白い部屋
プロローグ
白い部屋に男が2人、女が3人いた。私はそれをどこか上の方から見ていたようだ。男女5人は特に知り合いというわけでもなく、会話もなく、ただ、そこにいる。そこに存在するだけで他に何か明確な意思などないように見えた。白い部屋はどれくらいであろう。きっと、いや多分、8畳ほどのスペースだった。数分経っただろうか、1人の女が叫ぶ。私を殺して。1人の男が声を上げる。俺がやる。男が女の首を絞める。女は抵抗しない。動かない。動かなくなった。5人が4人に減った。それ以外、白い部屋の状況は何も変わらない。ただ、私はそれをどこか上の方から眺めていた。
朝、目が醒めると目の前には見知った天井が映った。目覚める直前に何か呟いたようだが、なんだったろうか。そんなことを考えながら、朝の支度を始めた。
私は、不動産会社に勤める普通の、ごく一般的な20代後半の男、柴田である。都内で一人暮らしをし、休みの日には友達と飲みに行く。ごく一般的な20代後半の男から外れる項目があるとすれば、それは恋人がいないということだけだろう。今の会社に勤めてもう5年目になる。5年目というと新人ではない。それなりに責任感というものも出てくる。ふと時計をみる。時計の針は8時46分を指していた。責任感など私は感じたことはない。少し急いで準備をして、私は家を出た。遅刻だ。
会社に着くと上司の佐々木が駆け寄って来る。呆れ顔でいつもの台詞を吐く。私もいつもの台詞で返す。呆れ顔の上司は、少しムッとして去って行く。私は自分のデスクに向かう。月に2.3度はこの状況になる。寝坊癖は直らないと私は思う。だから、正直に上司にも伝える。寝坊です。と。これが私のいつもの台詞だ。
デスクに座ると隣の社員が話しかけてくる。また寝坊したの?と。彼女は同期の小池だ。仕事に愛され、仕事を愛しているような女だ。外見も悪くない。だが、性格は残念だ。ああ。それだけ答えてパソコンの電源を入れる。彼女の性格が残念だという理由は大きく分けて2つある。1つは、口の悪さだ。口の悪さは育ちの悪さである。と、よく言われるが、彼女には当てはまらない。うちは大きい会社であり、業績も高い。そんな会社の社長は良い暮らしをしているはずだ。彼女はそんな会社の社長令嬢である。育ちが悪いはずがない。悪いのは口だけだ。ちなみに私はそんな会社に勤めていても給与が低い。理由は言わなくてもわかるはずだ。この会社でごく一般的な20代後半の男なんて私くらいだ。もう1つの理由は、単純に男関係の噂が多いというものだ。これは9割が私の嫉妬であることは有無を言わせぬ事実である。認めよう。
あんたまじで遅刻ばっかだね。彼女が言う。ああ。私は適当に答えながら今朝見た夢のことを考えていた。いや、考えたかったと言う方が正しい。実際には、今朝見た夢の記憶はもう残っていない。夢なんて起きてからなにかしらの行動を起こせば忘れてしまうものだ。だから考えていた。私はどんな夢を見たのだろう。そんなことを考えつつ、業務をこなし、定時を迎え、家に帰る。これが最近の1日の過ごし方だ。
数日前からだ。あの夢を見るようになったのは。夢の内容は思い出せないが、同じような夢を見ていることは明確に覚えている。どうにかして夢の内容を思い出すことができないか考えることが日常になってきている。あの夢の中に行きたいとさえ思った。覚えてもない夢の中に。
ある日の休日、私は大学時代の友人と会うために家を出た。この日も移動中はあの夢のことを考えていた。正確にはあの夢の内容を思い出すために考えていた。だが。友人に会ってからも少しの間考えていたが、そのうちに考えるのをやめた。大学時代の話で盛り上がる雰囲気に飲まれたのだ。終電まで酒を飲み、昔話で盛り上がる自分はいい歳になったと酔いの中でそう思った。
ふと気がつくと電車を降り、ホームに立っていた。家の最寄り駅ではない。会社の最寄り駅だ。やってしまった。少し飲みすぎたか。このホームにもう電車は来ない。朝を待つには寂しすぎるホームを後にし、私は歩き出した。向かう先は会社しかない。鍵はある。始発までそこで過ごそう。家まで歩ける距離ではないし、金もない。酔いの中、妥当な判断をした自分を褒めてやりたい。会社に着くと妙な違和感を感じた。明るい。時刻は深夜の1時を回っている。こんな時間までやっている不動産屋などあるだろうか。少なくとも私は知らない。鍵は閉まっていた。私は鍵を開け、扉を開く。ロビーを歩く。明るい光が漏れるオフィスに向かって。キーボードを叩く音、おしゃれな音楽、人の気配。オフィスの扉を開ける。そこにいたのは、小池だった。社長令嬢の。そう。性格の悪い。
びっくりした。彼女はそう言うとどこか安堵の表情を浮かべた。なんでこんな時間に。私は言う。暇だったから仕事をしてたの。彼女は答える。相変わらず理解に苦しむ。休みの日に暇だから仕事をする。もはや休みではない。出勤である。しかもこんな遅い時間に。あんたはなんで。彼女は問う。終電を逃した。説明を極力省き答える。そう。興味無さげにパソコンの画面に目を移しながら彼女は言った。私はそれ以上話しかけることなく、応対スペースのソファに横になる。記憶が遠くなる。意識が薄れる。体が海に沈む感覚。深く深く。そこで微かに聞こえた声。私を殺して。誰だ。今の声は。私の体は深海から急浮上する。誰だ。起き上がる。ソファから飛び起きる。目の前には対面したソファに横になり、寝息を立てる小池がいた。時刻は深夜の3時過ぎ。私の目は完全に醒めていた。
私を殺して。その声はどこか悲しげで懐かしい響きをしていた。私を殺して。なぜ。私を殺して。誰に言っているのか。私を殺して。私を殺して。
小池は6時ぴったりに起床した。アラームもかけずにだ。私は、あの声を聞いてから一睡もしていない。ひたすらに考え、ひたすらに悩んだ。あの声の主を。
おはよう。彼女は言った。私に対してではない。彼女は彼女自身に言ったようだ。大きく伸び、大きな欠伸をし、彼女は荷物をまとめ始めた。起きて数分でこの行動力。私には到底できないことだ。まだいたの。ほら、あのおはようはやはり私に向けられたものではなかった。ああ。私はそれだけ言ってオフィスを出る。また月曜に。背中に投げかけられた言葉に返事をすることなく、会社を出た。今日は日曜だ。つまり、昨日は土曜だった。
家に着いてからも考えることは変わらなかった。あの声の主。誰だろうか。気になった。何故そこまで気になったのか。忘れないからだ。あの声が現実ではなく、夢であったのは理解している。なら、何故忘れないのか。何故、記憶から消えていかないのか。今まで夢の中で聞いた声など覚えていないのに。どこか懐かしい声の響き。そして言葉の意味。私を殺して。誰を。誰なんだろう。あなたは。
白い部屋には、男が2人、女が2人。女だったモノが1つ。この部屋は決して何もないわけではない。ドアもあれば窓もある。外の景色も見える。男は言う。次は誰だ。もう1人の男が手をあげる。俺だ、頼む。男は立ち上がる。もう1人の男も立ち上がる。また、首を絞める。動かない。動かなくなった。倒れこむ。白い部屋には、人間だったモノが2つに増えた。その全てが俯瞰の映像として私の目には映っていた。
目が醒める。違う。いつもと違う夢だ。待て。忘れるな。忘れるな。紙とペンを手に取る。書く。消えていく記憶の断片を。白い部屋。男女。モノ。ここで記憶は完全に消えた。意味不明なメモだが、私は微かな達成感のようなものを感じていた。時計に目をやる。6時ちょうど。今日は月曜。遅刻しなくてすみそうだ。
会社に着くと上司は駆け寄って来ない。デスクに座り、パソコンの電源をつける。隣から小池の声。月曜なのに早いじゃん。皮肉を込めた言い方も今日は可愛く思えた。たまにはいいだろ。彼女は目を丸くした。きっと彼女に対してしっかりと応答したのは初めてのことだったからであろう。パソコンの画面が明るくなる。メモを取り出す。白い部屋。男女。モノ。この3つのワードが私をワクワクさせた。何もない状態から考えるよりも可能性がある。夢を探る可能性が。それだけで私の世界は明るくなったような気がした。重大な事件の手がかりを掴んだように。そして、私の世界は考えることによって広がっていく。白い部屋。男女。モノ。この言葉によって。
その日は業務もスムーズだった。物件のまとめ。来客の対応。電話応対。全てがうまくいった。そして定時で仕事を終え、帰宅する。家に着いてからはひたすらに考える。夢について。飯の時も風呂に入ってもトイレにいても。しかし、思い出すことはできない。わかっているのは、いつもと違う夢だった。ということと、夢の断片をメモできた。という事実だけだ。ふと思った。何故いつもと違う夢を見たのか。何か特別な要素があったのではないか。酒か?いや酒は毎週末飲んでいる。いつもと違ったこと。会社だ。会社のソファで寝た。それだ。そう思った時にはもう家を出て駅に向かっていた。
会社で寝れば、また違った夢を見れるはずだ。会社に着くまではワクワクしかなかった。会社に着くまでは。また会社が明るい。うちの会社は残業したとしても20時までだ。今は22時を過ぎている。ということは。オフィスの扉を開ける。やはり。小池がいた。彼女もまたか。という顔をしてこっちを見ていた。お互いどちらから話し出すか伺っているようだった。おしゃれな音楽がただ流れていた。話し出したのは彼女だった。今日も終電逃したの?まだ22時過ぎだ。終電はある。わかった上で言っているのだ。やはり、この女、性格に難あり。だ。私は何も答えず、ソファに横になる。目的は彼女に会うことではない。違う夢を見ることだ。彼女は関係ない。そこで気がつく。待てよ。私はここで寝た時、夢を見たか。私を殺して。その声に起こされて。寝れなくて。それから。
やってしまった。私はここで新たな夢を見ていない。いつもと違う夢を見たのは家に帰ってからだ。ここじゃない。落ち込んだ。自分の考えの足りなさに。どうしたものか。帰るか。いや、でも、あの声を聞けるかもしれない。あの声。懐かしいあの声。そう考えるとここで寝るのも悪くないと思えた。そして、私の体はソファに落ちていく。深く。深く。
目が醒めた。違和感しかない。その違和感に気がつくのはすぐだった。夢を見ていない。時計は6時ちょうどだ。しっかりと寝ている。しかし、夢を見ていない。何故だ。夢を見ないことなどなかった。夢にとらわれてから今まで一度も。それが今日、突然、見れなくなった。絶望しかなかった。そんな絶望の中、声が聞こえる。私を殺して。声がした先に目をやる。小池がいた。私を見ている。そしてまた、囁くように言う。私を殺して。その声は、どこか懐かしく、どこか悲しげな、あの声だった。
全く理解が追いつかなかった。何故、彼女がその言葉を。何故、同じ声で。何故。しかし、一番の 何故 は私自身だ。彼女に何も聞かず会社を飛び出してしまったのだ。知りたかった声の主、それがいきなり目の前に現れた。しかも、意外過ぎる形で。その現実を受け止める器を私は持ち合わせていなかった。夢が現実になった瞬間というのは、喜びなどではなかった。恐怖だった。今まで頭の中でしか聞いたことのない声。それを耳を通して聞く感覚。底知れない恐怖が私を襲い、その場にいることを拒絶した。気付いた時、私は家に帰ってきていた。今日は火曜だ。会社がある。時刻は8時46分。9時には到底間に合わない。会社に行けば○○に会うことになる。私は会社を休むことを決め、布団に潜った。ひたすらに恐怖と戦いながら目を閉じた。
白い部屋には、男が1人、女が2人、女だったモノが1つ、男だったモノが1つ。白い部屋は、ただ白いわけではない。窓枠は温かい木目調だし、ドアノブはアルミの銀だ。男は言う。次は。女が言う。わたしは嫌。男は女に近づく。女は逃げる。捕まる。首を絞める。暴れる。暴れる。暴れない。動かなくなった。白い部屋に、モノがまた1つ増えた。もう1人の女は、ただその光景をじっと見ていた。その全体を私はじっと見つめていた。
起きた。外はもう暗くなっている。また違う夢だ。でも、そのことに関して喜びもワクワクも感じなかった。頭の中は、あの声で支配されていた。私を殺して。耳から入ってきたあの声。○○の唇から放たれたあの言葉。私の脳内で響いていたあの声、私しか知らないはずのあの声。それを何故。
携帯を見る。着信があったようだ。会社、会社、会社、小池。小池の番号は電話帳に入れていたが、着信があるのは初めてのことだ。会社からの連絡は大体想像がつく。無断欠勤をしてしまったのだ。もうあの会社にはいられないだろう。会社としても、お荷物を排除できる理由ができてよかったのではないか。今の私にとってはどうでもいいことなのだが。携帯を投げ捨て、立ち上がる。そして、考える。自分の良いように。
あの声は、本当に私の知っている声だったのか。似ていただけでは。寝起きだったし、その可能性の方が高いはず。そう考えた。そして、その考えを肯定する何かが欲しくて、私は、携帯を手に取り彼女に電話をかけた。
コールが私の耳に鳴り響く。彼女が電話に出た。私が話し出す前に彼女が言う。
私を殺して。
背筋が凍った。とっさに、通話を切った。あの声だった。私の自己肯定した考えは一瞬で崩れ去った。間違いない。あの声だ。間違いない。あの声の主、小池だった。私の求めていた相手は小池であったのだ。私は、家を出る。向かう先は会社だ。そして小池の元だ。会社に向かう途中、人とぶつかった。イヤ。ぶつかった女が小さく言った。しかし、私は振り向くことなく、会社へと向かった。
案の定、会社は明るさを保っていた。オフィスの扉を開けると小池が私を見た。なぜだ。私は彼女に問いかけた。彼女は微笑みながら答える。なにが。この女の悪いところだ。わかってることを聞いてくる。あの言葉、なぜ君が。私は問いを続ける。彼女は言う。私を殺して。背筋が凍る。身が固まる。面と向かってその声を聞くのは、やはり恐怖だった。彼女は話し出した。
白い部屋って知ってる?私は目を丸くした。私以外に白い部屋の存在を知ってる人がいる。しかもそれを他人に話す人がいる。頭の整理が追いつく前に、私は頷いていた。そして彼女は言った。やっぱり知ってるんだ。その言葉の意味はよく分からなかった。やっぱり?とは。しかし、それを問うことはできなかった。口が動かなかった。唇が離れなかった。彼女は続ける。白い部屋には5人の男女。そうでしょ。私は頷くことしかできなかった。
あなたはどっちから見てた?と問う彼女。どっちから?どっちからってなんだ。どこからでなく、どっちから?私は上から見てたはずだ。私は。
上、か。唇が離れた。私は頭の中で考えた言葉を、理解する前に言葉にしていた。確かに、私は白い部屋を上から見ていた。まるで模型の部屋を見るように。彼女は、顔を歪めた。上から?私には聞こえないような声量で呟いた。あんたはどっちなの?男が2人のうちのどっちだったの?彼女は興奮したように言った。どちらでもない。私はただ、上から見ていただけだ。と言った。彼女の興奮で赤らめた顔が青ざめていくのがわかった。彼女は黙ってしまった。私は、ふと気がついた。夢の内容を思い出している。私は夢を思い出している。鮮明に。今まで見た夢を。そこで考える。私を殺して。この言葉は間違いなく、小池の言葉だ。そしてその後どうなる。一人の男が、俺がやる。そう言って女の首を絞め、殺す。その男も、他の男も女も実際にいるのか。思い出す。他の男女の声。思い出せる。殺していく男の声。殺される男の声。殺されたくなかった女の声。しかし、最後の女は声を発していない。ゆえに、わからない。しかし、他の男女の声はどの声も聞き覚えのある声だった。誰であったか。この声たちの主は。そこで、声がした。教えて。小池だ。彼女が私に話しかけている。ふと我に帰った。そうだ、今目の前に小池がいたのだ。そして、教えてと言っている。教えて。なにを。わからない。彼女は続ける。私は死ぬの?と。夢の話か。私は答えた。
あの声が、私を殺してと言ったのが君なら、死ぬ。男に首を絞められて死ぬ。
私は事実を伝えた。そのことに対してなにも感じなかった。なんせ、あの出来事は夢なのだから。ただの夢なのだから。
彼女は黙って頷いた。消え入りそうな声で、そう。と呟いたようにも聞こえた。それ以上、彼女はなにも言わなかった。私もなにも言えなかった。沈黙がただ流れた。
その日を境に、環境は変わった。まず、私は会社をクビになった。当然のことで驚きはなかった。私は無職になった。驚いたのは同じ日に会社を辞めた小池に対してであった。
あの日、白い部屋の話をしたあの日。彼女は、私の答えを聞くと数分黙った後、会社を出て行った。私も会社を出て家に帰った。そして今日、私も彼女も会社を辞めた。何故、彼女が会社を辞めたのかはわからない。理由を聞くこともない。会うこともないだろう。
無職になった私は、ただ、ぼーっと毎日を過ごしていた。あの日以来、夢は見ていない。白い部屋はもちろん、夢自体を見ていないのだ。白い部屋について気になることは沢山あった。夢の続き、聞いたことのある声の主たち、そして、声のわからない一人の女だ。しかし、考えても考えても答えは出ない。考えるのに疲れてしまった。
とにかく今は、職を探さなければ。そう思い、私は電話をかける。相手は、大学時代の友人、伊東だ。彼は、大学卒業後に就職した会社で業績を上げ、今では人事部長をしている。会うたびにうちに来いと言われていた。職がなくなった今、縋るのは彼しかいなかった。電話が繋がる。手短に現状を説明する。とにかくあって話そうという彼の申し出を受け、日程を決め、電話を切る。私は、わずか数分の会話に違和感を感じた。その違和感を押し殺した。明日、彼に会う。
私は、駅構内のカフェにいた。来たことのない駅だった。伊東との待ち合わせだ。大学時代の友人としてではなく、企業の人事部長として彼に会うのは少し緊張した。すぐに彼はやってきた。平日ということでスーツ姿だ。予想以上に似合っていた。おまたせ。彼は言う。そして、続ける。会社辞めたんだ。私は頷く。そうか。彼は言った。そして、彼に会社に拾ってほしいと言った。雑用でもいいと。彼はわかったと言ってくれた。持つべきものは友だ。と生まれてはじめて思った。仕事を抜けてきている彼はすぐに行くと言った。私も出る。2つのコーヒーカップを片そうとした時、彼が言った。
俺がやる。
耳を疑った。この言葉、この声。やはり。この声は、あの声だ。あの男の声だ。同じワードが出て、確信に変わる。電話で話した時、感じた違和感。それは、伊東の声があの男の声とそっくりだということだった。固まる俺を尻目に彼は会社へと戻っていった。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
あれから少しして、頭の中を整理しようと試みた。試みたが、大きな動揺が邪魔をした。あの声。俺がやる。その言葉。間違いなかった。彼はあの男だ。そして帰り道、私の頭の回転数はどんどん加速した。一番最初に殺された女。私を殺して。そう言った女は○○だった。そして、俺がやる。そう言って殺した男は旧友である彼だ。そうなると後の3人は。殺された男。殺されるのを拒否したが殺された女。そして、言葉を発しなかった女。私は声を探った。もう忘れることなどできないほど、夢の中で聞いた声は脳内に焼きついていた。
殺された男。彼の声も聞き覚えがある。どこだ。どこで聞いた。毎日のように聞いていた声だ。誰だ。俺だ、頼む。そう言ったその声の主は。ふと、蘇る。退屈な日々。そして、月に2.3度聞く台詞。
また寝坊か、頼むよ。まったく。
上司だ。あの声は、上司の佐々木だ。寝坊して会社に行った時に言われるいつもの台詞。
俺だ、頼む。
そうだ。あの男は、佐々木の声だ。特に嫌いでも好きでもない上司の声だったのだ。もう私の頭の回転数は落ちない。どんどんスピードを上げる。まるで坂道を転がる石のように。
では、あの女は。わたしは嫌。そう言って逃げ回ったあの女は誰だ。わたしは嫌。わたしは嫌。
わたしは
嫌。
イヤ。
はっとした。この言葉、そしてその声。あの時の。小池の元へ、会社へと向かった時にぶつかった女。イヤ。その声。イヤ。そうだ。だが、ここに来て、まったく面識のない人物の声と認識してしまったことを疑問に思った。知らない人が夢に出てくるだろうか。ぶつかっただけの顔も知らない人が。疑問は増える。もし、出てくるとしたら。もう一人の女はまったく知らない人である可能性が高い。声も知らない。その女を見つけることは不可能だろう。夢の中の5人のうち、4人の正体を掴めたと思った瞬間に絶望も掴んでしまった。私は考えるのをやめた。思考を停止したのだ。全ての。すっと眠気が襲ってくる。深い。深い。深海へ。
白い部屋には、男が1人、女が1人、人間だったモノが3つ。白い部屋にあるのは、ドアと窓、そして、花瓶だった。花瓶だけだ。そこに花は存在しない。男が言う。お前はどうする。女は黙っている。男が女に近づく。手を伸ばす。女の首元へ。その瞬間、女は言った。あなたはだれ。男は死んだ。首から血を吹き出し、倒れた。女の手にはナイフ。血が滴るナイフが握られていた。そして、女はナイフを私に向ける。あなたはだれ。
まるで息を止めていたかのように飛び起きて呼吸を荒げた。女が言葉を発した。声を聞いた。そして、私に話しかけた。頭を整理する。男は死んだ。3人殺した男が、決して言葉を発することのなかった女に殺された。ナイフで。そして、言った。あなたはだれ。あれは私に向けられた言葉だ。私に向けて発した声だ。しかし、その声に聞き覚えはなかった。懐かしさも心地よさも感じなかった。機械的で冷たい、知らない声だった。
携帯が鳴った。小池からだ。身体が固まった。なんだ。正直なところ、彼女の存在は忘れかけていた。携帯を持つ。電話に出る。もしもし。あの声が耳から脳に響いた。
私は呼び出された。誰に。小池にだ。閑静な住宅街の奥まったところにある喫茶店。そこに来いと。それだけ告げて電話は切れた。行くしかなかった。興味だけが私を動かした。喫茶店のドアを開ける。テーブル席が3つ。その一番奥に彼女はいた。正確には彼女もいた。である。私は目を疑った。彼女の他に3人いた。それは、私の大学時代の友人である彼と、私の元職場の上司、そして、ぶつかった女だった。つまり、私の夢の出演者だ。理解に苦しむ。何故、この4人が一緒にいるのか。到底理解できるわけがなかった。小池は言った。座って。私は座った。彼女の言葉に従った。そこで話したことは白い部屋に関することだ。なによりも驚きだったのは、誰も驚かなかったことだった。大学時代の友人も上司もぶつかった女も。そして私自身も。全員が同じ夢を見て、全員がその場にいる。ただ、ひとつ違うことは夢で死んだ人はそこまでの夢しか見ない。ということだ。つまり、彼女は自分が死んだ時点の夢を今でも見続けている。そして、疑問は私に投げかけられる。あなたはだれ。と。そう。私は夢の出演者ではない。言ってしまえば、夢の傍観者だ。死ぬこともない。白い部屋での出来事を上の方から眺めている傍観者。私は、嘘偽りなく話した。全てを。そして、新たに見た夢の続きも。その間、4人は黙って私の話を聞いていた。
帰路につく。あの4人とは連絡先を交換しあって別れた。私は考えていた。こんなことがあるのか。いや、あるのだ。実際に。夢を共有し、それについて話す。少し気分が高揚した。奇跡。偶然。有り得ない現象。そういった類のものを体験するのは初めてだ。しかし、それ以上に不安もあった。ぶつかった女が言った一言。これって正夢になったりしないよね。まさか。そんなこと有り得ない。皆、そう言った。そう思った。が、私は考えてしまった。正夢。有り得ないことが有り得ているこの状況で、有り得ないことなどあるのか。と。そんなことを考えながら家へと向かっていた。
家に着く頃、私は1つの答えを出していた。白い部屋は存在する。何故そのような答えを出したのか。そう思いたかったのかもしれない。白い部屋という存在を否定したくなかった。私にデメリットなく、人の人生が終わる瞬間を見れるあの空間。私は、あの夢を見ていくうちに好奇心が夢全体から人が死ぬ瞬間に変わっていったのを実感していた。首を絞める。微かに漏れる声。暴れる手足。絞める手に浮かぶ血管。無意識に垂れる涎。血が吹き出る首元。赤に染まる白い壁。脱力した身体。横たわる死体。その全てが非現実的で新鮮だった。そんな光景を、傍観できるあの夢は、私にとってなによりもの現実逃避だったのであろう。そして、白い部屋の存在を夢の中だけで留めておけなくなったのだ。そして思いつく。白い部屋を作ろう。と。私だけの白い部屋を。
しかし、現実世界に白い部屋を作るなど到底不可能であることは私にでもわかった。精神が不安定になりつつも、冷静さを失うことはなかった。私は、最後の女を探すことにした。私に向かって、あなたはだれ。と言ったあの女を。血の滴るナイフを私に突きつけた女を。
まず、あの声。あの声に聞き覚えはない。無機質なあの声は、私の生きてきた中で聞いたことのない声だ。だが、全く関係のない声が聞こえてくるとも考えにくい。実際に他の人たちの声は、皆どこかで聞いている。つまり、私は忘れているのではないか。その声を。その声の主を。あなたはだれ。その言葉。あなたはだれ。どこかで聞いたことはないか。いくら考えても聞き覚えのある声ではなかった。
無職になってから数週間が過ぎた。結局、大学時代の友人から連絡はなく、職を手にすることはできなかった。私自身働く気力もなかった。頭の中は完全にあの女に支配されていた。あの女の正体は。あの夢の続きは。あの女の死に方は。そんなことを毎日考え、過ごしていた。
ある日、私はふと考えた。白い部屋。そこにはドアもある。窓もあった。窓から外の景色が見えていたはずだ。白い部屋の中にいた人たちは、何故外に出なかったのか。特に、殺されたくなくて逃げ回っていた女。あの女は白い部屋から出たかったのでは。何故出なかった。出てはいけない理由があったのか。気になった。気づくと私は、ぶつかった女に連絡していた。
ぶつかった女。夢の中で逃げ回っていた女。何故外に出なかったのか。それを聞きたくて会う約束をした。場所は、近くの公園だった。私は約束の時間よりずっと早く公園に着いた。好奇心が抑えられなかった。数十分後、女がやってきた。どこか怯えたような表情をしていた。私は女に問いかけた。夢の中で逃げたのに何故外に出なかったのか。と。女はキョトンとしていた。そして言った。夢の中のことなんて知りませんよ。それもそうだ。女は夢を見ていたのだ。実際に夢の中で意思を持っていた訳ではない。少し考えればわかることだ。滑稽な自分を責めていると女は言った。ただ、ワタシは意思を持っていても逃げなかったと思います。理解できなかった。殺されるのが嫌で逃げ回っているのに白い部屋からは出ない。なぜ。女は続けた。きっと死にたいって思ってるからです。女は死にたいという感情と死に対する恐怖があの行動を生んだのだと言った。全てではないが、少し理解できた。つまりこの女は死にたいのだと。私の中で何かが弾けた。目の奥にあるなんらかのスイッチが入ったのだ。その瞬間、私の両手は女の首元にあった。息をしない女の首元に。
やってしまった。という感情より先に、やってやった。という感情が込み上げてきた。私は女を殺した。人を殺した。この手で。あの男がやったのと同じように。女は暴れた。苦しそうな表情で手足をばたつかせて。そして、次第に顔は紫に変色し、動かなくなった。ほんの数分の出来事であった。私は女を連れて家に帰った。人目を気にすることなく、堂々と。家に着くと女を押入れに押し込めた。殺した衝動と手の感触は気分を高揚させたが、死体に興味は湧かなかった。死んでしまっては人形と一緒だ。そう。人でなくモノなのだ。モノに興味などないのだ。私はとても冷静だった。殺人を犯したことに対する恐怖はなかった。そして、すぐ、次の行動に移る。そう、人を殺す衝動はもう止まらなかった。
次のターゲットは、上司だった。元職場の上司だ。遅刻したとは言え、毎回同じ台詞を吐いてくる上司に多少の恨みはあった。だが、それが殺したい。という理由になることはなかった。私が上司を殺したい理由は、殺したいからだ。ただ、それだけであった。
上司を呼び出すのは簡単だった。あの日、5人で集まったあの日、一番興味を持っていたのは上司だった。こういった非日常な話が好きな人であった。上司に連絡し、新たな夢を見たと嘘をつき呼び出した。そして、殺した。首を絞め、殺した。死体は持ち帰り、押入れに押し込めた。押入れの中には女と上司の2つのモノが詰まっていた。
こうなると止めることは不可能である。人間、一度振り切れてしまうと歯止めが効かなくなる。もはや、殺す理由などないのだ。ただ、1つ冷静な点は関係のない人に手を出さなかったことだ。なぜ、関係のない人に手を出さなかったのか。理由は簡単だ。関係のある人たちを殺していけば会えると思ったのだ。あの女に。私に、あなたはだれと問いかけたあの女に。そう信じたのだ。そう信じたかったのだ。だから、私は殺すのだ。あの女の為に、殺すのだ。
大学時代の友人を殺すのは、さすがに戸惑いがあった。憎しみが何もない。大事な友だ。しかし、ことはあっという間に終わった。彼は、私が女と上司を殺したことを知っていた。そして、彼の方から連絡をよこし、会う約束をし、殺せと指示してきた。何が彼をそうさせたのか。私には分からなかった。だが、殺した。私の家で。彼の首元をナイフで裂いた。友人という関係よりも、殺したいという欲望が勝ったのだ。私の家の押入れには、3つのモノがしまってある。
もう3人も殺した。殺してしまった。恐怖はない。しかし、あの女は現れない。あの女はいつ現れるのか。小池を殺せば現れるのか。いや、きっと現れる。その為にやってる。その為に殺っているのだ。小池を殺す。それは私の中で使命に変わっていた。欲望を満たすと同時に、自分に課せられた使命であると。そう言い聞かせていたのだ。
小池を呼び出すのは、困難を極めた。きっと彼女は3人が死んだことを知ったのだろう。そして、殺したのは私だということも。彼女の連絡先は繋がらない。なら、直接探すしかなかった。手がかりは元職場である。私は、元職場の社長、つまりは小池の父親を訪ねた。すると意外なことを告げられる。小池の行方が分からない。と。完全に手がかりをなくしてしまった。小池を殺さなくては。あの女に会うことはできない。なんとしても。コイケを見つけなくては。コイケヲ。
小池を見つけたのは、それから数日後のことだ。5人で集まった喫茶店に毎日足を運び、彼女が来るのを待った。一杯のコーヒーで何時間も粘り、店員の冷ややか視線を浴びながら。そしてついに小池が現れたのだ。彼女は驚いた顔をしたが、逃げることはなかった。そして、喫茶店を出た。一緒に。会話はなかった。少し歩き、人気のない場所で止まった。彼女はようやく口を開く。私を殺すの?私は言った。ああ。そして、彼女の首元に手を伸ばす。彼女は言った。私を殺して。あの時と同じ声で。あの時と同じ言葉を。私の気分は高揚していた。夢と同じだ。夢で見た光景と同じだ。と。気付いた時には、小池は死んでいた。私は、高揚感と達成感に包まれていた。そして、押入れの中のモノは4つに増えていた。
4人を殺してからすぐ、私の元に訪ねてきたのはあの女ではなく、警察だった。当然である。4人を殺し、逃げることなく生活をしていた。殺した場所も決して人がいなかったと言い切れる場所ではない。殺された4人にも家族がいただろう。私が捕まらないわけがない。
結局、あの女は現れなかった。血に濡れたナイフを私に突きつけ、あなたはだれ。と問いかけたあの女。私は絶望した。夢の通り殺せば、夢を夢でなくすれば、必ず現れると思っていた。その存在が全く気配すらしなかったのだ。自分のしたことに後悔はない。ただ、自分のしたことが無意味であったという事実に絶望したのだ。殺すことの喜び。快感。そんなもの既に枯れていた。冷静になってしまったのかもしれない。そんな私に国は死刑を宣告した。
数年後、私の死刑が執行される日が来た。この日まで、何度あの夢のことを考えただろう。考えても考えてもあの女の正体は分からなかった。そして、もう2度とあの夢を見ることもなかった。
初めて見る死刑台。なんと古典的な形だろうか。高台に輪っかの着いた綱がぶら下がっている。ただそれだけ。死刑台のある部屋は、こじんまりとしていた。高台へ上がる。階段は何段だろうか。どうでもいい。階段を登りきった時、目の前には鏡が広がっていた。きっとあれはマジックミラーなのだろうと。そんなことを考える余裕すらあった。結局、私が殺した4人に見合うだけの結果は現れなかった。あの女は姿を見せなかった。元々、存在するかすら分からないのだから。当然と言えば当然の結果だ。自分の首に輪っかがかけられる。温かさもないただの綱だ。これなら人の手の方が数倍良いな。と余計なことを考えていた。死刑が執行される。私の命が終わる。体が浮く。その瞬間。あの光景が蘇る。白い部屋。それを上から眺める自分。ああ、ここか。ここが白い部屋か。私が求めていた白い部屋はここにあったのか。ふと片隅に目をやるとあの女がいた。ナイフの切っ先をこっちに向けてなにか問いかけている。綱が首を絞める。女の声が届く。あなたはだれ。あの女は私の中にいた。私の夢の中で生きていた。あなたはだれ。女はまた呟いた。私は答える。
私は私だ。
遠のく意識の中、耳の奥で骨が折れる音がした。
エピローグ
私は一体ここでなにをしているのだろうか。何もない。空気すら感じない、この空間で。動き回るでもなく、ただじっとしている訳でもなく。そこにいる。私はそこにいる。
死とは、誰にとっても平等であると聞いたことがある。生きていれば、必ず死ぬ。しかし、本当に死というモノは平等に与えられたモノなのだろうか。人は死ぬ。生きている以上死ぬことは避けられない。死んだ後、どうなるのかという思想的であまりにもくだらない話ではない。ただ、死にながら生きる。そういった現実がココにはある。死んだように生きるのではない。死んでいるのだ。死んでいて、生きている。それがココだ。
私は生きている。生かされている。決して完全に死ぬことはないだろう。
ああ、まただ。またやってきた。『白い部屋』を眺める存在。あの無機質な空間に目を奪われ、興味を攫われ、そして落ちていく。『夢』と『現実』の区別すら出来なくなる程に魅力的なあの部屋に皆、落ちていく。そして、死んでいく。滑稽だ。だが、実に人間らしい。だから抜け出せないのだ。目が離せない。私もきっと『白い部屋』の美しさに、生々しさに取り憑かれた存在の一部なのだろう。だから私は、『白い部屋』に潜るのだ。より近くで、人間の人間らしさを感じるために。ある時は深く潜り、ある時は俯瞰から観察する。そうやって自身の欲を満たしているのだ。そうするほかないのだ。そうするしかないのだ。
私は、完全に死ぬことはない。この興味と関心が底をつくまでは。
さあ、新しく『白い部屋』に魅了された彼に挨拶をしよう。
あなたはだれ。