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可惜夜の月  作者: 七森まこと
 
5/5

第5話


「なんだ、来てたんだ?」


 次の日、部屋で待っていた私に気が付いたリツキは、一瞬顔を強張らせた。


「都合悪かった?」

「そんな事ないけど、急にどうしたの?」


 順調だった頃は、理由なんてなくてもお互いの家を行き来していたのに、リツキはいつからか素っ気なくなった。


 スーツをハンガーに掛けるその背中が煩わしそうに思えるのは、おそらく気のせいじゃない。


「急じゃないよ、連絡入れた」


 帰りに買ってきたのか、袋のなかから惣菜を取り出してレンジで温めようとしたリツキは、あっ、とバツの悪そうな顔をした。


 私は要らないと首を振る。


 すると、安堵したように「そう」と言ってパックのままレンジに入れたリツキは、スーツから携帯を取り出すと悪びれもなく「会議で気付かなかった」と言った。


「最近仕事忙しいの?」

「ちょっとね。今度大切なプレゼンがあって、今日も少し持ち帰ってきてるんだ」


 そっか、邪魔したら悪いから帰るね。


 いつもだったらそう言って鞄を手に取っただろう。


 時計とネクタイを外したリツキは、案の定チラリと私の方を見た。


 リツキもまた、仕事が残っていると言えば、自分から帰ると思っていたようだ。


 しかし、私は頑なに動こうとはしなかった。


 今日は話をするまで帰らない。


 場合によってはポケットに眠っている合鍵を返すまで、私は絶対に帰らない。


「ねえ、先週の金曜は?その日も仕事だった?」

「先週?なんで?」

「いいから答えて」


 探るように見てくるその双眸を見つめ返す。


 色素の薄い、茶色い瞳は笑うとより一層優しくなって、私はその柔和な雰囲気が好きだった。──今となってはもう何も感じないけれど。


 先に逸らしたのはリツキの方だった。


 止まったレンジから惣菜を取り出しソファーに腰を掛けると、パキンと音を立てて箸を割った。


「打ち合わせがあった」


 何処で誰とどんな打ち合わせしてたんだよ。


 平然と嘘を吐く背中を睨みつけるも、リツキは箸を進める手を休めようとはしない。

 

 いつもは気にならない咀嚼音も、今だけは異常なくらい耳障りに感じた。

 

「あのさあ、私その日リツのこと見掛けたんだよね」

「…何処で?」

「ここの駅の近く。……一人じゃなかった」


 リツキの動きがぴたりと止まった。


 出方を窺っていると、缶ビールを呷ったリツキは、ようやく私の方を見た。


「人違いじゃない?」


 そんな訳ない。


 付き合って六年。片想いの期間を含めると十年近く私はこの男だけを見ていたのだから。


 リツキと出会ったのは、私が大学一年の時だった。


 入学したてで慣れない構内と、しつこいサークルの勧誘に辟易していたところに二つ上のリツキとリョージが通り掛かったのだ。


 元来、面倒見の良いリツキの性格と、たまたま次のコマが同じ講義だった事などが相俟って、私は二人と少しずつ仲良くなっていった。


 そして、彼の優しさに惹かれて、いつの間にか私はリツキのことが好きになっていた。

 

 付き合う前、リツキが他の女と肩を寄せ合う姿を幾度となく見てきた。


 その度に落ち込んで、好きでいるのをやめたくなった。


 それでもやっぱり諦められなくて、先に就職したリツキに会うためにリョージの店に通った。


 もともとリツキは女をとっかえひっかえしていたから、付き合った報告をしても友達は口では「おめでとう」と言いつつ、皆一様に「すぐ別れるだろうな」という顔をした。


 だけど、その友達も六年続いたとなれば本当に祝ってくれたし、「いよいよ結婚だね」と言われるようにもなった。


 私だって期待した。


 リツキが他の女の腰を抱いているのを見たのはその矢先だった。


 それが、浮かれていた私にどれほどの衝撃を与えたかなど、この男は知る由もないだろう。


「急にどうしたの、何かあった?」


 おいで、と広げられた腕のなかを睨み付ける。


 誰を抱いているかわからない手を平気で伸ばしてくる無神経さに吐き気すら覚えた。

 

 馬鹿にするのも大概にしてほしい。


「本当は女と会ってたよね?」

「だから、何のこと?」

「リュックのチャーム、リツと同じだった」


 リツキはビジネスリュックに好きなブランドのチャームをつけている。


 背格好、リュックにチャームまで同じで見間違いとは言わせない。


「浮気してたんだ?」


 たった三文字に、こうも胸が張り裂けそうになる。


 その薄い唇を引き結び、決まりが悪そうな表情で黙り込んでいたリツキは、やがて降参だというように肩を竦めた。


「浮気っていうか、ちょっと魔が差した」

「…は?」

「アキラのことは好きだよ。でも、ちょっと気持ちが浮ついたっていうか」

「ちょっと?私に選ばせたプレゼント渡して、ホテルに行くことがちょっと?どれだけ馬鹿にすれば気が済むのよ」


 ──先輩も言ってたわ、料理は下手だし、趣味も合わないからつまらないって。セックスしてても気持ちよくないって。

 

 浮気相手の台詞が涙腺を刺激する。


 すると、虚をつかれたような顔をしたリツキがやがて眉を顰めた。


「何でそれ知って…もしかしてミサに会ったの?」


 言った途端に、しまったという顔をしたがもう遅い。

 

 聞き覚えのない名前も、非難するようなその目で浮気相手の事だと容易に想像できた。


「会ったわよ、悪い?」

「何で勝手な事するんだよ」

「勝手なことしてんのはそっちでしょ!」

 

 普段声を荒げない私が大きな声を出したことに、リツキは驚いた顔をした。


 誕生日だったのに、と唇を噛み締めると、ギリギリのところで止まっていた涙が一筋頬を流れ落ちた。


「本当最低。ごめんのひとつも言ってみろっつうの」


 勢いよく拳を振り上げると、反射的に顔を逸らしたリツキは体を固くして身構えた。


 握り拳に力を込めると硬い金属が手のひらに食い込む。


 それでも結局投げつけることはできなくて、脱力した右手のなかからこの部屋の鍵が転げ落ちた。


 昨日、相手の女に散々虚仮(こけ)にされたくせに、ここに来るまでの道中、踏ん切りがつけられないでいた。


 もし心から謝って、今後一切しないと誓ってくれたならば、水に流すことだって考えていた。


 しかし、当のリツキは慌てもしなければ、謝ろうともしない。


 それどころか、そもそも自分が悪いと思っていなさそうな雰囲気に、一人で怒っている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。


「私の荷物、全部捨ててくれて構わないから」


 鞄を手に取り、颯爽と玄関へ向かう。


 すると、小さな声で「自分だって」と聞こえてきた。


「随分、りょうの店に行ってるけど、影で何やってんだか。本当は最初からアイツ目当てだったんじゃないの」

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