっと終わらせなければ。てこずってなんかいられない。
「事件は現場で起きているんじゃない。会議室で起きているんだ。」
今度はモノマネを意識して言えた。あまりセリフに入れ込みすぎないように、かといって棒読みでは問題外。加減の難しいところである。これでどうだろうか。若干の不安を感じながらディレクターの方を見てみる。
「オッケー」
あっさりオッケーが出た。フィー、と安堵のため息が漏れる。
「良かったよ。ま、これぐらいはやってくれないとね」
「ありがとうございます」
先負は頭を下げる。
「では、次行こう。次」
次はなんなのだろうか。
「場所は変わらずここでやる」
室内ロケか。何をやるつもりなのだろう。
「次は二人に絡んでもらうよ」
仏滅は、友引と先負の二人を見ながら言った。絡み、か。嫌な予感がする。なんとなく先負は思った。
「友引君が先負君をビンタするシーンをやってもらう」
は?何言ってんだ?ビンタ?
「え?」
「ビンタだよ、ビンタ」
仏滅は手首のスナップを利かせながら言った。
「どういうことですか?」
「どうもこうもない。友引君がやる役は御壺寧々(おつぼねね)だ」
「あっ」
思い出した。そういえば、最初にも言ってた。友引は狼垓アケミの代役。しかもお局の役だと。原作に詳しい先負ならそこでピンときそうなものだったが、すっかり忘れていた。狼垓アケミがやりそうな役と言ったら御壺寧々ぐらいしかない。そう、主人公・磯山浩介をいびっていびっていびりまくる御壺寧々。その役を友引がするのだ。確かに原作でも、御壺寧々が磯山浩介をビンタするシーンがあった。
「ビンタかあ」
友引が言った。
「友引さんはしたことある?」
いっぱいありそう。先負は先入観でそう思った。
「いや、一度もないね」
意外。
「グーパンしかしない」
やっぱりオチがあった。
「ま、グーかパーの違いぐらいでしょ」
早くも友引は右手のスナップを利かせる練習をしている。やる気満々だ。
「お手柔らかに」
まあ、ビンタだ。どうということはないだろう。先負は高をくくっていた。
「気を付けてね」
仏滅が言う。ビンタで気を付けるってどういうこと?
「僕の知り合いで、ビンタで鼓膜が破れた人がいるんだ。たかがビンタだと思うかもしれ
ないが、場合によっては怪我もする」
そら恐ろしいことを言う。
「ちなみに、友引さんはグーパンで怪我させたことは?」
「ないよ」
意外。
「その代わり、もれなく意識が飛んで、3日間寝たきりになるけどね」
いい加減そういうオチはやめてくれ!先負は心の中で叫んだ。
「さて始めようか」
仏滅が仕切る。
「あのまだ心の準備が」
「心の準備なんかあってもなくても、怪我をするときはするし、しないときはしない」
と、ブラック企業の社長のようなことを言う。友引の方を見ると、相変わらず本気の素振りをしている。もはや、先負に味方はいなかった。
「では、スタート!」
始まってしまった。もう知らん。先負は腹をくくった。来るなら来い。ビンタぐらいどうってことはない。左頬が痛くなるだけ。左頬が痛くなるだけだ。全神経を自分の左頬に集中させる。と、あろうことか、友引は向かって右側、すなわち左手を振りかぶった。必然的に右頬に激痛が走る。
「つっ!」
声にならない声をあげる先負。激痛と混乱で頭の中がくらくらする。
「オッケーイ!」
仏滅のオッケーコールも耳に入らない。
「ごめーん、痛かった!?」
軽く聞いてくる友引。痛いなんてものじゃない。先負は赤くはれ上がった右頬をつきだした。
「うわっ、やば」
ドン引きしている友引。お前のせいなのに。
「そもそもなぜ左手なのか?」
先負は疑問を呈する。
「何が?」
「ビンタした手」
「私、左利きだけど」
友引はさも当然であるかのように言う。
「でも、さっき右手で素振りしてたじゃないか」
「素振りは素振り。本番は本番」
よく分からないことを言う。
「でも、おかげでストレス解消した」
先負をストレスのはけ口程度にしか思っていない。
「いい感じだったぞ」
仏滅は満足げに言った。
「そりゃどうも」
先負はいまだに痛む右頬をさすりながら言った。こっちは右頬を犠牲にしたんだ。OKが出てくれないと困る。
「今日はこれで終わりだ。おつかれ」
どうやら解放されたらしい。良かった良かった。
「フー、終わりかあ。疲れたわあ」
友引が言った。あんたはほとんど何もしてないだろ。しかもやったことと言えば、ストレス解消だけだし。先負は抗議の声を挙げたかったが、痛かったのでやめた。
こうして『磯山浩介』の一日目の収録は終わった。
翌日、翌々日と三日に渡って『磯山浩介』の収録は行われた。基本、一日目のようなちょっとした無茶振りが多い感じで収録は続いた。どういうわけか、友引は楽なことばかりで、いやな目に遭うのはいつも先負だった。が、なんとか先負の『磯山浩介愛』でそれらの困難をクリアしていった。二話目の半分ぐらいが未収録だったのでそれらのシーンの収録を行っていった。二人はあくまでも代役なので、バックショットやカメラを遠くへ置いた場所からの撮影が中心であった。これでなんとか誤魔化す気なのだろう。誤魔化せるのだろうか。もっとも誤魔化すのは仏滅の仕事であって、二人が気にすることではない。仏滅の言われたとおりの演技をすればいい。二人は編集のことはあまり気にせず、演技を続け、収録は無事に終わった。
二週間後―――。いつものオフィス。いつもの面子。そこへ蒼い顔をした三隣亡がやって来た。
「大変だ。大変だよ」
「急にどうした?」
大安が訊ねた。
「『磯山浩介』の件なんだけど、また穴が開いちゃって」
「また?」
この間の収録で終わりではなかったのか。
「よく開きますね」
レンコンなみによく穴が開く。
「困ったものだよ」
「今回はどうした」
大安が訊く。
「また病気ですよ」
「また病気?」
友引が呆れたような声をあげた。
「狼垓さんがインフルエンザにかかってしまいまして」
「この間もかかっていたじゃないか」
「この間は普通のインフルエンザ。今回は新型インフルエンザ」
忙しい人だ。
「そんなに立て続けにかかるものなのか?」
大安も呆れ声。
「では池さんは?」
先負が三隣亡に訊く。
「池さんもインフルエンザ?」
「池さんはロタウイルス」
「ノロウイルスじゃなくて?」
「ノロウイルスじゃなくてロタウイルスです」
こちらも忙しない。
「また一週間お休みか」
大安が溜息をつく。
「そうです」
三隣亡は肩を落とす。
「仕方がない。友引、先負行ってやれ」
「はい」
二人は声を揃えて答えた。
「あの、それで言いにくいんだけど」
三隣亡が珍しく申し訳なさそうに言った。
「今回、二人のお休みは一週間なんだけど、ほら、撮影が巻きに巻まくっているん
で…」
「はい?」
「三回分の収録になる」
「三回分?三話分ってことか?」
大安が目を見開いて言った。
「そうです」
三隣亡は答える。
「三話分!前回の三倍ってことじゃん!」
友引が頓狂な声を出して言った。前回の三倍!前回の三倍のスピードで収録をこなさないといけない。これは大変だ。
「そもそも三話分も代役で乗り切れるんですか?」
根本的な問題点を訊く先負。
「それは、ディレクターがなんとかすると」
なんとかできるのか?なんともできない気がするが。ディレクターの胃に穴が開いていないか心配だ。やはり何かの疫病神がディレクターに憑いているのかもしれない。御祓いが必要である。
「やばいよ。はっきり言ってもやばい」
三隣亡は顔をますます蒼くして言った。はっきり言わなくてもやばい。
「逆に楽しくなってきた」
友引が脳天気に言う。
「仕事だ。オファーが来たら引き受けるしかない。たとえ、少し無茶ぶりな感じだとしても」
大安が言った。
「ありがとうございます。本当、二人に頼りっぱなしで」
三隣亡は深々と頭を下げた。
「それでは、早速明日から収録開始だ。よろしくね」
明日に収録することを約し散会となった。
24
翌日。天気はやはり良かった。が、今日はあいにくの屋内撮影。天気は関係ない。友引がスタジオ入りすると、すでに先負がいた。
「おはよう、友引さん」
「おはようっす」
いつものようにてきとうな挨拶をする友引。
「三話分も、何するんだろうね、僕たち」
知らん。私も聞きたいぐらいだ。
「ま、やれと言われたことをやるだけだよ、私たちは」
友引は言った。
しばらくすると、三隣亡や他のスタッフ達もやって来た。勿論、仏滅ディレクターもだ。
「おはようございます」
「おはよう」
ディレクターは今日もにこやかだ。
「三本撮りってまじっすか?」
友引は訊いた。
「まじっす」
仏滅は答えた。
「メイン二人がいないのに?」
先負は訊いた。
「そうなんだよねえ。そこなんだよねえ」
仏滅は、参った、というように頭をかきながら言う。
「僕らはいいんですけど、大丈夫なんですか、編集」
「編集ねえ。弱ってるんだよねえ」
仏滅も相当困っているようだ。
「もはや編集でごまかせるレベルではないと思うんですが」
友引はぶっちゃけて言う。
「確かに。だが、それをなんとかするのが僕の仕事」
仏滅は言った。
「とりあえず、今日撮影の分は脚本を急遽書き換えてもらった」
「脚本を?」
「そう。元々の脚本では、磯山浩介と御壺寧々が絡むシーンが大量にあったんだけど、流石に代役同士が絡むシーンはきつい。二人が絡むことがないように書き直してもらった」
それなら何とかごまかせそうだ。
「今日は一日で一本分撮るよ。明日・明後日と一日一本分ずつ撮っていく。忙しいと思うけど頑張って」
仏滅は「頑張って」の部分を自分にも言い聞かせるかのように言った。
撮影が始まった。急ぎということなので、ほとんど脚本に目をとおす時間も与えられなかった。むしろ、脚本家が必死に現在進行形で制作中らしい。間に合うのだろうか。シーンの概要はこうだ。自宅で夢中でテレビを見ている磯山浩介。テレビの内容はフィギュアスケート。テレビの中ではスケート選手が華麗にトリプルアクセルを決めている。それを興奮気味に見ている磯山浩介、という具合だ。一見、ストーリーの本筋にどう関わってくるか分からない。原作にもこのようなシーンはなかったはずだ。おそらく、脚本が書き直される際に急遽追加されたシーンなのだろう。
「それでは、スタート」
テレビを食い入るように見る磯山浩介こと先負。
「おおっ!」
テレビの前ではしゃぐ磯山浩介こと先負。
「出た!トリプルアクセル!」
こんな感じでいいんだろうか。妙に楽な演技なのが気になる。
「オッケー」
あっさりオッケーが出た。一発OKだ。珍しい。かえって不安になる。何だろう、この落ち着かない感じは。
「幸先いいね」
仏滅は満足顔。
「では次行こう」
次のシーン。依然、屋内のシーン。警察署内の事務室を模したスタジオだ。このドラマではよく使われる。先負は、ここへの移動がてら仏滅からシーンの概要を聞かされた。その内容は信じがたいものだった。
「しょ、正気で言ってるんですか!?」
「無論正気だ。これしか方法がない」
「いや、何か方法があるでしょ。モザイクを使うとか」
「編集の時間がない。それだけ押しているんだ」
仏滅は、頑として譲らない。ここはどうやら先負が首を縦に振らなければならな
いようだ。
「分かりました。やりますよ」
シーンの内容はこうである。先ほどのシーンで、フィギュアスケーターのトリプルアクセルに大興奮の磯山浩介。そのノリで仕事に出てきた。ことあるごとにテレビの見事なトリプルアクセルを思い出し、そこかしこで回転を始める。これで顔があまり映らないようになるから編集がラク。モザイクいらず、ということらしい。磯山浩介って、原作ではわりとクールな役柄のはずだが、もはやそんなことはどうでもいいのだろう。時間が足りないのは恐ろしいことだ。時間はすべてに優先される。
「では、スタート」
「うおおおお!!」
もうやけだ。先負は怒号を発しながら回転しはじめた。それはもうものすごい勢いで。
「ストップ」
止められた。先負は止まった。止まったつもりだった。でも、視界がまだ止まっていない。
「大きな声出しちゃだめだよ。あくまでもフィギュアスケートに影響を受けているわけだし。もっと優雅な感じで」
なんだ?何を言われているんだ?目がまわってよく分からない。
「それでは、二回目。スタート」
優雅な感じでと言われた。優雅な感じで回転するってなんだ?バラでもくわえながら回転すればいいのか?じゃあ、バラをくわえる感じで。先負はバラをくわえるのをイメージしながら回転しだした。
「ストーップ」
またダメか。早くOKがもらいたい。
「良くはなったが。何かが足りないなあ」
バランス感覚が足りない視界にそのような言葉が飛んでくる。
「そうだ。実際にトリプルアクセルをやってもらおう」
そんな指示が飛んできた。
「分かる?トリプルアクセル」
「なんとなく」
もはやあまり喋る気がしない。
「じゃあ、行ってみよう」
三回目の撮影。トリプルアクセルは3回転半のジャンプ。前向きの状態でジャンプをして、後ろ向きの状態で着地する。すなわち跳躍時と着地時の体の向きが180°逆になっていないといけない。氷でもなんでもない、ただの地面においても高度なジャンプであることが分かる。先負は、演じることにおいては、とかくイメージすることが大切だと考えている。芝居の世界において、演技指導はざっくりとした指示であることが多い。その指示を受け、自分の頭の中で具体的にイメージをどれだけ固められるかが、いい演技・悪い演技の差が出てくるのだ。先負は、バラをくわえながら颯爽と滑るフィギュアスケーターを思い描きながら、回転した。半回転。半回転が難しい。前向きで跳躍。後ろ向きで着地。上手くできたか分からない。とりあえず数をこなそうと二度、三度とジャンプをした。
「オッケーイ」
待望のOKが出た。
「ほとんどが1回転半だったような気がするけどまあいい。別にスケート選手の役じゃないんだし」
仏滅は満足げだ。とりあえず、ほっと一息をつく先負。
「ま、もうちょっとキレがほしいところだけど」
他人事のように上から目線で言う友引。
「じゃあ、次は友引さんの番ね」
仏滅が言った。
「ナヌ!?」
「勿論、友引さんもやってもらうよ、回転」
そのあとに仏滅が発した言葉は耳を疑うようなことだった。
「今日は二人ともずっと、回転し続けてもらうから」
25
そのあと3シーンばかり撮影が続いた。前述の言葉どおり、ほとんどのシーンは、友引・先負の二人が回転しているものだった。中にはセリフを喋りながら回転するものもあった。当然、二人とも極めて気分が悪くなった。嘔吐をこらえながら何と
か撮影をこなしていった。
「よし、次はいよいよ最後だ」
最後。その言葉を聞きたかった。ていうか、まだやるのか。すでに二人は限界になっている。
「次は食事のシーンだ」
「食事の。食事!?」
食事といってもただの食事ではない。
「無論、回転しながら食事をしてもらう」
二人のただでさえ蒼い顔がさらに蒼ざめていく。
「本当に必要なんですか、このシーン」
先負は、仏滅に抗議気味に疑問をぶつけた。
「必要だ。原作ファンなら知ってるだろう」
「ああ」
原作をよく知っている先負には、これ以上何も言えなかった。「磯山浩介」の原作では、事件の解決後、必ず同僚と一緒にいきつけの居酒屋で打ち上げを行う。シリーズものにありがちな、言わば、お約束である。ドラマにおいてもその部分は踏襲されているというわけだ。
「それで、回転しながら居酒屋で打ち上げをするわけですか」
「そういうわけだ」
はた迷惑な客だ。現実にそんなことをしたら、一発で出禁になるだろう。
「では、共演者の皆さんにお越しいただこう」
仏滅に促され、同僚役の面々がやって来た。いずれも中堅俳優であり、ある程度売れている役者である。本来なら、友引・先負クラスの役者が共演することもおこがましい。
「おはようございます」
一番ペーペーである二人は挨拶をする。思えば、今日初めて他人と共演するような気がする。会話をするシーンが多かったら、その分ボロも出やすくなる。極力会話をしないよう、脚本が配慮されているのだろう。
撮影が始まる。皆、手に手にジョッキを持っている。
「かんぱーい!」
同僚役の一人が声高らかに乾杯の音頭をとる。皆、チャキーン、チャキンとジョッキをぶつけて音をたてているが、一人それができない者がいた。言わずと知れた先負である。
「かんぱー…あれ?かんぱー…あれ?」
回転しながらなので、ジョッキを上手く合わせられない。空振りばかりする。当然ながら。
「カーット!」
当然ながら止められる。
「頼むよ」
仏滅は言うが、言われた方はたまったもんじゃない。
「そうは言いますけどね。難しいですよ、これ」
回転しながらジョッキを合わせる。確かにこれは難しそうだ。
「そこは君の若い動体視力で」
動体視力の問題ではなさそうだが。
「とりあえず、もう一回」
とりあえずでもう一回。はたしてできるのか?
「かんぱーい!」
再び乾杯の音頭。皆、ジョッキを合わす。一人だけ合わせられない。ただ回転しているだけ。周りの人間もなんとかジョッキを合わせようとするが、なかなか合わせられない。遠心力で先負が手にもつジョッキの中身もだんだんと減少していっていく。
「だめだこりゃ」
仏滅が匙を投げる。
「いい方法があります」
傍で見ていた友引が提案した。
「―――それはいいかもしれん」
三たび撮影が始まった。今回は皆が円陣を組んで、先負を取り囲んでいる。360°全方位だ。
「かんぱーい!」
役者が乾杯の音頭をとる。回転している先負は、今度こそグラスを合わせられた。全方位にキン、キン、カンときれいな音をたてて乾杯ができた。
「よし、オッケーイ」
仏滅は満足げにオッケーサインを出した。
「今日はこれで終わり。お疲れ」
ようやく終わった。うっぷ。気持ち悪い。先負はさすがに気分が悪くなりトイレに駆け込んだ。
「これで終わり?肝心の打ち上げでワイワイやってるシーンはいいんですか?」
友引は問う。
「そこは、先負君以外の人間でワイワイやる。極力先負君が会話をしているシーンは入れない」
仕方がないとはいえ、ちょっと先負がかわいそう。あんなに回転を頑張っているのに、演技らしい演技をさせてもらえない。友引は若干の違和感を覚えながらも、その言葉を飲み込んだ。この世界は実力と知名度がすべてだ。悔しかったら実力で役をつかみとるしかない。