Chapter 6
私は実のところそれほど慌てもしなかったし、怒りも恐怖も感じなかった。ただ、ああそうなんだ、と思い、目の前の現実を受け入れた。
それは私の今までの生き方だった。遠く海を隔てた異国に来ても、私の内面は何も変わらない。よく言うように、環境ががらりと変わると自分の殻を脱ぎ捨てられるとか、突き抜けて新しい自分と出会える、といったことは私には起こらなかった。
「何か不都合でもある?」
ふとかつての恋人の声がよみがえった。そこからするすると一連の記憶が私の前にフィルムのように伸びる。私は平静なままそれをたどった。
黙ったままの私に、恋人は自信たっぷりのわざとらしい微笑みを浮かべて私を見つめてさらに言った。
「だって僕たち、別につき合っていた訳じゃないじゃないか」
そうなんだ、と私は驚いたが、表情には出さなかった。驚くほどのことではないのだと瞬時に納得する方が賢いような気がして。
私の静かな対応に安心したのだろう、恋人は次々と言葉を重ねていった。
「もう何ヶ月も会ってもいないし、連絡も取っていなかっただろう?最後に一緒に過ごしたのはいつだったっけ?」
私の方は連絡をしていたけれど、あなたからは連絡が来なくなっていた、と言うのもためらわれるほど、その時の恋人の態度はとてもはっきりわかりやすかった。
「いわゆる親密な関係イコール、つきあう、じゃないよね。ぼくたちもういい大人だし、仮にそういったときに話の流れで約束めいたことを言ったとしても、そんなのはただのその場の勢いで、深い意味はないよね」
彼の「・・・よね」といういちいち確認する言い方はひどく私の心を不愉快にひっかいたが、私は黙ってただうなづいた。一応、微笑んで見せたかもしれない。微笑みは子供の頃から徐々に身に付いていた社交辞令の型のひとつだったから。
「まあ、そういう訳だから。君も早く良い相手を見つけて、結婚とかするのもいいんじゃないか。とりあえず、元気で」
別れ際に、私たちは軽く会釈さえ交わし合った。友達ですらないただの知り合いが丁寧にするように。それじゃまた。失礼します。そういう感じで、全く自然に。
一通りの記憶のフィルム再生が終わると、私は小さく息を吐いて目を閉じてみた。そこにはもう、暗黒しか映らない。どんな人のおもかげも、どんな思い出の風景も、全てがリセットされていた。電源を切ったパソコンの画面のように。
私は、さっきの少年がいた白いテーブルを探し、椅子に腰を下ろした。夕闇は徐々に辺りを包み、館は少しずつ色を失っていった。
少年が再び現れることはなかった。もともと幻のような危うい存在だったから仕方がないけれど、やはり少し寂しい気持ちがして、私はほうっと息を吐いた。
やがて辺りは闇に包まれたが、どこからか薄ぼんやりと光が差し込んでいるようだった。その光に誘われて、私は壁や手すりを伝いながら頼りなくうろうろと館の中を歩き回った。私の足音は高い天井とがらんどうの室内や踊り場の空間にいやに大きく響いた。
光の源は、二階のサンルームだった。ドーム状の天井が抜け落ちて、ぽっかりと空いたところに月光が差し込んでいた。
何という寂しい美しさだったろう。サンルームの大理石の市松模様の床には、天井のレンガが積もり、そこに風が運んだ土が積もって、柔らかい草が生えていた。シダやコケを下地に、細く伸びた茎の先に穂を付けたワタスゲや百合の重たげなつぼみが茂っていた。
そして、その向こうに、一人の男がひっそりとうずくまっていた。




