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Chapter 1

 バカンスにはまだ早い、5月末のアメリカの片田舎を走るバスに私が飛び乗ったのは、特に強い動機や周到な準備があってのことではなかった。

 それまで、たいした海外旅行経験もなく、ましてや一人旅とあっては国内でさえ未経験の私は、逆に世間知らずで怖いもの知らずだったのかもしれない。

 正直、何の計画もなかった。とても心が空っぽだったので、糸が切れた風船になったような気分で、それまで校正デザインの仕事でイヤと言うほど眺めていた明朝体やゴシック体の日本語の文字を見なくて済むところへ行きたかった。

 東京近郊の地味なベッドタウンのどこにでもあるちょっと交通の便の悪い町で、小さな広告代理店で事務員と編集を兼ねて働いて10年。短大を卒業する前からアルバイトで入っていたので、厳密には11年、本当に波風の立たない日々が続いた。

 私の両親は母が42才、父が55才の時に私を生んだので、つい最近続けて両親を失ったのも仕方がないことだった。歳の離れた兄と姉が二人ずついたけれど、皆それぞれ家庭を持ち、私もとうに社会人として独立していたので、実家を処分したお金と両親の残したお金を仲良くきっちり五等分してしまうと、もう兄弟姉妹が顔を合わせる必要はなかった。

 両親の死後間もなく、私は自分では婚約者のつもりでいた高校時代の同級生の恋人が海外赴任中に現地で知り合った日本人女性といつの間にか籍を入れていたと知ったときも、さして動揺はしなかった。

 ありふれた町のありふれた職場でありふれた日々を過ごし続けていたことで心はすっかり退化して化石のようにかちこちになっていたし、何しろこの町から一度も離れたことがない、もともと変化をそれほど好まない性格が、結婚を真剣に夢見るバイタリティに欠けていたのかもしれなかった。

 でも、両親の死と恋人との別れは、私を少し身軽にした。

 とりあえず両親の葬儀が一段落したところで、住んでいた実家の処分のついでに今はやりの断捨離を決行したら、なんとスーツケース一つに自分の持ち物がまとまってしまった。

 実家のすぐ近くに、上の兄が現金の代わりに受け継いだ賃貸の小さなワンルームマンションの一室を当座の住まいとしてキープしてもらっていたが、そのスーツケースとまとまった金額の入った通帳が私に「どこか遠くへ旅に出ろ」と無言の圧力をかけてきた。

 変化を好まないはずの私の頭がその時はどういう訳かフル回転して、長期旅行にピッタリの、アメリカ合衆国のど真ん中のあまり観光名所もない町を探し出した。

 何となくどこか遠くの知らない場所へ行きたい、と思いながらネットであちこち見ている内に私が惹きつけられたのは、一軒の廃墟化した、もう誰も住んでいないうち捨てられたヴィクトリアン・ハウスだった。

 その写真を見た瞬間、感情の起伏があまりない私の心がぐらりと揺れた。

 ここに行きたい。ここに行かなければ。どうしても、出来るだけ早く。

 写真のキャプションには聞いたことのない町の名前が英語で書かれていて、末尾のUSAを頼りにアメリカ全土の地名から検索してみると、ワイオミング州の片田舎にたどり着いた。

 ついでにその町の観光案内を見てみるといきなりわっと英字ばかりのサイトになり、それが細かい指定の入ったひらがなカタカナ漢字を毎日扱って疲れていた私の目にはいたって新鮮で、わくわくしながら辞書を片手に中学生の受験勉強のような時を過ごし、ようやくこのツアー会社にたどり着いたのだった。

 旅の期限を決めるのがイヤだという理由だけで10年勤めた職場をあっさりと辞め、パスポートを取り、チケットを取り、ドルとトラベラーズチェックを購入し、とりあえず観光ガイドブックととっさの時の英会話の本を買うと、あとは成田空港行きのバスに飛び乗れば良かった。

 荷物はせっかくだからスーツケースをそのまま持っていくことにした。飛行機のチケットは1年オープンにして、気の向くままあちこちを旅行してもいいと思ったので、四季折々の最低限の着替えが必要だと思ったからだ。

 ワンルームマンションを出るとき部屋を振り返って、私は唖然とした。何もない。私がここに住んでいる気配も、私がここに帰ってくる予感も、何も。

 スーツケースを持って旅だったら最後、私は二度とここには戻ってこないんじゃないかという気がしたが、私は不思議と不安感を持たなかった。今のこの身軽な自分の未来が悪い方へ転がるようには思えなかった。ということはきっと、何かしら幸福の気配を感じていたのだと思う。


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