Chapter 13
私はほっとして大きく鼻から息を吸い込んだ。
乾いた風の匂い。生まれて初めてかぐのに、何故か懐かしい、はるかはるか遠くの乾いた大地から恵みの草原に向かって吹いてくる風の匂いが私の肺を満たした。
ありがとう、助けてくれて。私は彼を見上げてそう言った。
何から逃げていたのだ。彼は不思議そうに私に尋ねた。私は少し考えてから、私を捕らえようとするものから、と答えた。
それは良かった。人は捕らえられてはいけない。捕らえられて生きながらえるのは、死よりも恐ろしい。捕らえられた獣は、屠られなければならない。それが自由を奪った者の、奪われた者に対する礼儀だ。
そう言って彼は地平線の彼方に星々が沈んでいくのを見ていた。彼の言う意味が、この国の哀しい歴史を物語っているようで、私は言葉を失った。
だが、私の中途半端な同情心とは裏腹に、彼は特に悲しむ様子もなく、むしろ何かの興味を持って地平線を見つめているようだった。
何が見えるのですか、と私は尋ねた。彼はすっと右腕を水平にあげて、はるか前方を指さした。
間もなく、嵐が来る。嵐が去れば、バッファローの群が来る。
そして、彼は私の手を取り平原を歩き始めた。初めは平らな平原に見えたが、実はあちこちに起伏があった。そして、こんもりした小山の裾に、横穴があった。
ここで嵐を過ごす。彼はそう言った。
そして彼は、横穴の中央に丸くくりぬいたかまどに火をおこした。名前を聞いても良いでしょうか、と私はおずおずと尋ねた。彼は一瞬怪訝そうな顔をして私をしばらく見つめた。そして、イヌワシ、と答えた。私はハツミ、と自分の名を告げ、イヌワシに変わった名前ですね、と言った。するとイヌワシは本当の名前は人に告げてはいけないのだ、とそっけなく言った。
そう言えば、大昔の人はみんなそんな風に思っていた、と私は何かの本で読んだことを思い出した。
私たちの住んでいたところでは、もう名前には特別な意味はないんです。
私は誤解を解くためにそうイヌワシに告げた。
あなたの本当の名を探ろうとは思いません。
名前に意味がないのなら、何のためにあるのだ、とイヌワシは不思議そうに尋ねた。
そこで私は、自分の住んでいたところでは、数え切れないほどたくさん人間がいるので、一人一人を見分けるために名前が必要なんです、と説明した。
そうか。たくさん、人間がいるのか。
イヌワシはうなづいて、しばらくは煮炊きに余念がなかった。
バッファローの乾し肉だ、食べろ、とイヌワシがひからびたハムのようなものを手渡してくれた。そしていつの間にかできあがっていた穀物のお粥を木の椀によそって、これに浸して柔らかくして食べるのだ、と教えてくれた。
人間があまり増えては、獣も草も困るだろうな。イヌワシがぽつりとつぶやいた。
私はうなづいた。そうなんです。もうずいぶん前から、世界の終わりが来る、なんて叫ばれています。でも、誰も信じようとしないんです。信じても止められないから。
そうだ、運命は誰も止められない、とイヌワシは目を閉じてつぶやいた。私たちもいずれ消えてなくなる。星々でさえ、いつかはなくなる時が来るだろう。
そのとおりです、と私は答えた。それ以上、私たちに会話は必要なかった。
穴の向こうで砂が吹き荒れ、かすかに上空から悲鳴のような風の音がこだまして響いてきた。
イヌワシはその音に答えるか、その音をかき消そうとするかのように笛を吹き始めた。
私たちの世界はやがて終わります。けれども、私たちはそれを恐れません。何故なら、終わりの後には必ず始まりが訪れるからです。
笛の音に言葉があるなら、そう告げていただろう。私は目を閉じ、風と笛の音に耳を澄ませた。




