表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

生きる、そして生かされる

作者: ゆとそま

第一章 謎


「僕は、なぜ生きているんだろう。」


この二十四年間、そんなことばかり考えていた。いや、正確に言えば二十一年間か…。


僕は産まれた時からずっと施設で育ってきた。物心がつくのが三歳前後だからなのかはわからないが、三歳以前の記憶が僕にはない。そんな幼い頃の記憶がないのは当然だ、という思いもあり、特に記憶がないことは気にしてこなかった。いつだったかテレビで見たが、産まれた時からの記憶がある、という天才少年がいたが、そんなものは本当かどうかわからない。おそらく、この世の中で三歳以前の記憶を気にしてる人というのは極稀な人だろう。

さらに、僕は本当の誕生日がわからない。本当の名前もだ。身分証明書として免許証や保険証など持ってはいるが、それが本当に僕なのかがわからない。ただ、僕が僕としての身分を与えられた日のこと、三歳なんだなと自覚した日の事は鮮明に覚えている。

「君の名前は、桜井輝彦(さくらい てるひこ)だ。誕生日は五月一日。そう、今日なんだよ。今日で君は三歳だ。さぁ、あっちで一緒にケーキを食べよう。」

そう言ったのは、当時僕が育った施設の職員だった福島さんだ。この日から僕の名前は桜井輝彦になり、誕生日は五月一日になった。

それから僕は、小・中・高と、無難な人生を歩いてきた。特に「施設で育っている」というコンプレックスは無かったが、なぜか人と接するのが嫌いだった。というよりも、人に対しても物に対しても興味が湧かないのだ。今でこそ二十四歳の大人になり、社会で生きていくうえでの最低限のコミュニケーションはとるが、学生の頃はほとんど一人でいた。施設の中でも福島さん以外とはほとんど関わりを持たなかった。そんな僕でも、二つ気になる事があった。それは、なぜ僕は施設に預けられるようになったのか、と、お腹にある「大きな傷跡」だ。中学生の頃、その二つの事について福島さんに聞いてみた。福島さんは神妙な面持ちになり、答えた。

「輝彦が産まれて間もない頃にな、お前とお前の両親は交通事故にあったんだ。お前は奇跡的に助かったが、両親はダメだった…。元々お前の両親とは知人で、よく酒を飲みに行ったり、旅行に行ったりしていたんだ。もちろん、施設はいくらでもあるんだが、輝彦の両親の息子ということであれば、ぜひ俺が面倒を見たいと思った。だからお前は今ここの施設にいるんだ。」

そう言って福島さんは逃げるようにタバコを吸いに外へ出た。神妙な面持ちの裏に何か隠してる雰囲気を感じたが、施設にいる子供達はみんなそうだろう。なにせ、親と離ればなれに暮らしているのだ。人に対して疑心暗鬼になっても不思議ではない。ましてやそれが自分が施設に預けられた理由であれば尚更疑ってかかるだろう。僕はそう思うのと同時に「ありきたりな理由だな…」と少し肩透かしを食らった気分になった。お腹の傷の事は言っていなかったが、おそらく手術の跡か事故の時にできた傷の跡か、そんなところだろう。これ以降、僕はこの件については二度と聞かなかった。


僕は今、市役所で勤めている。無難な僕の就職先としては最も適している就職先だ。何か法でも犯さない限り食いっぱぐれる事はない。市役所といっても様々な部署があり、僕が配属されている部署は生活保護費を支給する部署だ。最初配属先を聞いたときには、来庁者が多いだろうなぁ…と想像し、人と接するのが嫌いな僕にとっては憂鬱極まりない部署だ、とかなり落ち込んだが、実際に来庁者の対応をするのは専門の職種の職員がやってくれるので、事務職として採用された僕は滅多に人と接する事はなかった。

生活保護費を受給する人には、色々な人がいる。病気などが理由で働けない人、母子家庭の人、そもそも働く気がない人。専門職の職員は、それぞれの人に寄り添って、一生懸命就職を促したり、相談に乗ったりしている。人に対して興味がない僕にとって、それは考えられない行動であり、つくづく事務職で良かったと思い知らされる。

ある日、昼食をとるために商店街を歩いていると、今朝生活保護費を受給しに来た中年男性が目の前を歩いていた。直接接点が無いとはいえ、顔を覚えてられたら面倒くさいので、気付かれないようにその中年男性の後ろをノロノロ歩いていると、その中年男性はパチンコ屋に入って行った。その中年男性が受給したお金で何をしようが中年男性の自由だ。その結果、この先どうなろうが僕の知った事ではない。そもそも僕は人に興味が無いのだ。考えるだけ時間の無駄だし、考えたところでどうにもならないし、どうにかする気もない。そう思いながら定食屋に入ったのだが、なぜかその中年男性の事が頭から離れない。あの人は何のために生きているのだろう。働きもせず、国からお金を貰いパチンコに行く。パソコンが楽しいから生きているのか?本当は死にたいけど死ねないだけ?こんな事が頭をグルグルと駆けめぐるのだ。そして、最終的に、僕はなぜ生きているのか?と考え始める。

大体そうなのだ。これまでもそうだった。人に興味がないくせに、他人の行動や理不尽な要求、そういったものを目の前に突き付けられた時、必ず自分の生きる意味を考える。そして、その考えが頂点に達すると、僕は死のうと思うのだ。僕が死んでも誰も悲しまない。誰にも迷惑をかけない。ひっそりと静かに誰にも見つからないように、死にたいのだ。これまでも何度も自殺を試みた。リストカット、首吊り、薬、飛び降り。ただ、どれもこれも試みただけだ。実践はしていない。決して怖いわけではないのだ。実際に飛び降り自殺を試みた時にはビルの屋上まで行った。そして、冷たく固い柵を乗り越え淵に立った時、恐怖よりも救われる思いの方が強かったのだ。ではなぜ実践できないのか。それは記憶が甦るからだ。あるはずのない、三歳の時よりも以前の記憶。それは極々一般的な家庭の幸せな温かい記憶。両親に愛され、ご飯を一緒に食べ、お風呂に入り、両親と同じ布団で眠る。そんな記憶が頭中を駆け巡り涙が止まらなくなる。体の力は抜け、その場に座り込みひたすら涙を流す。そして、ふと我に返り、自殺をやめるのだ。もしかしたら両親に愛されたいと深層心理では思っていて、その妄想が「死」という極限状態に向かおうとする時に頭の中で駆け巡るのかな?と思っていたが、自殺を実践する直前以外は絶対に思い出せないのだ。確かにあの時頭の中を駆け巡った両親と思われる人の顔も、ご飯のメニューも、お風呂の形も色も、布団の暖かさも何もかも。この記憶は何なのだ?なぜ僕の死を邪魔する?そもそも、僕が産まれてすぐに両親は死んだはずだ。この謎が解けない限り、僕は死ぬ事ができない。

「お客さん、食べないなら下げちゃうよ?」

定食屋の店主の声に我に返った。ここが定食屋でなければ僕はまた自殺を試みただろう。幸か不幸かはわからないが、とりあえずここは定食屋だ。僕は冷めきった定食をたいらげて、急いで職場に戻った。


「今日は飲みに行くぞ。たまにはお前も付き合え。」

職場に戻ると同僚の松本から声をかけられた。

「いや、今日は予定あるからやめとくわ。」

当然こう答える。人嫌いな僕にとって、飲み会ほど時間の無駄なイベントはない。これまでも、一度も飲み会には参加した事がない。

「そんな事言うなよ!今日の飲み会は特別なんだ。佳菜子ちゃんが結婚するんだってよ。同僚の結婚祝いの時ぐらい顔出せよ。」

渡辺佳菜子。同じ職場の同僚だ。僕の人嫌いは異性とて例外はない。もちろん、この二十四年間恋人がいた事はないし、そもそも性欲というものが無い。おそらく僕は欠陥人間なのだ。これもまた、死にたくなる原因の1つでもある。

「いや、だから予定があるんだって。」

「結婚だぞ!?結婚!そのお祝い以上に大事な予定なんてないだろ!」

松本は少し声を荒げた。こういう所も人の面倒くさい所だ。なぜ他人のためにこんなに感情的になるのか。そもそも結婚をめでたい事だと僕は全く思わない。ただでさえ人と関わるのが苦痛なのに、結婚して一生他人と生活していくなど何がめでたいのか。

「え~、桜井さんも飲み会来てくれるんですかぁ?」

渡辺が甘ったるく人懐っこい話し方で声をかけてきた。

「いや…予定があるから。」

「こいつ、全然ダメなんだよ!せっかく佳菜子ちゃんの結婚祝いだっていうのに。もうこんな奴放っといてあっちで店でも決めよう!」

松本はそう言って給湯室の方に渡辺を連れていった。正直、ホッとした。どんなにひどい罵声を浴びさせられようが、飲み会に行かないで済むならそれで良い。僕は自分のデスクに戻り、仕事に取りかかろうとしたが、胸の中にモヤモヤが残っていた。それは飲み会を断り罵声を浴びせられた事ではなく、定食屋で考えていた事だった。


その日の夜、僕は結局飲み会に参加した。理由は罵声を浴びせられたからではなく、怖かったからだ。午後の勤務時間中、定食屋での事が頭から離れなかった。おそらくその状態で家に帰り一人になれば、僕は自殺を試みるだろう。ただ、死ぬ事が怖い訳ではない。むしろ、死ねるならその方が良い。本当に怖いのは、あの記憶が駆け巡る事だ。見た事もない知らない大人の男と大人の女とその子供。その三人が幸せそうに家族を演じている。僕からすれば記憶とはいえテレビドラマを見ているようなものだ。ただ、そのテレビドラマは僕の頭の中でリアルに駆け巡り、あたかも僕がその家族の一員と錯覚させる。そして、我に返る頃には幸せな感情から一気にドン底の恐怖心へ突き落とすのだ。それが死ぬ事よりも何よりも怖い。飲み会に参加すれば少なくともそこは居酒屋で、僕が自殺をしようとすれば誰かが止めるだろう。それに、お酒には弱いので酔っぱらってしまえば帰ってから余計な事を考えずに眠る事ができる。

「それでは佳菜子ちゃん、結婚、おめでとう!!!!」

松本がバカでかい声で乾杯をする。本当にうるさい男だ。

「いやー、佳菜子ちゃん結婚しちゃって寂しいよ。俺、密かに狙ってたんだけどな~。」

他の男連中も渡辺にゴマを摩っている。そんな男連中を見て渡辺はまんざらでもない様子だ。くだらない。結婚が決まってるのにちやほやされて喜ぶ女、結婚が決まってる女にゴマを摩る男、このやり取りに何の意味がある?あわよくば、など狙っているのか?僕は話を聞いてるふりをして、お酒を飲むペースを上げた。まぁ昼間の事を考えるよりはこのみっともない男女のやり取りを評論している方が気が楽だ。居酒屋にはテレビが設置されていて、隣の客が放送されている野球中継を見ながら一喜一憂して騒いでいた。僕は「うるさいな」と思いながらテレビに目をやった。その時だった。野球中継からニュースに突然切り替わった。またどこかで地震でも起きたか?と思ってテレビから目を切り、くだらない男女のやり取りに耳を傾けたが、ニュースの内容が耳に入ってきた。

「臨時ニュースです。午後七時半頃、◯◯で通り魔事件が発生しました。被害者は現在確認できてる中で重軽傷者あわせて5名との事です。犯人と思われる男は突然ナイフのような刃物で無差別に殺傷行為を起こしたと見られており、現在、警察が行方を追っています。」

心臓が跳ね上がった。


通り魔事件…?


気がつくと手は震え冷たくなり、冷や汗と吐き気、目眩が急に襲ってくる。

「あ~、またこういう事件かぁ。怖いなぁ~。」

渡辺が呑気に甘ったるく言っているが、その声を聞いて僕の心臓が張り裂けそうに鼓動し始める。

「桜井?どうした?顔色悪いぞ?」

松本が声をかけてきた。答える余裕もなく、僕はトイレに駆け込んで、その場でへたり込んだ。体の震えが止まらない。心臓が胸を突き破って出てきそうだ。目の前がぐわんぐわん歪んで見える。お酒を飲み過ぎたか?それにしたってこの症状はおかしくないか?俺、このまま死ぬのか?でもおかしいな、死ぬならあの記憶が頭を駆け巡っても良いのに、何も甦ってこない。ダメだ。考えるのも辛い。僕はそのまま目を閉じた。


「・・い・・・らい・・・・・桜井!!」

松本の声だ。ここはどこだ?何があった?そう思って辺りを見渡す。

「お前、大丈夫か?飲み過ぎたんじゃねぇか?」

そうだ、ここは居酒屋のトイレだ。何でここにいるんだっけ?あ、あのニュースを見てからだ。色々と状況が把握できてくる。

「おま・・小便もらしたのか?」

松本がニヤニヤしながら馬鹿な事を言っているので床を見ると、確かに濡れている。しかし、ズボンは濡れていないし嘔吐した形跡もない。とりあえず立ち上がってみようと体を動かすと、シャツがべっちょりと体に張り付く。まるでシャツを着たまま海に入った時のようだ。鏡を見ると髪の毛もびしょびしょに濡れている。という事は、床が濡れているのは俺の汗か…?こんなに…?

「無理矢理誘って悪かったな。金は良いから今日はお前帰れ。」

松本が言った。確かにこのまま飲み会の席にいるのは辛いので帰る事にした。昼間の定食屋での事、夜の居酒屋での事、僕の頭の中は大混乱だった。まだ足下がフラフラする。とりあえず水を買って、道路の縁石に腰を下ろした。トイレで座り込んでいたのだから、汚さも気にならなかった。考えようにも何を考えて良いのかわからない。ただただ時間だけが過ぎ、次第にまた自殺の事が頭をよぎる。その時、ふと思い出した。以前にも同じ様な事があったのだ。あれは家にいる時、テレビをつけたまま何気なく横になっていた時に通り魔事件の臨時ニュースが放送されたのだ。その時僕は、手足が震え、冷や汗をかき、吐き気と目眩からその場から動けなくなった。その後どうなったか記憶が曖昧だが、その症状だけは覚えている。今回と類似した症状だ。その時は、あまりに理不尽で凶悪な事件なだけに、ショックが大きかったのだろう、と勝手に解釈していたが、考えてみればそれ以降も同様の凶悪事件のニュースや災害など、理不尽に人が傷つけられるニュースは何度も目にしている。しかし、その時は「可哀想に…」と思うぐらいで、体は何も反応しない。通り魔事件のニュースだけ、体が過剰に反応するのだ。


なんで…?


僕の中で、また1つ、謎が生まれた。





第二章 キーワード


その日は仕事がいつになく慌ただしかった。なぜなら、専門職の職員が立て続けにインフルエンザに感染したからだ。基本的に生活保護の相談者は担当制になっており、既に生活保護者として登録されている人は「担当が不在なので別の日にいらしてください。」で問題ないのだが、新規の相談者に対してはそうはいかない。職員の人数が少ないから、という理由で追い返してはクレームの嵐になるだけだ。なので、職員総出での対応となった。もちろん、具体的な相談については専門職の職員でなければ対応できないが、それまでの「繋ぎ」は事務職の職員も駆り出された。僕も例外ではなく、「相談者の方を相談室に案内して。その後は私達専門職が行くまで一人にしないように一緒に相談室で待機してて。」と指示を受け、対応せざるを得なくなった。せっかく人と接しなくて良い職場だったのに…と内心苛立ちながら、何人かの新規相談者の「繋ぎ」をした。午前中の段階で僕はもうヘロヘロだった。ただでさえ相談者は緊張していたり、精神的に不安定だったりと、まともにコミュニケーションが取れる状態ではない人が多い。そのような人達の相手など僕が勤まるわけもなく、待機中は基本的に沈黙だった。その沈黙の居心地の悪さったらない。これならまだ飲み会の方がマシに思えてくる。午後も同じ事をするのか…と思うと憂鬱で昼食も喉を通らなかった。

「次の方、こちらでお待ちくださいね。桜井さん、ご案内して。」

さっそく来た。僕はふぅ~とため息をつき、「こちらへどうぞ」と相談室に案内した。その相談者は目が見えるか見えないかぐらい髪が長く、無精髭に白髪が混ざっている男で、午前中に対応したどの相談者よりも異質な雰囲気を放っていた。こう言っては悪いが、過去に何人か殺してる?と思わせるような不気味な雰囲気だ。これは午後一番から最大級に神経を使う沈黙になるな、と覚悟を決めて相談室に二人で入り、イスに座って待機した。何分経っただろうか。そろそろ僕の精神力も限界に近づいてきたとき、男が何かを話始めた。

「・・・なんです。」

「え?」

まさか話をする人とは思っていなかった事と、あまりの声の小ささに何も聞き取れなかった。

「何かおっしゃりました?」

無視をしても良かったんだが、何かされても困るしクレームになってもやっかいなので、とりあえず聞き返してみた。

「私、病気なんです。」

「はぁ、どのような病気ですか?」

相談者が病気なのはよくある事なので、とりあえずマニュアル染みた返答をした。

「PTSDです。」

聞いたことはある。過去のショッキングな出来事が原因で発症する精神疾患だ。

「そうですか。何か過去にお辛い事があったのですか?」

沈黙よりはマシ、と思って特に興味はないが聞いてみた。そして、耳を疑った。

「刺されたんです。道を歩いてたら突然。」

「は?」

「ですから、刺されたんです。通り魔です。」

一気に体に緊張が走った。刺された?通り魔?この人が?なんで?いつ?色々な疑問が頭に浮かぶ。整理ができない。明らかに頭が混乱している。

「えっと…え…えっ…えっと…」

僕が動揺してると、男は続けた。

「こう見えても私、昔は大企業でバリバリ働いていたんです。それが3年前の出勤途中、いきなり後ろから刺されました。気がついたら地面に倒れていて、自分の血が流れてるのが見えたんです。」

そう話ながら男は震えていた。そして、僕も震えていた。

「あ、あの…もう、お話されなくて結構ですから…」

今度は僕の方が声が小さくなっていた。男は聞こえなかったのか、まだ話を続ける。

「なんとか生きてました。でもね、もう怖くて道を歩けないんですよ。道路に立っただけで体が震える。道行く人が全員凶悪犯に見える。こんなんじゃ出勤できませんよね。当然、会社も辞めました。それで今はなんとか外に出れるようになったのですが、必ず、一日に一回思い出す時があるんです。いつだかわかります?」

男は初めて僕の目を見た。

「さ………さぁ?……」

僕はまたあの症状に襲われていた。声が出せたのが奇跡なぐらいだ。

「風呂に入る時ですよ。当然、風呂に入る時は裸になるじゃないですか。そうするとね、自然とお腹の傷跡に目がいくんですよ。見ます?傷跡。」

男はそう言ってシャツを捲り上げようとした。僕は半分発狂するかのように「やめてくれ!!」と叫んだが、遅かった。男のお腹にはくっきりと大きな傷跡があり、今にも血が流れてきそうだった。僕はそれをうかつにもしっかりと見てしまい、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


目を覚ますと、そこは病院だったという放しは色々な物語に出てくる。僕はその度に「目を覚ました瞬間によく病院だなんてわかるな」と疑問に思っていたのだが、人間の五感というのは優秀だ。僕が目を覚ますと、まずは見たことのない天井が見えた。当然それだけではここがどこだかわからないが、次に病院独特の消毒の匂いがしてくる。そして僕は色々な物語と同様にに「ここは病院か」と思った。

「お、目を覚ましたか。」

声がする方へ目をやると、松本が座っていた。どうやら付き添ってくれてたみたいだ。

「驚いたぞ。いきなり叫び声が聞こえて相談室に行ったらお前が倒れていたんだ。一体、何があったんだ?」

何があったんだっけ?あの相談室での出来事が思い出せない。でも、何かが引っ掛かっている。なんだっけ?僕が黙っていると松本が話始めた。

「お前が倒れていた事にも驚いたが、相談者の人も頭を抱えて震えながらしゃがみ込んでいたんだ。今その相談者に事情を聴いているところだけど、お前が何かされたんじゃないか、って心配したんだぜ?まぁ医者の話だと特に外傷はないから失神しただけだろう、と言っていたがな。ただ、胸を倒れたときにぶつけたらしい。大丈夫か?」

そういえば胸が少しズキズキと痛む。そんな事よりどんな相談者と話していたんだっけ?なんで僕は失神したんだ?ダメだ、何も思い出せない。

「お、職場から電話だ。ちょっと話してくる。」

そう言って松本は病室から出ていった。僕はぼんやりした頭の中で思いだそうと必死になった。今まで失神した事がないと言えば嘘になるかもしれない。自殺を試みようとする度に頭を駆け巡る温かい記憶、その瞬間はおそらく失神しているのと同じ状態だろう。なにせ、体も動かなければ周りの景色も消えてしまう。その記憶の世界に入り込んでしまうのだ。そして気が付けば号泣している。ただ、それ以前の記憶が無くなった事は一度もない。どのような方法で自殺を試みたかも鮮明に覚えているし、そうなった理由もはっきりと覚えている。今回、記憶が無くなるほどの失神をしたというのは余程の出来事があったのだろう。しかし、それ以上に気になっている事がある。それは目を覚ましたか時からずっと引っ掛かっている事だ。もしかしたらそれが失神の原因かもしれない。いや、それとはまた別で、それ以上の何かを感じる。なんだ?僕は一体何をされたんだ?そうこうしている内に松本が戻ってきた。

「相談者が事情を話してくれたみたいだ。どうやら彼はPTSDだったらしいな。三年前に通り魔に刺されたんだって?その傷跡をお前に見せた瞬間、お前は叫んで倒れたらしい。彼は彼で倒れたお前を見て、パニックになったそうだ。」

・・・!そうだ、思い出した。髪の長い無精髭の男と話をしていたんだ。それで通り魔事件の話を聞いていつもの症状が僕を襲ったのだ。しかし、まさかそれで失神してしまうとは。記憶は甦った。でもなぜだろう、引っ掛かっているものが取れない。まだ思い出せない事がある。

「その相談者が言ってたのはそれだけか?」

松本に聞いてみた。

「ああ。」

「そうか・・・。」

「それにしたってお前、傷跡を見たぐらいで失神するなよ。確かに気分の良いものではないがな。今までだってそんな傷跡、散々見てきただろ?」

松本はおどけた感じで言った。確かにそうなのだ。今回のように仕事で「繋ぎ」の役割をするのは初めてではない。その時に「自分は病気で仕事ができない。この前も大きな手術をしたんだ」とまるで病気の証拠です、と言わんばかりに手術の傷跡を見せてくる人はいる。僕はそんな人を何度か見てきた。

「そういえばお前、この前も倒れたよな?居酒屋で。確かあの時は・・・そうだ、通り魔事件の臨時ニュースが流れた時だった。何か通り魔事件と関係があるのか?」

僕はまた少し、気分が悪くなってきた。

「ごめん松本。ちょっとその話はしないでもらえないか。」

「・・・そ、そうだな。すまん。」

珍しいな。常にうるさい松本のような男でも、こんな神妙な顔をする時があるのか。少し気まずい空気になったが、それを振り払うかのように松本はいつものうるさい声で話始めた。

「あー、そういえば、お前一日入院するらしいぞ?一応、ただの失神とはいえ原因がわからないから念のため検査をするらしい。その格好じゃ窮屈だろ?何か服でも買ってこようか?」

そうか。僕は職場からそのまま搬送されたから、まだスーツのままだった。確かに窮屈ではあるが、正直、早く一人になりたかった。ただでさえこの元気な男と会話をするのは疲れるのに、今の僕の混乱状態ではとてもじゃないが対応しきれない。

「いや、一日の入院なら大丈夫だ。病院服もあるし。お前はもう職場に戻ってくれ。付き添い、ありがとな。」

僕はそう言って横を向き、松本に背を向けた。

「そ、そうか。まぁ職場には俺の方から言っておくからゆっくり休めよ!」

そう言って松本は病室から出ていった。僕は溜め息をつき、仰向けに戻った。さて、何から考えようか。とりあえず、頭の中を整理しないとダメだなと思った。松本の言う通り、僕と通り魔事件が何かしら関係しているのは今回の事で明らかになった。自宅での発作、居酒屋での発作、そして今回の発作。これはもう疑いようがない。問題はその理由だ。もしかして、僕も実はPTSDなのか?でも両親は交通事故で亡くなっている。他に大切な人などいないし、通り魔事件の現場を目撃した事もない。テレビでしか耳にした事がないはずだ。その程度でもPTSDになるものなのか?それから目が醒めた時からずっと引っ掛かっているもの。これはなんだ?相談者は、僕に通り魔事件の被害者だと話をして傷跡を見せただけだと言っている。でもそれだけじゃない。そのわずかなやり取りの中で、僕は何か物凄い重要な何かを感じた。それがずっと引っ掛かっているんだ。考えても考えてもわからない。気がついたら外は真っ暗になっていた。その時、看護師が病室に入ってきた。

「桜井さーん。ご気分はいかがですか?」

「ああ、はい。だいぶ落ち着きました。」

僕は適当に返事をした。

「そろそろ夕食の時間ですが、食べられそうですか?」

「はい。お願いします。」

正直、食欲など全く無かったが、断るのも面倒くさいのでお願いした。

「わかりました。では順番にお持ちしますね。あ、よかったらそちらに病院服がありますので、着替えてくださいね。」

そう言って看護師は忙しそうに病室から出ていった。僕はまた、ふぅ、と溜め息をつき、シャツの匂いを嗅いだ。汗臭い。おそらく、冷や汗を大量にかいたのだろう。スーツのズボンも窮屈だし、着替えるかと思い体を起こすと、ズキッと胸が痛んだ。ああ、そういえば倒れた時にぶつけたんだっけ、と思い出した。それにしてもなかなか痛い。まさか骨折でもしてるんじゃないだろうな、と思いシャツを脱ぎ、ふと鏡を見た。

その時だった。相談者から傷跡を見せられた時の衝撃、僕の頭に雷が落ちてきたような全身の痺れと硬直が僕を襲ってきた。それと同時に引っ掛かっていたものの謎が全て解けた。


そう、あの相談者の傷跡は、僕のお腹にある傷跡と全く同じものだったのだ。


体は震える。冷や汗も大量に出てくる。目眩と吐き気もし、今にも気を失いそうだ。ただ、この「傷跡の事実」だけが僕を失神から守ってくれている。とりあえず落ち着け、落ち着いて考えろ、と自分に言い聞かせ、呼吸を整えながら服を着替える。そしてベッドに横になり、また考え始めた。

まず、僕の記憶をどんなに辿っても、このお腹の傷跡が残るような出来事は何一つとしない。という事は、三歳以前にできた傷跡だろう。では何の傷跡なのか。僕は中学生の時に施設の職員だった福島さんの話を思い返した。僕の両親は僕が産まれて間もなく交通事故で亡くなっている。そして、このお腹の傷跡は手術をした時のものだと。いや、違う。手術の跡とは福島さんは言っていない。それは僕が勝手に思い込んでいただけだ。そういえば、福島さんはこの傷跡については何も答えてくれていない。なぜ答えてくれなかったのか。あの時の福島さんの態度も当時は気になった。まぁそのような態度になっても仕方ない、と、すぐに忘れたが、今となってはどうも引っ掛かる。もしかしたら自分の考えすぎかもしれない。交通事故の時に何か鋭利な物が刺さったのかもしれない。でも、どうしても気になる。何かが胸の中に残っている。

なぜ僕が生きる意味ばかり考えてしまうのか。自殺を試みる時に甦るあの記憶は何なのか。通り魔事件との関係は何なのか。

キーワードは、お腹の傷跡、福島さん、通り魔事件の三つに絞られた。




第三章 天国と地獄


僕は今、図書館にいる。図書館に来るなど、何年ぶりだろうか。最後に来たのは確か小学三年生の時か。あれは夏休みの宿題で絵日記を提出しなければならなかったのだが、両親のいない僕にはそんな物書けない。なので、図書館で海や魚や動物の図鑑を見ながら絵を書いた。そして、あたかも水族館や動物園に行ったかのように見せかけたのだ。今考えてみれば、あの時の担任教師は何を考えていたのだろう。僕に両親がいない事は知らないはずがない。そんな生徒に絵日記の宿題を与え、明らかにウソとわかる絵日記を回収し、その後は何もなし。これ、ウソだよね?とも、施設の皆で行ったの?とも何もリアクションが無かったのだ。きっとあの担任教師は、生徒全員に機械的に宿題を与え、機械的に宿題を回収し、機械的に処理したのだ。生徒一人一人の事など考えちゃいない。当時はそんな事は考えなかったが、心のどこかで思っていたのだろう。翌年から絵日記の宿題はやらなくなったし、図書館にもそれ以来行かなくなった。

ではなぜ僕は今図書館にいるのか。それは僕の中で絞り込んだ三つのキーワードを解くためだ。まず一つ目のキーワードは「お腹の傷跡」。これが何の傷跡なのかを解き明かすのはかなり難しい。もしかしたら医者ならわかるのかもしれないが、今の僕の精神状態で医者に事情を説明し、わかるかどうかわからない謎かけをするコミュニケーションを取るのは苦痛だ。だからこれは後回しにした。続いて二つ目のキーワード「福島さん」。根拠は無いが、この人は絶対に何かを隠している。一番手っ取り早く解決させるなら、福島さんから本当の話を聞く事だ。ただ、何の根拠も無しに問い詰めたところで、また誤魔化されるに決まっている。もし、何か都合の悪いものを福島さんが持っているとしたら、それを隠滅させられる可能性もある。何の根拠も策も無しに福島さんを問い詰めるのはリスクが高いため、これも後回しにした。そして、最後のキーワード「通り魔事件」。これは単純に精神的に辛い。この事を調べていく内に、またいつ発作が起こるかわからない。ただ、この第三のキーワードが一番調べやすいのだ。僕が通り魔事件に対して敏感に反応するようになった原因は、おそらく産まれてから三歳になるまでの間の可能性が高い。なぜなら、三歳以降に通り魔事件に関わった記憶が無いからだ。もちろん、あまりにショッキングな出来事で記憶から抹消されている可能性はあるが、それを証明するのは難しい。なので、まずは調べる対象期間を二十四年前から二十一年前の間に絞った。通り魔事件ほどの凶悪犯罪で新聞に載らない、なんて事はまずないだろう。そういう理由で、三年分の新聞を見に図書館に来たのだ。

しかし、この作業は一筋縄ではいかない。そりゃそうだ。単純に計算して約千部ある新聞を一つ一つ調べていくのだ。それも隅から隅まで。とてもじゃないが、一日で終わる作業量ではない。まぁ良い。この前の騒動で、僕は仕事を長期間休む事になった。結局、病院の検査の結果もどこも異常なしだったし、そうなれば疑われるのは精神疾患だ。おそらく職場の連中もそれを見越して休むように奨めてきたに違いない。実際、僕自身もそう思っているので、職場の人間にどう思われようがどうでも良い。いずれにしても、せっかくできた時間なので無駄にはしない。


一週間が過ぎた。この一週間、朝から晩まで一日中図書館に通ったが、目ぼしい記事は見つからない。通り魔事件としての記事も僅か二件だ。一件は二十二年前、僕が二歳の頃に起きた事件。この事件は薬物に依存した加害者が、老若男女問わず、十五人を殺傷した事件。もう一件は、二十一年前。僕が三歳になる少し前の三月に起きた事件だ。この事件の加害者は後に誰でも良かったと語っており、被害者は幼児一名が亡くなっている。このどちらかの事件に何か関わったのか?しかし、どちらも僕が過ごした施設からはほど遠い場所で起きた事件だ。施設の皆で旅行に行ったのなら偶然居合わせた、というのも考えられるが、施設で旅行に行ったことなどない。だから可能性としては限りなく低い。では、テレビのニュースで見て、そこでショックを受けたのか?僅か二、三歳の子供が?ありえない話ではないが・・・。とにかく、残りの新聞はおよそ一ヶ月分。僕が三歳になる前の一ヶ月分だけだ。もしかしたらその期間に別の通り魔事件が載っているかもしれないし、全てを調べてから考えよう。僕は昼食をとりながらそう思った。

僕はこの一週間で気付いた事がある。これまで毎日のように考えていた、僕はなぜ生きているのか、という疑問を考えなくなっていたのだ。なぜだか理由はわからない。ただただ夢中になって新聞を読み漁っているからか、他に考える事があるからなのか・・・。とにかく、余計な事を考えずにこんなに物事に夢中になるのは初めての経験だ。これが生きがいという物なのか?自分に降りかかっている謎を解き明かすのが生きがいとは、ますます何のために生きているのかよくわからないな、と一人で苦笑いしていると、一つの小さな記事が目に飛び込んできた。そして、その記事は、僕に希望の光を与えると同時に地獄への扉も開くのだった。


のびのび園。僕が育った施設の名称だ。僕は高校を卒業してからすぐに今の市役所に就職した。当然、施設からも卒園し、一人暮らしを始めたのだったが、卒園する時、福島さんは叫んだ。

「輝彦ー!何かあったらいつでも来いよー!ここはお前の家だ!お前は一人じゃないからなー!」

施設の門に向かって歩いてる最中だったので、そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ、と思ったが、嬉しかった。やはり、僕は福島さんにだけは心を開いていたようだ。

それなのに・・・。なんでだ?なんでこんな記事が出てるんだ?僕は施設に行く道中、怒りにも似た混乱状態に陥っていた。

「輝彦ー!久しぶりだなぁ!元気にしてたか?」

福島さんは温かく出迎えてくれた。見た目は少し痩せたかな?昔はどちらかというとガッチリした体型だったが、今は華奢に見える。

「お久しぶりです、福島さん。園長になったそうで。おめでとうございます。」

「やめろよ、ただ誰よりも長くこの施設に勤めてるだけさ。それよりそんな仰々しい喋り方はなんだ?昔みたいにタメ口で良いよ。」

「まぁ一応社会人なんでね。でも、福島さんがそう言うなら遠慮なく。」

やはりこの人と話をする時は心が緩む。基本的に他人と関わりたくない僕は、人と話をするだけで緊張するのだ。ただ、福島さんだけは違う。緊張するどころか逆に解きほぐされるのだ。

「外は寒いだろ。冬本番だからな。今温かい飲み物持ってくるから、そこ座ってな。」

そう言って福島さんは調理室に向かった。僕は普通の家でいうとこの、いわゆるリビングに通されイスに座った。懐かしい。ご飯はここで必ず食べる決まりになっている。僕が施設にいた頃も、ここで福島さんとご飯を食べた。そして、三歳の誕生日だと告げられたあの日も、ここでケーキを食べた。

「コーヒーで良いか?良くないと言われてもコーヒーしかないんだがな。」

そう言って福島さんは笑った。笑うとシワが目立つ。老いを感じる。

「うん。コーヒーで大丈夫。むしろ、お茶とかより好きだから。」

「はい、お待たせ。」

福島さんがコーヒーを持ってきてイスに座った。こうやって向かい合って話すのは何年ぶりだろう。僕は高校に行き始めてからはあまり施設でご飯を食べなかった。

「で?今日はどうしたんだ?別に用がなきゃ来ちゃダメって事はないが、この六年間、全く顔を出さなかったんだ。特に何も用事が無いって事ではないんだろ?」

鋭いな。やっぱり、頭が良いのかな。そう思えば思うほど、僕の推測は確信に変わっていく。もちろん、何もかも推測できた訳ではない。ただ、僕の推測が当たっていれば、この人は何かとてつもない事を隠している。

「まぁね。ちょっと聞きたい事があって。」

「聞きたい事?なんだ?」

「この前の通り魔事件、ニュースで見た?」

僕が居酒屋のテレビで目にした事件だ。

「この前の・・?あ、ああ、二ヶ月前ぐらいのやつか。もちろん見たよ。悲惨な事件だったな。」

「あーゆー事件でさ、両親を亡くした子供ってみんな施設に行くのかな。俺みたいに。」

福島さんの表情が少し固まる。

「さぁなぁ。親族がいれば引き取る事もあるし、一概には言えないなぁ。」

ズズズ、と福島さんはコーヒーを啜る。

「そっか・・・。」

「なんだ?そんな事が聞きたくてここまで来たのか?」

「・・・昔さ、俺がまだ中学生の頃、福島さんに聞いた事覚えてる?」

「んー、さぁ、なんだったかな。」

「俺の両親の話だ。俺がなんで施設に預けられたか、って聞いただろ?」

「あー、ああ。そういえばそんな事もあったな。」

福島さんは懐かしむような笑顔を見せながらコーヒーを口元に運ぶ。ただ、その笑顔には裏がある。僕が中学生の時、あの質問をした時に感じた違和感そのものだ。全く同じ違和感を感じる。あれは僕の勘違いではなかったのだ。

「その時にさ、俺の両親は俺が産まれて間もなく交通事故で亡くなった、って言ってたよね。俺は奇跡的に助かったけど、両親はダメだった、って。」

「ああ、その通りだ。」

福島さんはまだコーヒーを口元から離さない。まるで隠し事をうっかり喋らないように守ってるみたいだ。

「あの時にさ、もう一つ質問したんだけど、覚えてない?今日はそれを聞きに来たんだ。」

「もう一つ?さて、なんだったかな?」

僕はシャツを捲り上げ、お腹の傷跡を見せた。

「このお腹の傷跡の事だよ。あの時、なんで俺にはこの傷跡があるのか聞いたけど、福島さんは答えてくれなかった。両親の事だけ話してタバコを吸いに行ってしまったから。でも、今日はそれに答えてほしいんだ。」

しばらく沈黙になった。その間、福島さんは相変わらずコーヒーを口元に置いている。

「・・・答えてくれないの?」

僕がそう言うと、ようやく福島さんはコーヒーをテーブルの上に戻して、話始めた。

「それはな、手術の跡だ。言っただろ?お前は奇跡的に助かった。それは手術をしたからなんだ。その傷跡だ。」

おそらく、数ヵ月前の僕ならこれで納得しただろう。辻褄も合っているし、何も疑う余地もない。ただ、僕は見てしまったのだ。長髪無精髭の相談者の傷跡と、とある新聞記事を。それを見てしまった以上、納得などできなかった。

「・・・福島さん、本当の事を言ってくれよ・・・。」

「おいおい、何を疑ってるんだ、本当の事だよ。」

また福島さんはコーヒーを口元に運んだ。

「俺、見たんだよ。仕事でさ、ある人と話す機会があって、その人、通り魔事件に巻き込まれて、腹を刺されたらしいんだ。」

福島さんの顔が固まった。今までに見たことのない表情をしている。

「おんなじなんだよ!俺の傷跡と!」

僕はつい声を荒げてしまった。

「今まで手術の跡ならいくつも見てきたよ。でもさ、その刺された人と俺の傷跡とは全然違うんだ!素人の俺が見てもそんなのはわかる!元医者のあんたならとっくにわかってんだろ!!」


カシャーン!


福島さんがコーヒーカップを落とした。

「・・・輝彦・・・お前・・・今なんて言った・・?」

「だから、あんた元医者なんだろ?」

茫然自失とはまさにこの事だろう。福島さんは僕の目を見ているようで見ていない。目は合っているのにもっと遠くの何かを見ている。こぼれたコーヒーが服についているのも気にする様子はない。本当に驚いているのだろう。そしてこのリアクションが、福島さんが元医者であると認めている何よりの証拠だろう。

「・・・どこで知った?誰から聞いたんだ?」

僕は図書館でコピーした新聞の記事と、あるホームページに掲載された記事を印刷したものをテーブルの上に出した。新聞記事にはこう書いてあった。


「○○県警は、総合病院勤務の現役医師、山口(やまぐち) (つとむ)容疑者を死体遺棄の容疑で逮捕した。山口容疑者は三十代の男女二名の死体を遺棄したと見られている。また、同総合病院の医師、福島(ふくしま) (わたる)氏も同事件の関係者として事情聴取を受けている」


「・・・」

「これ、あんたの事だろ?」

「・・・」

「俺も最初は疑ったよ。ただの同姓同名なんじゃないかって。でもさ、今の時代、インターネットで調べれば何でもでてくるんだよ。」

そう言って僕はホームページの記事を指差した。そこには山口医師の写真がでかでかと載っており、記事の内容は「天才医師!山口勉!」というこの医者を褒め称える記事だった。しかし、記事の内容などどうでも良い。問題はこの写真なのだ。そう。山口医師の後ろに小さく福島さんが写っている。若い頃の写真ではあるが、これは間違いなく福島さんだ。子供が親の若い頃の写真を見ても自分の親だとわかるように、僕にもこの写真に写ってる人物が福島さんである事がわかる。

「死体遺棄ってなんだよ。あんた、人殺してんのか!?それは俺の腹の傷跡となんか関係があるんじゃないのか!?だから言えないんだろ!本当の事を!あんた、一体何者なんだよ!!」

「・・・」

「答えてくれよ!!!」

僕は気がついたら泣いていた。福島さんが殺人犯だと思っているからなのか、ただ単に感極まってるだけなのか、理由はわからない。ただ、涙が止まらなかった。まるで、あの温かい記憶が頭の中を駆け巡っている時のように。

カチャカチャ・・・福島さんは立ち上がり、割れたコーヒーカップを片付け始めた。

「・・・福島さん!!」

僕はありたっけの願いを込めて叫んだ。この人から真相を利かなければ、何もわからない。今、何かを掴みかけてるチャンスなんだ。お願いだから、本当の事を教えてくれ。

「・・・あるか?」

「え?」

ようやく、福島さんが口を開いた。

「明日は時間あるか?」

「あ、ああ。大丈夫だ。」

「今日はもう遅いから帰れ。明日また施設に来い。ある場所に連れていってやる。そこで・・・何もかも話そう。」

そう言って福島さんは割れたコーヒーカップを調理室に運んで行った。




第四章 覚悟


今にも雪が降りだしそうな曇り空だ。さっきまでは雲一つない青空だったのに、たった数時間でこんなにも空は表情を変えた。山の天気は変わりやすい、と、よく耳にした事はあるが、初めてそれを実感した。

僕は今、「ある場所」に向かっている。歩いてはとても行ける場所ではないらしく、かといって公共交通機関も通っていないらしい。福島さんは、自分が車を運転するから車で行こうと言った。正直、僕は抵抗があった。もしかしたらこの男は人を殺しているかもしれない。しかも、二人もだ。そんな男が運転する車に乗る事は、自殺行為に等しい。ただ僕は、ここでふと疑問に思った。今まで死ぬ事に対して恐怖心を抱いた事など一度もない。むしろ、死にたかったぐらいだ。なのになぜ、僕は今こんなにも車に乗る事に抵抗があるのだろうか。「僕らしくもない」。そう強がって、僕は車に乗り込んだ。

車の中では一切会話をしていない。かれこれ三時間近く走っているのだが、一言もだ。車に乗る前こそ抵抗感があったが、乗ってしまえばそれほど恐怖心は無かった。特に緊張もしていない。そのおかげか、喉も渇かなければトイレにも行きたくならないのだ。福島さんはどうなのかわからないが、車をどこかに止めたりしないという事は、そうなんだろう。僕はひたすら窓の外を眺めていた。

それにしても、すごい山道だ。さっきまでは舗装された綺麗な道路を走っていたのだが、今は砂利道とも言えるガタガタの道を走っている。車のカーナビに目を向けると、そこには道が表示されていない。さすがに僕も不安な事が頭をよぎる。やはりこの人は殺人犯で、そして、殺した相手は僕の両親。上手いこと言いくるめて僕を施設で育ててきたが、昨日、僕が真相に一歩近づいた。このまま放置していると、いずれ本当の事がばれるのは目に見えている。そうであれば、いっそ僕を道連れに心中してやろう・・・。そう考えていても不思議ではない。黙ってこのまま殺されるぐらいなら、いっそこの男を殺して逃げてやろう、と思い、意を決して聞いてみた。

「ねぇ、これ、どこに向かってるの?」

「昨日言っただろう。ある場所だ。」

福島さんは表情を変えずに答えた。

「ある場所ってどこなの?そこに何があるの?」

「・・・行けばわかる。」

僕はだんだん苛立ってきた。行けばわかるだと?こっちはこのまま殺されるんじゃないかとヒヤヒヤしているんだ。そんな呑気の回答を鵜呑みにしていられるか!

「行けばわかるじゃねぇよ!こんな山奥に何があるんだよ!あんたまさか、このまま俺を道連れに心中でもするつもりじゃないだろうな!」

僕は怒鳴り散らした。福島さんは特に驚いた様子もなく、淡々と運転をしている。ダメだ、やっぱりこの男を殺して逃げるしかない。このまま殺されてしまっては、真相にたどり着けない。ただの推測で終わってしまう。殺す方法を考えていると、福島さんがようやく話始めた。

「○○町って知ってるか?」

「○○町?」

「そうだ。今、その町の外れに向かっている。」

「・・・その○○町がなんなんだ?」

僕には全く心当たりがない。ふぅ、と福島さんは溜め息をついて続けた。

「そういえば、聞いてなかったな。お前、なんであの記事を見つけたんだ?あんな古い新聞のしかも隅っこにある小さな記事だ。」

「それは・・・通り魔事件の事について調べていたんだ。そしたらたまたまあの記事を見つけた。」

「そうか・・・。であれば、町の事も知っているはずだ。」

どういう事だ?通り魔事件を調べていた事とその町になんの関係がある?いや、待てよ・・・。確か僕が見つけた通り魔事件は2件で、2件とも僕が育った施設からはほど遠い場所で事件が起きていた・・・。

「・・・あっ!」

「・・・わかったか。」

「・・通り魔事件のあった町だ・・・。」

そうだ。間違いない。確かに新聞記事にはその町名が記載されていた。

「そうだ。○○町は二十一年前、幼児が殺害された通り魔事件があった町だ。」

「・・・なんでそんな場所に行くの?」

福島さんはまた溜め息をついた。

「少し落ち着け。ある場所についたら全てを話すって言っただろう。今のお前の精神状態じゃあとても受け止められる話ではない。真相を受け止めたかったらまずは冷静になれ。ちょっと眠ったらどうだ?その様子じゃ昨日寝ていないんだろう。心配しなくてもお前を殺しはしないし、俺は逃げたりもしないよ。」

確かに僕は寝ていなかった。誰のせいで寝れなかったと思ってるんだ、と福島さんを睨んだが、これ以上問い詰めても何も答えてくれそうになかったので、僕は大人しく目を閉じた。


「・・・・い・・・・ひこ・・・おい!照彦!」

「・・・ん」

「起きろ。着いたぞ。」

僕は熟睡していたようだ。よくもまぁ殺人犯かもしれない男の隣で熟睡できるものだと、我ながら関心した。窓の外に目をやると、そこは無造作に草木が生い茂っており、道路らしい道路などない。かといって駐車場という雰囲気でもなく、ただ単に森の中に車を適当に停めている、という感じだった。

「ここ、どこ?」

「○○町の外れだ。ここから少し歩くぞ。」

一体この先に何があるというのか。完全に今僕がいるのは森の中だ。それもかなり深いところだと思う。森どころか、もしかしたら樹海かなんかかもしれない。そんなところから更に歩いて行く場所って、どんな場所だ?

僕は黙って車を降り、冷たい外の空気に身震いがした。いや、もしかしたら恐怖心だったのかもしれない。ここへ来て恐怖心か・・・。そういえば、眠っている間に何かされなかっただろうか。スボンのポケットだったり、コートのポケット、体のあらゆる部分を触って確認をしていると、

「どうした?早く着いてこい。」

と福島さんが言った。

もうよそう。現に今僕は生きている。僕を殺すつもりなら、眠っている間にとっくに殺している。福島さんが何の目的で僕をここに連れてきたのかは未だに検討がつかないが、少なくとも、僕に危害を加えるためではないだろう。信用とは違う。単にこれ以上福島さんの事を疑っても時間の無駄だ。どのみち、この人の言うとおりにしない限り、真相には辿り着かないのだ。僕は覚悟を決めて、福島さんの後を着いて歩いた。


「ある場所」に辿り着くには、車を降りてからそう時間はかからなかった。五、六分歩くと、明らかに場違いな建物が建っていた。山小屋だと言われれば、そうなのかもしれない。しかし、世間一般的にイメージする山小屋は、おそらく木造だろう。僕も山小屋と言われれば木造をイメージする。ただ、その建物は木造ではなく、コンクリートでできていた。いわゆる、鉄筋コンクリートという物だろうか。都内に建っていれば、オシャレなデザイナーズマンションに見えるかもしれない。もちろん、壁に媚りついているコケやツルを剥ぎ取ればの話だが。

「ここが、ある場所?」

僕は福島さんに聞いた。

「・・・そうだ。心の準備は良いか?」

そう言われると、準備はできてない気がするが・・・。なにせ、「ある場所」が気になっていて、その事ばかり考えていた。まだ頭の切り替えができていない。まぁしかし、いたずらに時間を延ばしても意味はない。

「・・・うん。大丈夫。」

そう答え、僕と福島さんは建物の中に入った。


建物の中は埃とカビの匂いで充満していた。扉のカギが開いていたので、誰かしら生活をしているか、出入りをしているか、そう思っていたのだが、少なくとも誰かが生活しているとはとても思えない。また、外観からは三階建てぐらいの高さに見えたのだが、実際に中に入ってみると天井が高いだけで一階建ての建物だった。そして、何よりも不気味な雰囲気を出していたのは、あまりに殺風景な部屋と、この広い部屋に置かれているベッド三台、椅子三脚、パソコンのモニターのような機械だった。それ以外の物は何も無い。

「ちょっと外に出るから、ここで待っててくれ。」

そう言って福島さんは外に出た。

この建物は一体何なのだろうか。デザイナーズマンションみたい、などとふざけた事を考えていた自分を殴ってやりたい。想像するに、何かの感染者の隔離病棟か、監禁部屋か・・・あるいは人体実験でもやっていか・・・?あらゆる想像が頭をよぎるが、どれもこれも良い想像ではない。少なくとも、デザイナーズマンションなどとは程遠い。僕は、ベッドなどが置いてある場所へと近づいて行った。

「この機械・・・。たしか、病院とかにあるやつじゃ・・・?」

正確にはわからないが、見たことがある。見たことがあると言ってもテレビでだが、心拍や血圧などが表示される、あのモニターにそっくりだ。

「そうすると、ここはやっぱり、感染者の隔離病棟だったのか・・・?」

それにしてはベッドの数が少なすぎる気がする。僕はベッドも見てみる事にした。ベッドのマットレスには赤茶色の染みが斑に付着していた。おそらく錆びたのだろう、と思った。ベッドのフレームは鉄でできており、いかにも感染者の隔離病棟の雰囲気が出ている。そして、全体的に、ベッドも椅子も機械も埃まみれであるところを見ると、やはり、数年前まで隔離病棟として使っていて、今はもう使わなくなった、と考えるのが自然だろう。しかし、それが21年前に起きた通り魔事件と何の関係があるのだ?なぜ福島さんは真相を語る場所をここに選んだ?僕は性懲りもなく、考えていた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・え・・・・」

僕はバカか?あり得ない。そんなわけない。僕はもう一度ベッドを見に行った。

「・・・やっぱり。」

さっき確認した時にはベッドのマットレスに赤茶色の染みがあった。おそらく、錆びたのだろうと。

・・・マットレスが錆びるだろうか。錆びるわけがない。現に、ベッドフレームの鉄は錆びていない。ワインかふどうジュースでもこぼしたか?そんなわけない。答えはただ一つ。

これは、血だ。しかも、染みの大きさを見る限り、大量の血液が流れている。人間のものなのか、動物のものなのか、それはわからない。もしかしたら感染者の血液かもしれない。

しかし僕は、ここで殺人事件が起きた。そう考える事しかできなかった。

ーガチャー

福島さんが戻ってきた。黙って真相を聞くべきか、それともこちらから問い詰めるべきか、僕は悩んでいると、もう一人、誰かが入ってきた。

「・・・こちらです。」

福島さんが案内をする。

「・・・おぉ・・・この子が例の・・・。」

現れたのは、白髪だらけの痩せこけた老人の男性だった。察するに、70歳は越えているだろう。

「・・・こんなに大きくなって・・・」

そう言って老人は見る見るうちに目を赤くさせ、ついには涙を流した。

誰なんだ?一体、なぜ泣いているんだ?僕は老人の顔をじっくりと見た。どこかで見た記憶のある顔だが、全然思い出せない。もしかして、施設の元職員とかだろうか。それであれば見た記憶があっても不思議ではない。

「・・・先生、彼は全てを知りたがっています。」

福島さんが静かに言った。

この老人が真相を知っているのか。福島さんはこの老人を「先生」と呼んだ。施設の職員は園長の事を「園長先生」と呼んでいる。やはり、この老人は元園長で間違いなさそうだ。そうであれば、全ての真相を知っていても不思議ではない。

「・・・そうか。・・・いつか、いつかこんな日が来るのではないかと、思っていたよ。・・・できる事なら、このまま逝きたかったのだがね。神様はやはり私のした事を許してはくれなかったのかもね・・・。」

そう言って老人は埃まみれのイスに座った。福島さんも後を着いて、同じく埃まみれのイスに座った。そして二人は、懐かしむような、悲しむよう、なんとも言えない表情でベッドを見ている。そんな様子を僕はボーッと突っ立ったまま見ていた。

「輝彦、お前も座りなさい。」

福島さんの声にハッとする。いやいや、座って話を聞く前に教えてほしい。

「いや、福島さん。この方は誰ですか?」

少々失礼な聞き方だったかもしれない。ただ、僕も言葉を選んでいる余裕がない。老人は福島さんの方を向き、また福島さんも老人の方を見た。そして、老人は小さく頷いた。

「・・・この方はな、輝彦・・・。山口勉先生だ。お前が見つけた新聞記事に書かれていた、あの山口勉先生だ。」

「・・・え・・」

そうか、だから見覚えがあったのか。でかでかと写真が載っていたインターネットのホームページを思い出した。白髪だらけで痩せ細ってはいるが、確かに面影はある。

さて、どうしたものか。ここへ来て、福島さんが嘘を言うとは思えない。この老人は山口医師と見て間違いないだろう。そうすると、今僕の目の前には殺人犯二人がいる事になる。福島さんはまだ僕の中では「容疑者」だが、山口医師に関しては実際に逮捕されたのだ。殺人の容疑ではなく、死体遺棄だったが、僕にとっては大差ない。いずれにしても人の死に関わっているのだ。僕は激しく動揺した。

「輝彦君も座りなさい。立ったままでは疲れてしまうよ。」

山口医師の声に僕はビクッとした。「二人は殺人犯」という僕の想像がそうさせるのか、この二人にはただならぬ威圧感がある。イスに座って二人と対峙した時、僕は正気でいられるだろうか。・・・いや、今さら何を迷っているんだ。車を降りた時に覚悟を決めたはずだ。大丈夫。僕は二十四歳だ。目の前にいるのは例え殺人犯だとしても、二人合わせて百歳を越えている老体だ。拳銃でも持っていない限り、いざとなれば逃げれるし、最悪、先に殺す事もできる。そう思い、僕はイスに座る事にした。「汚いイスだな・・・。」僕はそんな事を考えていた。大丈夫だ。動揺と恐怖心でいっぱいいっぱいだと思っていたが、まだイスの汚れを気にする余裕はある。


「・・・さて・・・何から話そうか。」

山口医師が言った。

「昨日、僕が福島さんと話した事はご存知ですか?」

僕は質問した。

「ああ、聞いているよ。よく調べたものだ。」

「僕は、福島さんには本当に感謝しています。僕の両親が交通事故で亡くなった後、ずっと僕の事を見てくれていました。親代わりと言っても過言ではありません。それなのに・・・。僕はあの新聞記事を見つけて、正直、福島さんの事が信用できなくなった。」

僕はシャツを捲り、お腹の傷跡を山口氏に見せた。

「このお腹の傷跡、何だかわかります?福島さんに聞いたら手術の跡だと言われました。でも、違いますよね?あなたにもわかるはずです。この傷跡が僕を真相に近づけてくれました。そして、あなたが今、僕の目の前に現れた。全てを包み隠さず教えてください。あなた方二人は何者で、僕のお腹の傷跡は何なのか。あの新聞記事は一体何なのか。なぜこの場所に連れてこられたのか。・・・全て、教えてください。」

二人は俯いている。

「・・・二十一年前、それが全ての始まりだった。」

山口氏が、重い口を開き始めた。僕の目を見ているのだが、僕の目ではない、どこか遠くを見ている様な表情だった。そう、昨日の福島さんと同じように。




最終章 生きる意味


ー二十一年前ー


「おい!結衣!早くしろよ!もうすぐ福島が迎えに来るぞ!」

「ちょっと待ってー!てる君がうんちしたのー!」

今日は高校時代からの友人である、福島とバーベキューに行く約束をしていた。

福島は医大に、私はごく平凡な大学に進学し、大学は違えどよく酒を飲んではバカ話をしていた。お互いに就職してからはそれほど連絡を取り合わなくなったが、妻が福島の勤めている病院で出産した事をきっかけに、また親交が深くなったのだ。

「輝彦ー。お前はなんでいつもいつも出掛ける直前になるとうんちをするんだぁ?」

そう言って私は息子の輝彦のほっぺたをムニムニと弄くり回す。輝彦はケタケタ笑って、暴れ始めた。

「ちょっと!てる君、暴れないで!うんちが着いちゃうでしょ!あなたも邪魔しないで!」

妻の結衣が怒った。基本的に妻は温厚で、ふわふわとした人だった。結婚してからも喧嘩をした事がなく、私が何をしてもまず怒らない。もちろん、不倫や借金など、社会的な常識から逸脱した時にどうなるかはわからないが、例えば家事を手伝わない、洗濯物をそのままにする、ゴミをゴミ箱に捨てない、などなど、些細な事では怒らなかった。その妻が、子供の事に関してだけは私に意見するようになった。いや、意見をするどころではない。ほぼ全ての事を妻が決め、逆に私が時々口を出す、そして時には私にムキになって怒る、という、今まで見たことがない妻になった。ただ、私はそれが嫌ではない。むしろ、嬉しかった。私と妻の子供を全身全霊で愛している。もちろん、私も子供の事を愛しているが、もしこの愛情を数値化できるのなら、倍の差はついているだろう。それが何よりも幸せだった。

「プップー!!」

外から車のクラクションの音が聞こえた。

「あ、福島来たんじゃないか?」

私は慌てて外に出た。

「福島、悪い!また輝彦がうんちしたから、もうちょっと待っててくれ!」

「ハハハ!相変わらずお出掛け前のうんちは定番だな!まぁ車の中でされても困るからな。ごゆっくりどうぞ。」

私は、ごめん!と両手を合わせて家の中に戻った。もうオムツの交換は終わったらしく、輝彦は帽子をかぶって嬉しそうに玄関まで走ってきた。

「ふくしま、きたのぉ?」

カタコトの日本語で一丁前に話しかけてくる。これがまた、可愛い。

「福島さん、だろ?呼び捨てはダメだぞ。」

そう言って私は輝彦を抱っこした。

「いやー、輝彦重くなったなぁ。もうすぐ三歳だもんなぁ。成長、成長!」

来月、五月一日で輝彦は三歳になる。子供の成長は本当に早い。ついこの間までミルクを飲んで、ハイハイしていたかと思えば、もう駆けずり回るぐらいまで成長している。挙げ句、人の友人を呼び捨てにするぐらいまで成長したのだ。

「おう!輝彦!またお前うんちしたのかぁ?」

福島の車に乗ると、福島が輝彦をからかった。輝彦は恥ずかしそうに笑いながら、「てる、ふくしまとあそぶー!」と言い返した。

「こら!てる君!福島さんでしょ!」

と、妻が怒ったが、車に乗り込みテンションが上がってしまった輝彦は聞く耳を持たない。

「おう!いっぱい遊ぼうな!お肉もいっぱいあるから、たくさん食べよう!」

「てる、おにくたべるー!」

嬉しそうに福島と話す輝彦、それを見て申し訳なさそうにする妻、毎度定番の光景だが、私はこの光景がとても好きだった。どんな理由であれ、子供が嬉しそうにしている様子は、どんな景色よりも見ていて幸せになれる。


バーベキューの会場は、○○町にある。そこは市街地から少しだけ外れた場所なのだが、その割には自然が豊かな場所だった。あまり知名度の高い場所ではないらしく、バーベキューをやるにはもってこいの穴場スポットだった。

「福島、よくそんな場所知ってるな。」

「たまたまだよ。実はこの山のもっと奥にな、研究施設があるんだ。」

「研究施設って、病院関係の?」

「そうそう。あれ?中嶋、一回会わなかったけ?ほら、結衣ちゃんが出産した時にお祝いを言いに来てくれた先生がいただろ?あの先生がリーダーになって研究をしているんだ。」

「あー、なんつったっけ?あの天才先生だろ?最近も雑誌やら何やらでやたら話題になってる。」

「そう、山口先生だ。あの先生は本当に天才だ。今やってる研究もな、詳しい事は言えないんだが、もしこれが成功すれば、日本中が、いや、世界中が驚き歓喜に沸くと思うよ。んー、いや、そんなレベルじゃないな。もはや神の領域だ。」

私は、こいつ、なんか変な宗教にでもはまったか?と思ったが、あまり仕事の事には興味がないので、それ以上突っ込む事はしなかった。

それから私達は、バーベキューを大いに楽しんだ。輝彦はバーベキュー自体が初めてなので大はしゃぎだ。まさに、我を忘れて全身全霊で楽しんでいる。妻もそんな輝彦の様子を見て嬉しそうにしている。福島は火の起こし方や肉の焼き方などを一通り輝彦に教えて、その後はずっと輝彦と遊んでくれていた。友人とはいえ、他人の子供なのに本当に面倒見の良い男だ。なぜ独身なのか不思議でしょうがない。

「マーマー、なんかのみたーい。」

輝彦が汗だくになりながら妻に言った。

「あ、いっけなーい!もうてる君の飲み物がないわ!」

そう言うと、輝彦は泣き始めた。

この程度の事で泣く時は、もう眠い証拠だ。時間的にもいつも昼寝をしている時間でもある。

「ちょうど良いわ。てる君を抱っこして、飲み物を買ってくる。たしか、少し歩いた所にコンビニがあったわよね?」

妻が言った。

「抱っこって、大丈夫か?」

「うん、抱っこ紐持ってきてるから。」

それなら安心だ。おそらく歩いてる最中に輝彦は眠るだろうし、福島にも休憩させてあげないと。

「じゃあ、よろしく頼むよ。」

そう言って、私は妻と輝彦を送り出した。輝彦は泣きながら「やーだー!ねーなーいー!」と言っていたが、無理矢理抱っこされた。




これが、私が最後に聞いた輝彦の声だった。



「福島、お疲れ。悪いな、ずっと輝彦の遊び相手さして。」

私はそう言って肉と飲み物を渡した。

「いやー、元気だなー輝彦は。こっちのが体力負けしちまうよ。」

そう言って福島は飲み物を一気に飲み干した。


「キャアァァァァーーーーーーーーーー!!!!!」


突然、物凄い悲鳴が聞こえた。何だ何だ?と思うと同時に、心臓が驚きとは別の意味で跳ね上がった。


「・・・結衣の声だ・・。」

「え?」

福島が持っていた飲み物を落とした。僕は急いで声のする方へ走っていった。

「おい!!」

福島も私の後を追って走ってくる。嫌な予感がする。

人だかりができている。それほど人通りが多い道ではないのに、何人もの人が集まっている。人だかりは二つのグループに別れていた。私は全速力で走って行き、一つ目のグループに辿り着いた。そのグループの中心には、まるで生気を感じない、今にも自殺しそうな男が取り押さえられていた。そして、その男の付近には・・・血まみれの包丁が落ちていた。

「結衣・・結衣・・!」

嫌な予感がさらに増す。あの包丁はなんだ?なぜ血まみれだった?まさか誰かを刺したのか?誰を刺した?結衣じゃないよな?結衣なわけないよな?結衣・・・。

二つ目のグループに辿り着いた。結衣が、結衣が座り込んでいた。

「結衣ーーーーーー!!!!」

私は結衣の元に全速力で走って行った。そして、結衣を抱き締めた。

「結衣!結衣!大丈夫か!」

結衣は震えている。そしてか細い声で言った。

「・・・うの・・。」

「大丈夫だ!喋らなくて良い!おい!誰か早く救急車を呼んでくれ!」

僕は必死に叫んだ。そこに、福島が走ってきた。

「中嶋!何があった!」

「福島・・・。結衣が・・・結衣が刺された!頼む!助けてくれ!」

私は福島にしがみついた。

「中嶋!落ち着け!とにかく救急車だ!」

福島も叫ぶ。

その時、結衣が叫んだ。

「違うの!」

私と福島は驚いて結衣の方を見た。

「刺されたのは・・・私じゃない・・・。」

・・・・・うそだ。冗談だろ。なんで・・・。


そこには、顔を真っ白にした輝彦がいた。


「後ろから男の人に声をかけられて・・・それで振り替えったら・・・」

結衣はそう言いながら泣きじゃくっている。

「あなた・・・どうしよう・・・てる君が・・てる君・・てる君!いやだよ!ダメだよ!いや!いやだよ!」

妻は取り乱した。顔を真っ白にして目をつむり、ぐったりとしている輝彦を抱きしめている。私は取り乱せなかった。今、この状況が、現実に思えない。体が動かない。思考が停止している。私は、結衣と輝彦を静かに抱きしめる事しか出来なかった。


「・・・残念ですが。」

そう医師から告げられた。輝彦は霊安室に移され、静かに目を閉じていた。さっきまではしゃぎ回っていた小さな男の子は、もう2度と目を開ける事はない。笑う事も、泣く事も、声を出す事もない。来月、輝彦は三歳になる予定だった。三歳になる事を疑いもしなかった。そして、年々歳をとり、やがて大人になる予定だった。結衣とは時々、「輝彦はどんな大人になるんだろうね」と話をしていた。その答えを知る事は永久にない。

輝彦を刺した犯人は、「誰でも良かった」と言っているらしい。誰でも良いならなぜ輝彦を刺した?まだ二年しか生きていない、これから未来ある子供だ。なぜそんな子が死ななければならない?「死んで良い人間などいない」とよく言うが、そんなのは偽善だ。少なくとも、未来ある子供よりも先に死ぬべき人間はいる。身勝手な理由で輝彦の命を奪った、貴様のような人間だ。

私も当然受け入れられなかったが、結衣はもっとひどかった。私は犯人の男を憎んだ。目の前にいたら確実にこの手で殺す。ただ殺すだけでは気がすまない。その男が大事にしているものを全て破壊し、爪を一枚一枚剥がしながら出来るだけ苦しい思いをさせて最終的に殺す。その憎しみが唯一、現実を受け入れるための助けになっているのだが、結衣の場合は違う。もはや男の事などは頭にない。自分を責めているのだ。

男に声をかけられた時に振り返っていなければ・・

抱っこ紐ではなく、手を繋いでいれば・・

自分一人で飲み物を買いに行っていれば・・

飲み物も切らさなければ・・

そうやって自分を責め続けている。自分を責めちゃダメだよ、という福島の声も当然届いていない。

霊安室には今三人でいる。私と結衣と福島だ。三人で輝彦の顔を見ている。

「あなた、福島さん」

結衣が話し始めた。

「てる君は、何のために産まれてきたのかな?たった二年間しか生きられなかった。最近、ようやくチョコレートの美味しさを知ったのよ?これから、まだまだ美味しいものや、楽しい事、嬉しい事、幸せな事がたくさん待っていたのに、私がそれを奪ってしまった。私はすごく幸せだった。てる君が産まれて、それは大変な時もあったけど、それ以上に幸せだった。もちろん、あなたと出会って、あなたを愛しているのは今も変わらない。でもね、ごめんね。私、てる君がいない世界では生きられない。私がてる君を産んで、私がてる君の命を奪ってしまった。それなら・・・母親として私もてる君のところに行かなきゃ。」

「結衣ちゃん!!バカな事をいうなよ!君が死んだところで輝彦は戻ってこないよ!」

福島が叫んだ。月並みのセリフだ。結衣は小さく微笑んで、首を横に振った。彼女はもう覚悟している。輝彦を生き甲斐に生きていたのは私が一番よくわかっている。それを理不尽に奪われた今、彼女に生きる希望はないだろう。そして・・・私にも同じ事が言えるのだ。

「福島。お前の言ってる事は最もだ。結衣が死んだところで輝彦は戻ってこない。当たり前の話さ。だから・・・だからこっちから輝彦の元に行くのさ。」

「・・・お前・・」

福島が驚いた様子で私の方を見た。

「結衣は・・・結衣はもう、決めているんだろ?」

結衣は小さく頷いて、ごめんね、と言った。

「ならば、私の答えも一つだ。結衣も輝彦もいないこの世界に、何の未練もない。」

「お前ら・・・っ・・・!」

福島が苦悶の表情をする。涙をこらえているのだろうか。良いやつだ。良い友人だった。

「福島さん」

結衣が福島の方を向いた。

「どうもありがとうございました。てる君、今日、すごく楽しそうでした。最後に・・・最後に、楽しそうで良かった。」

そう言って、結衣は笑った。笑いながら、涙を流した。

「・・・っ・・・ちっくしょぉぉぉぉぉ!!!!」

急に福島が叫びだした。

「お前ら!バカげた事ばかり言いやがって!そんなに死にてぇのか!!」

「死にたいんじゃない。輝彦の元に行きたいんだよ。わかってくれ。」

私は静かに答えた。

「わかんねぇよ!俺は医者だ!人を生かすのが俺の仕事だ!死にたいやつの気持ちなんかわかるか!良いさ、そこまで言うなら連れてってやる。今すぐ輝彦を連れて俺に着いてこい!」

この男は何を言っているんだろうか。どこに連れてこうとしているのだろう。死に場所を与えてくれるのか?

「・・・なんなんだよ。悪いけど、もう輝彦と結衣と三人にしてくれないか?どこにも行く気になんてなれないよ。体が動かないんだ。」

私はそう言って結衣の方を見た。結衣は涙を流しながら小さく笑って頷いた。それはまるで、「早くてる君の元へ行きましょ」と言っているようだった。

「中嶋、さっき話したよな?天才医師の研究施設の話。」

福島は僕の言葉などお構い無しに続けた。いい加減にしてくれ。研究の話など興味ない。

「その研究の内容はな・・・人を生き返らせる研究だ。そして、その研究はほとんど完成している。要するに、死んだ人間を生き返らせる事ができるんだ。」

私は耳を疑った。そんなバカな話があるわけない。死んだ人間が生き返るなど、あり得ない。福島は続ける。

「ウソだと思うか?そりゃそうだよな。死んだ人間が生き返るなんて普通に考えてあり得ない。ゲームの世界じゃないんだ。ただな、あの先生も普通じゃないんだ。普通じゃないから天才と呼ばれるんだ。もちろんまだ成功例はない。・・・というか、ある大問題が解決できずに最終的に実施できないでいる。ただ・・・ただお前らが、無意味にただ死ぬだけ、と言うなら、そこへ連れていってやる。どういう結果が出るかはんからんが、ただ犬死にするよりマシだろ?どうする?信じるか信じないかはお前ら次第だ。」

この状況で福島が冗談を言っているとは思えない。でもやっぱり、とても信用できる話ではない。期待してダメでした、では無駄に傷つくだけだ。

「・・・福島、悪いけどやっぱり」

「連れていって!!」

私の話を遮って結衣が叫んだ。私は驚いて声も出なかった。

「てる君が・・・てる君が生き返る可能性が0.1%でもあるのなら、何だってやりたい!その方法がなんだって構わない!お願い福島さん!連れていって!!」

結衣はそう言って、動かなくなった輝彦を大事そうに抱き抱えた。抱き抱えられた輝彦は今にも動き出しそうだった。

「僕も生きたい!」

まるで輝彦がそう言ってるみたいだった。

「福島・・・。頼む!そこに私達を連れていってくれ!」

「バカ野郎どもが・・・。急げ!」

私達は急いで福島の車に向かった。


「今頃、病院では大騒ぎになっているだろうな。」

私は、ポツリと一人ごとのように言った。

「そりゃそうだ。死体を一体連れ出したんだからな。」

福島が淡々と答えた。

「ごめんなさい、福島さん。あなたにもすごい迷惑がかかるわね・・・。」

「この話をお前らにした時点で俺の覚悟はできている。別に迷惑だなんて思わないよ。それに、この話にはまだ解決できてない大問題があるって言ったよな。それが解決できない限り、もしかしたら何もできないかもしれない。むしろ謝るのはこっちだよ。中嶋の言うとおり、期待だけ持たせる形になってしまうかもしれない。」

「そんな事はないよ、福島。ありがとう。」

それからは全員無言のまま、天才のいる研究施設へ車を走らせた。

そこは樹海とも呼べる、草木が無造作に生い茂った森の奥だった。なるほど、確かにこの場所の雰囲気を見れば、人を生き返らせるという神をもおそれぬ研究をしているという信憑性は増す。

「こっちだ。ここからは歩いていくぞ。暗いから足下気をつけろ。」

そう言って福島は歩き始めた。私達も福島の後を着いていく。淡い期待を胸に、藁にもすがる思いで・・・。

そこにはコンクリートでできている建物があった。この森の中にあるのは不自然極まりなく、いかにもやってはいけない研究の施設という感じだった。

「山口先生!!」

福島が建物に入るなり叫んだ。

「おお、福島君!待っていたよ。こっちだ。」

中からは山口という医師が現れた。雑誌などでよく見た顔だった。天才医師とはこの人の事だったのか。

「この子が・・・。まだこんなに小さいのに・・・。」

山口先生は涙ぐんだ。

「先生!この子は生き返るんでしょうか!」

結衣が山口先生に詰め寄る。山口先生は困惑した表情をしている。そして、福島の方を見た。

「福島君、どこまでご夫妻に話をした?問題の部分については説明したか?」

福島は俯いて答えた。

「いえ、そこまではしていません。まずは彼らをここに連れてくる事が先決だと思いました。それに、私は先生の助手にすぎません。私が説明するよりも、先生から説明を受けた方が、中嶋達にとってもより現実味が出ると思い、私からは説明しませんでした。」

「そうか。」

山口先生は詰め寄る結衣をたしなめ、イスに座らせた。

「旦那さんもそちらに座ってください。今から説明をします。」

私は急いでイスに座る。山口先生は説明を始めた。

「時間も無いので単刀直入に言います。亡くなったこの子を生き返らせる事は、理論上可能です。」

私と結衣は顔を見合わせた。急に訪れた暗闇に一つの光が差した瞬間だった。

「じゃあ・・!」

私がそう言うと、山口先生は遮った。

「最後まで聞いてください。今申し上げたのはあくまで理論上の話です。まだ実証されたわけではない。ではなぜ実証できないのか。それは、ある問題があって、実際にやる事ができなかった。なぜなら、この方法には・・・二人の命を犠牲にしなければならないからです。」

「二人の命を・・・犠牲にする?・・それは要するに、二人人を殺さないといけないという事ですか?」

「そういう事になります。しかし、これもあくまで理論上の話です。本当に亡くなるかどうかはわかりません。やはり、実証されていないので。ただ・・・間違いなく命の危険に陥るでしょう。」

再び暗闇に包まれた。この子は生き返るかもしれないが、そのためには二人の命を犠牲にしなければならない。そしてその二人とは、間違いなく私と妻が担わなければならない。当然だ。他人の子のために命を犠牲にするものなどいない。この子が生き延び、私達が死ぬか・・・。

「医師として・・・いや、この研究者としてではなく、一人の人間として、言わせてください。」

山口先生は続けて話した。

「あなた方は生きるべきだ。確かに我が子を失った悲しみは、当事者でなければわからない。到底、我々他人が計り知れるものではない。でも、亡くなったお子さんは、あなた方が死ぬ事を望んでいない。あなた方がここに来られたという事実だけで、この子がいかに愛されてきたかがわかります。短い人生だったが、この子は十分幸せだったでしょう。もし仮に、この子が生き返る事に成功したとして、あなた方が死んだら何になるんです?この子はどうなるんです?もし自分のために大好きな両日が命を落としたと知ったら、どれだけショックを受けるか・・・。もちろん、あなた方も生かし、この子も生き返らせる事ができるのなら、私は喜んで手術を行います。ただ、最悪の場合、この子は亡くなったままであなた方も亡くなってしまうかもしれない・・・。人はいつかは必ず死ぬものです。それが自然の摂理です。この子のためにも、あなた方はこれから懸命に生きる事はできませんか?」

山口先生は涙を流していた。正直、私は心を打たれた。山口先生の言うとおりだ。我々が死んだところで輝彦が生き返る保証はない。仮に生き返ったとしても、親が生きていなければ、結局不幸になるのではないか。私は何も言葉が出てこなかった。どうすれば良いのかわからない。すると、結衣が話始めた。

「山口先生、ありがとうございます。先生のおっしゃってる事はご最もです。でもね、先生。子供って、私達大人が思ってるより、ずっと強いんですよ?むしろ、私達の方が弱いくらい・・・。この子を保育園に預け始めた時、一ヶ月くらいだったかな・・。私と別れる時に毎日泣いていました。本当に、心が痛くなるぐらい泣いていたんです。それが一ヶ月も経つと、全然泣かないんですよ。それどころか、笑って手を振るんです。それで、お友達と遊びに行っちゃうんです。寂しくなくなったわけではないのはわかっています。きっと、夜になれば私達が迎えに来る、という事を学んだのでしょうね。保育園の環境に慣れたのもあるかもしれません。どんな理由があるにせよ、この子は親の私達がいない新しい環境になじんだのです。すごいですよね。大人だって新しい環境に馴染めず、負けてしまう人がたくさんいるのに、わずか産まれてから一年足らずで大人にもできない事をしちゃうのですから・・・。大丈夫です。この子は強いです。きっと、私達がいなくなっても、強く生きてくれます。私は、私の人生に何も後悔も未練もありません。この子が生きてくれるなら、私の命などいりません。・・・あなた、ごめんね。わかって・・・。」

私は呆然とした。もしかしたら結衣は、輝彦が産まれた時からその覚悟ができていたのかもしれない。もちろん、自分より先に輝彦が死ぬ、なんて事は考えてなかっただろうが、いざという時には自分の命と替えて輝彦を守るつもりでいつもいたのだろう。母親というのは本当にすごい。私がどんなに輝彦を愛していても、彼女の愛情とは比較にならない。

「・・・結衣。わかった・・・。山口先生、やはり、輝彦を生き返らせてあげてください。もちろん、我々二人の命を使っていただいて構いません。一度は捨てようとした命です。例えどんな結果になったとしても、後悔は絶対にしませんし、山口先生を恨むよう事も絶対にありません。山口先生!どうかお願いします!」

山口先生は黙っている。きっと、失敗した時の事や、我々が死んだ時のリスクもあるだろう。それは当然だ。でも・・・どうしても輝彦に戻ってきてほしい!結衣のためにも、輝彦のためにも。

「本当に良いんだな?」

沈黙を破るように福島が言った。

「今となっては俺とお前は親友同然だ。その俺に対して、親友の死を目の前で見届けろ、という事だな?」

福島は涙をこらえている。

「・・・すまん。」

「・・・上等だ。山口先生、私からもお願いします。私の親友の願いを、どうか叶えてあげてください!」

福島が頭を下げた。

「・・・わかりました。やりましょう。福島君、君は私の側でずっと研究を見てきた。君が助手に入りなさい。」

「はい!」

「山口先生!ありがとうございます!」

私達夫婦と福島は歓喜に沸いた。不思議なものだ。これから死ぬかもしれないのに、そんな事を考えていない。ただただ、輝彦が生き返る可能性が出てきた事が嬉しくてたまらない。

私達夫婦と輝彦はそれぞれベッドに横になった。輝彦を真ん中のベッドにし、その両サイドを私達で挟む形だ。私も結衣も、輝彦の事を見ている。固く閉じた目、血の気が全くない顔色、完全に死んでる。この状況が、昨日の輝彦に戻る事を願っている。結衣も同じ気持ちで輝彦を見ているだろう。

「これから全身麻酔をする。うまくいけば目が覚めるが、失敗すれば、このままあの世行きだ。遺言でも残しとくか?」

福島が冗談っぽく言った。いや、冗談っぽく言わざるを得なかったのだ。目の前で親友が死ぬかもしれないのだ。私が逆の立場なら苦しくて悲しくて、そんな冗談でも言わなければ立ってもいられない。

「遺言・・・ではないけど、一つ頼みがあるんだ。」

「なんだ?」

「もし私も結衣も染んでしまって、輝彦が生き返った時、お前に輝彦の成長を見守ってほしいんだ。もちろん、育ててくれって訳じゃない。おそらく施設に行くことになるだろう。だから、一ヶ月とか二ヶ月に一回で良い。輝彦が元気に過ごしてるか、見てやってくれないか?」

「・・・」

福島はついに涙を流した。

「必ず立派な大人にしてみせる。安心して逝ってこい!」

「ありがとう。福島。」



これが、私と福島の最後の会話になった。





「結果、君は生き返った。ただ、ご両親を救う事はできなかった。それは本当に申し訳ないと思っている。」

山口医師は深々と僕に頭を下げる。福島さんも頭を下げている。どうリアクションすれば良いのかわからない。頭が追い付いていかない。僕の両親は僕のために死んだ。そして、今まで施設の職員だと思っていた福島さんは、医師として僕の両親の死に関わった。これを信じろ、と?滅茶苦茶な話だ。でもなぜだろう。どうしても二人の言っている事が嘘だと思えない。

「・・・そう言えば、死体遺棄の容疑で逮捕されたって・・・。あれはどういう事?」

「あれは・・・君を守るためにはそうせざるを得なかった。当時、私が行っていた研究は世界的に注目されていた。当然だ。人を生き返らせるなんて事が可能になれば、あらゆる事に大きな影響が出てくる。医学会はもちろん、世界中の政府から注目されていたよ。ただ、極秘で行われていた研究だった。安全性が確実とされてない以上、いたずらに世に出したら混乱するだけだからな。そんな状況の中、君が生き返った、など知れ渡ったらどうなる?きっと君は各国の研究の材料とされ、過酷な人生を歩む事になっただろう。ご両親の願いは君が幸せになる事だ。それだけは絶対に避けなければならなかった。だから私は・・・私は、ウソをついたんだ。研究のために霊安室で眠っていた君を連れ去った。そして安全性を立証するために手術を行ったが失敗した。怖くなった私は、君の死体を燃やし、骨をバラバラにして海に捨てた。ご両親には本当に、本当に申し訳ないが自殺と見えるように手を加えさせてもらった。これで君はこの世からいなくなり、私は死体遺棄の罪で逮捕された。」

「・・・なんで他人のためにそこまでするんですか?僕も僕の両親も、あなたにとっては他人でしょ?」

山口医師の言ってる事が信じられなかったわけではない。信じたくなかっただけなんだと思う。

「そんなの、答えは簡単だよ。私は医者だ。目の前で苦しんでいる人がいて、それを助けられるのなら私は助ける。他人とか身内とか、そんなのは関係ない。ただ単に、患者と遺族の意思を最大限尊重しただけだ。」

ぐうの音も出ない。何も反論できない。そんなの、あなたの気持ちなんだから、本当かどうかなんてわからないでしょ、と言うことはできるが、その反論はひどくくだらなく感じる。

その時、福島さんは一枚の写真を僕に渡した。

「俺が持ってる、唯一の家族写真だ。」

そこには僕の両親と二歳頃の僕、と思われる人物が写っていた。

「・・・なるほどね。」

僕は、全て理解した。

「なんでもっと早く見せてくれなかったの?」

僕は福島さんに聞いた。

「見せられるわけないだろう。お前の両親はお前が産まれた直後に死んだ事になっていたんだから。」

僕は、なるほど、そりゃそうだ、と思い、席を立った。

「福島さん、タバコ持ってる?一本くれない?」

「ん?お前、タバコ吸うのか?」

僕は、いいから、と言いタバコと写真を持って外に出た。

本当にまいった。その写真に写ってる人物は、僕が自殺を試みる時に甦る記憶の登場人物と全く同じなのだ。つまり、本当にあった僕の記憶だ。

「ゲホッ!ゴホ!オェェ!・・・タバコ、まずい・・。」

とにかく、何かをしていないと、何か別の刺激を入れないと頭がおかしくなりそうだ。山口医師が話した内容は事実で間違いないだろう。何も矛盾も疑問点も出てこない。全ての辻褄が合う。でも、そんなに簡単に受け入れられない。どうしたら良いんだ?タバコも不味くて吸えたもんじゃない。

そうだ・・・。泣いてみようかな・・・。

僕は、施設に預けられて以降、初めて泣いた。二十一年分の涙を流した。


泣く事は良いことだ。ストレスの発散にもなるらしい。僕はこれまで泣いた事がなかったから初体験だが、今まで僕の中にいた闇が流れ出た感じがした。もちろん、泣いた事だけが理由ではないが。

「山口さん、話してくれて、どうもありがとうございました。」

僕は山口さんにペコリと頭を下げた。そして、福島さんに「帰ろう」と言った。福島さんは、驚いた顔をして山口さんの顔を見たが、山口さんは小さく頷いた。

建物を出ようとした時、山口さんに聞かれた。

「輝彦君、今、幸せかい?」

僕は足を止めてしばらく考えた。そして、今まで感じた事のない晴れやかな気分で答えた。

「どうですかね。僕、これまでずっと、事あるごとに生きてる意味を考えてたんです。それで、時には思い詰めて自殺を試みる事もあった・・・。でも、一度も死ぬ事はできなかった。今考えてみれば、もしかしたら両親が止めてくれたのかもしれませんね。」

僕はそう言って少し笑った。山口さんは不思議そうに僕を見ている。

「だから・・・今、幸せか?と聞かれればわからないです。でも・・・一つだけ・・・一つだけ確実にわかった事があります。」

僕はそう言って、また頭をペコリと下げ、車に向かった。山口さんは、優しい笑顔をしていた。


「わかった事ってなんだ?」

車の中で福島さんが聞いてきた。

「んー?内緒だよ。」

僕は笑って答えた。福島さんも「チッ」と舌打ちをしたが笑っている。

僕は生きてる意味をずっと探してきた。なぜそんな事を探していたのかは今でもわからない。単純に、やりたい事もなりたいものも見つからず、つまらない人生を送ってるなー、という精神的なものなのか、それとも、あの時、死んでいたはずなのに、という物理的なものだったのか・・・。でも、そんなものあるはずがなかったのだ。

なぜなら、僕は生かされているのだから。僕だけじゃない。人間は皆、生かされているのだと僕は思う。ある人は親の愛情により、ある人は医療により、そしてある人は亡くなった大切な人の意思により・・・。生かされてる以上、自ら命を断つなど、絶対にしてはならない。今ある命を大切に、1分1秒を懸命に生きなければならない。それが、生かしてくれてる人への最低限かつ最大限の恩返しになると、僕は思った。

「福島さん、ありがとう。」

僕は福島さんに言った。

「・・・なんだよ、急に。」

「俺、これから一生懸命生きるよ。何があっても、死ぬまで一生懸命生き抜く。」

福島さんは、何も言わなかった。そして、車はコンビニに入っていった。

「腹減らないか?もう何時間も何も食ってない。ちょっと待ってろ。」

そう言って福島さんは、おにぎりを買ってきた。僕はそのおにぎりを食べて、言った。


「こんなに美味しいおにぎりを食べたのは初めてだ。」





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ