Chapter 10
いつの間にか私の目の前には、おいしそうに湯気の立つランチとコーヒーが置かれていた。
どうぞ召し上がって。つもり、と思わずに味わってご覧なさい。キャロラインはそう言って自分の目の前のランチに取りかかった。
つもりも何もない。私の目の前には、現においしそうなにおいの漂う、つやつやのオムレツとサラダと焼きたての香ばしいパンがあった。
あなたの感性はすばらしいわ。それはあなたのかけがえのない宝物よ。キャロラインは夢中でおいしそうに食べる私を見つめて、満足そうにそう言った。
私たちはそれから、キャロラインの案内でもう一度館の中を丁寧に見て回った。
トイレやバスルームやキッチンの生活に必要な水回りはもちろんのこと、ベッドとマットレスももはや使い物にならないことは明らかだった。ところが、ここは秘密の隠し部屋なの、とキャロラインが書斎の後ろの壁に手を乗せてぐっと押すと、そこから地下に続く狭い階段が現れた。
私には奈落の底のように見えるその階段を、キャロラインは身軽にとんとんと下りていった。螺旋を描くほぼ垂直な階段はどこまでも続くかに見えたが、やがて床にたどり着いた。
そこは、ほのかに光がともった居心地の良い部屋だった。少しもカビ臭くなく、ベッドのマットレスも布団や枕もふかふかで心地よさそうに見えた。ランプの光は揺らめいているので本物の火なのだろう。通気口がどこかにあるに違いないが、薄暗いのでよく分からなかった。
そして、キャロラインが誇らしげに開いたクローゼットには、ヴィクトリアン調の裾の長いドレスがぎっしり詰まっていた。
ここを使うと良いわ。ドレスも自由に着てちょうだい。きっとあなたによく似合うわ。
キャロラインの声が次第に細くなり、気がつくと私は隠れ家のようなその空間に一人で取り残されていた。
私はあっけにとられて狭い薄暗い部屋を見渡した。昨日から三人の人間に出会ったけれど、キャロラインが唯一言葉を交わし会い、身近に感じた存在だった。だから、彼女にまで不意に去られると思っていなかった。
だが、何度心の中で呼んでも、ついには実際に声に出してキャロライン、と呼んでみても、彼女は現れなかった。
仕方なく私は暗く煤けた色になった古いタンスを開けて、大量のドレスを検分してみることにした。さっきちらっと見た限りでは、とても魅力的な品々に見えたから。
どれも驚くほど状態が良かった。そもそも、この部屋は他の部屋とは違う空間のように思えた。古びてはいるが、ここだけは廃墟の荒れ果てた感じがなかった。生身の人間が今すぐ生活を始めてもじゅうぶん居心地よく過ごせるような、適度な温度や湿度、空気の流れが保たれているようだった。
もしあのツアー会社の人たちがこの秘密の小部屋のすばらしい衣装の数々を見つけたら、どんなに驚喜するだろうと思った。
時代がかった衣装を身につけるのは少し気後れしたが、二日も着たままの下着に関しては、さすがに差し迫ったものを感じていた私は、とりあえずクローゼットにしつらえられた引き出しの中から適当な下着を選んで借りることにした。
ところがそれはずいぶんボリュウムのあるゆったりした作りで、これを身につけてしまうとその上にジーンズをはくことはとても出来なかった。
そこで私はなるべく飾りの少ない、色目も地味なグレーの小花模様の服を一着選んで身につけた。着心地は悪くなかった。
それから私は少し落ち着くためにベッドに腰を下ろした。着ていた服をたたみ、靴と靴下を脱ぐとクローゼットから物色した厚手のビロードの部屋履きを履いた。
肌身離さずずっと身につけていた、パスポートと現金の入ったウエストポーチをベッドの脇のサイドテーブルに置くと、にわかに私はほっとした。ここは、異国に来て初めてくつろぐことを許された、ホテルの部屋のようだった。
そう思うと何だかとてもゆったりした気分になり、私は乾いて気持ちの良い感触の柔らかなキルトと敷布の間に潜り込むと、すとんと眠りに落ちてしまった。




