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ただ、隣で眠るだけ

作者: 前田 耕平
掲載日:2021/01/27

仁川 悟は、玄関の鍵を探していた。

背広やズボンのポケット、鞄の中、探したけれど、どこにもなかった。どこかに落としたのか、あるいは置いてきたのかさえ、記憶を辿るが分からない。24時間営業の鍵屋に連絡しても、繋がらなかった。うーん、と悟は唸った。最近はこういうことが多くなっている。悟は、会社でもミスが続いていて、同僚からは「疲れてるんじゃない?」とか、「ちゃんと食べてる?顔がげっそりして見えるよ」とよく言われるようになった。悟は、自分ではなにも変わってないつもりなのだが、ミスが増えていることは事実なので、言い訳ができない。

公園で野宿するくらいしか、今の所持金を考えると打つ手がない。というか、打つ手がないから野宿しなければならないのだけれど。

“あ、麻里子が泊めてくれるかも”と、悟は不意に思い付いた。

悟は、会社で、困ったときにお互いに助け合えるような人間関係を築いている人はいない。そして会社以外でもいなかった。人間関係をうまく築けなくても若いうちは許されるけど、ある程度大人になると、許されなくなってくる。しかし、悟は、そういう社交的な能力は若い頃にしか形成されないもののような気がしている。

だから仕方がないか…というのは、悟の得意な自己弁護だった。

“麻里子に電話をしてみよう”断られる可能性が大きいが、試してみることにした。

スマホをポケットから取り出して、この前、教えてもらったばかりの、麻里子の連絡先を探して電話をかける。スマホを耳に当てると、コール音がする前に”この電話は電源が入っていないか、電波が届かない場所にあるためかかりません” というメッセージが流れた。

ついてない時は、とことんついてないものだな、と思ってスマホをズボンのポケットに押し込むと同時に電話がかかってきた。麻里子からだった。急いで電話に出る。

「もしもし」

「仁川くん、今、電話したでしょ?なんか用?」

「いや、あの、家の鍵を失くしちゃって、どっか泊まろうにも金がなくてさ、だから、もしよかったら、家に泊めてくんないかな?と思って」

「………ほんとに失くしたの?」

麻里子の声は明らかに、悟が話した説明とお願いを疑っていた。確かに、彼女がいなくても、男友達がいれば、普通はそちらにお願いするだろうなと悟は思った。

「本当だよ。確かに嘘臭いかもだけど、そんな嘘をついて女の子の家に泊まろうとするほど、俺は姑息な人間じゃないと自分では思ってるんだけど…」

「ジキルとハイドだ」と言って、麻里子は笑いだした。

「あのさ、俺をからかうのもいいけど、泊めてくれるか、くれないのかを教えて欲しいんだけど」

「うわー。自分勝手なエゴイストだぁ。自分が鍵を失くしたのが悪いのにぃ。………いーよ。せっかく家近いんだし。おいでよ」

「ごめん、鍵失くして焦っててさ。ありがとう、恩に着るよ。それで、近くに住んでるとは聞いてたけど、詳しくは知らないから、住んでる場所教えてくれない?」

「コーポさくらの202号室。東府中の駅の近くの。分かんなかったらあれだから、迎えにいってあげるよ。悟は、今どこにいるの?近いんでしょ?」

「うん、近いよ。迎えにきてもらえるとすごくありがたい。最近、俺は自分にも信頼を置いてないから、麻里子の家にたどり着ける自信がないし(情けない笑いをもらす)。…どこで待ってればいい?」

「可哀相に、自信を喪失中なんだね。東府中の駅の中のコンビニで待っててよ」

「分かった、そこなら迷わずに行ける。5分くらいで」

「うん、わたしは15分くらいかかるかもしれない、服も着替えるし」

「ありがとう、待ってるから」

「はーい。じゃあね」と、麻里子が言ってから電話は切れた。


悟の前に現れた麻里子は、花柄のピンクのワンピースに黒いハイヒールを履いていて、初対面の時の大人びた印象はなく、高校生と言われたら信じてしまいそうなほど幼く見えた。悟が、その見た目のギャップにドギマギして言葉に詰まると、「…オッサン」と呆れたように笑われてしまった。

「たしかに、いくらか俺のほうが年上だけど、オッサンはないだろう?…泊めてもらうから、強くは言えないけども」悟が、もごもご不満を言っていると、

「夜ごはん食べてないんでしょ?わたしもまだだからなんか買っていこうか」と、麻里子は別の話題に切り替えてしまった。

「ああ、助かるよ。麻里子もご飯まだなんだ?急に泊めてもらうの悪いし、それくらいは持ってるから奢らせてくれ」と財布を取り出して、麻里子に見せた。

しかし、所持金は三千円弱しかなく、あまり高いものを買われたら困るな、とは思いつつ見栄を張った。

「そう、じゃあ、奢られることにする」

会計を無事に済ませて、悟と麻里子は、買ったばかりの夜ごはんを持って、駅を出て歩きはじめた。

「仁川くん、なーんか、痩せた?」

「最近、皆に言われるよ。確かに痩せたかもしれないけど、健康だよ。」

「へぇ、とても健康そうには見えないけどね、ほっぺたもゲソっとしちゃってるし」

「そうかな?自分の顔の変化って自分じゃあんまり気付けないもんなんだな、顔は毎日見てるのに、不思議だけど」

「仁川くんの目って多分、鈍感なんだね。昨日と今日くらいの時間では、なにも変わらないって思い込んでる部分もあるのかな?」

「確かに、俺は多分鈍感なんだろうな。あと間抜けも入ってるし」

「ははは、わたし、仁川くんの彼女には絶対なりたくない」

「そんなハッキリ言われると、笑うしかないよ」

「だって、ほんとのことだから」

「明日朝起きて、俺が死んでたら、麻里子のせいだな」

「…泊めるのやめようかな」

「うそです、うそです」

年下の女の子に敬語を使っている自分。完全にマウントをとられている自分。どこを取っても情けないと悟は自分に思った。


麻里子の後ろについて、コーポさくらのアパートの階段を上っていると、麻里子の後ろ姿がとても色っぽいことに気がついた。正面からみたら少女のようだと思ったのに。


202号室の中は、綺麗に整頓されたシンプルな女の子の部屋だった。そして、いい匂いがした。


「…お邪魔します」玄関で言い忘れていたので、小さな声で言った。

「テキトーに座って、くつろいでていいよ」

「うん、分かった。ごはんテーブルに置いとくよ」

コンビニで買った、悟の親子丼と、麻里子のカレーをレジ袋から取り出して楕円形の可愛げなテーブルに置く。

「お茶かコーヒーどっちがいい?」

「コーヒーかな。悪いねなんか」

「…あのさぁ、なんで、わたしに頼んだの?泊めてって」

「あー、それは単純な理由なんだけど、頼める知り合いも友達も考えた限りいなくってさ」

「仁川くん、普通っぽいのに、そうなんだ。…なんか裏がありそう」

裏ってなんだろう。と悟は思う。

「裏は特にないと思うけど、なんでだか、あんまり人から好かれないんだよね」

「なんか、深く聞くのも怖いタイプかも」

麻里子は、コーヒーにミルクをたっぷりと入れたカフェオレを飲みながら、悟を観察するように見つめている。深く聞かれても、掘り出し物は特にないはずだ。

「深く聞かなくていいよ、別に」

「わたしが気になるとかじゃないんだ?」

「気になるってどんな意味で?」

「どんな意味があると思うの?」

麻里子はニヤニヤと意地悪そうに笑った。

やっぱり、なにか勘違いをされていそうな気がした。(あながち勘違いとも言いきれないが)

悟は、自分の理屈をきちんと持っていそうな人と話す時は、なるべく、どうでもよくて、楽しい雰囲気になりそうな話しかしないようにしている。意見が異なったりしても、ぶつからないで済むから。

悟は、思ったことを空気も読めずに言ってしまうことが多く、それで、沢山の人に迷惑をかけてきた過去をもっているから、受け答えもすごく慎重になってしまう。

「…答えかたが難しい。気になるって言ったらなんか、部屋から追い出されそうな気がするし、気にならないって言っても怒られそうな気がするし」

「本心を聞いてるの」

「…気になるけど、理性はあるつもりだから安心して」

ベストだと思う答えを、悟は考えて言った。

「当たり前でしょ。変なことしたらマジで警察につき出すからね」

「…怖いなぁ、分かってるよ」

ベストは難しい、着るのは簡単なのに。と悟は思いついたが言うことはしなかった。


その後、ごはんを一緒に食べて、麻里子が入れてくれたコーヒーを飲みながら、軽い世間話をしていたら寝る時間になった。

「明日は朝早いからもう寝るね」と麻里子は言った。

麻里子はベッドで、悟はカーペットの上で寝ることになった。あと毛布を一枚だけ借りた。なんだか、飼い犬のようだと悟は思った。

目を閉じてもなかなか眠れず、ベッドのほうを見ると、麻里子はすでに寝ているらしく、すーふー…すーふー…と上半身が出来そこないの風船のようにゆっくりと動いていた。

悟が寝ている場所からは、麻里子の顔が見えず、悟は麻里子の顔を確認したい衝動に負けそうになるが、バレたら部屋を追い出されるだろうから、やめた。


気付くと、朝になっていた。

起きた時、悟は、自分がいる場所がどこだか分からなかった。誰か知らない人の家に勝手に入って眠ってしまったのか?と思って、ゾッとしたが、昨日の記憶を必死で手繰り寄せると、思い出すことができた。

「ここは、麻里子の家だ」


ひとまず安心して、周りを見渡すと、昨日、麻里子と一緒にごはんを食べたテーブルの上に書き置きが、一枚置いてあった。


“おはよう、昨日はよく眠れた?わたしはぐっすり寝たよ。わたしみたいなセックスワーカーの家に潜り込んで来といて、ほんとに手を出そうとしないなんて、面白かったよ(笑)。ほんとに鍵を失くしたんだね?(それかほんとにわたしとか、警察にビビっちゃってたのかな?)。80%信じてあげる。お腹減ってたら、冷蔵庫の中のもの適当に食べちゃっていいからね。家を出る時はテーブルの上に置いてある鍵を使ってちゃんと戸締まりしてね。それで、ドアについてる郵便受けに鍵を入れといてくれたらいいから。(それは合鍵だから、わたしはそれがなくても入れるので。)昨日は割りと楽しかったよ。でも、仁川くんて、やっぱりなんか裏がありそーって思ったな。

なんでだろ?(笑)

それじゃ、またね。もう鍵を失くしちゃダメだよ。”


文章はそれだけで、あとは人とも豚とも見分けができない似顔絵が描かれていた。


悟が冷蔵庫を開けてたら、コンビニで売ってるサンドイッチが3つ入っていて、お腹の空き具合的に2つ食べようかと迷ったけど、自分の中の良識と照らし合わせて、1つだけ食べることにした。食べていると喉が渇いたので、水をマグカップに入れて飲むことにした。


今日は土曜日なので、悟の会社は休みだった。

昨日は、少なからず緊張していたので、あまりじっくり見れなかった、麻里子の本棚を見ると、面白そうな本や漫画がいっぱい置いてあった。漫画だと「ハッピーピープル」「ベルセルク」「悪の華」「火の鳥」「神の左手悪魔の右手」「グリーンヒル」「ザ・ワールド・イズ・マイン」「デビルマン」など。

本は、筒井康隆、星新一、小松左京などのsf御三家を筆頭に、太宰治や芥川龍之介や夏目漱石などの近代文学、ダブル村上の本も沢山あり、伊坂幸太郎や、吉田修一の他にも、森博嗣や舞城王太郎や辻村深月などのメフィスト賞系、朝井リョウ、西加奈子、中村文則などの最近の純文学系など、色んなジャンルの小説が並んでいた。


悟はまだ読んでないが、読んでみたいと思っていた漫画や本が沢山あったので、いくつか選んで読みはじめることにした。

芥川賞も取って、話題になった又吉直樹の「火花」を面白いなぁと思いながら読んでいると、また睡魔がやって来て、瞼にだけ重たいGがかかっているかのようになってしまい、目が開けていられなくなってしまった。

悟は、ゴロンとカーペットに仰向けになった。

「少しだけ…」と呟いて、目を閉じた。


物音で目が覚めると、麻里子が帰ってきており、紅茶を飲みながら、こちらを凝視していた。


カフカの「変身」で、虫になった兄、グレーゴル・ザムザを見る妹、グレーテもこんな感じの目をしていたのだろうか?と悟は、思った。


「あ、う、おはよう」瞬間的に”怒られる”と思って、言葉に詰まってしまった。

「わたしの家をなんだと思ってんの?」

冷静に聞かれるくらいなら、怒られたほうがマシだと、悟は思った。

「…ごめん、今何時か知らないけど、こんな時間までいるつもりじゃなかったんだ」

「勝手に本を読んで、勝手に寝て、サンドイッチ食べて、時代が時代なら打ち首になってるよ。確実に」

「ごめん、…でもサンドイッチは食べていいって書いてあったから、…刑を軽くして欲しいかも」

「わたしのことをバカにしてんのか、

善意で泊めてもらった女の子に家に住み着いてヒモになろうとしてんのか、

変人アピールしてわたしの気を引こうとしてんのか、

ほんとにただの変人なのか、

間抜けを通り越して馬鹿の領域の人なのか、

…どれなの?」麻里子はスラスラと喋って、悟の逃げ場を次々に塞いでいった。

「…ごめん。多分、最後のやつだと思う」

はぁ、と深いため息をついて、麻里子は、髪の毛をかきあげた。

「こんなこと言いたくないけど、多分、だから、彼女できないんだよ。わたしは頭のネジが人よりも大分緩んでるから、なんとか許容できるけど、普通のちゃんとした女の子にしたら、仁川くんは、脅威だもん」

「…仰るとおりです。もう、帰りますので許してください」

「…火花面白い?」

悟は、急に麻里子が話題を変えたので、びっくりした。

「うん、面白い、まだ、途中だけど」

「仁川くんは、ドラえもん好き?」

「…ドラえもん?うん、昔はよくアニメ観てたよ」

「好きなんだ?」

「まぁ、好きだったよ」

「だったら、多分面白いよ」と言って、麻里子は笑った。

「ドラえもん」が「火花」と、どう関係しているのか、していないのかは分からなかったけど、麻里子の笑顔を見て、悟は可愛いなと思った。

麻里子の笑顔が急に消えて、冷たく神経質そうな表情に変わった。

「仁川くんは、わたしみたいな風俗嬢が小説書いてたら笑う?馬鹿のくせに。って思う?」

「…笑わないけど、…そんな質問の仕方をされるとなんかモヤモヤする。俺は人を評価できるような人間じゃないから。」

「でも、無感情ではいられないでしょう?」

「観たり、読んだりした作品に対して自分なりの評価をすることはできても、人を評価するのはなんか、すごく難しいし、そんなことしたくない。苦しいし。それに俺は小説とか、書けないし…」

「みんな、口先では良いこと言うけど、体を売ることしかできない可哀相なやつって、心の底では思ってんじゃないかなぁ?って思うことがあるの。仁川くんは違うの?」

「分からない、そんなこと言われたら…。」

「分からないなら、思ってるかもしれないってことだよね」

「…難しい。風俗嬢でも、色んな子がいるから、それに近いことを思ってしまうような子も、もしかしたらいるかもしれないけど、…でも、思わないと思うけど。…俺は自分の心の底は怖くて見ることができてないのかもしれない。…ダメな奴だな俺は」

「見なきゃダメだよ。女の子をお金で買って、あんなことやこんなことをしてるんだから。させてるんだから」

「…うん、……でも、俺は、今でも風俗嬢に救われてるし、こじらせた童貞を捨てさせてくれて救われたのも本当で、感謝してるのも事実なんだ。だから、”本当は馬鹿にしてる”とか、”見下してる”とか言われると、苦しくなる。心の底を見ろって言われても、俺が見たくない心の底に、もしも、そういう感情があったとしたら、俺はもう、風俗にも行けなくなる気がするし、そんなことを思う自分が本当に嫌いになりそうな気がして…それに、どうやったら、心の底が見れるのかもよく分からないし…」

「…ふーん。なんか正直っぽい。それも演技だったら怖いけど」

麻里子は疑り深いノラ猫のような目で悟を見つめていた。

そして、「てか、風俗で童貞捨てたんだ。」と言って、楽しそうに笑った。

麻里子の顔から、さっきまであった冷たさが消えていた。


確かに悟は、暗い過去を引きずって今現在を生きているような、悲しみの影がある女の子にしか、自分のことを話せないという欠点のようなものがあると自分でも感じていた。

幸せそうな女の子や、すごく明るい女の子を見ると、自分とは違うなと思って近寄ることさえためらわれた。

別に悟は、自分が不幸だとも、暗い過去があるとも思ってはいなかったが、彼氏からDVをされた経験がある女の子や、親から虐待を受けていた過去がある女の子や、自傷癖のある女の子や、精神病院に入院していたという女の子の前では、なぜか、自分のことを自然に喋れてしまうことが、麻里子が、さっき指摘した”本当は馬鹿にしてるんでしょ?”という質問の答えをかすめているのではないだろうか?と思うことが今までに何度か実際にあったのだ。

そんな、自分で見ないように、考えないようにしてきた部分を、麻里子に突かれてしまったので、悟は、内心で、すごく慌ててしまっていたのだった。


表情が和らいだ麻里子を見て、悟は、ほっとした。

でも、童貞の話は秘密にしておけばよかったと、少しだけ後悔した。


麻里子の両親は麻里子がまだ、幼い頃に離婚しており、高校を卒業するまでの間、麻里子は母親と祖母との三人で暮らしていた。しかし、母親は体が弱くて、あまり働くことができずに、祖母の年金で、三人は暮らしていた。なので、どうしようもない貧しさの中にいたことだけは覚えている。家にはテレビもなく、ラジオもなかった。


高校を卒業する半年前に、<どんなことをしてもいいからお金持ちになってね>と母親に泣き付かれてしまった。

勉強も小学校の頃まではできたけど、中学生になってからは、さっぱり分からなくなってしまっていたから、

そんな自分がお金を沢山稼ごうと思ったら、セックスワーカーになるくらいしか、考えられる選択肢はなかった。

でも、こんな仕事をしている女を彼女になんて、誰もしたくないだろうな。と思っていたから、人を好きになるのはやめることにした。それが、自分の気持ちを守る唯一の術だった。


昔から本を読むのは好きだったけど、家で本を読んでいたら、「そんなもん読んでる暇があったら、体でも売ってお金を稼いできなさい」と母親に怒られてしまったことがあって、その時の麻里子は、まだ中学生だったから、母親も本気で言ってはなかっただろうが、その言葉は、麻里子の心に今でも深い深い傷を残している。その一件以後、麻里子は母親の前では本を読まないことに決めた。


麻里子は、寮のある風俗で働きはじめてから、部屋を借りて一人暮らしができるようになるまで、半年かかった。


お店で、働き始める時に、スタッフの人に教えられたことはいくつかあるけど、今でも覚えてるのは2つだけだった。

”女優になりなさい”ってことと、”お客さんを本当に好きな人だと思って接しなさい”ってことだ。

それ以外を忘れてしまったということは、覚えておく必要のないことだったのだろうと、麻里子は、思っている。

そして、<わたしは女優になれているだろうか?>と今でも時々自問する。


麻里子は、この仕事を始めてから、分かったことがある。

それは、男でも女でも、孤独と性欲は太い鎖で繋がれていて、さらに、性欲と愛は雁字がらめになっているということである。


それも、一人暮らしを始めて、本や漫画を自由に読めるようになって、そこから、しばらくしてやっと言語化できるようになったわけなのだが。


昔、クラスの皆で将来の夢を発表したことがあった。麻里子はたまにその出来事を思い出す。


小学生の頃の麻里子の夢は”お金持ちになること”であったが、そうなる為の具体的な方法となると、何一つ分かっていなかった。

でも、お母さんに、”お金持ちになってくれ”と頼まれていたから、それは叶えてあげなくては、と思っていたのだ。


先生は”お金持ち”と答えた麻里子を見て、苦笑いして、スルーした。そのあとで他の子たちは、色々な職業を答えていった。先生はそれを聞いて、にこにこと笑っていた。


あの頃は、ただただ、純粋に”お金持ちになりたい”と思っていた。そして、今でもその夢は変わっていない。もう、純粋じゃないけれど。


悟は、小さな出版社に勤めていた。

その日、悟は社長の小山に呼び出されていた。

「仁川くん、リクープって言葉の意味を知ってよね?意味を知らなかったら、言葉ってのは、なんの価値もないんだよ?」

悟は、何も言うことができない。

悟は今日、取引先の会社へ出向き、すでに業務提携を結んでいる企画の契約更新をしてくるという、重要な意味を持ってはいるが、誰にでもできる仕事を任されていた。

しかし、悟は本来、相手方に見せるべきではない書類を、事もあろうに取引先の会社の社長に手渡してしまい、その書類の内容を見た社長は結果として、契約そのものを白紙に戻してしまったのである。

それによって、悟が勤めている、小さな出版社にとっては、「つい、うっかり」で許されないレベルの損失が生まれてしまったのだ。

「今だってそうだよね。仁川くんの出した損失を他の奴らが、必死にカバーしようとしてんだよ。仁川くんはうちの会社にとって明らかな損失なわけだよ。自覚あるだろう?」

「すみません」悟は頭を深く下げる。

何も言い訳ができなくて、溢れだした脂汗が顔をじっとりとさせていた。

「ははは、そういうのはいいからさ。…お疲れ様でした」と、小山は、”お前には怒る価値も無い”という声が聞こえてきそうなほどに、優しい笑顔を悟に向けて言った。

悟は、その日のうちに退職願を提出することになり、その日のうちに受理された。


悟が荷物の整理をしていると、同期の田中が近づいてきた。会社で唯一、悟に好意的に話しかけてきてくれる存在だった。

「…落ち込んでるか?」

「いや、こうなるのも当然だよ、完全に俺が悪いんだから。…自業自得だよ」

「…まぁ、お前、最近体調悪そうだったしな。これをいい機会だと思ってしっかり休んで、違う仕事を探せばいいのさ」

「悪いな、最後まで、迷惑かけてばっかりで」

「大丈夫だよ、また今度飲みにでも行って、近況でも聞かせてくれよな」

「…ありがとう」

「おう!」

それだけ言うと田中は忙しそうに、去っていった。

去っていく田中の背中は頼もしく見えて、悟は、自分が情けなくなった。


悟は、会社がある新宿から家がある東府中の駅まで京王線に乗って帰ってきたものの、家に帰る気にもなれず、近所の公園のベンチに座っていた。


家族がいるわけでもないから、帰り辛い理由もないが、家にいてもすることがないので、外で時間を潰している方が気分的に楽な気がしたのだ。


自分が着ているスーツも、5年前購入した時には、俺のことをこんなに無能な人間だとは気付いていなかっただろうなと、悟は、思った。

優秀な人間が着ているスーツは、スーツまでも優秀に見えてくるものだ。

悟は、目の前に鏡がなくて良かったと思った。

鏡がなくても”お前が無能だから俺までくたびれて思われてるじゃねぇか”という怒りの声が自分の全身から聞こえてくるような気がしていたからだ。

「俺だって、好きでこうなったわけじゃねぇよ…」

反論の声も小さく呟く程度の声にしかならなかった。


悟がベンチで俯いて座っていると、

「仁川くん?何してるの?」

と女の声がした。


顔を上げると麻里子が立ってこちらを見ていた。


「何って、仕事中に見える?」と言って、自虐的に笑ってしまった。

「見えない。…リストラされたサラリーマンには見えるけど」

悟は、驚いて目を丸くした。

「…麻里子は、占い師になったらいいよ」

「ホントに!?………当てちゃってごめん。」

「いやいや、麻里子が謝ることじゃないよ。やっぱり今の俺はそういう風にしか見えないんだな。…はは」

「ちょっと待ってて!」と言って、麻里子は走りだしてしまった。どこへ行ったのだろう?と悟は思った。

しばらくすると、麻里子が戻ってきて、悟に缶コーヒーを手渡した。

「ま、これでも飲んでさ、元気出せよ、青年」

「ありがと。…なんかのパロディ?…この前はオッサンって言ったくせにさ」

「あらま、心まで老け込んで嫌味ったらしくなってやがる。困った、困った!」

「だから、なんなのさ?変なキャラやめてくれる?ここ外だよ?」

悟は、良い意味で、全てが馬鹿らしくなってきていた。

「あはは、…元気ないならわたしの家においでよ」

「行ってもいいの?オッサンだけど」

「そんな死にそうな顔してる人、放っておいたら、夢に出てきそうだからね」

「また、顔のことか…」

悟は買ってもらった缶コーヒーを飲みながら、2人で、麻里子のアパートに向かって歩く。

悟たちがいた公園からコーポさくらまでの道は東府中駅の線路沿いにあって、夜だと街灯も少ないので暗くて危ないが、今はまだ夕方なので、線路沿いの雑草や野花が見られて、悟は麻里子と、デートでもしているような気持ちになった。

「麻里子はさぁ、最初はなんで風俗で働くことになったの?」思いきって聞いてみた。

「離婚した父親がさ、母親の名義で借金してたからさ、それを返すために、かな?」

「そっか、それは…すごくキツイ人生だね、俺には想像できん」

「18歳からだったからね。誕生日の次の日にはもう、働いてたよ。…でも、言う人は多いよ」

「なにを?」

「風俗は一番簡単な体を使う仕事だ、って言う人。簡単だって思うなら皆やればいいのにって思うけどね」

「…簡単な仕事だ、って他人が言うのは僻みもある気がするけどなぁ」

「みんな、生きるために仕事をしてる。それは同じなのに、なんで上と下が出来ちゃうんだろうね」

「…分からない」

「…そう、…みんな分かってないんだよ。」

「みんな、分かってない…か」


コーポさくらに着いたら、「仁川くん、先に階段登って」と悟は、麻里子に言われた。

「どうして?」不思議に思ったので、麻里子に聞いたら、「どうせまた、ジロジロ見るつもりでしょ?」と悟は言い返された。

「この前も別に、そういう目で見てたわけじゃ…」

焦って弁解しながらも、悟が、階段を登り始めたら、後ろから「変態」と聞こえた。



202号室に入ると、いい匂いがした。

「前も思ったけど、この部屋いい匂いだね?なんの匂いなの?」

「ファブリーズ」

「え…?そうなの?香水とかアロマかと…」

「冗談」

悟は、麻里子の顔を見ると全くの無表情だった。

全くの無表情で、冗談をかましてくる女性に悟は、それまで出会ったことがなかった。


ネッシーを捜しにネス湖に行った探検隊の隊員Aがなにかの拍子で本隊からはぐれてしまう。

しかし、そこで偶然、ネッシーとは別の未知の生物に出会ってしまった。

そんな、嬉しいんだか恐ろしいんだか、なんだかよく分からない隊員Aの心情を、悟は想像した。


テーブルに2つティーカップが置かれた。麻里子が、ハーブティーを入れてくれたのだ。ありがとうと言って悟は飲みはじめる。ハーブのとてもいい香りがした。


「わたしはね、今が人生のピークだって最近はよく思うの。」

「そりゃ、良かったねぇ、俺は今が人生のどん底な気がしなくもないのに」

「うん、喜ばしいことのような気もするんだけど…でも、別に、今の仕事を一生続けられるとも思ってないのよ、当たり前かもだけど」

「そうなんだ、…俺はそこらへん、よく分かんないけど」

「普通の人からしたら、わたしの今が不幸に見えても、わたしが今、人生のピークだって喜んでいることを否定しなくてもいいんじゃない?って思うの。なんで、皆と同じ幸せじゃなくちゃ、祝福って、してもらえないのかなぁ?わたしは誰に迷惑をかけてるわけでもないのにね…職業だけを見て、お前の<幸せの価値観>は歪んでる!とか言われたりね」

「ああ、…そういうこと言う人いるよな、…外野のくせに大声でなんか言う感じの…なんとも言えない感じの人たち」

「仕事以外の時間は自由に本や漫画を読めるし、ごはんも子どもの頃より、美味しいものを食べられるし、そりゃあ、嫌なお客さんも来ることはあるけど、お仕事だって思えばなんとか耐えられるし、その逆で優しいお客さんもいっぱい来てくれるし…」


麻里子はとても寂しそうな顔をしている。

麻里子自身、割り切って生きているつもりでも、心の中では揺れている部分があるのだろうと、悟は思った。


悟は、風俗に行く時に、麻里子ほど色々なことを考えて行っていただろうか?と自問して、恥ずかしくなった。本能とか性欲とか寂しさとか孤独とかのせいにしていたような気さえする。


「なんか、言ってること分かる気がする。分かってないかもだけど」と、悟は呟いて、頭を掻いた。


<考え方は人それぞれ>とか、<みんなちがってみんないい>とか、 “それが大事だ”って皆、分かったつもりになってるけど、本当のところは、それは同じ価値観を持つ集団の中での、狭い意味での自由でしかないんじゃないか?と、悟は思う。


寛容のなかの不寛容。不寛容のなかの寛容。どちらが正しいかなんて、誰にも分からないことのような気がする。


「結局のところ、強い人たちは強い人たち同士で結託して、弱い人たちは弱い人たち同士で傷を舐め合うことしかできないのが今の世の中なんじゃないかなって思うの」

麻里子は、そう言うと、突然、悟にキスをした。

「こんな風にね」

そう言って麻里子は、またいつかの意地悪な笑みを浮かべていた。

「…なんだよ。一応、男だから、俺の方が力は強いからな?」

悟が怒っても、麻里子はクスクスと笑っている。

「でも、仁川くんより、警察のほうがもっと強いからね。なんせ、あっちは国家権力だもん」

「それは……勝てない」

悟と麻里子は、目を合わせて笑い合った。


その夜、初めて出会った日以来のセックスができるかもしれないなぁと、悟は秘かに期待のような感情を抱いていたが、麻里子は「眠くなったから…おやすみなさい」と大きな欠伸をしたと思ったら、自分勝手にベッドに入ってさっさと寝てしまった。

同じく、自分勝手にしていた妄想を裏切られた悟は、火花の続きを少しだけ読んで、この前と同じようにカーペットの上で寝た。



気がつくと朝になっていた。

寝ぼけた頭で悟は、麻里子を探したが、麻里子はもう仕事に出かけたあとだった。

楕円形のテーブルの上には、また一枚の書き置きが残されていた。


“おはよう。お仕事行ってくるね。(^。^)

最近はカトナウイルスのおかげで、お客さんも少なくなってて、本当に緊急事態宣言発令中だよ、わたしの中で。(笑)

…冗談はさておき、今日、わたしが起きた時に仁川くんの寝顔を見て、可愛いなぁと、思った反面、この人は本気でわたしのヒモになる気なのかな?と若干、本気の心配をさせてくれてありがとうございました。

そういう、本来は不必要ともいえる刺激があってこそ、生活に張りが出るような気もしますし。

…2回目の冗談はさておき、昨日も色々なことを話せて楽しかったよ。お酒も飲んでないのにあんな風に喋れる友達も、彼氏も今までにいたことがないので。

お腹が減ったら自分でなんか買って食べてね。ごはんを作っておいてあげようかな?と少し思ったけど、彼女でもないしなぁと、思ったのでやめました。

だけど、お仕事から帰ってきて、仁川くんがわたしの家からいなくなってたら、やっぱり寂しいなぁと思うと思います。なんでだろ?(笑)

あんまり長くなってもあれなので、それじゃ。”


この前と同様に、書き置きの最後に人だか犬だか分からない絵が描き添えられていた。



悟は、麻里子の本棚を眺めていると「朗咲 新太朗」という、あまり聞いたことのない名前の作家の文庫本を見つけた。タイトルは「ダールとヘンリー」。

手に取って、本のそでに書かれている作者紹介の部分を開いた。


“朗咲 新太朗 Kunizaki Shintaro

1967 (昭和42)年、東京生れ。島根県立大清高等学校卒。'84年、高校在学中に書いた、詩と小説を組み合わせた作品「誰でもいいのさ?」でデビュー、同作で群像新人文学賞を受賞。瑞々しい文体と自由な作風で、将来を期待されていたが、'86年7月、自宅のマンションの屋上から飛び降りて死去。

他の著書に、小説、「暴力的に彩られ…」詩集、「ダールとヘンリー」がある。どちらも朗咲の死後、遺された原稿をもとに出版された。”



悟は、作者紹介を読んで、よくある早熟の才能というやつか、才能に恵まれるということが幸せになれる条件ではないのだなぁと、改めて思った。しかし、才能とは自分で選ぶことのできないものだ。

「都会生まれで田舎育ちの詩人かぁ…」とか言いながら、ペラペラと頁をめくっていると、いくつか、緑色の蛍光ペンで、なぞられた詩があった。麻里子のお気に入りの部分なのだろう。悟は、そこだけを拾い読みしていくことにした。



“「Rorschach ( ............A code of history)」


春のはじめ

トンビが飛んだ。

それはなにに見えるかな?

コトコトコトコト

じっくり煮込んで、

出来上がったのはだーれも知らない。

An atomic bomb was travelling in the sky.

(爆弾が空を旅している)

The boy just chose from a bow or a gun.

(弓か銃を選べってさ)

The boy was approached in the devil's hands

(僕はいっつもノロマと呼ばれている)

but, he could not see.

(困ったなぁ)


あきれた空だ。

なんにも教えてくれやしない。

お前は全てを見てきたくせに。”



“「僕のTVは…」


歩いていたはずが、いつの間にか電車に乗っていて、

電車に乗っていたはずが、また、ふと気付くとロケットに乗っていて、宇宙へ放り出されている。

というような急転直下ともいえる文明の進歩や、技術革新ほど刺激的だし、楽しい気はするけど、あとから振り返ると、虚しさだけが残るような気がしてならない。と、僕のTVが言っていた。

………あとからとは、いつからだろう?

ほんとは知ってる。

あとにはなんにも残らないってこと。”


“「人魚と政治家」


彼女は反国家的自由の中で泳ぎまわる魚みたい

どうしたって釣り合わないのに

人って、どうして どうして

理屈じゃないものに飛びついてしまうんだろう

だって理屈は感情の後を追うものだから

然るに理屈は全部、アメ細工

中身はどれでも変わりはしない

その中に潜む<悲しみ>も”



作 朗咲 新太朗 <ダールとヘンリー>より



悟は、小説なら少しは読むが、詩集というものをあまり読んできていないから、比較することはできないが、暗く、悲観的な詩が多いな、という印象を持った。


麻里子は、この詩を読んで何を感じ、どこに惹かれたのだろうか?と悟は考えた。


朗咲 新太朗の詩は暗く悲観的で、しかし取り立てて社会を風刺するというわけでもなく、どちらかというと、文明そのものへの批判的態度であったり、人間という生き物に対する、個人的な失望や絶望を描いているものが多いような気がした。


「ダールとヘンリー」は朗咲 新太朗の死後に出版された本であるから、デビュー作、「誰でもいいのさ?」が出版された1984年から、朗咲が飛び降り自殺をする1986年7月までの2年間に書かれたものだろうと、悟は考えた。


「ダールとヘンリー」が書かれた、当時の日本はおそらく、長らく続いた高度経済成長が終わり、バブル景気が始まろうとしていた時期だったはずだ。

そんな時代の中で書かれた、当時、10代で普通に考えれば夢や希望に満ち溢れていてもおかしくない朗咲青年の詩には、一片の明るさも希望も見出だすことができなかった。

だが、デビュー作、「誰でもいいのさ?」で群像新人文学賞を受賞し、遺作である、「ダールとヘンリー」などは今でも文庫化され、麻里子のような若者にも時代を越えて読み継がれているということは、やはり、彼が非凡な才能の持ち主であったことの証明なのだろうと、悟は思った。


麻里子は、朗咲 新太朗と同じような、暗く悲観的な、明るさや希望のない世界に生きてしまっているのだろうか?と、悟は思ってしまった。


そして、悟は、自分はどんな世界で生きてしまっているのだろうか?と自分の心の底を見ようとしたが、やっぱり恐ろしくなってしまい、すぐに断念した。


人は誰しも自分の作った価値観という窮屈な世界で生きている。


朗咲 新太朗の<ダールとヘンリー>を読んで、悟はそう感じた。



「5年も働いたのに失業手当も貰わなかったの!?」

「うん、だって、俺がすごく会社に迷惑かけたのは本当だし」

「ばかぁ…人が良すぎると、あんた死ぬよ?権利はちゃんと行使しないと」

仕事から帰ってきた、麻里子と、夜ごはんを食べてる時に、悟が仕事を辞めた時のいきさつの話になった。

「権利かぁ。…分かってるんだけど、金のことで誰かと揉めるのすごく苦手なんだよ、昔から」

「苦手だからって…まぁ、仁川くんの人生だから、仁川くんがそれでいいならいいんだけど…もったいないなぁ、貰えるもんは貰っとかないと」

麻里子は、コンビニで買ってきたばかりの、おでんの卵を熱いまま口に入れてしまって、ほふほふと息をしながら顔の下半分を踊らせている。

「わたしなんてカトナウイルスの給付金貰えないかもしれないのに…」と、麻里子が卵をようやく飲み込んで、口を尖らせながら言った。

「ああ、ニュースでやってたね、…あれ酷いよな」

「わたしだってちゃんと税金払ってるのにさ、わたしたちがウイルスをばらまいてるみたいに報じてさ、全然そんな事実はないのに」

「世の中、不公平なもんだって分かってはいたけど、なんか、もう、そういうレベルでもなくなってきてる気もするなぁ」

「ほんとだよ、もうわけが分かんなくて、娼婦にでもなっちゃいそう」悲しそうに、麻里子が呟いた。

「いやいや…」麻里子の冗談は急すぎて時々、対応が遅れる。面白い冗談は急にくるものだけど。

「もうすでに、娼婦だろ。って思った?」

麻里子は悲しい顔を取り消して、ニヤッと笑いながら言った。

「風俗嬢は娼婦ではないだろ。仕事でやってんだから。娼婦ってどんなもんかあんまり知らないからなんとも言えないけど」

「でも、似ているとは思うよ、我ながら。世間からの見られ方とかさ」

「世間か…、世間って言葉ってすごく難しいよな。どんな言葉も<世間の声>って言葉に括ろうとしたら括れちゃう気もするし…」

「そうかな?…体を売る卑しい職業、売春婦、淫乱、売女、パンパン、可哀想な人、娼婦、淫売、ビッチ、魔女、みんな<悪いもの>っていうイメージの言葉。あーいう人にはなってはいけませんよ。っていう印象を植え付けるための言葉。社会の秩序を守るためには、そう教育することが必要だから、あいつらは悪なんだってことにしよう。そうしよう。って作られた言葉。…これって被害妄想かな?」

「まあ、一般的なイメージ的に天使か悪魔かでいったら悪魔のほうになっちゃうのかな?」

「悪魔なら、悪魔でもいいの。でも、<いじめないでほしい>って思うことすらダメなのかな?って時々思うの。誰かをいじめたり、貶めたりしてまで、守らなきゃいけない秩序ってなに?法律ってなに?道徳ってなに?」

「うーん、…なんでもかんでも、善と悪で括れるって考えちゃう部分が人間の基本にはあるのかもしれないね。」

「わたしはいっつも悪役だから疲れちゃう。悪魔の心の中にも天使はいるよって言っても誰も信じてくれないから…ごめんね、毎日、わたしの不満をぶつけるサンドバッグみたいにして。…反省する。」

麻里子はコロコロと機嫌が変わる。それは女の子全般にいえる特徴である気がするけれど、麻里子は特にそれが酷いと、悟は感じていた。

「<ダールとヘンリー>読んだよ」

「面白かった?感想聞かせて?」

麻里子は嬉しそうな顔をして聞いてきた。

「うん、面白かったよ。俺はあんまり詩集とか読まないから、比較したりはできないんだけど、なんか、今の時代に合ってるというか、今読んでも全然、古びてない気がした。」

「うんうん。そうなの。」と、益々、麻里子は嬉しそうな顔をした。

「麻里子は、朗咲 新太朗の詩のどんなところが好きなの?」

「暗さに嘘がない感じとか、濁ってるのに透き通ってる感じとか、ひねくれてるのに脅えてない感じとか、いっぱいあるよ」

「確かに、言われてみれば、そんな感じだね」

「…朗咲 新太朗がもしも生きてたら、仁川くんと似てたかもね」

「…どーいう意味?」

文庫の著者近影に載っていた朗咲新太朗の顔は、俺とは似ても似つかない均整のとれた美少年と言ってもいいような優しく綺麗な顔立ちをしていた。

「分かんない。言ってみただけ~」

麻里子は、なぜか照れたようにポリポリと頭を掻いてから、“お風呂入ってくる~”と言って、お風呂場に駆け足で行ってしまった。

悟は、テーブルの上の空になった食器を重ねて流しに持っていく。

居候の役割をキッチリと果たす。ヒモはヒモでも役に立つヒモなら多少の価値はあると思いたい悟だった。

そして、お風呂場に麻里子の着替えを持っていく。

「麻里子、着替えを置いとくからな」

「ありがとー、おかあさん」

「大変な娘を持っちまったもんだよ」

「ひどーい!!」

洗面所のドアを閉める。麻里子のケラケラという笑い声が漏れ聞こえている。

悟は、着実に、麻里子との生活が楽しくなってきていた。



僕は小説を読んでいて、物語の途中で作者がでてくると冷めることも多いし、そういう演出みたいなのいらないよ、と割りと思うタイプ人間なので、急いで説明だけさせてもらいたいと思います。


誰にでも、思い出すのも嫌すぎて、無意識の遥か彼方に隠したくなるほどに最低で、胸くそ悪い、人生で最も最悪な日というものがあると思います。「そんなのわたしにはないよ」とか「そんな一日、僕には無いね、失敗とは無縁だから」と言いきれる人がいたとしたら、その人はとても幸せな人だと思うので、きっとこんな小説は読んでいないんじゃないかと思いますが。


麻里子にとっての<人生で最も最悪な一日>の詳細は、僕が書いたはいいけれど、読者という不特定少数の人たちに読まれるとなると、いくら物語上のキャラクターであったとしても、可哀想な気がするし、愛着も多少はわいているので公開するのはなんかやだな。という結論に至ったので、その最悪な一日のことは概要だけを提示させてもらって、細かいとこは抜きで説明させても貰いたいと思います。自分勝手ですみませんが。


三年前のある日、麻里子が幼い頃に離婚して顔も覚えてない実の父親が、麻里子が働く風俗店に客として来て、自分の娘と知っていながら、麻里子を指名したあげく、レイプまがいの性行為に及んで帰って行ったというのが、麻里子の人生で最も最悪な一日に起きたことの概要です。


そして、その日が引き金となって、麻里子が発症した解離性同一性障害は、ただでさえ困難の多い、麻里子の人生をさらに困難なものにしてしまった、ということも説明しておきたいと思います。


それはまだ、麻里子が19才になったばかりの頃の出来事でした。


以上で作者による説明を終わります。



悟は、自分の食費は貯金を切り崩して出していたし、主夫的な活動もなるべく行うように心がけていたから、完全なヒモではなかったが、自宅には帰らず、麻里子の部屋に住み着くようになっていたので、宿泊費を考えると、ヒモのようなものになっているのかもしれないとは思っていた。


その日は珍しく、麻里子も仕事がない日で、朝から珍しく二人でごはんを一緒に食べた。

「カップラーメンもたまに食べると美味しいよね」

「仁川くんはさぁ、ホントにクズ的人間だよね。可愛い彼女にもっと高級でスペシャルな食べ物を食べさせたいとか思わないの?」

「可愛いは否定しないけど…彼女じゃないし。彼女らしいことを俺にしてくれないじゃんか。…それに、言葉はオブラートに包むべきだって南海キャンディーズの山ちゃんも言ってるよ」

ズルズル、ズルズルと2人で麺をすすりあっていた。

「あの人もクズじゃん、蒼井優と結婚できたのが奇跡なだけで」

「山ちゃんがクズじゃないこと知ってるくせに、『あのコの夢を見たんです』読んで、この人天才だわって麻里子も言ってたじゃんか」

「あれは、面白かったけどさぁ…」

麻里子はプク、プク、と両頬を順番に膨らませた。

「一緒に住み始めると、男はだいたい変態になるし、甘えるようになるって誰かが言ってたなぁ。仁川くんもそこら辺の男と同じだぁ」

「変な期待させちゃってすみませんでしたー。普通以下の男ですよ、俺はどーせー」

「男の人ってほんとえっち好きだよね。」

「人によるんじゃないですかー。どーせ俺は変態ですよー」

「拗ねないでよ~、ゴメンだから。今、真面目に話したいこと思いついたの」

「なんですか~」

「あのね、お店で一緒に働いてる子で似たようなこと言う子が結構いるんだけど、『この仕事始めてから、イかなくなったんだよねぇ』って。でも、わたしって初めてのえっちがお仕事だったからか、イッたことがそもそもないの。やっぱり関係があるのかな?」

「うーん。…なるほどね。…関係無くはないかもね。男がイクのって結局はイマジネーションの部分が大きいと思うから、女の子がそうだとも言えないけど、お仕事であるためには、そのイマジネーションを封印しちゃうわけでしょ?そういう癖がついてるとイけなくなるのも、理屈としては分かる気がするけどね」

「…なるほど~。男の人も想像力とか、一応あるんだね。ヤってるときは猿とかブタと同じ脳みそなんじゃないかって思ってたけど」言い終えると、ズルズルとラーメンをすする麻里子。

「あはは、そりゃ、猿とかブタとヤってると思ってたらイけるわけないじゃんか」

「…確かに。仁川くんは猿とかブタじゃないの?」

「まぁ、でも、そういう時になったら、似たようなもんかもしれないなぁ」

「ふーん。」カップラーメンの汁を飲み干そうとする麻里子。

「でも、猿とかブタってさ、純粋に生殖のために生殖をするじゃんか?<人間は本能の壊れた動物だ>って言ってる人もいるくらいだから、本当は、猿とかブタに憧れてる部分はあるのかもしれないね、男も女も」

「人間が猿とかブタになりたがってるの?」

「本能的にはそうなのかもしれないな、って思ったってだけ」

「わたしはシンデレラになりたいなぁ」

「ははは、冗談だよね?」

「よく分かったね」

麻里子は”へへっ”っと酔っぱらいのおばあさんのような顔で笑った。

悟のラーメンはブヨブヨに伸びてしまっていた。




「猫の思想」


ふざけた缶詰

開けてみた

なかから世界が飛び出した

要は何にも入っちゃいなかった

そんなオチはどうだろう?

僕ら初めて気がついた

死んだら終わりだってこと

I am caught in a spider web.

(クモの巣に引っ掛かった)

My head is my enemy.

(僕の頭が僕の邪魔になるなんて)


作 朗咲 新太朗 <誰でもいいのさ?>より



仁川 悟のモノローグ


麻里子が塞ぎ込むようになった。

仕事には行くけど、帰ってきたら、一言も喋らない。この前までは毎日、お喋りしてたのに。悟は自分が邪魔になったのかな?と思って、「今日は自分の家に帰ろうかな?」と言うと、麻里子は悟の服を掴んで離さなくなる。でも、一言も喋ろうとはしない。「帰るのやーめた」と言うと、やっと手を離してくれる。「俺はどうしたらいい?」と聞いても、やっぱり何も喋らないから、悟は麻里子の本や漫画を読んで、時間が来たら眠った。たまに「一緒に寝て」と麻里子は悟をベッドに誘うが、手を出そうとしたら、何も知らない子どものような拒絶反応を示す。ただ、隣で眠るだけ。悟はわけが分からなかったが、麻里子と一緒にいられることに喜びを感じていたので、その生活はしばらく続いた。麻里子は毎朝、書いていた書き置きもしなくなっていた。悟は失くしていた鍵も、とっくの昔に見つけていた。鞄の底に隠れていた鍵を。時々、悟は考えていた。<麻里子とあとどのくらい一緒にいられるのかな?>ってこと。他の問題なんてあってないようなものだった。そして、会社員時代の貯金は大分、少なくなってきていた。悟は、前に観た是枝監督の「万引き家族」を思い出していた。美しいということは、とても儚いということ。名前は忘れてしまったが、ラストシーンの少女の寂しげな顔を思い出した。本当の家族とはなんだろう。<本当の>◯◯と言われると、<本当>ってなにさ?と悟は思ってしまう。それはきっと、普遍的なことで、みんなが思うことかもしれない。でも、その言葉につきまとう<切実さ>というのは人それぞれだ。悟はわりと切実にそんなことを考えていた。


悟は麻里子を外へ連れ出す計画を思いついた。

なにかが好転するかもしれないと思ったからだ。場所はどこがいいだろうか?やっぱりベタに海とかがいいのかな?武映画でも海のシーンは多いし。あ、でも、HANA-BIみたいに最後に海で自殺しちゃうみたいなのは嫌だな。TAKESHIS'までの武映画は自殺率高いけど、あれは、フィクションだから面白いのであって、本当に自殺するとなるとピストルも必要になってくるし。TAKESHIS'ってあれ本当にすごい映画だよなぁ、あれで北野武は燃え尽きちゃったみたいなところもあんのかな?あれ?話が脱線してきてるな。これじゃ、鬱病患者のモノローグだ。もう寝ることにしよう。と悟は思った。


仁川 悟のモノローグ end



仁川 悟の夢の中


悟は、傘を持って、麻里子と海へ出かけることにした。


喋ることをやめてしまった麻里子を無理やり部屋の中から連れ出したのだ。麻里子が喋ることをやめてしまった原因は、どう考えても自分にあるような気がしたからだ。


悟は、新しい仕事を探すことができないまま、時間ばかりが過ぎていった。

平凡な大学を卒業して、小さな出版社に運良く入れただけの、特別なスキルを何も持たない自分が、そこさえもクビになった今、できる仕事といえば、アルバイトくらいのものであることからも、目を反らしていた。

悟は困難にぶつかると、すぐに逃げ出す癖を持っていることに自分で気づいていた。会社をクビになったのだって、同期の田中や、どんどん自分を追い越して出世していく優秀な後輩と比べて、無能な自分から逃げ出すために、無意識の内に、わざとクビになるようなことをしたのかもしれない。

本当は、麻里子を養っていけるだけの力が自分にあれば、麻里子とずっと一緒にいられるだろうことにも、気がついていた。

悟は麻里子のことが好きなのに、ずっと一緒にいられなさそうなことが、予感としてあって、それがどうにか現実にならないように、なにかをしなければと焦ってもいた。

悟は傲慢にも麻里子を救いたいと思っていた。

しかし、自分には麻里子を救える力がないことにも気づいていた。

悟は麻里子を救えない自分からも逃げ出したいと考えるようになっていった。麻里子のことを本気で好きになればなるほどに。自分が麻里子の家に住み着いていることで、麻里子が幸せになる可能性を奪っているような気がした。だから、麻里子の前から自分が消えなければいけないような気がしていた。

この世界で生きる以上、この国で生きる以上、お金が無ければ決して幸せにはなれないような気がしていた。

お金さえあれば、麻里子が風俗で働くことを辞めさせられるのに、自分は麻里子の部屋に住み着いて、本や漫画を読んでばかりいた。

麻里子は自分なんかより沢山の苦労をしてきているのだから、自分よりも幸せになるべきで、自分がその足を引っ張ってはいけない。と悟は考えるようになっていった。

しかしそれは、またしても不甲斐ない自分から逃げ出したいことに対する言い訳でしかないことも気づいていた。

悟はなぜ麻里子を連れて海へ向かうのかも自分で分かっていなかった。

しかし、麻里子はなにかを分かっているようだった。

“麻里子には、何が分かっているんだい?”と聞いてみたくなってしまった。”お前を海へ連れて行こうとしている男は、なんで海へなんか行こうとしてるんだい?と聞きたくなってしまった。悟は自分の行動がなんの力で動いているのかが全くの未知で、どこまでも分からなかった。


麻里子は海に着くと、寒そうにしはじめた。そうだ、今はまだ、三月である。なんでもっと暖かい服を着させて来なかったのだろうと、悟は自分に思った。たいして防寒にもならないが、悟は自分のパーカーを脱いで麻里子に羽織らせた。麻里子は悟のほうを見て、なぜだか悲しそうに微笑んだ。


仁川 悟の夢の中 end


悟は目が覚めると、麻里子の部屋にいて、麻里子を海に連れ出したのは夢だと気づいた。


麻里子からの書き置きも無かった。


そして、悟は荷物をまとめて、麻里子の部屋から逃げ出した。それは自分自身から逃げ出すということだと、悟は気づいていたが。


久しぶりに帰った家の中は、弁当のゴミや空き缶や、脱ぎ散らかされた服や、段ボールや本棚からはみ出した本などで足の踏み場がなかった。

悟はベッドに寝転がった。


悟には大方の日本人と同様に、宗教恐怖症のようなところがあって、神様を信じるなんて…みたいなことを思っているくせに、だったら、その代わりとなる自分で自分を信じられる程の哲学や生き方を持っているかというと、そういうわけでもなかった。だったら、仏陀でもキリストでもムハンマドでも誰でもいいから信じているほうが、よっぽど筋の通った生き方ができるだろうけど、悟はもう27歳で今さら自分の宗教に対する恐怖心や偏見を自分で取り除くことは不可能だと思っていた。そして、そんな考えは逃避でしかないことも気づいていた。


悟は、考えることを放棄して、唯一、自分に残された無常観のなかで、ただひたすらに、時間が過ぎていくのを待っていた。


宮本麻里子の別人格・優子


優子は、いつも部屋にいた温かい匂いのする男の人が居なくて部屋のなかで一人ぼっちで泣いていた。優子はパパもママもどこにいるのか分からない。優子は使える言葉も5歳児レベルだった。さっきまで部屋にいたはずの男の人が気がついたら居なくなっていて、寂しくて泣いていた。パパじゃないのかもしれないけど、パパみたいだから、パパなのかもしれない、とぼんやり思っていたのに、急に居なくなってしまったから、優子は自分は捨てられてしまったんだと思った。

優子は割れんばかりの大声で泣き続けた。一時間、二時間、三時間と泣き続けたあたりで、声は嗄れて「ヒャー、クヒャーッ、ヒヒャーッ」という空気が漏れ出る音しか出なくなってしまった。泣きつかれた優子は、いつも男の人が寝ていたカーペットの所へ行って、毛布も掛けずに眠り込んでしまった。


宮本麻里子の別人格・優子 end


宮本麻里子のモノローグ


わたしが小説を書くときに大切にしていることの一つに、”登場人物に対しては客観的に、そして、物語に対しては主観的に”というルールがあるの。

小説を読んでて、登場人物の言葉が作者の言葉に思えたら、それはもう作者が変装して、喋ってるのと同じじゃない?って思うの。

それは、日常に降ろして考えてみても、色々なことに当て嵌まっていると思うのね。


小学生の時、わたしは休み時間になると図書室にいた。

教室にいても、皆、テレビの話に夢中で話に入っていけないし、テレビの話題を何も知らない自分が悲しくなってしまうから、図書室に逃げていた。


そこに、すごく沢山の本を読んでる子がいたの。

その子は色んなことを知っていたけど、その子と喋っていてもなんだか、その子の言葉じゃなく思うことが多くて、でも、なぜかいつも自信満々で、わたしを自分の制圧下に置こうとしているように思った。だけど、話し相手はその子しかいないから、仕方なく付き合っていたけど。


…その子は多分、沢山の本を読むことで、”他人より無知ではない自分”という安心と一緒に、”自分はこの世界の登場人物の一人でしかないという謙虚さ”を見失ってしまっていたんだと思うの。


本をいっぱい読んでたら偉いの?

そしたら、面白い小説が書けるの?


そーいう人もいるし、そうじゃない人もいる。

わたしはそう思っているの。


一冊の本を2年かけて読んだ男の子がいたの。


その男の子の名前はマヌエル・ピアソラ。

ピアソラは、アルゼンチンからの帰国子女で、日本語の文章を読むのに、途方もない時間がかかるらしくて、普段は本なんか読まないらしいんだけど、仲のいい叔父さんに「勉強になるから読みな」って言われて、もらったからっていう理由で、一冊の読んでみることにしたらしくてね。今の日本の純文学で一番有名なあの人の本よ。海外でも広く読まれている。当然わたしも好きで結構読んでたけど、その本は4年前に発売された比較的新しい本で、わたしは偶然読んでなかったの。

そして、ピアソラは二年かけてじっくり読んだ本の内容を辿々しい日本語でわたしに説明してくれて、あそこがすごく面白かったとか、あの言葉の意味がよく分からなかったとか、「愛華さんも読んで僕の疑問に答えてほしいです!」とか、とても楽しそうに、喋ってくれたの。


わたしは、すごくその本を読んでみたくなったの。


注意深く、一冊の本を時間をかけて読んで、得るものが、

サラサラとたくさんの本を読んで得るものを上回ってしまうことはあるのだという証拠を、ピアソラに出会ってわたしは捕まえてしまった気がしたの。


だから、わたしは、”自分は読者家です”なんて言う人をあまり信用しないことにしているの。読んだ本の量と、それによって得るものの量は、全く比例しないから。


本を読んで得るものが情報だけなら機械にでもできるよって、ピアソラに言われてる気がしたの。そんなことピアソラは絶対に思ってないと思うんだけどね。


わたしは思うの。わたしはそうなりたくない。そのために他の人からバカだと思われるのなら仕方ないとさえ思う。でも、多分これは、わたしの病気みたいなもんだと思うけど、わたしは結局は不安なの。

………子どもみたいに、ただ、ただ、不安なの。たった一人で、誰も好きにならないように生活をしていると、毎日毎日、底のない孤独に堕ち続けているような気分になってしまって…。



わたしは、わたしが小説の登場人物だったとしたら、ってたまに考える。その小説の作者は一体なんの恨みがあって、わたしにこんな呪いのような運命を与えたのだろう。与え続けているのだろうって。

わたしの一回きりの人生をもっと幸せにしてくれてもいいんじゃない?って。

そりゃ、あなたからしたらわたしは、沢山書く小説の中の、一個の小説の中の、一人のキャラクターの「宮本麻里子」でしかないとしても、誰か一人に悲しみを背負わせておいてあなたは平気なの?誰かを不幸に仕立て上げなければ誰かが幸せになれないなんて、現実世界と同じじゃない?…でも、あなたにその気がないのなら、わたしが小説を書くから別にいいわ。誰一人取りこぼさないで、誰一人不幸にしないで、誰一人死んだりさせないで、それでいて、幸せで、笑えて、読んでいて元気の出る<ユートピア>みたいな小説を書くの。ユートピアって言葉は、どこにもない場所って意味を持っているの。でも、それは、めんどくさい役割を誰かに押し付けているだけの小学校のクラスの○○係りみたいなものにすぎなくて、それは単なる一個の価値観に縛られているにすぎないと思うの。わたしは、小学生の頃、植物係りだった。みんなが地味だし、めんどくさいからという理由でなりたがらなかった植物係り。わたしの心は今でも植物係りのままなの。でもね、オセロみたいにみんなの価値観をひっくり返していきたいと思っている。みんながわたしの頭の中にあるユートピアに気がついて、遊びに来てくれるようになるまで。その日までわたしは小説を書き続けるの。わたしを生み出した作者のあなた、聴いてますか?わたしは、わたしの書く小説でもって、わたしが生み出すユートピアに、あなたすらも取り込んであげるからね。待ってなさいよ。


宮本麻里子のモノローグ end


「愛華」がわたし(宮本麻里子)の源氏名。

源氏名というのは、こういう本名を明かせない仕事をしている女の子のみんなが、お店から仮の名前を付けられるもので、なんで、源氏名という古臭い言い回しをするのかまでは愛華も知らない。でも、大体どこの店にも、愛華はいるし、ひなはいるし、あんなはいるし、まりあもいる。固有の名前のようでいて、全国を探せば沢山いる。東京だけでも、腐るほどいる。名字は無くて、名前だけの存在。不思議なもので、その構造はわたし自身とよく似ている。と麻里子は感じている。


最近、仁川くんと会えていない。また優子が出てきてしまっているのだと麻里子は知っている。でもそれはしょうがないことだ。麻里子が自分で誰かを好きになることを辞めたのだから。


今日は10時から仕事なので、9時30分に店に出勤すると、スタッフの尾崎がデスクに一人で座って、電話による受付をはじめていた。


「尾崎くんおはよう~」

「おー。愛華さん、おはよう~!もう、朝から指名入ってるから早速準備しといて!準備は三番の待機部屋でお願いね。よろしくぅ!」

尾崎は朝からテンションが高い。寝てないのか?と思うくらいに。

「うん、わかった。尾崎、テンション高いね。」

「寝てねーからな、ウザかったらゴメンだぜ」

やっぱりと愛華は思いつつ、

「ううん、ウザくないよ。むしろ可愛い」

「愛華さんだけだよ、そんなこと言ってくれんの。クゥー」嬉し泣きの真似をする尾崎に麻里子は少し微笑んだ。


愛華は三番の待機部屋で、ささっと仕事用の脱ぎやすい服に着替えて、仕事をする16号室へ行きサウナの電源が入っているのを確認して、お風呂にお湯を溜めはじめる。予約の時間になったので、お客さん用の待合室に向かった。スタッフがお客さんを連れてくるのをそこで待つために。


やって来たのは男は、30代後半くらいに見えた。身なりからして、仕事はそこそこ出来るのだろうが、プライドの高さが、その自己をはるかに超越していて、そして、それを自分では周囲に隠せていると勘違いしているのが丸分かりの、目付きの悪い男だった。

この男は何かが欠落している。直感がそう叫んでいた。

愛華はこういう仕事をしている内に、男に対する観察眼だけは鋭くなってしまっていた。それも、人間の嫌な部分に対しては特に。


「初めまして。ご指名ありがとうございます」

「…ああ。外れだ」

「外れぇ?どういう意味ですか?なんかヒドイ意味な気がするぅ」愛華笑って言うと、

「別に、…たいした意味はない」

初めての客にする、定型の質問をいくつかして、空気を作って、仕事を始めようと服を脱ぎ始めると、

「別にいいよ、時間の無駄だから、見た目以上の中身なんて無いわけだし」男はタバコを吸い始めた。

「わたしじゃ、ご不満でしたか?」

「別に、君もなかなか、可愛いけど僕の理想では無かったってだけで」

“だったら、帰ればいいのに”と愛華思った。

「君の個人的な意見でいいんだけど、この店に君の上位互換はいる?君タイプの顔で」当たり前のことを聞くように男は尋ねてきた。

「みんなわたしより可愛いですけど、上位互換と言われると、ちょっと分かりません。あなたの基準を知らないので。」

「つまんない答えだな、…まぁ、そうか」

愛華が黙っていると、

「なんで、楽しませようとしないわけ?二万円もこっちは払っているのに。バカすぎて、お金の価値も分からないのかな?あはは」

「すみません、なにを喋ったらいいのか分からなくって」愛華は申し訳なさそうに言った。

「どうせ、こんなところで働くくらいだから、身寄りもいないし、いたとしてもクズしかいないんだろうなぁ。可哀相に。」

「ヒドイですね」愛華は悲しそうな表情を作って言った。

「酷くないよ。酷いと思うのは、君が物事を客観的に見れてないからだよ。物事を客観的に見れない奴は君のように地下に潜らなくちゃいけなくなる。この国にはそんなやつばっかりだけど」

「…そうですか」

「そうだよ。…そして、男でも女でも、見た目が美しいものだけが、その地下から地上へ上がる権利を持っているんだ。僕のような存在に拾われて。…全くもって、残酷な世界だよね。あはは…あ、そうだ、忘れてた!やっぱり君、ちょっと服を脱いでごらんよ」

「な、なんでですか?」愛華は戸惑った。

「理由とかいいから、ホラホラ、仕事だよ」男は手をパンパンと二回叩いた。

愛華は服を脱ぐ。

「いい子だから、両手上げて立っててねぇ」

男は愛華の全身を隈無くチェックし始める。

「なんなんですか?」愛華の声に、少しだけ怯えが混じっている。

「情報ってのは、共有して初めて意味があるんだよ。それぞれの天使に出会うためにはさ。世の中には色んなマニアがいるからね。…背中から左胸に渡る火傷痕と、手首の傷くらいか。まぁ、ノーマルっちゃノーマルだな。はい、ありがとう、服着ていいよ」

「……」

「君の為の調査でもあるんだけど、…理解はできないよね。まあ、僕の仲間5、6人でやってる遊びだから、何も心配することはないからね」

「…そうですか」愛華はここまで、自分を物として扱われたのはさすがに初めての経験だった。

「君は整形したら、もう少しマシな生き物になれると思うから、考えといたほうがいいよ。今のままだと、10年後には、確実にゴミになってると思うし、早いに越したことはないよ」

「…はい、考えときます」

「あ、悪口とかじゃなくて、親切心で言ってるだけだから、傷つく必要はないからね」

「はい」

「ところで質問なんだけど、君みたいな人種って生きてて楽しいの?」


タイマーが鳴って、男を一人で帰らせたあと、スタッフルームに電話をする。


「あ、…尾崎…くん?、終わったから。今そっちにお客さんが向かったからお送りしてあげて。…あのさ、今のお客さんちょっと、わたしに合わなかったから、今度、同じ番号からかかってきても、指名がわたしだったら、断ってちょうだい。多分もう来ないと思うけど。」

「おー、分かった。…分かったけど、愛華さんがNG出すなんて珍しいな。なんかされたのか?大丈夫か?」

「ううん。大丈夫。…何もされてない。本当にただ、合わなかっただけだから」

「おー、分かった。…だったら、なんも聞かねぇよ。…でも、本当に困ったら俺でも他のスタッフでも、誰でもいいからちゃんと相談しろよ。愛華さんはなんでも一人で抱え過ぎるからな」

「はは、…尾崎くんは優しいね。惚れちゃおうかな」

「まぁ、ホストに狂って借金まみれになるより、俺に惚れてたほうが、無害っちゃ無害だな、あはは」


電話を切って、5分間だけ目を閉じて無になろうと努力する。


自分の中で壊れていきそうなナニカを必死に押さえつけて、何とか壊れないように、壊さないように。


しかし、言葉は蛆虫のように頭の中に沸いてきた。

“わたしは女優になれているだろうか”

わたしの中のわたしが問いかけてきた。


「うるさい」


“どうせわたしは狂ってる、どうせわたしは詰んでいる、どうせお前は生きてるだけ、なんの価値もなく生きてるだけ、それがお前、それがお前、死んでないだけ、ただ、それだけ…”


「お前ってなに?…わたしなの?…わたしのことなの?…なんで?なんで?なんで?なんで!!頑張ってるでしょ?わたしだって頑張ってるでょ!?頑張ってるの!」宮本麻里子は発狂したように叫ぶと、大声で泣きはじめてしまった。なにかが壊れてしまったかのように。


…5分後、愛華は16号室を出て三番の待機室に向かって歩き出した。もう泣いてはいなかった。


愛華と宮本麻里子。わたしは時々、自分が宮本麻里子であることすら疑ってしまう。わたしにとって、記憶は作られるものであるし、不連続な自己の集まりを統合する術も”わたしの中の一人のわたし”でしかなくなってしまった宮本麻里子にありはしない。どちらが本当のわたしなのか、わたしはよく分からない。どちらも偽物のわたしのような気さえする。それはわたしが女優だからだろうか?わたしは女優なのだろうか?

今、わたしと言っているわたしとは誰なのか?どの、わたしなのか?どの、わたしが誰なのか?わたしはわたしがよく分からない。



そして、半年の月日が流れた。


悟は麻里子の部屋から逃げ出したあと、再就職を目指して、いくつか出版系の会社の面接に行ったが、どれも不採用だった。考えると、理由を明らかで、自分には特別なスキルがないということと、<なぜ、前の出版社を辞めたんですか?>という質問に上手く答えられないということが全てな気がした。それも、そのはずで、なにか、やりたいことがあって辞めたわけではないからだ。


それでも、生活のためにはお金がいる。悟は居酒屋の厨房でバイトを始めたが、揚げ物を作るフライヤーという機械を上手く使いこなせなかったり、客の注文した数以上の揚げ物を作ってしまったりして、怒られてばかりだった。あまりに使えないということで冷蔵庫管理に回されたが、そこでもどうしようもない失敗ばかり繰り返してしまい、店長から「この仕事向いてないから、辞めたほうがいいんじゃない?」と言われて、2ヶ月働いた時点で辞めることになった。


悟は、前の会社に入れたことと、そこで5年も働けていたことが、今思えば奇跡のように感じられた。


悟は、ハローワークで良い条件の仕事を探すが、この時代にそんなものはないことも分かっていた。それは、”自分は働くことを諦めていない”という自分に対する虚しい無意味なジェスチャーのようだと思った。帰りに府中駅の本屋に寄った。東府中駅の中の本屋は2年前にコンビニに変わってしまったから、本屋に行く機会もめっきり減っていた。

文庫本の棚を目で追っていると偶然、朗咲新太朗の名前を見つけた。「誰でもいいのさ?」と「ダールとヘンリー」の二冊だけ置いてあったので、ダールとヘンリーを手に取った。麻里子の部屋に置いてあったのと同じタイトルのほうを。パラパラと読むでもなしにめくっていく。


「とある水曜日に街を見て」


こんな日になにかが起きるなんて誰も思っちゃいない

でもそんな日になにかが起きるものなのだ

君が街を歩いてる

そこにはたくさんの人々がいるはずだ

誰も予想できないことが

誰も予想しない日に起こる

美しいことも、悲しいことも

まだ、なにも起きていないのに

君はなんで、逃げるんだ

まだ、なにも起きていないのに

君はなんで、終わらせたんだ

夕暮れに聞いてごらんよ

分からない自分のままで


The search for an answer will end someday.

(答え探しはいつかは終わる)

Whether you run away or not.

(君が逃げようが逃げまいが)


作 朗咲 新太朗 <ダールとヘンリー>より


人は本を読むことで、自分が求めている文章を探しているだけなのかもしれない。


朗咲新太朗の詩から受け取ったなにかで、俺は自分に都合の良い論理を組み立てようとしているだけなのかもしれない。それはすごくズルいことかもしれない。でも、どうしようもなく、俺は麻里子に会いたいんだ。と悟は思った。


なにもない自分を棚にあげて、麻里子に会いたくなってしまった。麻里子から、そして、自分自身からも逃げ出したくせに。自分はどうしようもないクズだと、悟は思った。

でも、麻里子の家を訪ねる勇気もなく、麻里子が働いている店に顔をだす度胸もない。

悟は必然的に、出版社をクビになった日に、家に帰ることもできずに、時間を潰していた公園に足を向けた。

麻里子が話しかけてきてくれたあの公園に行くことが、今の悟には必要なことのように思った。



悟はいつかと同じ公園のベンチで、いつかと同じようにうつむいて座っていた。

「仁川くん、なにしてんの?」

「何って、仕事中に見える?」

「全然。前みたいにスーツも着てないし、ジャージだしホームレスにしか見えない」

「スーツのホームレスだっているよ」

「そーだね」

「俺はどんどんつまんなくなってるよ」

「もともと、そんなに面白くなかったよ」

「あはは、俺もそう思う」

「わたしが来るの待ってたの?」

「…そーなんだよね…多分」

「仁川くんは、卑怯すぎだし、弱虫すぎ」

「ほんとにそうなんだよ。一応、会社で働いてた頃はここまで、自分がクズだなんて思ってもいなかったから」

「気づけて良かったね」

「うん、…今日、ハローワーク行った帰りに本屋に寄ったんだけど、そこでこの本を見つけてさ」

「へぇ、買ったんだ」

「うん。それで、ここに来ちゃったって感じ」

「仁川くん、わたしのこと好きなんだね」

「…そうなんだ。逃げ出したくせに、忘れることができないんだ」

「わたしも仁川くんのこと好きだけど、好きだから一緒には居られないの」

「…そうなんだ」

「優しくフってるとかじゃないのよ?わたしって、わたしが一人じゃなくなる病気をもってるんだよね。だから、好きな人とは一緒に暮らせないの」麻里子は普通のことを言うように、カミングアウトをしはじめる。

「…よく分からないな」

「ビリーミリガンとか雨宮一彦的なやつ。…言ってる意味わかる?」

「え…多重人格…みたいなこと?」

「そうそう。わたし、病院の先生以外に、このこと言うの初めてなんだけど、仁川くんにはなんでだか教えたくなっちゃったんだよね。不思議だなー」

「…本当なの?」

「嘘だと思う?」

「…思わない。……じゃあ、急に喋らなくなったのは…」

「それは優子ちゃん。可愛かったでしょう?わたしもたまに頭の中で会話するんだけど、あの子ってほんとになんにも知らないのよ。純粋で、バカで、傷つきまくって。……まぁ、わたしがそういう役割をあの子に押し付けてるみたいな部分もあんだけどね」

「なんで、急に麻里子は俺に会いたくなくなったの?」

「…仁川くんて、ほんとにバカだ。そりゃ会社もクビになるわ」呆れたように麻里子は悟を眺める。

「…一応、自主的に退職したんだけど。…俺はバカだよ、確かに」

「仁川くんのことが好きだからって言ってんじゃん」

「今、会ってるのはなんで?」

「ここが外だから、優子は出てきたがらないだけ。また仁川くんがわたしの家に住み着きはじめたら、優子が出てくるよ」

「なんで、好きだと会えないの?」

「わたしがそう決めたから」きっぱりと言い切る麻里子。

「なんで?」

「…仁川くん、お願いだから、<なんでなんで?>って聞かないで。わたしにだって分かんないことはあるよ」

「ごめん」

「ごめんじゃないよ。まったく。…わたしだって辛いんだから。好きな人と一緒に暮らせないのは」

「…それって、どうしようもないことなの?…ビリーミリガンと一緒のやつだったら、教師役を作って人格を統合しちゃえばいいんじゃない?」

「出来たらやってると思わない?」

「…確かに。ごめん、適当なこと言って。」

「ほんとだよ。…だからまぁ、仁川くんはさ、他に好きな人を作ってだね、わたしのことなんかさっさと忘れちゃってくださいよ」

「そんなのできない」

「できなくても忘れるの」麻里子は聞き分けの悪い子どもを叱る親のように言った。

「俺は一緒に暮らしたい。すごいワガママだけど。友達でいいから」

「一生、えっちできなくなるよ。わたしとも出来ないし、わたしはわたし以外の人とえっちしてる人とも一緒に暮らしたくないから」

「それでもいい」

「嘘だね。一緒に暮らしてたら絶対えっちしたくなるはずだもん」

「そもそも、なんでえっち出来ないの?初めて会った時したじゃんか」

「あれは愛華でしょ?」

「え?…あれは源氏名じゃんか」

「愛華は愛華なの。わたしの中にもいるの。バカ」

「どうしてもできないってこと?」

「したら、仁川くんのこと好きになるもん。」

「えっちしてないのに、優子が出てきてたのはなんで?」

「…この話はもう終わり。もう帰るね。バイバイ、仁川くん。お元気で。」

「ちょっ…待ってよ」

悟はベンチから立って、麻里子を追いかけた。



二人がいる場所は、麻里子の部屋、コーポさくら202号室。悟は久しぶりに来たが、驚くほど何も変わっていなかった。

「なんで、家までついてくるかなー?普通にストーカーだからね。仁川くん?」

「ごめん、まだ話足りなくて。」

「君はなにがしたいの?なに?カイリセードーイツセーショーガイの診断書が見たかったりするわけ?ホレホレ」診断書をヒラヒラさせる麻里子。

「怒んないでくれよ。俺だって俺がなにをしたいのかさっぱり分かっちゃいないんだから。…でも、麻里子と一緒にいられたら、俺は強くなれそうな気がするんだ」

「なに、その曖昧極まる感じ」

「…俺が何らかの答えを出したところ見たことある?」

「あはは、ないね。全くと言っていいほど」

「だろう?」

「ほんとに口だけは達者なんだから」

麻里子は立ち上がって台所に行った。

「仁川くん、コーヒーか紅茶かハーブティー、なに飲みたい?」

「麻里子が飲みたいのでいいよ」

「はは、フェミニストかよ」

「なんか、口悪くなった?」

「今、仁川くんのことを嫌いなヤツって思おうとしてるからね。コーヒーにするね」

「うん。わかった」



テーブルの上には麻里子が入れたコーヒーがふたつ。

向かい合って座る、悟と麻里子。

「麻里子は10年後の未来ってなんかビジョンがある?」

「10年後かぁ…多分10年分老けてるだけじゃないかなぁ?仁川くんは?」

「俺は、麻里子と一緒に居たいんだよねぇ」

「青いし、臭いし、バカだねぇ」コーヒーを飲みながらしみじみと言う麻里子。

「あはは、俺ってそうなんだよ。昔っから。未だにエヴァとか好きだし」

「わたしも好きだよ。あれ好きだとすぐに中二病って言うバカいるよねぇ」

「俺の周りもそんなバカばっかりだったよ。そういうこと言うヤツで、創造的なやつみたことないしね」

「これはレベルの高いカルチャー、あれはレベルの低いカルチャーって、分けて考えてるヤツってろくなヤツいないよね。だって、それって時代の流れに乗った考え方じゃん?時代に流されてる時点でバカだってことに気づいてないんだもんね。それでいて自分はレベルが高いと思ってらっしゃるからね」と言ってケラケラと笑う麻里子。

「…麻里子と話せて楽しいけどさ、そーいう話がしたいわけじゃないんよ、俺は今」

「えー。臭い話に戻るのー?」

「うん」

「聞かなきゃダメー?」

「うん。聞いてほしいんだ」

「なにー?」勉強しなさいと言われた子どもみたいにテーブルに突っ伏す麻里子。

「俺は10年後も麻里子と一緒にいたいんだけど、ダメかな?」

「ダメー」即答する麻里子。

「なんで?」

「分かんない。…でもとりあえず、わたしがまた仁川くんを好きになったら、優子が出てくることは確かだよ」

「俺がちゃんと優子とも、ちゃんと関係を築けば、麻里子と変わってくれるかもしんないし、俺さ、解離性同一性障害の本をいっぱい読んで、麻里子の病気治すよ」

「簡単に言うなよ、バカだなぁ。そんな簡単に治るなら、自分で治してるよ。医者だって治せやしないんだから」

「精神科医とか、一人きりでは治せない病気だとしたら?」

「そしたら仁川くんにだって治せないでしょ?フツーに」

「分かんないよ、俺にすごい力があるかもしれないじゃん」

「んなもんないよ。あんたはただのダメ人間。…わたしは仁川くんを好きな、この地球上で唯一の人間だけどもさ」へへへと麻里子がわざと意地悪な顔を作って笑った。

「酷いね。さっきは他の人を好きになりなって言ってたのに」

「そー。あんたなんか、一生、女に振られ続けてればいいのさ」

「…麻里子が俺を信じてくれないと、俺は俺を信じられない」

「わたしは仁川くんを信じないよ。…一回逃げてる実績もあるし」

「…もう、逃げない」

「誓える?」

「誓う。…だって、俺には麻里子しかいないから」

「臭いし、キモイし、もさいねぇ」麻里子は少なくなったコーヒーにミルクを投入した。

「信じられない?」

「………分かんない」麻里子は本当に困ったような顔をしている。

「俺さ、生まれてからずっと、本当に薄っぺらい男でしかなかったんだ」

「知ってるよ」

「俺は自分のことを飽き性なんだと思ってたけど、どうやらそうじゃなくてさ、本気になるのがただ怖かっただけっぽいんだ」

「へー」

「だから、めっちゃ正直な話、麻里子から逃げ出して、しばらくすれば、麻里子に飽きて、忘れられるとおもってた」

「出たよクズ的発言」

「俺ってマジでクズなんだよ」

「知ってるよ」

「でも、…麻里子のことは忘れられなかったんだよ」

「…ちょっ、泣かないでよ。わたし、どうしたらいいか分かんないよ」と言ってティッシュを5、6枚シュシュシュシュと掴んで悟に投げつける麻里子。

「俺の側にいてください」

「…どっちが男だか分かんなくなってきたよ。…仁川くん、わたしさぁ、仁川くんに今度裏切られたらマジで死ぬかもしんないし、死ななくても、ビリーみたいにこうして表に出てこれなくなる気がするんだよね。ビリーは屋上から飛び降りようとして、他の人格から眠らされちゃったんだよね。仁川くんが今度わたしを裏切ったら、わたしは結構な確率で死んじゃうってことだけど、そうさせない覚悟はあるの?」

「…そうさせないし、もし、そうなったら俺も死ぬ」

「あはは、仁川くんはバカだなぁ。言ってることが矛盾してるよ」

「…本気なんだ。俺って、麻里子に会って初めて本気になったんだよ」

「もういいよ。臭すぎて逆に嘘臭いから。…今日はもう寝よう?続きは明日にでも話そうよ」

「…うん。ありがとう」

「仁川くんこそ人格変わっちゃってるよーな。」

麻里子がまた笑っている。悟は麻里子という星の衛星にでもなった気分がした。



悟が朝起きると、麻里子はすでに仕事へ出かけていた。

そして、久しぶりの書き置きがテーブルの上に置かれていた。


おはよう。相変わらずよく寝る男ですね、仁川くんは。

昨日はまた、厄介なヒモ男が我が家にやって来たので、わたし的にはとても大変な1日でした。

仁川くんが昨日わたしに言った沢山の言葉の、どのくらいを仁川くんは覚えていて、どのくらいが本気だったのかが、この手紙を書いている今のわたしには分かりません。なので、今日仕事から帰ってきたわたしに、もう一度、仁川くんの本心を聞かせてもらおうかな?と考えている所存でございます。(笑)

別に、昨日と同じ言葉を仁川くんから聞きたいとは全然、ちぃーっとも思っておりません。ひたすらに、仁川くんの本心を聞きたいと、わたし宮本麻里子は思っています。

なので、今、ここでわたしの仁川くんへの気持ちを書くのはやめようかなと思っています。

でも早速、前言を撤回して、一言だけ言っちゃおうかなと思います。(笑)

仁川くんはもう忘れているかもしれないですが、”一緒に、病気を治そうよ”と言ってくれたのは、とても嬉しかったです。わたしの人生のなかで、わたしにそんなことを言ってきた人は一人もいませんでしたので。それだけで、わたしはとても恵まれているなぁと思います。

ありがとうね。仁川くん。


という文章の他に、明らかに悟の寝ている顔の似顔絵が描かれていたが、書き置きを読み終えた悟はその絵が自分の顔だとは気がつかなかった。<宇宙人かな?>と、的はずれなことを思っていた。



「ただいまー」

「おかえり、麻里子」

「良かったー。また、仁川くんが逃げてたらわたしの<ただいま>が無駄死にするところだったよ」

「俺はもう逃げないって言ったでしょ?麻里子の前からは絶対に」

「あー、ちゃんと覚えてるんだ」へーと驚いたような顔をする麻里子。

「覚えてるよ」

「書き置き読んだ?」

「読んだ」

「どーする?ごはん先に食べようか?」

「うん、麻里子お腹空いてるだろうから、ごはん作っておいたから」と、悟はテーブルを指差す。

「おお!仁川くんがそんな気の利いたことしてくれるなんて、明日は雨だなこりゃ」

「さっき天気予報で明日の降水確率言ってたけど100%だったよ」

「ほらね?お天気さんもびっくりしてるんだよ」

「ははは、俺はやっぱりすごい力を持ってるな、天気を操るなんてさ」

「バカとハサミは使いようってね」

「…今、使う言葉じゃないだろ、それ」


悟は夕方から、チャーハンと野菜炒めと味噌汁という、中華と和食の奇妙なコラボ定食を作りはじめて、麻里子の帰りを待っていたのだった。


「あのさ、仁川くんはわたしに騙されてるんだよ」

「なんで?」

「わたしは魔女だし、娼婦だし、売春婦だし、風俗嬢だから」

「そんなこと言ったら、俺なんか、クズだし、ヒモだし、ストーカーだし、ド変態だぜ?」

「キャー!恐怖のカップルだね、ふたり合わせて懲役何年だろう?」チャーハンを口に入れたままプルプル震える麻里子。

「それに俺は麻里子を悪く言う奴らのほうが、常識でしかものを語れない悲しいやつだと思うんだよな」

「そう言ってくれるのはありがたいけど、やっぱり仁川くんはわたしに騙されてるんだよ」

「騙されてなんかない」

「深く騙されてる人ほど、自分は騙されてないって言うんだよ」

「じゃあ、騙されてるってことでもいいよ。それでもいいから一緒に居たいと思うのもダメなのか?」

「も~、困ったなぁ。わたしはそう熱い感じで来られるのが弱いんだよなぁ」

「じゃあ、俺は麻里子と一緒にいるって決めたから、もうそういうことでいいよね?…うんって言ってくれたらこの話はもう終われるんだけど」

「…もういいよ。それで。わたしぐちゃぐちゃ考えんの苦手だし。わたし的には、仁川になら裏切られてもしょうがないって思って付き合っていけばいいわけでしょ?で、仁川くんは絶対に裏切らないって約束してくれるわけなんでしょ?………もういいよ、別にそれで」

「ありがとう。めっちゃ嬉しいよ」

「仁川くんはほんとにバカだなぁ」麻里子は楽しそうに笑った。



その日の夜、ふたりは一緒のベッドで寝ることにした。

悟の右手と麻里子の左手は布団のなかで”ぎゅ”っと握られていた。長い時間の空白の後に、悟は口を開いた。

「…麻里子、起きてる?」

「…起きてるけど、なんすか」少し怒ったような、声で麻里子が返事をした。照れ隠しだと悟は良い方向に受け取ることにした。

「これくらいだったら優子は起きてこないっぽいね」

「…知らないよ、そんなこと」

「あのさ、人はなんで10年後とか、自分がどうなってるか、…世界がどうなってるからすら分からないのに考えちゃったりするんだろうね?」

「…精神が不安定だからじゃない?」

「それだけかな?…だって人間て滅びうるものだし、世界…というか、地球だって似たようなもんじゃんか?」

「…なんか、トンデモ系のSF映画でも観たわけ?わたしそろそろ眠いんだけど」

「いやいや、…よくお笑いのコンビとかがさ、自分達のことを<運命共同体>とかふざけて言ってたりするじゃんか?…あれって、案外、的を射てるような気がしててさ。…なんていうかさ、人って案外一人じゃなにもできない生き物なんだよな。きっと。麻里子が言うように人の精神には波があるから、震災でも、カトナウイルスでもなんでもいいけど、とても大きななんかがあると、簡単に沈んだり浮かび上がったりすると思うんだよ」

「…そりゃ、そうでしょうね」

「だから、このベッドが海だとしたらさ、俺と麻里子はそこにプカプカ浮かんでいるのが現在なわけだよね」

「ウォーターベッドってことね」

「…まあ、なんでもいいけどさ。…そこでさ、俺の精神に波が来て、俺一人だと沈んでいく状況にあるとするじゃん?…でもこうして麻里子と手を繋いでいたら、アップアップしながらもさ、なんとか沈まなくてもするような気がするんだよね。それは逆の立場でも同じでさ。…麻里子もそう思わない?」

「確かにそうだけど、…どっちかが、どっちかに引っ張られて、ふたり一緒に沈んでいく可能性もあるよ」

「…それでもいいって、思えるふたりだけが手って繋ぐような気がしない?なんか、感覚的な話になっちゃうんだけど」

「………確かに、手ってあんまり繋がないよね。わたしえっちはいっぱいしてるのに手は繋いだことないよ……そーいえばそうだね」

「だから、俺と麻里子が手を繋いでるってのは、もしかすると、…えっちするとか以上にふたりが繋がっていることの証明なのかもしんないよね」

「…なるほどねー。言ってることはなんとなく分かる」

「って話。…つまんない?この話?」

「いやいや、…客観的に考えたらつまんないのかもしんないけど、わたしはわりと面白いよ」

「良かった。…それでさ、人はなんで、10年後とか、人間以外の動物は考えないようなことを考えてしまうのか、って話に戻るんだけど、何でだと思う?」

「普通に脳みそが大きいからなんじゃないの?」

「確かに、そういう部分もあるかもしれないけど、脳の大きさと賢さっていうのは必ずしもイコールじゃなくてさ、脳が大きい生物ほど、絶滅しやすいってことを言ってる外国の学者さんなんかもいるわけで、…つまり何が言いたいのかっていうと、…これがまた、俺自身もよく分かってないことなんだけど、聞いてくれる?」

「仁川くんじゃなかったら、絶対に聞かないでもう寝るけど、仁川くんだから、仕方ないから聞いてあげる」と言って、麻里子は悟の右手をぎゅーっと力を込めて握り直した。

「あはは、ありがとう。…結局のところ<分かんないから>なんだと思うんだ」

「…は?聞いて損した」

「いやいや、簡単に失望しないでよ。いや、つまり、あのね、分かんないってことが分かってるってのはこれは意外とすごいことのような気がするって、話でね。…いるじゃん?なんでも分かってます。みたいな感じでなんか言ってる人。学者さんでも、先生でも、コメンテーターでも、医者でも、弁護士でもなんでもいいけど、そういう頭が良い系の人達」

「ああ、いるよね。テレビなんかにはうじゃうじゃいるよ。虫みたいにさぁ」

「でも、そういう人達が何を分かってるかっていったら、やっぱりそれは、分かってることしか、分かってないんだよ」

「そりゃ、そうだろうね」

「でも、それって俺たちと何が違うの?って思うんだよ。それよりも大事なことってあるだろ?って俺は思うんだよ。例えば、それが<誰も分かんない10年後を考える>ってことだと俺は思うんだよね」

「…なるほどねぇ。でも、その<誰も分かんない10年後>ってのはどうやって考えたらいいの?…結局のところ、分かんないわけでしょ?占い師でもない限り」

「そう。…全然分かんない。でも、だからこそ、自分の好きなような未来を考えて、その未来の自分を肯定してあげたらいいんじゃないかな?って俺は思うんだよ。日本はこれから、どんどん貧しくなっていくだろうし、どんどん暗いニュースばっかりになっていくとは思うんだけど、それは、国全体の話でさ。俺とか麻里子は、俺とか麻里子が想像した未来の自分に向かってバカみたいに突っ走ってっていいんじゃないか?と思うんだよ。どー考えたって、俺とか麻里子が日本ていう大きなものを背負えるわけじゃないんだし」

「…仁川くんって、そんなに前向きな人だったっけ?」

「俺はそんなに前向きな人間じゃなかったよ。…麻里子が俺を変えちゃったんだよ」

「あはは、…仁川くんが臭いこと言い始めたので麻里子はもう寝ま~す」

「…そうだね。ちょっと、俺、喋りすぎたな。…麻里子、いろいろとありがとうな」

「…仁川くんなんて大っ嫌い」

「なんだよ、それ。」

「優子が間違って出てこないように、定期的に言うことにしたの」

「ははは、優子対策か。…あ、そういえば、今の麻里子の言葉で思い出したんだけど、又吉さんの『火花』、面白かったよ」

「何ヵ月前の話してんのよ。…バーカ」

それだけ言うと麻里子は本当に眠ってしまった。

悟も寝ることにした。麻里子の手を握りしめたまま。


「告白」


世界地図を広げたら

それが世界じゃないことが

僕の頭にピンときた


今日の僕が、誰かを殺めたりなんかできないと思っていたとしても、

明日の僕が、誰かを殺めていないと言いきることがだろうか?


兄妹よ。兄弟よ。姉弟よ。姉妹よ。

どうか、殺さないでくれ。


僕にも危うい日はあったのだ。

実の兄に包丁を突きつけてしまうような、愚かな愚かな一日が。


どうか、殺さないでおくれ。

それは、誰のためでもないのだから。

僕が告白した愚かさを礎に

どうか、立派な人物であっておくれ。


本当に頭が良いということは

誰かに優しくできるということなのだから。


I'm sorry to bother you.

煩わせちゃってごめんよ

I and you stared under the camphor tree.

僕と君は楠木の下で見つめ合った

And finally I found something.

そして、やっと、なにかを見つけた


作 朗咲 新太朗 <ダールとヘンリー>より



悟と麻里子が公園のベンチに並んで座っている。

「ねぇ、仁川くん。10年前の今日、10年後の話をしてたこと覚えてる?」

「あー、もう、10年経ってしまったのかぁ。…

時が流れるのは早いねぇ。…もちろん覚えてるよ」

「あれからわたしは、小説家になって、仁川くんは未だにアルバイトを転々として、時にはプー太郎になったりして、ダメダメっちゃ、ダメダメだけど、それでも、なんとかやってこれてるっては、やっぱり、10年前のあの日があったからのような気がわたし自身してるんだよねぇ。…だから、お礼を言おうと思ってさ。…ありがとね、仁川くん。」

「あはは、とんでもないよ。…でも、俺の提唱した<ベッド=海理論>は当たってただろ?」

「そんな名前の理論だったんだ。知らなかったよ。…でも、まぁ、当たってたかな。」

「大洋も三年前に生まれてきてからは、すっかり、俺たちパパとママになっちゃったなぁ」

「そうだね。10年前はわたしがママになるなんて思ってもいなかったよ」

「うん。…あれから、俺はいっぱい解離性同一性障害の本を読んで、なんとか、治したいと思ったけど、やっぱり、そんなに上手くはいかなかった部分もあるから、それは、俺の力不足でしかないから、申し訳ないと思ってる」

「ううん。それはいいの。愛華も、優子も、そんなに悪い子じゃないから。いなくなったら、寂しい気もするし。…仁川くんが、受けとめてくれるから、安心してられるしさ」

「俺は何にもしてないのと同然だよ。麻里子が麻里子の力で乗り越えていったんだよ。小説を書いて、みんなに読んでもらえるようになったのも、めっちゃすごいことだしさ」

「そうかな?わたしはそれすらも、仁川くんのお陰のような気がしてるんだけどなぁ」

「…じゃあ、そういうことにさせてもらっとこうかな」

「あはは、受け入れたゃったよ。…ねぇ、仁川くん。10年前の10年後は今日やってきちゃったわけだけど、今日からの10年後はどうなっていたいとかあったりするの?」

「今日からの10年後かぁ。そうだなぁ………」

悟が考えていると、すべり台で遊んでいた大洋がこちらに全速力で走ってきた。

「とーちゃん、かーちゃん、あそこにでっかいカマキリがいたぞ!」

「おー、そうか、それがどうかしたか?」

「…とーちゃんはつまんねぇ男だな。かーちゃん!あそこにでっかいカマキリがいたぞ!」

「良かったわね。カマキリさんも大洋と遊びたくて出て来たのね。きっと。」

「…でも、かーちゃん、あいつなんか怖くねぇか?目とか、手とか」

「そうかしら?わたしは可愛いと思うけどねぇ。」

「…オレも可愛いと思ってた!…かーちゃん、好きぃ」

麻里子の足に犬のようにしがみついた大洋に、軽いジェラシーを覚える悟。

「大洋はほんとにガキだなぁ、俺が3歳のころはもっと、立派に自立してたぞ」

「うそだぁ!かーちゃんがとーちゃんはプー太郎って言ってたぞ!プー太郎はダメな大人のことだって、かーちゃんが言ってたぞ!」

悟は麻里子をキッと睨むが、麻里子はそんな視線は気にも止めずに大洋の頭を撫で撫でしている。

「もー、大洋、それはお父さんには言っちゃダメって教えたでしょ~。もー、メッ!」とか言って、平和に母子で戯れている。

我が家でそんな、父親の威厳が保たれないような質の悪い教育がなされていることに悟は愕然とした。

「…麻里子、酷くないか?さっきまで、今の自分があるのは俺のお陰のだって言ってたじゃないか。それがなんだ、大洋の前で俺のことをそんな風に言ってるなんて…」悟は、すがるような目で麻里子を見つめる。

「わたしのことと、大洋の教育のことは全くの別問題なの。大洋があなたみたいな大人になってもらっちゃ困るもの。あなたは大洋の反面教師なのよ」

「…麻里子は俺と大洋のどっちが大切なんだ?」

「うーん。…6対4で大洋の勝ちかなぁ?」

「聞くんじゃなかったよ」

「わたしって正直なのよ。ごめんね」

「俺は10対0で麻里子の勝ちなのに」

「あなたってほんとに最低な父親ね」

「とーちゃんサイテー!とーちゃんサイテー!」

憎たらしい顔で大洋が悟に暴言を吐きつけている。

麻里子は大洋の前では悟のことを<あなた>と呼ぶ。


「somebody voice」


君が孤独であることは

無意味なことではないだろう


僕がバカであることは

幸せなことでもあるだろう


あなたが泣いていることは

誰かのためでもあるだろう


そんな世界を愛せた日には

きれいな花が咲くだろう


You should look for something important.

(大事なものを探してごらんよ)

It shouldn't be a world you can't find.

(見つからない世界じゃないはずだ)


作 朗咲 新太朗 <誰でもいいのさ?>より



悟が夜更けに目が覚めると、ベッドに麻里子はおらず、大洋が ヨダレを垂らして眠っていた。

悟は小説を書いているであろう麻里子のために台所でハーブティーを作った。

悟は麻里子の仕事部屋の前に行ってドアをノックした。

「入っていいかな?」

「どーぞー」

「小説書きは順調ですか?」

「まぁ、自分の書けることの限界と、毎度毎度、格闘している感じですかね?」

「僕も今度小説を書いてみようかなぁ?」

「バーカ」

「そんな単純な悪口あるかな?」

麻里子の座る椅子がくるっと回ってこっちに向いた。

「わたしの<バカ>は愛してるって意味なの」

「じゃあ、そう言ってくれたらいいのに」

麻里子の机にハーブティーを乗せる悟。

「俺はこんなことしか、できないけどさ」

「仁川くん。…2年前に一緒に行った、ムンク展覚えてる?」

「ああ、もちろん覚えているよ。一番、最初に飾られてた<地獄の自画像>、あれはすごい迫力だったね。やっぱり、本物の迫力というかさ。黄緑の部屋のシリーズもすごかったし、マドンナとか、オースゴールストラン時代に描いた絵なんかもすごかったね。浜辺の人魚とかも確かあったよね?」

「…わたしがムンクが好きだから、一緒に付いて来てくれたよね。ありがとう」

「どうしたんだい、急に。俺は麻里子ほど詳しくはないけど、ムンクの絵好きだから、楽しかったよ。」

「仁川くんは、なんでわたしなんかのことを好きになったの?」

「うーん。<わたしなんか>ってのが気に入らないなぁ。俺は麻里子が麻里子だから好きになったのにさぁ」

「わたしを捨てようと思ったこと、一度もない?」

「…耳がいたいなぁ。そりゃあ、一回逃げ出したことはあるけど、それだって、麻里子が嫌いになったから逃げ出したわけじゃなくて、俺が卑怯で、弱虫だったからなわけで。…ほんとにごめんよ。あの頃の俺は今以上にクズだったんだよ」

「それは、もういいの。それ以降には一回もない?」

「それはないよ。誓ってもいい」

「わたしのこと愛してる?」

「そりゃあ、もちろん、…でもなんか照れくさいや」

「…言えないんだ」

「愛してる。愛してるよ。お願いだから、そんな顔しないでくれよ」

「…わたしたちって、知らない間に大人になって、知らない間に親になって、何にも変わってないようで、色んなことが変わっていってて、いっつもその変化に振り回されっぱなしで、それでも大人っていえるのかな?」

「…誰しも、子どものままでいつづけることはできないんだよ。どんなに心の中に子どもの部分を残していたって。でもそれを受けとめつづけているうちに、少しづつだけど、大人になっていくんじゃないかな?18歳になったから大人ですってのは、それは一応の定義でしかなくてさ」

「…そうかもね。仁川くんはいつもわたしの疑問に答えてくれるね」

「俺は俺の意見を言ってるだけで、世間的に見たら間違いだらけな気がするけどね」

「仁川くんは、わたしの小説を面白いと思う?」

「麻里子はいくつもの有名な童話賞や、文学賞をとってもまだ、そんなことで悩むんだね。不思議だなぁ」

「世間的な評価なんて、どうでもいいのよ。わたしの世界は仁川くんを中心に回っているんだもの」

「俺も10年前から同じことを麻里子に対して思ってたんだよ…お互いに自分は相手の衛星だと思ってたわけだ。これは面白いね」

「わたしたちって似た者同士なのかな?」

「似てきたみたいな部分もあるかもね。よく歌の歌詞とかでもあるけどさ」

「わたしは、仁川くんと一緒にいられてとっても幸せだけど、仁川くんもわたしといられて幸せ?」

「確認なんて必要ないよね?」



悟が入れたハーブティーを飲んで、小説も一区切りついた麻里子と悟は、大洋が一人占めしているベッドに戻って寝ることにした。

布団に入って麻里子と悟は久しぶりに手を繋いだ。

「…ねぇ、麻里子。10年なんて、あっという間だったろう?これからの10年だってきっとあっという間に過ぎてくと思うんだ。」

「…ほんとに、あっという間過ぎるから怖くなるくらいなの。」

「でも、この10年って、そんなに悪い10年じゃなかったろう?」

「幸せすぎて、怖いくらいに幸せだったわ」

「それは本当に、本当に奇跡的なことなんだよ。きっと。」

「…そうね」

「麻里子。俺はすごい、麻里子に感謝してる。これまでも、これからも、ずっと。それだけを麻里子が忘れないでいてくれたら、俺たちは、ずっと、ずっと、大丈夫な気がしてるんだ。…そろそろ寝ようか?」

「うん、分かった」

麻里子は悟の手をぎゅーっと握ってきた。

そして、悟の耳元で小さく”大好き”と言った。

悟は、初めて言われた”大好き”という言葉に動揺して、麻里子のほうを見ると、麻里子は顔を見せないように悟のいる方と反対の側を向いてしまっていた。

悟は”俺も”と天井を向いて呟いたが、その声を麻里子が聞いていたかは分からない。でもそれでもいいのだ。

悟は自分の役割を思い出していた。その役割とはただ、ひとつだけ。


ただ、隣で眠るだけ。


End












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