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モニターツアーに参加します

 彩花は官舎の清掃活動のおかげで、奥様方のお付き合いに自然と溶け込むことができた。この地域の特徴や、校区のこと、スーパーの評判、病院など主婦としては欠かせないことは何でも教えてもらえた。でも、ひとつだけ得られない情報があった。


「カメラ、最近使ってないなぁ……。撮影スポットが分からない。勝手に駐屯地の周りをうろつくわけにもいかないし」


 一人の時間ができると、ケースの中で眠ったままの一眼レフカメラを取り出してため息をついてしまう。お気に入りのSNSを開けば、羨ましい限りの写真がたくさんアップされている。彩花はカメラのストラップを首にかけて、ファインダーを覗き込んだ。見えたのは寝室に飾ってある学の精悍な横顔だった。


「うわー。どうしよう、ウズウズしてきた。爆音が聞きたい、潮風が恋しい、夏祭りまでもたないよぅ……」


 学は毎日忙しいようで、ぐったりと疲れて帰ってくる。そんな状態の学に個人的な欲求は言えない。


「学さんは、見えない敵と戦っているんだって。自衛官って、大変ね。あ! いけないっ。ごみ捨てー!」


 なにげに見た時計に彩花は驚いた。ゴミは8時半までに出さなければならないのに、もう20分になろうとしている。慌ててゴミ袋を持って玄関を飛び出した。




「ふぅ。間に合った」


 幸いにも彩花たちが住んでいるのは三階で、二人分のゴミはそんなに重くない。軽やかに階段を駆け下りて、指定の場所に駆け込んだ。


「あら、幸田さん。おはようございます」


 藤崎夫人がにこやかな表情で立っていた。


「おはようございます! すみません、ドタバタしてしまいまして」


 家族会の代表は、ごみ捨て場の秩序が乱れていないかまで確認しているようだ。分別はそれほど厳しくないものの、やはり守れていない家庭もある。


「あらあら、幸田さん。今からお出かけ?」

「えっ?」


 藤崎夫人が「ほら、それ」と、彩花の首を指さした。なにがそれ? と、彩花はその指先を追う。


「ああっ! しまった。掛けたままごみ捨てに来ちゃいました。やだ、恥ずかしいっ」

「お出かけじゃなかったのね。それにしても、本当に好きなのね、カメラ」

「このあたりの撮影スポットとが分からないので、全然撮ってないんです。主人に聞こうにも、なんだか忙しいみたいで」

「夏祭り前ですものね。どこの部隊も、帰りが遅いみたい」


 せっかく駐屯地の近くに住んでいるのに、名物の落下傘はまだ見たことがない。いくら家族だからと言っても、イベントもないのに駐屯地に入れるわけもない。たまっていくフラストレーションを、彩花はどう開放するかを考えあぐねいていた。


「空港とか近くにあれば、そこで満たすんですけど……なかなか」


 航空自衛隊習志野分屯地が近くにあり、お隣さんということもあってか習志野駐屯地と合同で行事など行っている。しかし、高射隊や整備小隊など後方支援がメインのようで、航空機が離発着するような基地ではない。


 寂しそうに笑う彩花を見た夫人の藤崎は、何か考え始めた。


「うーん……そうねぇ。あ! だったら、モニターツアーに参加してみたら? うちの人にお願いすれば、一人くらいねじ込んでくれるわよ!」

「モニターツアー、ですか?」


 藤崎の夫は第1空挺団の隊員だ。年に何度か訓練風景など、一般に開放するモニターツアーがあるらしい。本来は事前に申し込み、許可が下りた人しか参加できないものだ。


「たまにはうちの人の職権っていうの? 民間人のために使ってもらってもいいと思うの。今夜、話してみる。楽しみにしていてね!」

「え? あ、はい!」


 職権を使うなんてとちょっと物騒な気もしたが、夫人のテンションが一気に上がったので、きっと悪いことじゃないと彩花は感じた。


(なんだか、ものすごく楽しい予感!)


 彩花の楽しい予感が、学にとっても楽しいものになれば、いいのだけれど……?





 それからしばらくして、藤崎夫人から連絡があった。モニターツアーは平日の午後ということだったが、専業主婦の彩花には問題なかった。


『ありがとうございます! 嬉しいです』

『行く前にうちによってね。主人から預かった入場許可証をお渡しするわ』

『はい!』


「やったー!」


 第1空挺団の訓練の様子が見られると聞き、彩花は嬉しくて舞い上がる。久しぶりの働く自衛官が見られると大喜びだ。カメラの持ち込みも問題ないと聞いて、がぜんテンションはあがった。しかし、相変わらず忙しい学にそのことを話す機会がなかなか訪れない。


 気づけばモニターツアーは翌日に迫っていた。


「まあいっか。明日の朝、話そう」


 ご飯とお風呂を済ませると、気絶するように眠ってしまう夫の学。彩花はそんな夫の頭をよしよしと撫でる。


「早く見えない敵を倒せるといいね」


 彩花は知らない。学の見えない敵こそが、第1空挺団その人たちだったと言うことを。





 そして朝。

 ふんふんふん〜と、鼻歌交じりに彩花は朝の支度をした。疲れている学を気づかい、最近はギリギリまで寝かせている。もちろんあの起床ラッパを再生すれば、ビシッと締まった顔で起きてくる。


「おはよう。学さん」

「おはよう。ごめんな、すぐ寝ちゃって」

「気にしないで。その代わり、夏祭りが終わったらいっぱい相手して?」

「うん」


 チュ……。

 会話が少なくなったって心は通じているからと、どちらともなく交わしたキス。たったそれだけで、心が温かくなる。


「離れたくないよ。ずっと彩花にくっついていたい気分だ。彩花の匂い、もうちょっといい?」

「ん、ちょっとだけだよ」


 玄関を開けたらまた戦いが始まる。いつ彼らは接触してくるのか。全神経を研ぎ澄ましたまま仕事をするその環境は、学にとってまさに戦場と変わらない。


(マジで、早く攫って吊るしてくれ! もう、もたないってー!)


 心の叫びをおし殺し、愛する妻の唇を貪り、鼻を首元に擦り付ける。男はどうしてこうも弱いのか。女がいなくちゃ生きていけない。彩花なしなんて考えられない。そんなことを考えながら、出勤時間ギリギリまで甘い匂いを胸に吸い込んだ。


「んっ、学さんっ……」

「ごめん。やりすぎ? でもお蔭で燃料満タンだ。ありがとう」

「うん。あまり無理しないでね」

「無理ができなきゃ、自衛官失格だってね。よし! 行ってくるよ」

「行ってらっしゃい! がんばって」


 朝食もそこそこに、学は出勤した。


(あ、言うの忘れてた。今日、おじゃまするってこと)


 結局、モニターツアーのことを話せなかった。でも、それでよかったのかもしれない。自分が行くとわかったら、きっと学のことだ。いらぬ気をもんで、今以上に疲れてしまうのは想像がつく。


(見かけたら手を振るくらいは、いいよね)





 藤崎夫人の部屋により、駐屯地入場許可証を受け取った。駐屯地まではバスで行くことにした。彩花は久しぶりに感じる肩の重みに、ニヤける顔は隠せない。


(空挺団の訓練ってどんなだろ。やっぱり、見た目も怖いのかな……。ムッキムキの厳つい軍団)


 彩花が一度も触れたことのない部隊なだけに、想像はどんどん広がる。もう頭の中では、とんでもなく恐ろしい姿になっていた。


 15分ほどで、習志野駐屯地についた。門の前に行くと、モニターツアー参加者らしき人たちが入り口に立っていた。彩花が行くと、身分証と入場許可証の確認を求められた。帰りはここで、許可証を返却しなければならないらしい。


「では、担当者と一緒に入場してください。お気をつけて」


 警務隊の隊員だろうか、モニターツアー参加者に向かって敬礼で見送る。彩花はいつもの調子で敬礼で返してしまった。でも、厳しい顔つきの隊員も、それをみて思わず頬を緩める。


「皆さん。おはようございます。本日、モニターツアーを案内させていただきます千葉地本の田中です。宜しくお願いします」


 千葉地方協力本部からやって来た隊員は、なれた様子で駐屯地内の建物を案内する。地方協力本部とは、簡単に言えば全国の主な地域に設置された自衛隊の窓口だ。そこに勤める隊員も陸海空それぞれからやって来た現役隊員が多い。広報活動や、入隊希望者への試験の案内、各部隊のイベント情報の発信など自衛隊と地域(民間)を繋ぐための重要な役割を担っている。


「もう皆さんはご存知と思いますが、習志野駐屯地と聞くと第1空挺団を思いうかべますよね。もう代名詞のような彼らなんですが、陸上自衛隊のエリート集団でもあるのです。頭脳明晰だけではなれませんで、身体能力も求められます。頭、体、そして人間力にも優れていなければなりません」

「人間力、ですか?」


 誰かがそう質問をした。千葉地方の田中は「はい、人間力です」と頷き言葉を続けた。

 彼らには空挺団という誇りと、どの部隊にも負けない強靭な体、戦闘能力の高さに加え、揺るがない結束力があると自負している。


「己の力を信じ、そして仲間を信じぬく強い心。これがなにより大事なんです」


 作戦によっては高度8000メートルから飛び出すこともあるという。降下の命令があれば、秒単位の等間隔で飛び出していく。そこに、待ったはないのだ。


「これが初期訓練で使われる、降下訓練棟です。空挺団だけではなく、航空自衛隊のパイロットも時々やっていますね。緊急脱出(ベイルアウト)で、空に飛び出したあとの対処訓練です」 

 

 説明を聞いて、彩花は自分の服の胸元をぎゅっと握った。その握った手には汗が滲む。


(こんな、命がけの任務があるなんて……藤崎会長のご主人も飛ぶのよね。私なら心配で息が詰まりそう)


 学は通信部隊。有事が起きたとき、真っ先に通信確保をする部隊。もちろん戦場に飛び込むことになる。けれど、訓練でこれほどまでに危険にさらされることはない。口には出せないが、愛する夫が空挺の隊員でなくてよかったと密かに思った。


「おっ、早速、飛び出し訓練のようですね。では、あちらに移動しましょう。訓練の様子が見られます」


 一列に並んだ隊員が、規則正しい行進でやって来た。やはり体格も他の部隊の人間より大きく見える。そんな風にじっとやって来る隊員を見ていた彩花の目に、信じられないものが映った。


 隊列の一番後ろ、一人だけ消極的な雰囲気を醸し出して歩む者。


(え……まさか、ね)


 嫌なリズムで心臓が胸を叩く。


 ドク、ドク、ドク、ドク……


 恐る恐るカメラを起動。ファインダーを覗いて、ゆっくりとレンズを伸ばしそこに焦点を合わせた。


 ドク、ドク、ドク、ドク……


 そこに見えたのは、彩花が間違うはずがない人物。朝、にこやかに行ってくると出ていった男。


 幸田学、その人だった。


(うそー!! うそ、うそ、うそ、嘘だと言ってーー)


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