踏みしめた地面
朝日が登り始めた早朝、娘は家を出た。
村の人には気付かれぬよう草木が生い茂る森の中へと入っていく。
朝露に濡れた葉っぱが娘の頬を濡らしている。湿気の多いところには羽虫がたくさん飛んでいた。
娘は自分に言い聞かせるように勇気づけた。
「生きるためなら虫なんてどうでもいいのよ」
自然が娘を応援してくるかのように木々を揺らす。
この先を進むと小さな小川が流れている。それにそって下流の方へと進むと、一軒の水車小屋が見えるらしい。父が言っていた。
けれど小川は一向に見えてこない。
太陽が頭上まできたところで娘は休むことにした。
近くにそれらしい岩を見つけその上に座る。
風呂敷から竹の筒を取ると栓を取り、水を口の中に流し込む。
喉に潤いを取り戻した娘は辺りを見回した。
水の流れる音がどこからか聞こえた気がしたのだ。
水飛沫を上げる音も聞こえる。
娘は森に入っていくうちに水車小屋にたどり着いてしまったのでないかと少しばかり嬉しく思った。
風呂敷に竹の筒をしまうと再び水の音がする方角へと足を伸ばす。
草木をかき分け小川があるであろう目の前に来た時、話し声が聞こえた。
娘は驚き息を殺してその場に蹲る。
物音を立てぬようそっと聞き耳をたてた。
「生贄が逃げたらしいぞ」
「若い娘は美味いというが本当か?」
「知らねぇなぁ、俺らにはおいそれと手が出せるものじゃないぜ。神への捧げもんだからよぉ」
「食ってみてぇなぁ……」
そう言うと人影は森の中へと消えていった。
何分たっただろうか、娘はその場から動けずにいた。
生贄が食われるなんて聞いていない。沼に沈むのだと思っていた娘は、自分が食われている様子を想像し鳥肌をたてた。
そして村では生贄が逃げたことが広まっていることが分かった。
父と母は無事なのだろうか。殺されていないだろうか。
娘は自分が考えもなしに逃げていることに気づき情けなさに顔を歪める。
「逃げていていいの………?」
自分に問いかけるがその声は虚しく消えていく。
娘が逃げなければ両親に被害が及ばなかったかもしれない。娘だけが犠牲になればあとは村の皆んなが平和に暮らせる。米が食える。
娘は自分のことしか考えていないことに気づき冷笑する。
生きることの権利を奪った土地神様を娘は一生恨むだろう。
村の人たちはそんな神に豊作を願うのだから滑稽な様子だ。
「恨むのなら土地神よ…………」
独り言と共に立ち上がる。
小川は目の前にあるのだからあとはくだるだけだ。
歩き出そうとした時いきなり強い風が吹き髪を抑える。
風と共に何か聞こえた気がした。
娘は身構えるが辺りに誰もいないので緊張をとき、歩き出した。
それから何時間経っただろうか。太陽が西に傾き始めた頃、娘は数人の人間の声に顔をあげる。
「探せっ!!早朝に逃げたのならまだこの辺りにいるはずだ!!!」
そんな声が聞こえ娘は目を見開き急いで逃げる。
動悸が激しく、呼吸をするのが辛かった。
「見つけたぞ!!!こっちに来い!!」
1人の村人に見つかってしまい急いで逃げようとするが、声を聞いて集まった村人が娘を囲んだ。
「必死の抵抗も終わりだ、大人しくしてろ」
1人の男に腕をひねり上げられる。
「いっった……!」
ひねられ痛みを感じた。腕をつかまれたまま歩かされる。
「もう夜も近い。このまま沼に向かうぞ。村長がお待ちだ」
「おいおい生贄なんだから粗末に扱うなよ」
「また逃げられたらどうする」
「こんなか弱い娘に何が出来るってんだ。逃げられるんだったら見てみたいもんだねぇ?」
村人たちが口々にそういう。
娘はもう喋る気力もなくなっていた。考えてみれば逃げることに必死で朝と昼は何も食していない。体内に取り入れたのは水だけだ。
そして娘の逃走劇も虚しく終わった。
「こりゃまぁ別嬪だな」
「手を出すな、土地神に呪われるぞ」
村人達の戯言も聞こえない。
父さん母さん。私は逃げられませんでした。ごめんなさい。
でも死にたくない。
娘の感情の抵抗も虚しく終わる。