帰ってくる場所
抜けるほど青い空はまるでそこだけ雲を切り取ってしまったようであった。俺の気分はそんな青空にもかかわらず沈んでいた。
癌という病名は知っていたし、その深刻な病状も知識として知っていた。
しかし、「知る」と言うことと「体験する」と言うことは違うのだ。
「癌ですね。かなり進行していますね。助かる確率は五分五分と言ったところでしょうか」
身寄りのない自分。医者から癌を宣告された時はショックだったが、今はそれも虚しい。どうせ自分が死んでも悲しんでくれる人間などいないのだ。
それでも病院は少しでも治る可能性のある自分のことを放ってはくれないらしい。
無理やり入院させられてかつてないほどの健康的な生活をおくらされていた。煙草さえも吸えない。そんな病院に窮屈さを感じて俺は屋上へと続く階段を登っていたのだった。
雲ひとつない抜けるような青空。
雲の欠片を押し込むかのように隠し持っていたタバコに火をつける。紫煙が辺りに漂い、心地よい匂いをかもし出す。たとえ、癌の症状がこれ以上進行したとしてもやめられないだろう。煙と一緒に吐き出した溜息は少々自嘲気味であったのかもしれない。刹那的な生き方しか出来なかった生活の末路はこんなものだ!と言う人生の諦めにも似た感情がそこにはこもっていた。
その時であった、その声が俺の世界を切り裂いたのは。
「おじさん、ここ、禁煙なんだけど」
アルトとメゾソプラノのちょうど中間辺りだろうか。非難するような内容だがすっと心に入ってくるようなそんな声。
俺は思わずそっちを向いた。そこに立っていたのはパジャマにカーディガンを羽織った格好の少女だった。身長は自分より30センチぐらい低いであろうか。明らかに150cmはないだろう。亜麻色の髪をショートカットにして額を出している姿。いわゆるぱっつん髪だ。見るからに気の強そうなそうな顔をのぞかせている。目には強い意志の光。
「タバコって言うのは吸ってる本人よりも周りにいる人の方が害が多いんだから」
「あ、ああ……そうだな」
ゆっくりと詰め寄ってくる少女の目力に押されて煙草を壁に押し付けて消した。
「悪かったな、お嬢ちゃん」
ぽんと人よりも大き目の掌を少女の頭に乗せ、くしゃっと髪を撫でた。心地良いあったかさが手に伝わる。
「な、何するのよ!」
されるがままになっていた彼女は弾けるように俺から距離をとった。
俺は「やりすぎたか」と思いつつ部屋に戻るべく屋上の出入り口へ歩き出した。
「まちなさいよ!」
二三歩進んだところで引き止める声がした。少女のほうに振り向いた。
「まだなんか用があるのか?」
「ごみはちゃんと始末していきなさいよ、病院が汚れちゃうじゃない。それにタバコ臭い手で髪の毛触らないでよ、臭いがうつっちゃうじゃない。それに……」
一拍の呼吸をおいて少女の口が雪崩のように言葉を紡ぐ。
「それに……私にはるりっていう名前があるんだからね」
ぽつりと最後に一言。
先程までの勢いとは全く違う、その仕草の余りのしおらしさに一瞬ぽかんとした後、思わず噴出してしまった。
「なに笑ってんのよっ」
「すまんすまん、お前さんが可愛かったんでつい……な」
俺の言葉にほんのりと赤く染まっていたるりの顔がさらに真っ赤になった。
苦笑して頭を掻きながら俺は言った。
「悪かった。俺は陽太って言うんだ。よろしくな、るり」
「……よろしくしてあげないこともないわよ」
るりはそういうと俺が差し出した手をそっぽを向きながらも握り返した。
「臭いが移るぞ?」
「なっ!」
思い切り足を踏まれた。
「また、タバコ吸ってる……いい加減やめてよね」
それから奇妙な逢瀬が始まった。
逢瀬の始まりはいつも初めて二人が会った時の様に煙草を吸っている俺をるりが咎めるというものだった。もはや暗黙の了解のようなやり取り。
「こないだ新人看護師が震えた手で点滴取ろうとしてさあ……」
「田中のおじいちゃんがな、るりにってお菓子をくれたんだぜ?」
晴れた日は青空を眺めながら広い屋上で、雨の日は雨音をBGMにしながら屋上入り口の屋根の下で。いつしかその時間はお互いにとってかけがえのないものとなっていった。
お互いの生きてきた日々のことを語り合い、暇つぶしに読んできた本のことを語り合い、病院でその日にあった出来事を語り合う。
しかし、二人ともお互いの病気のことについては触れなかった。それは暗黙の了解だったのだろう。病気の自分を認めたくなかったのかもしれない。
「将来の夢はね、素敵なお嫁さんになることなの」
「今時珍しいな。もっとバリバリ働きたいって言うのかと思ってた」
自分には来ないかもしれない将来の話。彼女の未来予想図を聞かされるのは嫌いではなかった。
「私は良妻賢母を目指してるもの。子どもはたくさん欲しいから二十歳には結婚したいなー」
「るりなら引く手あまただろ、頑張んな」
「陽太は結婚しないの?」
病気の事は言ってない。だから彼女は俺が癌だと知らないのだ。
「生憎モテないからな。出来ねえよ」
笑って誤魔化した。
「私が二十歳になっても結婚出来てなかったら旦那様にしてあげる」
イタズラっぽく笑う彼女を見て未来が動くのを感じた。きっと彼女は素敵なお嫁さんになれるだろう。どんな男が隣に並ぶのだろうか。それが自分であったら……。
「そろそろ手術をした方がいい。もたもたしてたら手遅れになります」
主治医の先生に呼ばれて言われた言葉。
そんな医師の言葉に前よりも生きたいと思っている自分がいた。るりと出逢ってから自分の世界に色が戻ってきたような気がしたのだ。
「わかりました。宜しくお願いします」
俺は気がつくとそう医師に答えていた。
手術の日が決まり、いよいよ明日に迫ったその日。
いつものように屋上に上ると、珍しくるりが先に来て空を眺めていた。
俺も隣に並んで空を眺めた。手術が決まってからは煙草は吸わなくなっていたので少し口寂しい。
「あのね、私の名前って“留まる里”って書くんだよ」
ポツリとるりは呟いた。
「誰かが帰ってくる場所になれるようにってお母さんがつけてくれたんだ」
いつもとは違う大人びた笑顔。でもその顔はどこか哀しそうで……
「たまたま聞いちゃったんだ。明日手術なんだってね……」
「怖くないよ、大丈夫。私が、貴方の、帰ってくる場所になってあげる」
俺の恐怖心を見透かされた様だった。手術の確率は五分五分。いや、もっと悪くなっているかもしれない。失敗すればるりには逢えないのだ。るりと一緒に生きたい。気付けば俺はるりを抱きしめていた。
「ありがとう。俺はしっかりと病気に勝ってくる。そしてお前のところに帰ってくるさ」
「生きたい。」
手術の前に麻酔をうたれながら強く思った。
手術が始まった。手術中のランプが点灯している林の中を俺は運ばれていた。麻酔で眠らされた中で俺はるりの笑顔を夢に見ていた。
手術は成功に終わった。術後の具合が悪くて少し体調を崩して寝込んでしまったが、経過は良好だった。
俺は起きれる様になるとすぐに屋上に向かった。そこに待っていたのはるりではなかった。
壮年の女性。どことなく知っている人に似ている気がした。
「陽太さん……ですね」
その女性は確かに自分の名前を呼んだ。嫌な予感が胸をよぎった。静かにうなずく。
「私は、あの子の……るりの母です」
そう言うと女性はファンシーな便箋に包まれた手紙を差し出した。少しその目は赤く充血しているような気がした。
「あの子の、手紙です……」
俺は手を震わせながら手紙を開いた。
陽太さんへ
こんなお手紙を思わず書いちゃいました。本当は口で伝えればよかったんだと思うんだけど伝えられなくて。私もね、陽太さんと同じ日に手術なんだよ。成功率は30%くらいなんだって。成功するかどうかわからなくてとっても怖かったんだけど。でも、陽太さんと出逢って生きたいって気持ちを、強い気持ちを貰えたから手術を受けることに決めました。えらいでしょ、私。だから私にごほうびください。私が手術に成功したらそのときは……私を陽太さんのお嫁さんにしてくださいね。こう見えてもお料理とか得意なんですよ。あ、タバコは本当に苦手なんで禁煙してくださいね。陽太さんは嫌がると思うけど私のためなら禁煙できるよね? では、手術に行ってきます。陽太さんと私の手術が無事成功しますように
あなたの未来の奥さんより
頬を熱いものが流れた。陽太は女性に向かって言った。
「この手紙……いただいてもいいですか?」
「……はい、それがあの子の願いですから」
女性はそのまま屋上を去った。屋上に一人でぼんやりとしていた。
「帰ってくる場所が先にいなくなってどうするんだよ」
やりきれない気持ちで煙草に火をつけようとして思いとどまる。
「禁煙、するか。向こうであった時に結婚してもらえなかったら困るからな」
抜けるほど青い空はまるでそこだけ雲を切り取ってしまったようであった。そしてその空には虹がかかっていた。俺にしか見えない涙の虹が。