第4話
悔しそうに唇を噛みしめて私を睨みつける女を置き去りにしてしばらくすると、とうとう雨が地面を濡らし始めた。
急に強まった雨脚に、アスファルトには色とりどりの傘の花が咲き、頭を鞄で覆ったサラリーマンが足早に駅へと向かっていく。
私は、雨が嫌いだ。
髪はまとまらないし、パンプスは泥まみれになるし、何より荷物が増える時点で億劫だ。
だから、雨の日は直帰してすぐにシャワーを浴び、バラエティを観ながら発泡酒を呷るのが日課だというのに、今日はどういうわけかそういう気にはなれなかった。
鞄の奥底に眠る折り畳み傘を開く気になれず、通勤ラッシュの地下鉄の中で揉みくちゃにされる体力もない。
路肩に身を寄せて、最近止めていた煙草を咥えたはいいが、ここが禁止区域だということを思い出して、フィルターを噛んだ。
職場の関係者に見られたらそれこそ面倒だ。
すると、顔の上に影が差した。
「お姉さん、なにやってんの?」
咥えた煙草はそのままに視線だけをあげると、オレンジのパーカーを羽織った今どきの若い男が立っていた。
傘の柄を握る人差し指には、シルバーの無骨なアクセサリーが嵌められている。
「これから帰るの?ねえ、今から時間ない?」
小首をかしげてのぞき込むと「吸うの?ライター貸そうか?」と言って、ジーンズのポケットをまさぐり始めた。
唇から離した煙草を箱に戻した私は、隠すことなく溜息を吐く。
「どっか行ってくれない?あんたに付き合うほど暇じゃないのよ」
職業柄この歳の頃の相手は日常茶飯事だし、二十九年も地球で酸素を貪っていればナンパをかわすのだってお手の物。
面倒なことは無視が一番だ。
だから、今思えばこの時の私の行動は最悪だった。
どんなに打ち消そうとしても頭の隅にちらつくあの女の影に苛立ってしょうがなくて、その鬱憤を晴らすかのように目の前の男を睨め上げた。
「本当に邪魔」
自分でも驚くくらいに低い声が出た。
それなのに、男は一瞬眉毛を跳ね上げると、まるで当たりくじを引いた時のように破顔した。
遅れてやって来たもう一人もクチャクチャと口の中を鳴らしながら「超美人じゃん」と感心したような声を出す。
「お茶しようよ、俺奢るからさ」
キラキラと目を輝かせたパーカーの男が前のめりになって話し掛けてくる。
道を行き交う人から投げられる視線が鬱陶しくて、雨に濡れることも厭わず早々にその場を離れたが、男二人はしつこくついてきた。
「お姉さんの友達呼んで遊ぼう」
友達と聞いて真っ先に瑠璃子の顔が思い浮かんだが、「ふざけんじゃないわよ」と頭のなかで一蹴された。
想像のなかでもブレない親友にちょっと笑えたが、「なに?誰か見つかった?」などと的外れな台詞が聞こえて気分は駄々下がりだ。
正直、二人相手なら勝てると思う。
けど、冷静になって街中で二十歳そこそこの若い男に膝蹴りかます女の図を想像したら頭痛がしてきたので、思わず顳顬を指でおさえた。
何より腐っても私は教職者だ。
「あ、もしもし?私。今、大丈夫?」
雨宿りがてら買い物でもしているのか、多くの人が行き交うアーケードを潜り、携帯を取り出し真っ暗な画面を耳にあてる。
張り付いた前髪を掻きあげながら店のガラスを見ると、オレンジのパーカーがまだ後ろをついて来ているのが映って思わず舌打ちをした。
「今、桜通りの近くにいるんだけど律樹は?」
男と電話をしている振りをしよう、そう思ったら咄嗟にリツキの名前が口をついて出た。
リョージでも、何なら適当な生徒の名前でも使えばいいのにわざわざリツキ。
不意を突かれて、途端に胸の奥が騒つく。
「え、本当?じゃあ、今から律樹の会社の方に行くよ」
思えば、リツキの会社の近くまで行ったのは今日が初めてだった。
たまたま最寄りの駅に用事があって、「近くにいる」とメッセージを送ったら「何で勝手に来るんだよ」と怒られたことがあるからだ。
的外れな上、一方的に怒られたことに腹が立ったが、リツキにも職場での立場がある。
鉢合わせたところを職場の人に見られたら都合が悪いのだろうと、それからは出来るだけ近づかないようになった。
けど、見当違いはどうやら私の方だったようだ。
私といるところを職場の人に見られるのが嫌だったのではなく、職場の人といるところを私に見られるのが嫌だったのだ。
「ううん、近いから大丈夫。この間話してた中華のお店行こうよ。一度食べてみたいって言ってたでしょ?」
リツキの会社がここから近いのは本当。
中華好きのリツキが、雑誌の記事を指差して行ってみたいと言っていたのも本当。
だけど、そもそも電話が繋がっていない時点ですべてが大嘘。
彼氏に助けを求められないことも、さっきまで罵っていた男の名前に縋ろうとすることも、もしかしたらあのお店も浮気相手と行ったんじゃないかと、自分の台詞に傷つくことも全てが心に突き刺さった。
もう面倒臭いから帰って寝よう。
アーケードを抜けて角を曲がろうとした私は、何かにぶつかった拍子に尻餅をついた。
「痛って…」
ぎゃあ、と色気のイの字もない、まるで蛙が潰れたような声を出す私の前で、控えめに痛がる声が聞こえる。
吃驚して顔を上げると、ビニール傘を片手にブルーのブルゾンを羽織った男が顔を顰めながら立っていた。
「前、ちゃんと見ないと危ないっすよ」
困ったように笑ったその人は身を屈めると私に向かって手を差し出した。
その首元と耳にはシルバーの装飾品が揺れ、ダメージ加工の施されたジーンズからはすらりとした脚が覗き見える。
二十歳そこそこの今時の若者。
しかし、綺麗な容貌は他に類を見ない程で、その白さと美しさに道を行き交う女性達が私たちの横を通り抜けると同時にチラチラと彼を覗き見ては頬を染めている。
そしてそれと同じくらい、彼の薄い唇は鮮やかに色付いていた。
長く、節ばった指が目の前でひらひらとそよがされる。
「聞こえてます?」
「き、聞いてます。あの、すみません。大丈夫ですか?」
「…俺の方は大丈夫ですけど」
訝しげな表情でじっと見られ、口の中が干上がっている私の喉からはカッスカスな声しか出てこない。
蛙の次は爺さんか。
出会って数十秒、醜態しか晒していないことに頭を抱えたくなっていると、小首を傾げた青年が「お姉さんは?」と聞いてきた。
「怪我ないですか?」
──お姉さん。
なんて甘美な響きなのだろう。
ついさっきも同じ呼び方をされたことなどすっかり頭から抜け落ちた私は呆けながら頭を振った。
すると、顰めていた眉から力を抜いた青年は安心したようにその端正な顔をほころばせた。
「立てますか」
差し出された手を取ると、彼はその細い見た目からは想像もできないほどの強い力で私を引っ張り上げた。
それから、いつの間にか放り投げられていた私の鞄を拾い上げると、表面の汚れを落としてくれた。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
口の端を持ち上げて綺麗に笑う彼の目に映るボロボロの自分を想像したら急に恥ずかしくなって、誤魔化すように顔まわりの髪を掻き集める。
すると、彼は、おやっという表情をした。
「お姉さん、どこかで…」
少しの間、長い指を顎に掛けて考える素振りをした彼は、やがて気が逸れたように「まあ、いいか」と独言を言った。
「ところで、時間大丈夫ですか?随分急いでいたようだけど」
そこでようやく自分が逃げていたところだったことを思い出して後ろを振り返ったが、目の覚めるようなパーカーは人混みの中には見つけられなかった。




