先輩たちが帰ってきました
胃の中にある謎のお土産よりずっと、彼女は今の状況に戸惑っていたけれど、そんな混乱も瞬く間に快楽に流された。
森崎結菜はロリっ子だ。
年齢的にもそうなのだけれど、小さく形作られた輪郭もあめ玉のように大きな瞳もまだ若い桃を思わせる唇も月光にすらとろけそうな薄い肌色も木洩れ陽のようにきらめく細い髪も、凹はあっても凸はない身体つきも平均より幾分か低い身長も、まさしく彼女はロリコンホイホイだった。
彼女に聞かれたら羞恥と屈辱で涙を目にいっぱい溜めて、逃走と攻撃の選択肢の間で揺れ動きとりあえず手当たり次第にぬるい罵倒をするという全世界のオスホイホイな姿が見られるだろうが、この辺りにしよう。
結菜はとある高校の生徒会の副会長。
この学校は生徒の数が多く、大抵毎日のように生徒会の仕事があった。また、仕事が無くても問題があればすぐ対処できるよう、生徒会役員は放課後生徒会室に待機することになっている。もちろんほとんど問題なく終わることが多いし、全員いなければいけないわけではない。ましてや1年生である結菜が急ぎの仕事がない今日行く必要はなかったが、性格上用事がない限り行くことにしている。生徒会の他のメンバーと仲がいい事もあって、もはや習慣付いてしまっていた。
それに、と結菜は考える。今日は久々に3年生の顔が見られる。月曜日から3泊4日の修学旅行に行っていた3年生、会長の瞬と副会長の玲と、6日振りに会えるのだ。結菜含めて生徒会は6人だから昨日まで3分の2だけ。先輩ではあるけれど気負わせず話してくれる2人がいないのはさみしかった。その気持ちを態度に出してしまっていたのか、同学年の光毅と龍樹の双子はいつも以上にはしゃぎ、2年の裕司も解放感があってかえっていい、と笑ってみせた。きっと隙間を埋めようとしてくれていたのだ。気を遣わせてしまった、と罪悪感もあるが3人は謝罪してもしらばっくれるだろうし、それよりも多い感謝を伝えてもやはり受け取ってはくれないだろう。今度何か持って行こうかな、と思ったところで生徒会室に着いた。
中が何やら騒がしい。その喧騒が5人分あることを数えて、結菜の顔が綻んだ。
「お疲れ様です」
ガラガラと決して静かとは言えない音を立てる扉を開け、挨拶したが誰も気づかない。中央のテーブルに集まって話が盛り上がっている。自分も参加しようとそこに近づくと、机に何やらいろいろと並んでいることに気がついた。お菓子、のようだが書いてある文字は甘味と関連づけられるものではない。
「…これなんですか?」
空いていた手前の空間に収まって結菜が怪訝な声を出す。
隣に来た結菜に気づいた光毅から順に顔を上げた。
「お、よう結菜」
光毅がズリズリ音を出して椅子を結菜に引き、軽く座面を叩いて座るよう促す。本来人数分椅子はあるのだが、荷物置きに使われていて3脚足りない。
瞬と玲が座っているのは1番先輩であるということと話の中心だからだが、光毅が座っていたのは1年と2年が大人げと謙遜を持ち出して全く子どもっぽく傲慢に争いじゃんけん大会を誰もが自分が勝つまでと延々続け、結局早い者勝ちと光毅がてこでも動かなかったからだ。というのを結菜は知らない。いいよ、と断ってもレディーファーストってやつ、いいから座れ、俺ら気にしないからーと紳士的に譲る3人がさっきまでそんなくだらない戦争をしていたとは思いもしないだろう。
ただ1人の女の子である彼女はこういう面で割と甘やかされていた。だから結菜にとってみんなは頼れる男の子。本質を厳重に隠されているので例えその片鱗がたまに見えても男の見栄と意地が作らせた信頼は揺らがない。人を信じるのは結菜が好かれる所以で長所だが、それを利用する獣はどこにでもいる。
ここにも、5匹。
「会長のお土産だってよ」
そら、と手近にあった物を裕司が引き寄せる。
結菜の遠慮を腕を引っ張り肩を押さえる力技で終わらせて、また気遣わせてしまったと申し訳なさそうな結菜に質問に答えて閑話休題。
「修学旅行のな」
どうぞどうぞの応酬を輪の外側で見ていた瞬がやっと話題が戻ったことにため息をつく。なかなか面白いものではあるけれど今日はもっと楽しいことがある。余計に長引かせたくないから傍観していたが、いい加減間に入りそうだった。
と、隣からもため息が聞こえた。
「また変なものを…」
方々が勝手に見ていたお土産があっちこっちに飛んでいるのを寄せ集めながら玲が呟く。
会長と副会長になる前から友達同士の彼らは互いをよく知っている。とにかく変わったものとか珍しいものが好きなのは今に始まった事ではない、ということも。それでも呆れずにはいられない。同時に今日は修学旅行のまとめを作るくらいでいつもより荷物は少なくて済むはずなのにやけに多かったのはこのせいか、と納得した。
「副会長のはないの?」
龍樹が持っていた箱を他の土産と一緒に置いて尋ねる。
生徒会内では学年の垣根が低い上、敬語を使わせると結菜以外不自然な日本語になり、次に口数を極端に減らし、いつの間にか戻っているーということを幾度となく繰り返したため口調に関して上級生達は黙認していた。
また呼び方も長い長い沈黙の後のセンパイ、に意味は無いと諦めたので好きにさせている。
どさどさと瞬がサンタか泥棒かのように担いできた袋からこれらが出てきたのを龍樹たちは見ていた。乱雑に吐き出させたため勢い余って龍樹の顔を直撃したのが彼が今置いた箱である。別に土産物にがっついていたわけでもなかったけど、会長に相応しい気質とは思えない瞬が後輩に贈り物をするというのが意外で意識が内向きだったのは否めない。外側に引きずり出してくれた箱を拾い上げてみれば、声を出さずに誰より爆笑しているのが瞬だったから見直しかけたのを撤回した。玲辺りに言われたか気まぐれだったのだろう、と龍樹は思った。
瞬がそんな性格だからこそ玲の正反対とも言える真面目さは際立つ。
だから瞬のものしかここにないことに違和感を覚えた。
「俺もあるけど今日は持ってきてない…悪い」
旅行から帰ってきたのは昨日夜遅く。天候の問題とかで空港でさんざん待たされ、やっと帰って寝たら朝。荷解きも満足にできなかった。土日を使って片付けや土産の仕分けをしようと考えた者が大半で、玲もその一人、というか瞬の方が例外だった。
瞬が今日持ってくる、その前にきちんと土産を買っていること自体意外だったので先を越されるとは玲にとっても予想外。けれど律儀さが取り柄、と自他共に認める自分が持って来ていないことを残念がらせてしまったかと玲が謝る。
形式的な流れとは言え玲が謝罪を口にしたことに結菜が慌ててフォローに回った。
「気にしないでください。買ってきてくださるだけですごく嬉しいですよ!楽しみにしてます」
裏表なく弾んだ声音の結菜の言葉は、玲を救ってついでに周りから笑顔を向けられた相手が睨まれるのに充分だった。しかし鈍い結菜と浮かれた玲は気づかない。
「明日持ってくるな。結菜が気に入るといいんだけど」
にやつきたい気持ちを大幅にカットして控えめに微笑む。唯一まともに先輩扱いしてくれる素直な後輩は可愛い。それが女の子ならなおさらだ。
自分の立ち位置はしっかり者の先輩。そう言い聞かせなければ玲は口も目元もゆるっゆるにさせていただろう。
そこへ、微笑をどうとったか、たぶん自分の嬉しさが伝わり切っていないとでも思った結菜が再び言葉を跳ねさせた。
「令さんのお土産なら全部好きに決まってますっ」
追撃。
胸の前でそれぞれ手を握って本当に気に病むことはない、と表しにこっと笑う。
無邪気に思慕を向けられて悪い気はしない、どころじゃない。無垢な言葉と少女の笑顔は世界を救える。
「そ、うか…」
玲の声が若干震えた。顔筋制圧に限界がきて視線を90度回転させる。
計算なく好意はまっすぐ伝える。こういう子だ、玲だけでなく生徒会は結菜を理解していた。
周りも玲が特別でないことを分かっている、自分たちだってそれに癒されてきた。だから決して嫉妬しないし、
「おおっと手が滑ったーぁ」
裕司が瓶を落としたにしては急な角度で玲にぶつけたことも、
「俺も足が滑ったーぁ」
光毅がいきなり走り出して勢い良く玲に倒れこんだことも、
「足があるの気づかなかったーぁ」
龍樹が兵隊のごとく足を高く振り上げて踏み出した先で玲の足を踏んだことも、
「うっかり腕が当たったーぁ」
瞬が何かを意図して思い切り腕を振りかぶった結果玲に当てたことも、
「いあちょうであしおまふざけいってあああ!?」
どれも偶然である。
「れ、令さん大丈夫ですかっ」
突然巻き起こった事故の被害者に結菜が駆け寄った。
「ごめんなー」
「最近転びやすくてさー」
「下も見ないとだよなー」
「いやー反省反省」
結菜が側に来たのでバレないようにささっと離れて口々に白々しくも言ってのける。頭をかいたり軽く叩いたり、手をやったり抱えたり。
「あんたらほんとに…!」
さすがにそんなポーズには騙されない。どう考えたってわざとなタイミングと力強さだ。あちこちの痛みと態度が玲の怒りを助長させ、勢い良く立ち上がる。
踏み出そうとした時、服が擦れる感触がしてやわく後ろに引かれた。
「令さん落ち着いてください!みんなわざとじゃないし反省してるんですから…ね?」
ただし結菜は騙された。
喧嘩させちゃいけないと袖を掴む。久しぶりに揃ったのだから仲良くして欲しい。身長差のある玲を必死で見上げて説得する。
結菜が語尾と同時に首をかしげた。
「…っ」
玲は言葉に詰まって息を飲む。
一気に燃えた感情があっという間に静められた。上目遣いで縋られて、押しのけられるほど無情にはできてない。
そしてそれを目撃したのは、玲だけではない。瞬も裕司も光毅も龍樹も、玲の後方、つまり結菜の正面にいる。
玲ほど至近距離ではないにせよ、ばっちり見ることになるわけで、自分のせいであろうと得した奴には制裁を、の信念は揺らがない。
「「「「わー転んだー」」」」
限りなく棒読みで一斉に玲に襲いかかる。またしても玲は不運な事故の被害者となった。
「令さんっ!?も、もうみんな気をつけなきゃだめだよ!」
目の前で人間雪崩に巻き込まれてピクリとも動かない玲に結菜は焦る。人を無闇に疑わない。結菜の美点は誰に対しても平等だ。的外れな注意を確信犯へ向ける。
「わーってるわーってる」
死角で蹴りを入れながら、
「反省してるちょーしてる」
さりげなく足先で踏みながら、
「すっごーく悪かったと思ってるー」
助け起こす振りでつねりながら、
「もう2度ーとこーんなことしーなーい」
支える格好で殴りながら、
彼らは反省の言葉を述べた。
「それならいいけど…令さん平気ですか?怪我してません?」
それでも結菜は騙される。
ふらつきつつ立ち上がった玲の様子をそっと伺った。さっきから運のない人だ。特に今のはとても物騒な音がした。みんなが転んだのを1人で支えたのだから当然かもしれない。優しい人だ。でもどこか痛めていたら大変。見たところ流血もなく自立しているから骨とかも大丈夫だろうけれど、無理をしていたらいけない。
「あ、ああ怪我は…」
何この子マジ天使2回も上目遣いもらえるとか今日俺死ぬのか悔いは全くない待て怪我してるっつったら看護してくれるよな独り占めかよっうぉしゃーぁあ!ーなどと全く外に出さず完璧なポーカーフェイスで玲が言いかけた時、
「よっと」
結菜が消えた。
「きゃあ!」
突然の浮遊感に驚いて悲鳴を上げる。
そう何度も美味しい思いはさせないと瞬が結菜を抱き上げて膝に乗せたのだ。
「そんなやつほっとけ」
自分の上に横座りさせた結菜に玲を顎でしゃくりながら瞬が言うと、
「そうだ自業自得だぜ」
光毅が頷いて同意を示し、瞬とは反対側の結菜の隣に立つ。
「俺らのことかまってよ?」
龍樹が正面に着いて結菜を覗き込む。
「そーだ役得野郎なんか捨てとけ」
裕司も結菜の後ろに回って髪に手を伸ばした。
結菜はと言えば横からさらわれいきなり抱かれ、気づいた時には先輩の膝の上。更に周りを囲まれるという状況に放り込まれて半ばパニックだった。
とにかく今の状態の、1番恥ずかしい部分を何とかしようと声を上げる。
「だめですし膝から下ろしてください瞬さん!」
「嫌だ」
無情な言葉が速攻で返ってきた。
確かにこの人がほいほい言うことを聞いてくれるとは考えてなかったけれど、骨髄反射の勢いで断られるとまでは思わなかった。
「即答しないでくださいっ!」
更に腰に手まで回してくる瞬に訴えるも効果なし。
本人は説得、のつもりでも周りには仔犬がきゃんきゃん吠えているようにしか見られていない。言葉を連ねても逆効果。
結菜が助けを求めようにも龍樹は何だが楽しそうに自分の顔を見ているし、光毅も横顔に面白がる視線を感じる。顔は分からないが髪をくるくる弄んでいる裕司も同じだろう。
私が困っているのがそんなに楽しいんだろうか。いつもみんな優しいけれど、時折意地悪してくる。年下だし感情がすぐ表に出ちゃうからおもちゃにされてるんだろうなあ。
どうやら突破口はなさそうだと不本意ではあるけれど諦めることにした。せめてもの抵抗にむっつり黙ってみる。
「まあそんなことより土産食べようぜ」
あわあわと反応を返していた結菜が「ふんだ」の一言を最後に静かになったのを見て、裕司が話題を変えようと提案する。
いつまで虚勢を張れるか続けても楽しそうだが、自分の位置がちょっと悪い。そういうのは自分の膝に乗せた時にやりたい、と結菜が聞いたら「そう何回も膝に乗りません!」と逃げ出しそうなことを考えた。
「そんなことって!?」
なかなかの痛みにも関わらずそんなこと呼ばわり。つくづく玲は被害者が似合う男だ。
「ってかこれ何なんだよ?」
光毅が結菜から離れ机の土産を手に取る。
裕司と同じように結菜が面白かったけど、こっちの得体の知れなさもまた気になっていた。
「名前からして結構な…」
龍樹も机に近づき光毅の隣で色形大きさ様々な箱や袋や瓶を眺める。まとめられたそれらはあまり食欲を刺激されない文字が踊っていた。
「スルー…」
華麗な流しっぷりに玲が呆然とする。結菜にこそ謝ったが誰も玲に対して悪いなどと思っていないから当然だ。
「面白いだろ?」
結菜を膝に座らせたまま瞬が器用に椅子を机に近づける。その隙を突いて降りようとした結菜の腰をさっと抱いて阻止した。結局結菜は正面向きになっただけで逃れることはできなかった。
多く店を回ったうち自分が気になった物だけを買ってきたのでどれも印象は抜群だろう。ことインパクトを重視した物選びに彼は絶対の自信があった。
「その点では文句なしだけどな」
提案しておきながら光毅と龍樹が離れるまで髪を弄んでいた裕司もやっと離れて2人に続く。
裕司の発言のおかげで周りの意識が自分から離れ、結菜は少しほっとした。
「ほんとだ…えっと、牛タンキャンディ、まぐろクッキーに蜂の子ブッセ、イワシチョコと漢方マドレーヌ…あ、お楽しみお菓子詰め合わせっていうのもあるね」
1個1個名前を読み上げていくと、その強烈さが更によくわかる。
机との間には人1人分の隙間があるが、普段より座高が高いので全体を見渡せた。
背が低いのも遊ばれる理由なんだろうか、と結菜は考える。確かに平均より低いけど、高校入ってすぐの身体計測ではちゃんと150あったーその時ちょびっとだけかかとが浮いていたこととかいつもより靴下の厚みも枚数もほんの少し多かったこととかは彼女の記憶からすっきり消えていた。それから毎朝の牛乳もおやつの煮干しも効果を発揮していれば1、2センチは伸びているはず。けれどその程度じゃ年上の異性には敵わない。今度から上履きにインヒールでも入れようかな。
「食うやつは楽しめない色してるな」
光毅が袋を置いてインテリアとしても趣味を疑う瓶を手に取る。
唯一名前がまだ平和そうだが透明の容器越しに見えるお菓子はやはり美味しそうではない。
「原材料もわけわかんないのばっかりだし」
龍樹は光毅の手元を覗き込んで裏のラベルを読んでみた。
カタカナにカタカナにカタカナ。たまに漢検一級で出題されそうなおおよそ人生で使わない漢字。じっと見ていると文字列がうねりだしそうだ。
瞬は果たしてどこに行ってきたのだろう。
「ゲテモノばっかだな」
総括して裕司が感想を述べる。罰ゲームにしか使い道はなさそうだ。
玲ほどではないけど裕司も生徒会で瞬とは1年以上の付き合い。こいつが買ってくるのはなんというか、バラエティ番組でお笑い芸人が食わされるような逆にどこで見つけるんだと思うようなものばかりだった。その中でも一級品だと思う。納豆サブレとかわさびグミの比じゃない。
「普通の土産も売ってただろ、瞬」
いじけても誰も気にしない、と痛感して立ち直った玲が旅行を思い出しながら尋ねる。
というか、こんなの売ってたか。同じグループで同じ所を訪れたはずなのに、見た覚えのないものばかりが並んでいる。
「それは玲が買うだろ?」
自分だけしか3年がいないとしてもやっぱりこれらを買っただろうが、まあ言わなければいいだろう。たらればは自分に有利な時にだけ使えばいい。
よく見ようと少し前に動いた結菜を引き寄せ直して肩に顎を乗せる。
耳元に息が掛かったことで結菜が微かに肩を跳ねさせた。
「玲さんも瞬さんも普通だと何か不都合が生じるんですか?」
結菜がきょとんと瞬に聞く。
先ほどの動きに自身で気がついていないらしい。いい事を発見した、と瞬はほくそ笑んだ。
「つまんないだろ」
楽しいかそうでないか。人に選ぶ時でも基準は全く変わらない。
やや内向きに角度を調整しより耳に刺激が行くようにすると、さっきよりも反応が大きくなった。瞬を注意しない辺り原因がよく分かっていないのだろう。
耳が弱いこと、知らないんだな。これは使える。
瞬にとって結菜は可愛い後輩で、何より面白い玩具。彼の中でそれは両立する。異性特有の配慮はあるが、男には頼まれたってしたくないこと、需要はあっても供給はしたくないー例えば今の膝抱っこや耳元への囁きなど、相手が初々しい返しをする女の子ならやりたいことはそれ以上にある。
別に瞬は女に飢えているわけではない。性格悪い奴にありがちな事に、瞬は見た目が良かった。美男子だから性格に難ありでも許される、とも言える。他の生徒会メンバー曰く「無駄にイケメン」「見てくれしか長所ない」「所詮顔だけ男」「容姿に胡坐をかいた性格」とぼろくそだった瞬だが結菜の「瞬さんはイケメンというより綺麗な人です!それにすごく面倒見良くて優しいです!」というまあ天然怖い、な慰めに気を良くし、その後流れるように結菜を抱き寄せ頭を撫でていい子だな、結菜もかわいいよ、と言いまくって照れに照れる結菜を楽しんだ。周りの不細工なら犯罪だぞ地獄に堕ちろ顔さえ良くなきゃ一生童貞調子に乗んなとヒートアップした暴言も気にならなかった。
純真無垢は男にとっては宝石。そこまでの瞬が結菜にこだわるのはそれが理由。
「俺は少なくとも体内に取り込むものは愉快な名前してない方がいいな」
龍樹が気持ち離れ気味に顔を引きつらせる。
旅行のお土産もらう時って、もっとわくわくするものじゃなかったか。兄である光毅もまたいたずら好きでガムと渡されれば指バッチンとかせんべいかと思えば食品サンプルとかは一通りやられたし、たまに出掛けた先でカブトムシそのもののチョコを買って来られたりミミズそっくりなゼリーをひょいと渡されて心底驚いたりしたが、ここまで感嘆符と疑問符に脳が支配されるものはなかった。
友人と兄弟という違いはあれど、光毅と玲は振り回される立場として似通うところがあると思っていたけど、この分じゃ気苦労は自分以上だろう。玲をもっと敬おう、と決心する。
「龍樹に同意。こんなにあるのに一個も食べたくねぇ」
光毅はもっと明け透けにドン引きしていた。
ジョークグッズとか、人並み以上に詳しいつもりだった。
こういうことは、反応を楽しむ立場だったから、多少のことでは驚かないでいられるつもりだった。
全て過去形である。
光毅だってなかなかの嫌がらせをしてきたが、食べ物関連では物理的に食べられないか形が気持ち悪いだけで、こんな訳の分からない何かだけで出来たものは見たことがない。
瞬は玲と行動しただろうからそういう専門店ではなく、ただの土産物屋で買ったんだろう。
そこにこんなの売っててたまるか。
「好き嫌いは駄目だろ光毅」
自分の買ったお土産が不評未満の評判だというのに瞬は飄々と言ってのける。
「そういう域じゃねぇだろ」
はー、と嘆息した裕司も苦笑い。
龍樹も光毅もまだ瞬のセンスを身を持って知らないのだ。そこでこれらを出されたらこの反応は当然だろう。
「形がそういうだけで味は美味しいかもしれないし…せっかく瞬さんがくれたんだから」
瞬のもの選びのポイントを知らないのは1年の結菜もまた同じだった。なんだか凄い名前ではあるけれど、それでも彼女は無下にはできない。その育ちの良さは相手を間違わなければ人間関係において正の作用をもたらすが、今回は大爆発レベルで相手が悪い。
「結菜はいい子だな」
瞬が頭を撫でてやると、結菜はちょっと目を細めて嬉しそうにした。
髪を梳く手が心地よかったのか思わずという感じで頭をすり、と寄せる。仔猫のような甘え方に空気がほころんだ。
「そこにつけ込むお前は最低だ」
一方的だがいちゃつく2人が気に食わないし、俺は上目遣いだけであの始末だったのにと不公平感でいっぱいな玲が瞬に言葉を投げつける。
常々瞬は結菜で遊び過ぎだと思っていた。
「まあ正直それを狙った…」
瞬が結菜の耳を両手で抑える。彼には妙な境界線があり堂々といじくりまわしつつも隠す所はしっかり隠す。だからいつまでも結菜にとって「たまにいじめるけど頼れる先輩」で居られる。
周りにとっては腹立たしいことこの上ないがその手腕はちょっとした羨望の的だ。
「?なんで耳塞ぐんです?」
唐突に会話から外され結菜が瞬の手に自分の手を重ねて外そうとする。
「ちょっと静かにしてろ」
瞬が左耳に口を寄せ、左手だけ少しずらして結菜に息を吹き込む様にそっと囁いた。
「ひゃ、みみくすぐった…!」
ぴくん、と体を震わせ結菜がとろけた声を上げる。不意打ちに力が緩んだところですかさず耳を塞ぎ直した。
4人がじとりと一斉に瞬を睨みつける。苛立ちがはっきり視線と顔に現れていた。
「結菜が涙目になりつつそれでも礼儀正しさを発揮し我慢して食べるの考えるだけでイイだろ」
全く気圧された様子もなく、にやりと笑う。というか瞬は期待以上の反応をした結菜に満足だったから気づいてすらいなかった。
光毅と龍樹がそれぞれ顔を見合わせる。
「…それは」
光毅がめくるめく思春期男子ワールドを繰り広げる。
「…確かに」
龍樹もぶわっと想像の翼を羽ばたかせた。
「喉詰まらせそうになりながらも頑張って飲み込むわけか」
裕司は更に妄想を広げる。
彼らの脳内は瞬く間にモザイクがかかるものへと変化した。
「…」
『や、玲さんっ…そんなの食べられな、あ、無理に入れちゃ、だめ、んぐ、あむっ、んん…』
「令お前顔ヤバいぞ」
理性と本能、というか脳内の狭間で表情が変に歪んだ玲を見て瞬が真面目なトーンで言う。
「なっ!?」
誰よりもたくましい思考力にどっぷり浸っていた玲が瞬の言葉で我に帰る。
俺今どんな顔だったんだ、取り繕えた自信がない。
「うわー副会長さんへんたーい」
「副会長さんムッツリーさいてーい」
光毅と龍樹が甲高い声で玲をからかった。ご丁寧に口元に手まで当て、引いてますアピールに余念がない。
双子とはいえやんちゃな光毅とそれを諌める龍樹というあまり似ていない図が定着していた。だがこういうところで双子スキルが遺憾無く発揮される。
龍樹も光毅の横にいるからこそおとなしく見えるだけで、さして本質は変わらない。
「ストイックに見せかけてお前…」
生徒会の同性の中で裕司は玲が1番そういう印象を受けなかった。下世話な話題には一歩引いたところがあったと記憶している。
玲も男だしな、と納得したがそれにしてもさっきの顔はひどい。押さえつけると欲望は膨らむというのはあながち都市伝説でもないらしい、と裕司は考えた。
「みんな何話してるの…?」
他が自分を差し置いて盛り上がっているのに疎外感を感じ、結菜が不安げな声を出す。
たまに目とか耳とか塞がれるけれど、こういう時何を話しているんだろう。楽しそうで輪に入りたいのに、「結菜は知らなくていい」と子供扱いされる。やっぱり身長のせいかな。
的外れな自己解釈で結菜の気分は沈む。
身長と体重と、とある1箇所について彼女は固く口を閉ざす。小さい方が可愛いだろ、程よい小ささがいいよな、小さい方が俺は好きだな、すっぽり収まる小ささが1番、と令以外の彼らが彼女を見てやたらと小さいを強調しながら話していた時、それが身長だけではないことはさすがの結菜にも分かった。成長期が遅いだけです!とどちらも突っ込まれたくない結菜が言い捨てて令の影に隠れたことは1度や2度ではない。ちなみに令が参加しなかったのは結菜への配慮、という名の打算もあったが単に彼は派閥が違った。
とにかくその3箇所は結菜の三大コンプレックス。外野が無駄に刺激するので日々抱える気持ちは大きくなっていた。一旦気にし始めると止まらない。
「ああ、もういいぞ」
瞬が耳のそばに唇を寄せ声で撫で上げる様にそっと告げる。
「あっ…!だ、だから瞬さんっ!」
考え事に囚われていた結菜は一瞬で意識を浮上させられた。くすぐったさ、と彼女が思っているもの、に肩が跳ね湿度の高い声が出てしまう。
大きく反応してしまった自分が恥ずかしくなって、瞬を責めた。
「「「今のいらなかったろ今のは」」」
イライラした3人の声が重なる。
「というわけで」
さくっと無視して瞬が切り出した。
「どういうわけ…?」
何やら自分の聞こえない間に話が進んでいたらしい。何がなんだかわからない結菜が疑問を浮かべる。
「食べてもらうか」
裕司がじり、と結菜に近づく。
「え?」
流れが不穏な気がする。
「覚悟してね結菜ちゃん」
龍樹はこつん、と一歩結菜の側へ踏み出す。
「有効に活用してやる」
光毅もまた一歩とん、と近寄った。
「みんなで食べるんじゃないの?」
裕司達の言い方からしてそんな気がする。どうしてそういうことになっているのだろう。
「悪いな」
瞬が結菜の腕を後ろ手に掴む。どうなっているのかと考えていた結菜はあっさり捕まった。
「え、ちょっと離してください瞬さん!」
いまいち理解できていないけれど、逃げなきゃいけない、と強く思った。
結菜が瞬の腕を解こうとするもがっちり抑えられていて抜け出せない。
「さすが会長さん仕事が早いねぇ」
裕司がくくっと笑って更に距離を縮めてくる。
「や、やだっ!」
結菜が無理矢理立ち上がろうと足を動かした瞬間、
「いっ…!?」
瞬が声を上げて腕にかかっていた力が取れた。
どこか蹴ってしまったらしいけれど、まずは逃げることが先決。
結菜にしては珍しく、そして正しい判断を下して勢い良く立ち上がって駆け出す。
「脛を蹴り飛ばした!」
まさか実力行使に出るとは思わなかった光毅が驚く。
「そんなに嫌なんだ!」
龍樹もそこまでの抵抗に合うとは考えなかったため慌てて追いかけた。
「なんか知らないけど雰囲気がいやっ!」
ドアまでダッシュしつつ後ろから追ってくる3人に言葉で抵抗する。
「ああ…そんなに嫌がられると…」
龍樹がふと、沈んだ声を出した。
結菜のスピードが緩む。
そっと3人を伺うと、光毅と裕司が龍樹と顔を見合わせて頷いた。
「何がなんでも食わせたくなるな!」
にやりと笑って楽しそうに、というには随分といやらしいが結菜はそんな印象を人に対して心の中であっても抱けなかったー光毅は言う。
「逆効果だぜ?余計そそるってか…!」
裕司も結菜には表現できないー彼女の語彙にはあっても現象と結びつけられないのだー恍惚とした顔をしていた。
「な、なんなのみんな!すごく怖いよっ」
理解の範疇をかるーく飛び越していて結菜の言葉ではそこまでが限界だった。本能で危険を感じ取る。
「はっ!そうかよっと!」
たんっと軽快に光毅が結菜に追いついて回り込む。
「逃がすか!」
「きゃっ!」
咄嗟に結菜が方向転換しようとしたところを裕司が捕まえた。
華奢な手首をがしっと掴んで下卑た笑いを漏らす。
「くくっ…力の差なんか歴然だろ?無駄な事を…」
「すげえ悪人面」
「時代劇の悪代官って感じ」
間髪入れず光毅と龍樹がツッコミをかました。
なかなかどうして生徒会の先輩方は表情豊かだ。今の図はどう見たって誘拐犯と可憐な少女だが、そのくらいに力量差は明らか。2人も油断し切っていた。
「いやっ!」
当事者でない光毅と龍樹から見ても犯罪者そのものの顔だったのだから、結菜が受けた恐怖は計り知れない。なんとかして逃れようと思いっきり腕を振り回し、
「っぐ…」
裕司の顔面にがっつり拳を入れた。
「見事な右ストレート決まったね」
龍樹があたかも実況のように的確に現状を描写する。
「感心してる場合か!出口塞げ!」
能天気に中継する龍樹を光毅が叱咤して指示を出しつつ、自分も扉の前に立ちはだかった。
「っ…!」
ドアノブまであと少しだったのに、さっと間に入った2人に邪魔される。逃げ道を絶たれた結菜が息を飲んだ。
「ふふっ。さすがの結菜ちゃんもー」
龍樹がにこやかに笑いながらも結菜から視線を逸らさず語尾だけで光毅を促した。
「2人相手じゃ勝ち目ねーだろ」
龍樹に門番を任せ光毅が前後逃げ場がない結菜をじりじり追い詰める。
「諦めてね?」
「大人しく捕まれ」
安定の双子スキルを発動して2人が高らかに言った。
「っう…」
前は塞がれているけれど後ろに逃げたところで勝ち目はない。
光毅に近づかれても結菜は動けなかった。
「けけっ…そうそう、そうやってじっとして…」
嫌がる顔をしながらもその場から動こうとしない結菜に光毅が勝利を確信する。
「光毅も顔と笑い声が変態だよ」
うわー、と龍樹が下衆く笑う光毅に引き攣った声をだした。
兄貴も生徒会に染まってしまったのか。女の子に向ける顔としてどうなんだろうこの表情。
「ごめんね光毅くん!」
光毅の手が伸びた瞬間、結菜が勢い良く足を上げた。
「うごぁぁいてうおおぁ!?」
結菜としてはお腹とか悪くてみぞおちを狙ったつもりだったのだが、暴力なんて振るい慣れていない結菜は目を瞑って動いた。不慣れな上目測を大きく誤った結果、
「っ!蹴り上げた!」
龍樹が先ほどとは違う意味で顔を引きつらせた。ちょっとどころじゃなく腰が引ける。あの痛みは味わいたくない。
「ごめんねっ!でもこれで出口…」
予想外に光毅が痛そうなのでびっくりしたが、なぜか龍樹も結菜から距離を取ったのですり抜けるように扉に辿りつけた。ほっと息をつく。
「油断した?」
取っ手を引こうとした手が伸ばせない。
「龍樹くんっ…」
すぐ後ろからかかった声に結菜が怯える。
「背後取ったりー。隙だらけだよ、結菜ちゃん」
光毅が後ろ手に両手首を掴み、両方の脚を自分の片脚でまとめるように固め強制的に膝を曲げさせる。
「やぁっ…!」
ぐっと背後から四肢を絡め取られて結菜が悲鳴を上げた。
「っと。こうしちゃえば何も問題なーい」
先ほどまでの悲劇の連続を元に凶器になった全てを動けなくする。前から狙って光毅の二の舞を踏みたくなかった龍樹はわざと結菜を出口に寄せた。完全に抑えれば体格的にも脅威にはならない。
龍樹もまた光毅とは違う方向で生徒会、引いては瞬の計算高さに染まっていた。
「っれ、令さん!」
今度こそ脱出できそうにないと踏んだ結菜が参加していない令に望みを掛けた。
「た、すけて…!」
目線だけ結菜に向けた令をじっと見つめて訴える。
「令さんなら…ひどいことしないですよね…?」
水分を含んだ声で懇願する結菜に、令がそっと近寄った。
「!令さんっ」
ぱあっと結菜の表情が明るくなり、声音に期待が満ちる。
だが、
「悪い」
令が歩きながらシュルシュルとネクタイをほどいていく。
「れ、令さん何を…令さん…?」
助けてくれるとばかり思っていた結菜は令の行動に混乱した声を出した。
「俺も、男だ」
すっと結菜の足元にしゃがみこむ。迷わず手を伸ばしネクタイを細い脚に巻き付けていった。
「令さ、何す…や、脚触らないでください…!」
脚を這い登る布の感触と骨張った体温に結菜が喘ぐ。いくら嫌がっても龍樹1人の時ですら抜け出すのは無理だったのだ。令と2人がかりで抑えられた今抵抗らしい抵抗もできずされるがままの状態だった。
「よくやった令」
「男だな副会長」
「ネクタイで脚縛るとかさすがだな」
痛みから復活した3人が口々に令を賞賛する。
「実用性も見た目も完璧だね」
結菜の後ろから見ていた龍樹も感嘆の声を出す。
「なんですかこれっ!なんでそんな手際いいんですかなにこの縛り方!」
恐ろしく鮮やかに、彼女はきっと知る由もない名前の手法を披露した令に結菜が驚きと恐怖の目を向けた。
「さて」
脛をさすりながら令の隣へ歩み寄った瞬が彼の肩をぽんと叩く。
「始めるか」
「乗らないでください令さん!」
頷いて言葉を引き継いだ令に裏切られた結菜が悲痛な叫びを上げた。
「あんだけ酷い目に合ったんだぜ?しっかりやってもらおうじゃねーの」
腫れてこそいないがひりひり痛む頬に手を当てて裕司が悪代官と称された笑みを漏らす。
「そうだそうだ!痛んだトコロを慰めてもらわねーとなぁ!」
光毅は場所が場所だったので触ったりはしなかったが、歩き方が若干庇うように前かがみだった。
「ストレート過ぎるよ光毅取り繕おうよ」
明け透けな彼を龍樹がたしなめる。自分たちだけならいいが異性に聞かせるものでもないだろう。
「痛いなら保健室一緒に行こう!」
「気付いてなかった」
結菜の斜め上な気遣いに龍樹がえっ、と驚いた。鈍いだろ、と思うがどこを蹴ったか分かってないだけかもしれない。彼女なら分かっていて分かってない可能性が1番高いけど。
「加えて天使みたいな優しさだなおい」
裕司がさすがは結菜、とからかうように言う。
「こんなひどいことされてんのになあ」
「自覚あるならやめてくださいやめさせてください!」
瞬がとうとうと同意すると結菜がとうとうと噛み付いた。
「無理」
他全員の声が見事に一致する。
「ばかっ!みんなばかぁぁぁあ!」
無慈悲な団結力に四面楚歌な結菜が吠えた。
「馬鹿で結構!」
「男なんてそんなもんだ!」
裕司がはんっ、と腕を組み、光毅も意地悪そうな笑顔で腰に手を当てた。
「そうそーっと。」
龍樹が軽く同意して先程から細かく動かしていた手を止める。
ふと、結菜は龍樹が力を緩めたのにさっぱり動かせない腕に不審な目を向けてぎょっとした。
「龍樹くんまでいつの間に縛って…!」
またしてもよく分からない縛り方。 機能性よりも機能性重視のやり方だ。と簡潔に説明してもきっと彼女は分からないだろう。
とにかく彼女にとってはほどけない以上のことをされていて、そうそう縛られたことなどないけれどなんか普通より恥ずかしい気がする、と長けてないなりに感じ取った。
「副会長ほどじゃないけど自信作だよー」
軽く引っ張ったりずらしたりして微調整をしながら龍樹が言う。その顔は薄ら寒いほどに善人染みた笑顔。
龍樹は光毅と本質が同じだ、と言ったのは早くも撤回しなければならないかもしれない。光毅よりずっと顔に出ない分彼は厄介だ。大体常に笑顔、その内の感情が変化しても貼り付けたまま絶やさないからスイッチが入っても見た目にはわからない。
「いい線してるな」
令がわざわざ結菜の後ろに回り痛々しさを感じるよりもずっと官能的な出来に仕上げられたネクタイを眺めた。こちらは対象物がこれでなければ見惚れるほどに真面目な顔。
その表情を向けるべきはベルヌーイの定理とかアンティキテラの歯車だろう。
「どうも。細いから苦労したけどやっぱ食い込みはロマンだよね」
「わかってんな…痛みは少なく作るの腕だと難しいだろ」
「うん。でもネクタイだったからそこはかえってやりやすかったかな」
「よくわからないことで意気投合しないでください!」
何やら後ろで外国語を話されるしそれがやたらと盛り上がっているしで耐えられなくなった結菜が遮った。
「いやよくわかんぞ」
頷きながら聞いていた裕司が彼女を宥める。特殊性癖の持ち主ではないつもりだが興味はどうしてもある。
だって、男の子だもん?
「さすが俺の親友」
「やるじゃん我が弟」
「まだまだだよ」
「役立てられて良かった」
他者を立て、謙遜で返す。形式化されてしまい忌み嫌われることも多いが、日本人の美であるやりとりは今日でもそこかしこで見られる。それは全くの他人同士であれば会話のきっかけに、知人の仲であればより親睦を深め、また、ごく親しい友人間では一種の冗談として嗜まれることもある。
「なんなのもー!!」
誰より話の中心なのに誰より蚊帳の外な結菜の叫びがこだました。