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可惜夜の月  作者: 七森まこと
 
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第1話


「リョージ、酒頂戴!酔えるやつ!」


 木造のドアをなかば体当たり気味に押し開けると、いつもは繊細な音で揺れるベルが、その時ばかりは驚いたように歪な音を立てた。

 

 だからか、これまたいつもは音と同時に寄ってくる熱帯魚の群れが、今日に限ってはうまく反応できなかったようだ。

 

 青い海を模した水槽の中で、宝石のような彼らがバラバラに散らばっている。


 無秩序。混沌。──カオス。


 それはまるで今の私の心のようだ。


 申し訳なくなって水槽の端っこを軽く指で叩くと、道標を見つけた熱帯魚はまるで磁力でも働いているかのように一斉に寄ってきた。

 

 ただの光る石が、意思を持って泳いでいる。

 

 これでいい。


 私は、ほんの少し気分が良くなった。──リョージがあからさまに迷惑そうな顔をしたから、一気に機嫌が悪くなったけれど。


「何よ、なんか文句あんの」


 リョージの目の前の席を陣取って睨みつけると、彼はやれやれと言うように肩を竦めた。

 

 平日とはいえ、覗いた時計はいい時間を指していたが、他に客の姿は見えず今までいた様子もない。

 

 カウンターにある小さなテレビから漏れる声を除いては、水槽からモーターのまわる音が聴こえてくるだけだった。


「飲んだらさっさと帰れ」


 営業中だというのにこの男は、暢気に野球中継を観ていたらしい。


 テレビを消すどころか煙草を咥えたまま一度裏に消えたリョージはアンバーボトルとグラスを出すと、最後に栓抜きを投げ置いた。


「は?ちょっと、何これ」

「あ?」

「あ?じゃないわよ、これじゃいつもと変わらないじゃない。しかも、ここに来てまで手酌って何?」


 黒のラベルにKöstritzer Schwarzbierと書かれたドイツビールは、リョージにとってビールの代名詞のようなものだ。

 

 たった今持ってきた瓶も、店の冷蔵庫ではなくリョージ用として裏で冷やしていたもので、私が知る限りこの男がこれを切らしているところを見たことがない。


 好きの押し売りなのか、それとも考えるのが億劫なのか、手を抜くとすぐこれを出してくる。


「違うのにして」


 かの有名な文豪も愛したとされるこのビールはたしかに美味しいが、今日は冒険したい気分だった。

 

 瓶とグラスを押し返すと、リョージは面倒臭そうに片眉を沈めた。


「何でも良いっつったろーが」

「何でも良いなんて言ってない。酔えるの頂戴って言ったの」

「だから、酔えりゃ何でも良いんだろうが」

「今はビールの気分じゃない」

「知ったこっちゃねえ」


 引き寄せた椅子に腰掛けたリョージはこの話はもう終わりだとでも言うように、肘をついて体を落ち着かせると、本格的にテレビを見始めた。

 

 こうなったらこの男は梃子でも動かない。


 大人しく出されたケストリッツァーをグラスに注ぐと、さながらカラメルのような匂いが鼻先をかすめた。


「何か食うなら勝手に持っていけ」

「いい。お腹空いてない」


 言いながら脱いだジャケットを隣のスツールに掛ける。


 窮屈なバレッタを外して髪を乱すと一気に開放感が増す。


 小さく息をついて髪をかき上げたところで、横目に見ていたらしいリョージと目があった。


「……なによ?」

「別に」


 言って、すぐにリョージはテレビに向き直った。


 そもそも、野球なんて興味あったっけ?


 打っても取っても微動だにしないその背中を横目に見ながらビールを流し込むと、スパイシーな味が口一杯に広がった。

 

 チリチリっと炭酸が喉を焼く。


 クリーミーな泡のついた口元を拭って思わず「うまい!」と漏らすと、リョージが小さく鼻で嗤った。


「で?今日は何だよ?」


 それまで私を空気のように扱っていたリョージが、急に注意を向けてきたのは三十分くらい後のことだった。


 延長の末にサヨナラホームラン。

 

 その盛り上がりに反して、リョージは喜ぶことも悔しがることもなく終始頬杖をついてピクリとも動かなかった。

 

 それどころかヒーローインタビューにも目もくれず、手持ち無沙汰にチャンネルをまわすとやがて飽きたように音を消した。


「言ったろうが、飲んだら帰れって」


 新しい煙草を咥えて火をつけたリョージは、とっくに空になった私のボトルなど見なくてもわかっているようだった。

 

 棚からグラスを取り出し、琥珀色の液体を注ぐその指は長く、骨ばっていて、男らしさのなかに色気がある。

 

 黒のヘンリーネックは飾り気がない分鍛えられた体躯が浮き彫りになるし、媚びない態度は彼の切れ長の目と薄くて形のいい唇と相俟って女の注意を引き付ける。


 リョージは女をつくらない。

 だけど、オンナ(、、、)を切らしたこともない。


 前かがみになったリョージの襟から肩がのぞいて、そこに濃い噛み跡を見つけたときは思わず目をむいた。

 

 だけど、リョージはそんな私を一瞥しただけで、気にも留めず大あくびをしてボサボサな頭を掻いていた。


 そんな時、いやでも思い知らされる。


 こいつも、男なのだと。


 胸のデカい女がこれ見よがしにその体をリョージにすり寄せてきたとしても「邪魔だ」と一蹴するこの男でさえ、欲に身をゆだねて餌を貪る猟奇的な一面があるらしい。


「ずるい、私にも頂戴」


 自分だけウイスキーかよ。と、抗議の目を向けると、リョージは面倒臭そうにしつつ、同じグラスをもう一つ用意した。

 

 受け取った酒を流し込んで、しばらく経つと頭がふわふわして気分がよくなってきた。


 酒はもともと弱い方ではない。


 むしろ、周りが強い人間ばかりでそれに付き合っていたおかげで、ずいぶん強くなった方だ。

 

 それでも、一升瓶を飲み干してもケロリとしているリョージからすれば酔うと寝る私は赤子のようなものなのだろう。


 空きっ腹が災いして急に酔いが回った私に、リョージはだから言わんこっちゃねえ、という顔をした。


「リツが浮気してるかもしれない」


 額に手の甲をあててうなだれると、今日ここに来た理由が口をついて出た。


 無意識だった。


 リツは私の彼氏で、リョージも知らない仲ではないから、こんな話を聞かされたらリョージは気を悪くするだろう。

 

 執着しないように見えてそれなりに人は選んで付き合っているようだから、今すぐ店を追い出されるかもしれない。


 だから、今日はこんな話をするつもりじゃなかった。


 リョージの冷めた顔を見ながら楽しく酔って、忘れたまま布団に入り込もうと思っただけだった。

 

 だけど、私はすでに酔っていた。


 酔っ払いの頭に躊躇とか恥じらいなんてものは存在しない。


 無意識にまわる口から、自分でも気が付かなかった本音がぽろぽろこぼれる。


 そんなつもりはなかったと言いながら、結局私はこの店に愚痴を言いに来たらしい。

 

 リョージとリツの関係性を気遣うのは上辺だけで、本当は全部ぶちまけてしまいたかったらしい。


 おまけに、心地よい浮遊感に意識が持っていかれているせいで、途中、入口が開いたことなど全く気付いていなかった。

 

 リョージは案の定面倒くさそうに舌打ちをした。


 たぶん、隠すことなく露骨な表情をしているに違いないけど、瞼を閉じているのをいいことに私はそのまま全部ぶちまけた。


 電話をかけても繋がらないことが多くなったこと。頻繁に出張が入るようになり、約束をしてもドタキャンが増えたこと。


 身に覚えのないカフスに対してお礼を言われたこと。


 寝ぼけながら知らない女の名前で呼ばれたこと。

 

 ……私の誕生日に知らない女の腰を抱いてホテルに入って行くのを見たこと。


 口を開くたびに頬が痙攣して上手く話せない。

 

 浮足立ってボロが出るリツ。


 もしかしたらと思いながら目を逸らし続ける私。


 自分の男がこんなに馬鹿だとは思わなかった。自分がこんなにも弱い人間だとは思わなかった。

 

 口にして初めてどれほど自分が追い詰められていたのかに気付かされる。


 眼のふちが熱くなったかと思えば、次の瞬間には涙が頬を濡らした。


「結婚。考えてたの、私だけだったのかなあ…」


 私が愚痴る間、リョージは何も言わなかった。

 

 時折、煙を吐き出す音が聞こえただけで、それ以外は何ひとつ物音がしなかった。


 あまりに静かだから、私の話などそっちのけでまたテレビを観ているのだろう、そう思った。

 

 私の話になど全く興味のないリョージの姿を想像したら、一人で感傷に浸る自分が無様に思えた。


 特定の女を作らず、夜な夜な女をとっかえひっかえしているこの男のことだ、浮気なんて些細なことだろう。


 むしろ、だから何だ、と眉を顰めているかもしれない。


 それどころか、男なんかつくるからだと腹の中で嗤っているかもしれない。


 すると、たちまち涙が引っ込んだ。


 流れたといっても一筋だけで、その道筋はすでに乾いて肌が引きつっている。


 帰る。そう言おうとして開きかけた私の口は、次の瞬間には呆気に取られてそれ以上開かなかった。


 面倒臭いことが嫌いで、煩わしいと感じたら容赦なく切り捨てるはずのリョージが、棚に背を凭れて、煙を吐き出しながら、じっとこちらを見ていたからだ。


 馬鹿にすることなく、面倒くせえと放り出さずに黙って話を聞いていたらしい。

 

 濡れたような瞳が、終わりか?と聞いてくる。


 戸惑いがちに頷くと大きく煙を吐き出したリョージは、灰が落ちそうになっていた煙草を空き缶に押し付けた。


「馬鹿が」


 ずっと黙って私の話を聞いていたらしいリョージは、静かにそう言った。

 

 いつも以上に抑揚のないその言葉は、きっとリョージの本音だろう。


 何杯目かわからない酒を自分のグラスに継ぎ足す様子を見ながら、私は震える拳をきつく握りしめた。


「…馬鹿って何よ」

「あ?」

「私のなにが馬鹿だっていうのよ」


 この男は知らないだろう。


 料理が苦手な私がリツの好物であるハンバーグを練習して、何度も火災報知機を鳴らしたことを。


 字幕なしの洋画が好きなリツといつか一緒に観られるようにと、こっそり英語教室に通っていたことを。


 結婚資金に充てたくて、似合わないピンクの貯金箱を買って五百円をコツコツ貯めていたことを。


 誕生日当日、約束していなかったけど、もしかしたらサプライズしてくれるかも、なんて足早に帰宅する途中で、幸せそうに寄り添いながらホテルに入って行く後姿を見つけたあの絶望を。


「あんたなんかにわからないわよ。私が、私がどれだけ!」


 キッと睨みつける。

 

 だけど、リョージはそれすら何でもないというように嘲笑をこぼした。


「知らねえし、知りたくもねえ。言ったよな?面倒くせえのはやめろって」


 確かにリョージは言っていた。

 

 リツと付き合い始めたことを報告したとき、おめでとうともよかったなとも言わず、「面倒くせえのはご免だ」と一言。


 だけど、この恋愛は長い私の片思いから始まったものだったから、喜びが隠せない私に肩を竦めたリョージは黙ってケストリッツァーを出したのだ。


「聞きたくねえ」


 新しい煙草を咥えて、火もつけずにフィルターを噛むリョージは本当に苛々しているようだった。


「お前、もう帰れ」


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