第3話
そもそも、浮気ってどこからだろう。
どこまで許せるものなのだろう。
毎晩メッセージをやりとりしたら?
プレゼントを受け取ったら?
二人で食事をしたら?
一緒に旅行に出掛けたら?
手を握ったら?
キスをしたら?
体の関係を持ったら?
リツは、何回浮気をしたのだろう。
本当に最後まで行ったのだろうか。
最後に見た二人の後姿のその先を想像したら、急に鳩尾のあたりが苦しくなった。
吐き気がして、慌ててトイレの洗面所に顔を伏せるも、嗚咽とともに胃液だけが空しく流れていく。
「ひどい顔」
顔をあげて鏡をのぞき込めば、生理的な涙を流した自分が立っていた。
オフィス街のカフェテリアは、残業前にコーヒーをテイクアウトするサラリーマンと、アフターファイブを満喫するOLで想像以上に混雑していた。
壁は一面ガラス張りで、白を基調としたお洒落な店内は一日を終えた解放感にあふれている。
その一角を陣取り、厳しい目つきで外を眺める私たちの席は傍から見たら異様だろう。
温かかったはずのコーヒーは一度も口をつけられることなく冷めてしまい、今となっては苛立ったようにテーブルを叩く瑠璃子の指に合わせて、びくびくと水面を揺らすだけだ。
「ねえ、もういいよ。帰ろう、瑠璃子」
今日会える?と送ったメッセージには、会議があると返ってきた。
リツキは、海外を相手にビジネスをしていて、現地の時間に合わせると帰宅が日付が変わるギリギリになることはままあることだ。
会議自体そもそも怪しいところだが、別の約束があるとすればきっともう会社にはいない。
彼を捕まえることは難しいだろう。
そう言っても「じゃあ、相手の女を待ち伏せる」と言って聞かない瑠璃子は、頑なに帰ろうとしないのだ。
この店に来て一時間ほどになる。
「いたとしてもきっとわからないよ」
二人を見たのは、薄暗い夜道で、それもほとんど後姿だ。
一瞬、幸せそうにリツキに話しかける女の横顔を見たが距離があったし、これだけ人の多い通りで見つけろと言われても自信がない。
「明日リツと話す。金曜だし、皮肉なことに合い鍵もまだ持ってるし。あいつ帰ってくるまで待ってるから」
言うと、頬杖をついていた瑠璃子は横目で訝しげに見てきた。
それに、ね?と念を押すように言うと、彼女は不服そうに「絶対よ」と言う。
「あー、もう。本当むかつく。その女見つけたら横っ面引っ叩いてやるのに!」
人目も憚らず憤慨する瑠璃子に、周りの客がギョッと目をむく。
愛想笑いしながら瑠璃子の袖を引いて足早に店を出ると、これから降るのか雨のにおいがした。
駅に向かって人の波ができていた。
足早に帰路につくサラリーマンに流されるように進みながら、立ち並ぶ高層ビルを見上げる。
大学卒業後すぐに教育業界に進んだ私は、OLを経験したことがない。
だから、リツキのスーツ姿やオフィスビルを見ては彼と同じ職場で働く自分を想像したこともあった。
同じプロジェクトを担当したり、心地よい風の吹くテラスでお昼を一緒に食べたり。
…全部、夢のまた夢だったけど。
そうやってぼんやり考え事をしていた私は、信号待ちをしている人に気付かずぶつかった。
女性は驚いたように振り返る。
この近くに勤めるOLだろうか、胸元でふわりと揺れる巻き髪は湿気などものともしない。
ばっさばさのまつ毛に唇をぷっくりさせるグロス、ほんのりのせられたチークは頬が上気したようだ。
ほんの一瞬見ただけだが、彼女が可愛いのは一目瞭然だった。
そういえば、似たような子を可愛いって言っていたっけ。
こんな時でも馬鹿男は脳裏を過ぎるらしい。
軽く頭を振って、邪念を払う。
「あの、ごめんなさい」
頭を下げた私は彼女の手元を見て動きを止めた。
訝し気に見てくる彼女の顔とその手元を凝視していると瑠璃子が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「…傘。その傘」
恐る恐る指でさすと、瑠璃子がその先を辿るように女性の手元を見た。
最初こそ困惑していた瑠璃子だったが、勘のいい彼女はすぐに理解したらしい。
「ちょっと待ちなさいよ」
青信号になって立ち去ろうとする女性の腕をむんずと掴むと、鬼の形相で睨め上げた。
「高宮 律樹。あんたそいつ知ってるわね?」
一瞬、驚いたような表情を見せた女は、憤慨した瑠璃子と気まずそうに視線を逸らす私をみてすぐに状況を理解したようだった。
一緒にいた同僚と思しき女性に声をかけると、毅然とした態度で「場所変えましょう」と言って、私たちを人通りの少ない脇道へと誘導した。
「もしかして、高宮先輩の女?」
腕を組んで面倒くさそうにする女の態度に可愛らしさなど微塵もない。
答えずとも察したようで、私と瑠璃子を見比べたあと最後に私をみて値踏みするような視線を向けてきた。
「ふうん、あんたが。で、なんの用?」
外見からは想像もできないほど高飛車な態度で向かい打ってくるそのか細い腕には、見たことのあるバッグがぶら下がっている。
その視線に気付いた女は「ああ、これ?」と言って、嬉しそうに唇に弧を描いた。
「記念日に先輩が買ってくれたのぉ。ネフリダの新作。可愛いでしょう?」
ふふふ、と笑うその表情を見ながら私は唇を噛み締めるしかなかった。
そのバッグは、私が選んだものだ。
欲しいものを聞かれて、雑誌に載っていたそれを指さした。
結局、予算オーバーで買ってもらえずいつの間にか忘れていたけど、まさか私の知らないところでこの女に貢いでいたとは。
私との記念日なんて祝ったことないくせに。
いつからそんなにマメになったんだよ。
彼女に浮気相手のプレゼント選ばせてんじゃねえよ。
「ちょっと、黙って聞いてればいい加減にしなさいよ!アンタもちょっとは言い返したらどうなの!?」
美人な瑠璃子が身を乗り出して声を荒げると、女は唇をへの字に曲げて閉口した。
しかし、それもほんの一瞬で、キャンキャン吠えていた犬が目の前でパンッと音を立てて手を叩かれたときと同じように、拳を震わせる私に再び照準を合わせると唸り声をあげた。
「な、なによ。黙ってないで何とか言いなさいよ。こんなところまできてダンマリ?友達に助けてもらわないと男一人取り返せないわけ?あなた、美人だけどそれだけって感じだもんね。先輩も言ってたわ、料理は下手だし、趣味も合わないからつまらないって。セックスしてても気持ちよくないって」
「あんったねえ!」
「それに引き換え私は彼に愛されてる。プレゼントしたいっていうから貰ってあげたの。奢らせてほしいって言うから一緒にレストランへ行って、シたいって言うから抱かせてやったの。それの何がいけないのよ!」
女が声を張り上げるのと、路地に乾いた音が響いたのは同時だった。
頬をおさえた女が私を信じられないものを見るような目で見ている。
視界の端では、瑠璃子が呆気にとられた視線を向けていた。
「その金切り声、耳障りなの。いい加減やめてくれる?」
目を細め、唇の端を吊り上げて笑みをこぼすと、女は悔しそうに顔を歪めた。
「こんなことして、先輩に言いつけるから!」
「言えばいいわ。なんなら敵討ちに来てもらっても構わないわよ?まあ、あの男じゃ私には勝てないけど」
言うと女は「へ?」と素っ頓狂な声を出した。
それから瞳を揺らして、引きつった表情を浮かべている。
「そ、そんなの嘘よ!」
「嘘じゃないわよ、私あいつの肋に罅入れたことあるもの」
リツキは学生時代を勉学一本で伸し上がってきた。
部活は万年帰宅部で、体育は嫌いな種目の時だけ単位を落とすギリギリまで仮病で休んでいたらしい。
それに引き換え、武道に熱を入れていた私は、その道で全国大会に出場したこともある。
さらに、大人になった今でも、ジムで憂さを晴らしている私が、喧嘩の延長で誤ってリツキにケガをさせたことがあった。
「狂暴女…」
「なんとでも言うがいいわ。それから、何か勘違いしているようだけど、私はあんたに退いてもらいたくてここまで来たわけじゃない。自分の後釜がどれほどの女か見定めに来たのよ」
「なっ!」
「でも、興醒め。とんだ時間の無駄遣い。あなたの方こそ外っ面だけのお人形さんのようね。下品なセリフばかり聞かされて耳が腐り落ちそうだったわ」
ピンクが好きなお子ちゃまは、さっさとお家に帰って寝んねなさい。
そう言って踵を返す私に、瑠璃子は我慢できないというように噴き出した。