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一人暮らしを、始めようと思う


 思った以上に春の訪れは強烈だった。幸田が思う春は四季の春ではない。彩花と知り合って顔面偽装がきっかけで付き合うようになったことだ。本当はいい大人だから、もっとロマンチックな展開を思い描いていたのに、幸田の心は彩花に振り回されてばかりだ。


(本意ではなかったが、最終的に俺は大変満足した結果になった......よな?)


 予想外の展開に心乱されて、想像を超えた彼女の行動に幸田は意外にも幸せだった。男なら! と力んでしまいそうになると、彩花が見事にそのフラグをへし折るからだ。

 それはとても無邪気に、そしてとても残酷に。


(俺って、М体質だったのか?)


「おい、幸田」

「ん?」

「さっきから百面相が酷いな。おまえ最近顔の筋肉よく動くよな。で、何見てんだよ。同室の俺に隠しても無駄だぞ。もしかして、新しいエロ本っ」

「そんなわけ、あるかー!」


 幸田は同期の増田が後ろから覗き込んできたので、見ていた本で額をパーンと叩いた。


「いってぇ。なんだよこの分厚いやつ......おい、おまえ此処を出るのか! まじかー」


 幸田が百面相しながら見ていたのは部屋探しの本だった。几帳面な幸田らしく、候補と思われるページにご丁寧に付箋を貼ってある。増田は驚いた顔で本をめくっていた。


「小隊長、これは大変だ。おまえさっさと昇任しないとこの部屋は厳しいぞ。まて、そうか相手も社会人だったな。だったらイケそうだな。うわぁ、この部屋なんて女子が好きそうだな。カウンターキッチンだってよ。キングサイズベッドが入る部屋! くそー」

「おい」


 増田が見ていたのは新婚さんにおすすめの物件というページだった。実際に幸田が見ていたのは単身用なのだが、勝手に盛り上がった増田に幸田の声は届かない。


「でもな、幸田小隊長。残念ながら我々幹部はだな。二年か三年おきに異動が言い渡される。陸はあちこちに駐屯地があるからなぁ……。おい! お前の彼女はついてきてくれるのか、それとも」

「まだそこまでの話はしていないよ」

「早めにしておいた方がいいぞ。相手は自衛隊の事なんてなんにも知らないんだろうからな」

「まあ、そのうちな」


 増田が言うことは確かだ。これから長く付き合えば必ずやってくる辞令を、一端の幹部である幸田が拒むことは難しい。それに、幸田は自分に与えられた任務に誇りを持っている。泣き付かれても振り切って行くつもりだ。


「まあ、最低でもあと二年は動かないだろうから精一杯楽しむんだな。あとのことはそれから考えればいいさ」

「ああ」


 そうだ、まだ始まったばかりなんだ。先のことばかり考えて悩むのはよそう。幸田は再び部屋探しに没頭した。



 

 そして、数日後……。


『今度の土曜日ですか? はい、大丈夫です』


 幸田は電話で彩花に今週の土曜日は空いているかとスケジュールの確認をした。


『どこかにいくんですか? あ、カメラ』

「あっと……カメラはなくていいと思うよ。単なる下見だからさ」

『下見?』

「そう。実は俺、基地から出ようと思っている。その、一人暮らしをしようかってとこだ。とは言っても基地からあまり離れることはできないんだけどさ」

『なるほど! そういう事なら私も力になれると思う』

「彩花は一人暮らしの先輩だもんな。宜しくご指南たのむよ」


 こうして幸田は彩花と物件探しに行くことになった。





「ところで彩花さん。その肩から下げているカバンは」

「カメラです!」

「やっぱり……。残念だけど、今日はその手の写真を撮る暇はないと思うよ? こういうのって一日仕事だっていうからね」

「分かっていますよっ。でも万が一のチャンスは逃したくないですよ」


 「まったく……」とため息混じりに呟く幸田の背中を「さあ、さあ」と機嫌よく彩花は押した。

 二人は予め予約しておいた不動産屋のドアをくぐった。


 幸田は事前に何件か自分に相応しい物件をピックアップしていた。いづれも基地から徒歩圏内のもだ。なぜなら幹部である幸田は、いつ緊急招集がかかるか分からないという理由があったからだ。


「どちらも中をお見せすることができます。さっそく、行ってみましょうか」

「はいっ!」


 幸田より前のめりで、幸田よりもやる気のみなぎった彩花が元気よく答えた。


「俺の部屋探しだよな、たしか」


 思わずそんな愚痴がこぼれてしまう。全く気にしていない彩花が、物件の周辺情報や間取りに陽当たり、どんな人が住んでいるのかを真剣に聞く。そのせいで不動産屋も誰が申込者かをすっかり見失って彩花に全部話してしまう。


(まあ、いいか。お蔭で客観的に分析できそうだ)


「こちらですね。基地にとても近いので建物の高さも市内に比べて低めです。窓はご存知の通り騒音防止のため二重窓になっています。オートロック、防犯カメラ、訪問者の記録もされますのでセキュリティに関しても問題はないでしょう」

「凄いですね。私が今住んでいるマンションにはないです」


 基地に近いと訓練などの音は避けられない。記念行事には戦車から放たれるドン! という音は窓ガラスが揺れるほど。この地域は特別な補助金が出ており対策は万全なのだそうだ。


「自衛隊さんの特殊車両やヘリコプターの音の問題。それに、いろんな人が所属していますからね……あっ、すみません」

「いえ」


 今になって不動産屋のスタッフが幸田に気づき、申し訳なさそうに頭を下げた。

 基本的には自衛隊に好意的な世の中になってきた。しかし、やはり良く思っていない人がいるのも確かだ。スタッフが言う「いろんな人」には多くの意味が含まれている。


「我々もご迷惑をかけないように気をつけます。中を、いいですか?」

「はい! 勿論です。えっと、このマンションは自衛隊さんのご家族も入居していますから、悪くはないと思います、はい」


 二人はエントランスホールを抜け、部屋に続くエレベーターに案内される。

 そのとき急に、彩花が幸田の手をぎゅっと握った。幸田が彩花に視線を向けると、眉間にシワを入れた難しい顔をする彩花と目があった。


「どうかした?」


 小声で幸田が聞くと、「どうもしないよ」と言ってまた、幸田の手をぎゅっと握り直した。


(いや、絶対になにか難しいこと考えてるだろ。口が、への字になってるし……。この短い間で何があったんだ。さっぱりだな)


 女の子は難しい。そんな事を幸田は考えたいた。



「わぁー! 学さん! 基地の運動場が見えますよー! 丸見えだっ」

「え、マジで?」


 案内された部屋は、基地のフェンスを下に望む場所だった。建物は木々で隠れているが、訓練などで使う運動場はよく見えた。


「なんか、アレだな。見えるほど近いのも良し悪しだな」

「ここがいい! ここにしましょう? 学さんが頑張っている姿が見れるもの! あっ、そうだ」

「え、彩花さんっ」


 スマートフォンを取り出して、部屋のあちこちを撮影し始める。勿論、スタッフに許可を得て。


「カメラじゃ、ないんだ」

「ふふ。カメラはこっち!」


 もう一度ベランダに出て、自慢のカメラを基地に向ける。同じくベランダに立った幸田越しにパリャリ、パリャリとシャッターを下ろした。


「ちょ、なんだよ」

「私服姿の学さん越しに見える隊舎を撮りました。素敵ですよっ。この広さなら三脚を置いても邪魔にならないよね」

「俺よりそっちなんだもんなぁ……」

「だって、ここに居たら何時でも学さんを近くに感じる事ができるでしょう? 私がここに引っ越しちゃおうかな」

「彩花さん……」


 カメラは大事。この大事なカメラであなたをたくさん撮りたいの。ここにいればあなたを沢山感じられるから。そんな風に言われたら、嬉しいに決まっている。


「すみません。ここに決めます」

「ありがとうございます!」


 幸田としては、本当はもう少し家賃が手頃な部屋にするつもりだった。二間もいらないけど、彩花が気に入っているならと決心をした。


(結局は、彩花の為なんだろうな……。じゃなきゃ引っ越しなんてしない)


 こうして幸田の部屋探しは呆気なく決まった。

 そして、その帰り道。


「学さん。楽しい一人暮らしになるといいですね! お休みの日もゆっくりできます」

「彩花さん。俺の一人暮らしには君がいないと意味がないんだ。君との時間をもっと作りたい」

「遊びに行っても、いいんですか?」

「当たり前だろっ。住んでくれたって構わないくらいさ。じゃなきゃ、一人暮らしなんてするもんか」

「あ、学さんたら。そんなこと言ったら、本当に居座っちゃいますよ」


 彩花にとってメリットがありすぎるあの部屋は、幸田のメリットにもなる。きっとあのベランダから、隊員の姿を撮るのだろう。それでも、彼女が楽しく通ってくれるならなんてことはない。


「だから、いいって言っているだろ」

「学さ……んっ」


 彩花の駆け引きのない無邪気な笑顔に我慢できなかった。人通りが少ないことを確認して、幸田は彩花の唇を奪った。


「もう……こんなところでぇー」

「ごめん。我慢できなかった。それより、今日さ下見のマンションについた時、不機嫌になっていただろ。理由を教えてくれる?」

「え、覚えてたんですか!」

「眉間のシワ、初めて見たからさ」



 二人は彩花の部屋に帰ってきた。リビングにあるソファーに座ると、さっそく眉間のシワの理由を話し始める。


「不動産屋さんの言い方が、嫌だったの。セキュリティが万全なのは自衛隊の基地が近くにあるからみたいな、言い方。いろんな人がいるからって……まるで学さんたちのことみたいに」

「彩花」

「嫌なんだもん。そりゃ、いろんな人いると思うけど……。みんな国のために働いている人たちだよ。学さんの仕事は胸を張って誇れるものだよ。だから、悪いなって思ったりしないでね?」


 彩花が泣きそうな顔をしている。それを見た学は堪らず抱き寄せた。


「そんなこと、気にするなよ。俺は誰から何を言われてもへこたれたりしない。彩花さえ分かってくれていれば、何も望まないさ」

「学さんは欲がないです。もっと怒ったりして、いいんですよ!」

「欲はたくさんあるさ。一人暮らしが叶ったんだ。それは俺の欲望の始まりだよ」

「欲望の、始まり?」

「そう。こんなこと、たくさんするんだ。覚悟をしておいてくれ」


 幸田がソファーに彩花を押し倒した。さすがの彩花もどういうことか分かっている。


 だから。


「自衛官さん、お手柔らかにお願いします」

「なっ」


 無意識に煽って、欲望に火をつけるのはやめましょう。



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