第2話
「アキラちゃん、おはようー!」
朝っぱらから大声で話しかけてくる生徒に、絶賛二日酔い中の私は苦笑いで手を振り返す。
「アキラちゃん、じゃなくて冴島先生」
「いいのいいの、だってアキラちゃん先生ってキャラじゃないもん」
おい、お前それどういう意味だ。
頬を引きつらせていると、人懐っこい笑いを見せた女子生徒は「またねー」と去っていく。
そして、彼氏と思しき男子生徒を見つけると打って変わってしおらしい態度で挨拶をした。
うむ、それでよい。
今のうちに思う存分青春をするのだ。
私みたいな大人にはなるなよ。
六年付き合った男に浮気されるアラサーなんてマジで笑えないから。
しんみりした気持ちで見送っていると突然私の上に影ができた。
「夏休みが近いと生徒たちが浮足立って仕方がないですよねー」
「…うわ!」
驚いて飛び退くと、前髪からすべてお団子にまとめた女性が、神経質そうな三角眼鏡越しに鋭い眼差しを向けている。
「お、おはようございます。教頭先生」
急に話しかけてくるなよ。
こちとら失恋するわ、二日酔いだわで立ってるのがやっとなんだよ。
ここでゲロ吐いたらお前のせいだからな。
「そろそろ校門前の抜き打ち検査を検討しなければなりませんね」
「そうですね〜」
ふふふ、と愛想笑いをすると、スカートの丈を短くした女子生徒を見つけた教頭は顔を真っ赤にして憤慨した。
「ちょっとなんですか、あの格好は!あんなに足を出してみっともない!私の頃はおさげに膝下丈が常識だったのに」
「時代ですかねえ…」
「私の時代が古臭いとでも?」
「そうは言ってませんけど。でも、最近の子はなんとなくで物事を決める子が増えたと思いませんか。親が言うからとか、友達がそうだからとか。そうやって周りに流されてしまう子どもたちにとって、ファッションは貴重な自己主張の場なのではないでしょうか」
キツく睨まれて、慌てて視線を逸らす。
すると教頭は、私の姿を上から下まで舐めるように見た。
それから、面白くないというように鼻を鳴らしてそっぽを向いたので、タイミングよくパンツスーツを着ていた私は胸を撫でおろした。
「冴島先生、ご承知のことかと思いますが夏休みは目前です。あの件、どうにかしてくださいね」
「定期試験ですか?一応準備はしてますよ」
昇降口に差し掛かると、強い日差しから免れたと同時に梅雨独特の嫌なにおいが鼻につく。
内履きに履き替え、職員室へと入ると朝から教頭に引っ付かれている私を見て、ほかの職員が哀れむような視線を向けてきた。
それを挨拶でかわし、颯爽と自分のデスクに腰を掛けると教頭はまるでコバンザメのように後をついてきた。
「一応って何ですか、一応って。まあ、この際それはいいでしょう。そうではなくて、あなたのクラスにいるでしょう!ほら、あの問題児!」
「有馬のことですか? 有馬 慧」
名前が出てこなかったらしくじれったそうに唸り声をあげていた教頭に話を聞いていたらしい隣の教師が助け舟を出す。
余計なことをするなと睨みつけると、わざとらしく「おっと、コーヒーがなくなったなあ」と独りごちた隣人は苦笑いをこぼして席を立った。
「そうそう、有馬!あの生徒のことはどうなっているんです?定期試験はちゃんと受けさせられるんですか?」
有馬というのは、今年度が始まってすでに三か月が経つというのに一度も教室に顔を出していない超が付くほどの問題児のことだ。
一応二年生に在籍する彼は、昨年度もこんな調子だったようだ。
明らかに出席日数の足りていない彼が進級できた理由は、裕福な実家と秀逸な頭脳にある。
定期的な寄付と定期試験首位および全国模試では常に三番以内に入ることを条件に、彼のわがままは黙認されているのだ。
「ええ、まあ。はい…」
「ええ、まあ。はいぃ!?なんですか、その適当な返事は!?ちゃんと連れて来れるんでしょうね!?」
「連れてきます!連れてきますってば!」
「本当ですね?」
気圧された私に、眼鏡の智を掴んで掛けなおした教頭は顔を近づけ更に圧をかけてくる。
それに仰け反りながら何度も頷くと、満足したように教頭は離れていった。
本当は、連れてくる自信なんてない。
彼の両親は多忙で、電話を掛けても、家庭訪問をしてみても、お手伝いさんが申し訳なさそうに「すみません」と言うだけだ。
去年同じクラスだった生徒に聞いてもそろって首をかしげる。
そもそも、一年の頃からろくに登校していない彼に友人などいるわけがないのだ。
「私にどうしろっていうのよ!」
もお!と叫んでベッドに枕を叩きつけた私を、白衣を羽織った瑠璃子が「うるさい!」と咎めた。
新色のグロスを引いて、毛先を緩く巻いた髪の隙間から白いうなじを見せつける瑠璃子は、今日も今日とて色っぽい。
「そりゃ、男子生徒がケガだ、腹イタだ、なんだと言って保健室に来たがるわけだ」
白衣の裾からすっとのびる足を見ながら、昨日家に帰ってから冷凍チヂミをやけ食いした自分を呪った。
「なによ、あんただって捨てたもんじゃないのよ?ここで話してる子多いもの」
「なんて?」
「二の腕が気持ちよさそう、とか、あの尻は安産だ、とか?」
「そんなこったろうと思ったわよ」
枕に突っ伏して不貞腐れる私にため息を吐いた瑠璃子が、湯気の立つカップを差し出した。
どこぞの男の上半身を模したマッチョなそれは、とうとう髭が生え始めたと絶望する私に、「ホルモン足りてないんじゃないの?」と瑠璃子が持ってきたものだ。
おそらく大学生だった前の彼氏がUFOキャッチャーで取ったものだろうけど、ここでお茶が飲めることに歓喜した私は「これで女性ホルモンバンバン出すね」と有難く受け取ったのだ。
…あの時も、一応リツと付き合ってたんだけどな。
男がいても分泌されない私のホルモンは、万年枯渇しているらしい。
カップを受け取ると、フルーティーな香りが鼻腔をくすぐった。
瑠璃子は夏でも体を冷やさないようにとハーブティーのストックを欠かさないし、専用のティーセットを壁際に設えられた棚の中に常備している。
「有馬ねえ。そんな金持ちなら一度顔を拝んでみたいけど、さすがに犯罪よねえ」
よって、興味なし!と、結論付けた瑠璃子は、足を組んでファッション雑誌をめくり始めた。
問題児は、毎回会議室で受験しているらしく、養護教諭の瑠璃子も見たことがないようだ。
「ところで、あんた彼氏とはどうなったのよ?」
爪の先まで整えられた長い指で雑誌をめくりながら、なんでもないように瑠璃子が聞いた。
思わず口ごもる私に、視線だけをあげた瑠璃子は何も言わずに再びページをめくり始める。
「で、どうすんのよ?」
廊下からは、生徒たちの楽しそうな会話が聞こえる。
だけど、この部屋だけは、瑠璃子がページをめくる音以外は静かで。
「聞いてほしいなら聞くし」
そんななか悠然と構える瑠璃子は、きっと私がリツと駄目になったことなどお見通しなのだろう。
「今がその時じゃないなら、あんたがいいって言うまで待つわ」
それでも、急かさずあくまで私のペースを大事にしてくれようとしているところに、彼女の優しさを感じた。
「姉御おおぉ!」
泣きつく私を鬱陶しい!と一蹴した瑠璃子は、話を聞くなりアイラインで囲んだ眼を吊り上げると、唐突に私の胸倉を掴み上げた。
「あんた!まさかそいつらがホテル行くの見て、おめおめ引き下がってきたんじゃないでしょうね!?」
「ちょ、姉御。そんな振り回したら出る!昨日飲みなおした時のイカが、こんにちはって出ちゃうから!」
「訳わかんないこと言ってんじゃないわよ!そのメス猫とゲス男とっ捕まえて、一発ぶちかましたのかって聞いてんの!」
想像通りおめおめ帰って、部屋の中で生ける屍と化していた私は、頭突きを食らってベッドの上に放り投げられた。
元ヤンの瑠璃子は頭に血がのぼると、拳でもなく、足でもなく、石より硬い頭突きが飛んでくる。
しかも、「あんたのせいでファンデーションよれちゃったじゃない」と言い掛かりまでつけてくるものだから、その辺の男になど到底手に負えない。
「姐さん、痛いっす」
額を摩りながら涙目で起き上がると、親指を突き立てた瑠璃子が鬼の形相で顎をしゃくった。
「あんたちょっと面貸しな」