第五章 現代における召喚魔法⑥
犬塚英理子は知っていた。
自分がさらわれたのは昨日のハッキングが原因だということを。
男達の目的はハッキングで奪ったデータ群の中にある”なにか”だったということを。
だから目の前の同級生が語った推理は決してデタラメなどではなく、限りなく真実に近いということを。
しかしそれでも、彼女は受け入れることができなかった。
あの部屋を出る前にも同じことを聞かされたが、彼女は頑なに信じようとはしなかった。
信じたくなかった。その言葉を。その人物の名を。
自分をあんな目に遭わせた首謀者が、この荻原イヅルだということを。
「俺が英理子様の誘拐を企てた、と? ……ははっ、冗談きついな。すみませんが、納得の行く説明をしてもらえませんか? あまりにも突飛な発言だったもので少々理解が……」
身体を起こし、縛られたままあぐらをかくような体勢で荻原が鋭い視線を亮治へと返す。
と、それに一拍遅れて犬塚も思わぬところで飛び出した名前に声を荒らげた。
「そ、そうよ! 馬っ鹿じゃないの!? さっきも言ったけど、なんでそこで荻原が出てくるのよ!!」
弱々しかった瞳の炎にも力強さが戻っており、下手なことをいうと噛みつかれそうな剣幕で犬塚は亮治を睨みつける。
突き刺さる二つの視線。
本来ならたじろぎそうな状況だが、二人から挑戦的な視線を向けられても亮治は落ちついた様子で淡々と言い放つ。
「簡単な話だ。誘拐の原因がハッキングなら、犯人はお前が昨日ハッキングをしたって知っている奴だ」
誘拐のタイミングとその前後の出来事を照らし合わせ、犬塚英理子が拐われた原因はハッキングだと断定する。
そうなると犯人候補の絞り込みは容易だった。
なにしろ昨日のハッキングのことを知っているのは当事者である亮治や犬塚、マルス・プミラの少女達を除けばたったの三人しかいなかったのだから。
「俺やユティー達以外でハッキングのことを知っているのは当時店にいた花月の店長、協力してもらう仮定で事情を説明した拓郎、そして恐らく犬塚自身からハッキングの成功を聞かされていた荻原の三人」
犬塚と荻原に向け右手の指を三本突きつけ、亮治は続ける。
「今まで好き勝手に店のデータをユティーに触らせていた時点で店長は除外。拓郎は誘拐なんて企てる奴じゃないし、万が一アイツが犯人だとしたらトゥエルブでお前と一対一で会った時を狙うだろうからこれも除外。残るは荻原一人だけだ」
「だからそんなもの単なる消去法にすぎないわ! 第一、私が荻原にハッキングのことを話したってのはアンタの想像でしょ!?」
「じゃあ聞くが、話さなかったのか? お前は」
「……それ、は…っ」
亮治の問いかけに犬塚は言葉を詰まらせる。その沈黙はもはや肯定にしかならなかった。
亮治の想像どおり、犬塚は荻原にハッキングのことを話していたのだ。
タイミングは本日の早朝。
花月から奪ったデータ群を閲覧するため、犬塚はほとんど徹夜でファイルにかけられたプロテクトと格闘していた。
彼女の類まれなる頭脳と集中力により朝日が昇るころにはいくつかのファイルは解き終わっており、そのままの勢いで残りのファイルも暴いてしまいたかったがそれは叶わない。
従姉妹である倉科真葵奈から、呼び出しがかかったからである。
昨日、倉科真葵奈に協力を申し出た際に呑んだ交換条件。それを今日の午前中に果たして欲しいと彼女は言われたのだ。
自分から言い出した手前、断るわけにはいかなかった。相手は倉科真葵奈だ。先延ばしにすれば必ず余計なペナルティをつけられるに決まっている。
学園へと向かうため渋々とシャワーを浴び、着替え終わったところで彼女は付き人である荻原イヅルと顔を合わせる。
そこで犬塚は話してしまったのだ。
花月にハッキングを仕掛け、成功したことを。
入手したデータにはプロテクトがかかっていたことを。
解析には時間がかかりそうだが、入手したデータは機密領域にあったので重要なものに違いない。これでこちらが勝利すると。
「で、でもあいつら、従わないとオギワラをひどい目にあわせるってエリコのこと脅してたんだよ?」
「なら尚更ニーチャンだけ別室で監禁ってのはおかしいな。一箇所に固めといたほうが監視も管理もやりやすいし、脅すなら目の前で痛めつけてやったほうが効果的だ」
さらりと言い放つ結城にレイヤだけでなく、犬塚も思わず黙りこむ。
彼女自身も薄々おかしいと感じてはいた。何故、あのタンクトップの男をはじめとするゴロツキ達はわざわざ荻原だけを別の部屋に監禁したのだろうと。
犬塚英理子の口を割らせるために荻原イヅルを痛めつけるのであれば、彼女の目の前でやったほうがよほど効果的なハズ。
何故、男達は”人質の人質”として荻原を使っておきながら、電話越しに音声だけを伝えようとしていたのか。
「ハッキングが原因であれば犯人の目的は私たちと同じく二つあったはずよ。ひとつはもちろんデータの削除。もうひとつはそのデータが誰かに見られていないかの確認と見られていた場合の対処」
「データ自体は今までずっと花月にあったことと、狙われたのが犬塚一人だったことから、そのデータは犬塚英理子に見られたら困るものだったんだろうな。なら犯人はその関係者と考えるのが自然だ」
すかさずミラとルートも亮治の脇を固めるようにロジックのブロックを積み重ねていく。
これはユティーのやり方だ。出発前に彼女が話してみせた、仮定から始まった推理。
まず結論を出し、それを補足する事象や物証を掲げ、歪な形をしていた物体を徐々に徐々に美しい立方体へと仕立てあげる。
「……確かに理屈は通っています。面白い推理だ。だけどそれらは所詮、憶測と消去法による仮説でしかない。それだけで俺を犯人と断定するには無理があるんじゃないですか?」
荻原に焦りの色は見えない。表情筋を微動だにせず、鋭い瞳で亮治だけを見据えている。
「ああそうだ。今の話には”決定的な証拠”ってものが存在しない。もしかすると犬塚が誘拐された理由は全く別のところにあるのかもしれない。この推理を俺達に聞かせた奴もそう言った」
そこまで言うと褐色肌の少女の姿を思い浮かべ、亮治は不敵に笑った。
「だからその”決定的な証拠”とやらを見つけ出すため、アイツは店に残ったんだ」
単純な話だった。
ユティーの立てた仮説は「花月のPC内には犬塚英理子に見られたら困るデータが存在しており、それには荻原イヅルが関わっている」
ならば、犬塚英理子がハッキングを仕掛けた領域内にあるデータ群を総当りし、そのデータとやらを見つけ出してしまえばいい。
それが何よりの物証であり、仮説の裏付けになる。
「ユティーが勘や憶測だけで理論を並べるわけないだろ」
「悪いけど、もう証拠は出揃ってるのよね」
ルートとミラが同じく不敵な笑みを浮かべ、両手を前にかざす。それは起動の合図。
すぐさま鮮やかな水色の粒子と共にクリアブルーのキーボードが出現し、二人の少女の指が動き始める。
「こ、これは一体……」
初めて目の当たりにする他世界の技術に荻原が驚嘆の声を挙げるのも束の間。
中空の液晶ディスプレイに映し出されたものに、彼は言葉を失うこととなる。
「これが今回の事件の原因であり、動機だ」
<3月31日 晴れ>
本日の売上 : 10526円
来店者数 : 15組19名
<備考>
月末だからか今日は普段よりもお客さんがたくさん来てくれた。
一人でこなすには大変だったけど、嬉しい忙しさだ。
毎日このくらいお客さんが来てくれるように、もっと頑張らないと。
「えっと、これって……店長さんが書いてた業務日誌、だよね??」
ユビキタスコンピュータにより表示されたデータに、レイヤがきょとんと首を傾げる。
「ああ。正確には店長が手書きでつけていた売上管理表と業務日誌を、ユティーがパソコンに入力したやつだ」
マルス・プミラの少女達がこちらの世界、そして定食屋”花月”に初めて来たあの日。
ユティー・リティーは手書きの売上管理表や業務日誌を目にし「いい機会ですから、トゥエルブから寄贈されたノートPCへと打ち込んでしまいましょう」と提案した。
店長のマメな性格から売上はもちろん、客層や客数、メニューの注文回数など様々なデータが記録されたそれらは、管理参照しやすいようアナログデータからデジタルデータへと移行されたのである。
「…………」
ほんの僅かだが表情を険しくする荻原。それに気付いた犬塚がすかさず問いかける。
「これがなんだっていうの?」
「うちの店長は商売下手だが真面目で律儀な人でな。こんな感じに毎日、一日も欠かさず業務日誌をつけていたんだ。売上データだけじゃなく客層や客入りの時間帯、メニューの注文回数なんかもな」
亮治が話すのに合わせミラとルートがキーボードを操作し、中空のパネルの開いたり、スクロールさせたりし、事細かに書かれた店のデータを表示させていく。
「自慢じゃないが以前の花月にはお客なんてほとんど来なかった。派遣実習でやって来た俺が心配になるくらい暇だったんだよ。だからこそ他の店に比べ細かいデータを記帳する暇もあるし、常連客なんてすぐに覚えちまう」
「こんな感じにな」
<8月8日 晴れ>
本日の売上 : 8711円
来店者数 : 13組15名
<備考>
今日もまたあの眼鏡の似合う商社マンの人が来てくれた。
時間帯はバラバラだが、二週間に一度は彼を見ている気がする。
この店の近くの会社にでも勤めているのだろうか? とにかく、ありがたいことだ。
会計の際、思わず深々とおじぎをしてしまった。
確か、以前来た時に連れの人に「オギワラ君」って呼ばれていたと思う。
オギワラ君、いつもありがとう。
<12月20日 曇り>
本日の売上 : 6422円
来店者数 : 10組11名
<備考>
アイドルタイムに買い出しのため表に出ると至る所にイルミネーションが見られた。
もう今年も終わりが近いんだな。
年末はどこのお店も忙しくなるのだろうけどウチは相変わらずだった。
そういえばいつもの彼は今日、見るからに悪人っていう感じの男たちと一緒だったな。
食事をしながら色々と話し込んでいたけどどういう関係なんだろう? 謎だ。
売上、来店者数、備考をはじめとし、花月の様々なデータを中空に描くユビキタス・コンピュータ。
次々に表示されていく業務日誌の内容に犬塚も言葉を失った。
頭の良い彼女は勘づいてしまったのだ。目の前の同級生がこれから何を告げようとしているのかを。
「この”オギワラ”って男はひとりで花月に来ることはなく、いつも必ず二、三人で訪れている」
亮治が言うように、日誌には様々な相手と店に訪れている男の様子が記録されている。
恰幅の良いいかにも重役といった感じの中年。サングラスをかけた年齢不詳の長身。ガラの悪いチンピラのような男達など、時間、日付、相手の風貌や年齢層はバラバラ。
日付が進むにつれ“オギワラ”という人物の側面が明かされていく。
「ま、これに関しちゃ交友関係が広いって言っちまえばそれまでの話かもしれないが、読み進めていくとそれでは済まされない相手が二人いる。2月と3月の日誌にそれぞれ一度だけ出てくる“この間、なにかの雑誌で見た鷲尾なんとかっていう会社の人"と“腕に刺青がある怖い人”だ」
亮治の言葉に合わせミラが新たにウィンドウを表示させると、確かにその二人について書かれている日が存在した。
彼らもやはりこれまでの日誌と同様、オギワラと店に訪れ軽い食事を交えながら密談を交わしている。
「いれずみってさっきの……」
刺青と聞き、当然レイヤは先刻自分たちを監禁していたあのゴロツキの姿を思い浮かべる。
「ええ。そういえばあの人の腕にもあったわね」
ミラも同じく自分が倒したタンクトップの男について口にする。
黒の短髪に日焼けした肌、上は黒のタンクトップに下は年季の入ったジーンズ。太い二の腕には刺青が彫られており、耳には無数のピアスをつけた悪人面。
レイヤと犬塚を特に脅かしたリーダー格と思われたあの男。それがオギワラと共に花月に訪れているというのだ。
「そっちだけで十分ブラックだがもう一人の方もユティーが調査済みだ。鷲尾コンツェルンっていえば、犬塚グループとはライバル関係にある有名財閥だってよ」
表示させていたユビキタス・コンピュータのウィンドウを閉じながら、ルートがぶっきらぼうに言う。
彼女と亮治、そして監禁部屋にいる全員の視線が一点に、後ろ手に縛られ拘束されたままの眼鏡の男へと集中する。
つまり工藤亮治とマルス・プミラの少女たちの結論はこうだ。
「荻原、アンタは鷲尾コンツェルンから犬塚グループへと派遣されていた企業スパイで、そのことを知られるとマズいから犬塚をさらったんだろ?」
射抜くような眼差しで発せられた言葉に犬塚は怯えるように瞳を逸らし、荻原は瞳を伏せ嘆息を漏らす。
「…………『運の良い鉄砲打ち』という童話がありますが、今、あれの逆を体験した気分です」
「荻原?」
「英理子様。この廃ビルが元は何のビルだったか知っていますか? ……いえ、知らないでしょうね」
憂いと諦観を帯びた笑みを浮かべ、過去を懐かしむように荻原は顔をあげ、犬塚に語りかける。
「ここの階には元々、私の父の会社があったんです。といっても、とある大企業の下請けの下請けを担っていただけのしがない中小企業でしたが」
遠くを見つめるように目を細め荻原は続ける。
「父は良く言えば温和で優秀なリーダー。悪く言えば経営者としては甘い人でした。ただその性格から従業員達にはとても慕われ、小さいながらも皆自分の仕事に誇りを持ち、いつも一致団結してやっていたんです。しかしある日、社はあまりにも突然倒産の危機に見舞われました」
「なんだってまたそんな急に……」
亮治が尋ねる。
「よくある話ですよ。元請けである大企業が犬塚グループの買収を受けたことにより下請けの企業が一方的に取引きを打ち切られ、孫請けだった父の会社もドミノ倒しのように仕事を失ったんです。後に聞いた話によると、後任の下請けは犬塚グループの息がかかった会社になったとか」
チラリと荻原が犬塚に目をやる。
別に責めているわけでもなく、ただ視線を動かしただけなのだが、それでも犬塚はビクリと体を震わせた。
そうして同時に自責と後悔の念に押しつぶされそうになる。
初めて工藤亮治と会い、売上対決をふっかけた際に自分は何を言った? 自身の父の権力をチラつかせ、彼の自宅である喫茶店を経営困難に晒そうと脅しをかけなかったか?
あくまでも挑発であり、本気ではなかったとはいえ己の軽率さに犬塚英理子は強く歯噛みをする。
「オイオイ、あんま気にすんな。そこのニーチャン本人が言ったように本当にただのよくある話だ」
表情を曇らせる犬塚、少し気不味い感じになる亮治やマルス・プミラの少女たちとは違い、結城は心底どうでも良さそうトーンで吐き捨てるように言うと、新たに取り出した葉巻に火をつける。
「彼の言うとおりです。それに勘違いしないでください。私はそのようなちっぽけな逆恨みからスパイをやっていたわけではありません」
「じゃあなんで……っ!」
「拾ってくれた鷲尾コンツェルンへの恩義はもちろんあります。が、それ以上に私は“力”が欲しかったんですよ。多少の理不尽などでは揺るがない金と権力が。そのためならばなんだってやるつもりで生きてきました。ライバル企業のスパイだろうが、わがままな少女の家庭教師だろうがね」
覚悟が宿る研ぎ澄まされた視線が犬塚を真っ直ぐに貫く。
今、ここにいるのはもう彼女に振り回されていたメガネの苦労人ではないことをあらためて思い知らされるような表情、雰囲気。
荻原イヅルという人間がこれまでどのような人生を、苦難を、歩み乗り越えてきたのか。それは彼自身にしかわからない。ただ凄みは伝わってくる。
だから亮治も犬塚も、荻原にかける言葉が見つけられないでいた。
無理もない。彼らはまだ高校生という未熟な時期にいるのだから。
「! この音っ!」
「どうやらユティーが呼んだ警察が到着するみたいね」
遠くから近づいてくるパトカーのサイレン音にレイヤとミラが反応する。
同時に結城とその取り巻きが即座に動き始めた。
「呼んだとは聞いていたがもう来やがったか。おい亮治、悪ィが俺たちは先にずらかるぜ。オメェもやることはやったんだから引き際を見誤るんじゃねぇぞ。わかったな」
「ああ! サンキューな、結城さん」
「馬鹿野郎。礼を言いたいのはこっちの方だ」
強面をニッと崩し笑うと結城は組の舎弟を引き連れその場を後にした。
残るは自分たちだけなのだが、亮治はまだ動くわけにはいかなかった。
親友であり悪友でもある存在の想い人が、未だそこに立ち尽くしたままなのだから。
「どうして荻原……? アンタほど能力を持った人間ならスパイなんて危険な橋を渡らなくても、出世なんてそのうち当たり前のように……!」
わからない、納得できないといった表情で犬塚が訴える。
「英理子様……いや、犬塚英理子。そのようなナイーブな考えは金輪際捨てることだ。社会は『真面目に頑張る』だけでは生きづらい。真面目を演じることができる賢い人間、巧みな立ち回りかたができる器用な人間が幅を利かせる場所なんだ。あの店なんかが良い例だろう」
「あの店って……花月のことか?」
「ああ」
亮治の問いかけに短く頷くと、荻原は続ける。
「あの店は料理は美味いし店主の接客も丁寧なのについ先日までまったく流行らなかった。何故だと思う? 工夫が足りなかったからだ。ビラ配りやインターネットによる宣伝や店の外観を変えてのアピール、ウェイトレスの導入など、今までやってこなかったことをやったからああして大勢の客が来るようになったんだ」
主人である犬塚英理子が宣戦布告した相手の実習地が行きつけの店である花月であることを知った時、荻原は内心冷や汗をかいていた。
近いうちに自分もあの店へと赴かねばならないだろうと悟ったからだ。
だからこそ、少しでもその確率を下げるため荻原は犬塚英理子以上に亮治たちの動向を探った。
そうして案の定やってきた花月来店の日。
店長に声をかけられた場合どのように誤魔化すかを十二分にシミュレートした荻原だったが、あいにく店長は厨房にかかりっきりでホールにはコスプレをしたウェイトレス。結局顔を合わせることはなかった。
この時点で懸念は払拭され、荻原の中では自身が企業スパイだということなど犬塚は絶対に気づかないと確信していた。
己が優秀さを活かし、鷲尾コンツェルンと犬塚グループ両方の入社試験をクリアし、業績を上げ社内での地位を確立した挙句、獰猛で自己顕示欲の塊のような社長令嬢の家庭教師役に収まるまで躍進を続けた。
あまつさえその少女は自分に気がある素振りまで見せる始末。
何一つ問題なく進んでいた。
なのに今、荻原はこうして観念したように暴かれた自らの行いを認めている。
例えば工藤亮治が学生派遣実習イベントに参加し、花月へと赴かなければ。
工藤亮治が他世界の派遣会社と契約し、四人の小学生と契約を結ばなければ。
四人の小学生のうちのひとり、ユティー・リティーが花月の業務データをアナログからデジタルへと移行させなければ。
犬塚英理子が花月のノートPCをハッキングしなければ。
考え出せばキリがないだろう。
それほどまでの偶然が重なり、犬塚にとっては奇跡的な幸運のもと、荻原にとっては天文学的な不運のもとでこの現状は成り立っているのだ。
「良い料理店の本質は料理が美味いこと。だがそれだけでは駄目なように会社員も真面目で仕事ができるだけでは駄目なんだ。金、時間、あるいは身体。相応の対価を支払い、リスクを覚悟し行動しなければ上へはいけない。俺はたまたま運悪くそういう賭けに失敗しただけだよ。だから君が気に病むようなことじゃない」
「荻原……」
「さ、もういいだろ。勝敗は決した。君は早くここから立ち去るんだ」
すべてが馬鹿らしくなったのか、はたまた潔く諦めたのか、荻原は穏やかな表情を浮かべ犬塚へと促す。
偽りがあったとはいえ、生徒と教育係という時間を共に歩んだ少女への最後の手向けと言わんばかりに。
「行くぞ犬塚。警察に見つかると俺たちも色々面倒だ」
胸元にきゅっと手を合わせ、縮こまるようにその場を離れようとしない犬塚。
亮治はその肩を掴むと、開け放たれた扉の方を親指で指す。
「…………いえ、私はここに残るわ」
「はぁ!? お前この期に及んで何言ってんだよ!?」
予想外の返答に亮治が声を荒げる。
「勘違いしないで。ここに残るのは駄々でもわがままでも身勝手な行動でもないわ。私が残らないと、この状況に説明がつかないでしょ?」
犬塚は言う。
自分がここに残り、事の経緯を説明してはじめて、荻原やその取り巻きの悪事が公になるのだと。
「そりゃそうかもしれねーけど……」
亮治は背後で待つミラとルートを見た。
「一刻も早く脱出したいところだけど、確かに私たちみんなで脱出した場合、今回の件がどう収束するのか不安ではあるわね」
「私たちのことをそのまんま話されても困るしな。助けに来た人間とさらわれた原因は別に用意したほうが良いんじゃないか?」
もしもの時はリンクを使っていつでも帰れるんだからな、と付け加えルートとミラは少しだけ体勢を緩める。
レイヤもそれに同調しコクコクと頷いた。
「決まりね。最後まで一緒にいさせてもらうわよ荻原。……私を誘拐した罪、絶対に償わせてやるんだから」
うつむき、地面を見つめながら、犬塚は恨み言のように告げる。
悔しそうに奥歯を強く噛み、痛いほど両手の拳に力を入れながら。
「それは残念だ。とっととここからいなくなってくれたら、俺も混乱に乗じて脱出できたものを」
「お生憎様。私、勝ち逃げは許さない主義なの」
「? 勝負は俺の負けだろ? 何を言ってるんだ」
「テストよテスト! 情報処理以外、私はアンタに負け越したままなの!」
「あぁ……そういえばあったな。そんなことも」
まさかこの状況で掘り返されるとは思わなかったのだろう。
思わず何年も昔を懐かしむように、荻原が瞳を細める。
「そうよ。だからまた私と勝負しなさい。今度は鷲尾コンツェルンの荻原イヅルじゃなく、ただの荻原イヅルとしてね」
「……まったく、本当に困ったお嬢さんだ」
気づけば今にも泣き出しそうな顔で強がる犬塚の姿を見て、荻原は少しだけ笑った。
「よっしゃ、それじゃ今度こそ脱出を――――」
パァン
それは、誰もが予想し得ない展開だった。
護衛役のミラでさえも気を緩め、ここに来るのはもう到着した警察以外にいないだろうと思い込んでいた。
室内に鳴り響く一発の銃声。
弾丸を受け、鮮血を撒き散らしながらゆっくりと床へと落ちていく身体は、犬塚英理子のものだった。
「エリコ!」
「ッ!!」
叫ぶレイヤを横目に亮治が振り向くと、そこには忘れもしない顔。
先程ミラが倒したタンクトップの男が拳銃を構え、殺意に満ちた瞳で立っていた。
「はぁ、はぁ……逃がさねぇぞ。その女を殺しちまえばまだ取り返しがつくっ……!!」
「ぐっ……う、ぁ……っ……!」
横向けに倒れ苦しげに呻く犬塚。
肩を撃たれたらしく、傷口を抑える手の隙間からはどす黒い血が流れ出している。
「クソッタレが! ミラにやられたんだから大人しく寝とけよな!」
「ああやられたぜ……ホント舐めてたわ。最初っからコイツを使っとけばすんなり殺せてたのによォッ!!」
タァン! タァン!
入り口方面からタンクトップの男が再び殺意のこもった弾丸を発射する。
二つの弾丸はどちらも犬塚を庇い壁になったミラを貫いた。
「ぐっ……いったぁ……っ!」
覆いかぶさるように犬塚へと飛びついたミラが脇腹を抑え顔を歪める。
傷口に添えられた右手は自身の髪と同じ真っ赤に染まり、ミラがダメージを負ったことを亮治たちに教えた。
「ミラぁッ!」
「ちっ……マズいな」
レイヤが泣き叫ぶ。
ルートは倒れた犬塚とそれを守るミラの側に寄り添い、どうにかリンクを使えないか隙をうかがっていたが動けずにいた。
リンクで運べるのはルートが触れている人間、またはルートに触れている人間に限る。
なので一度、一箇所に集まる必要があるのだが目の前の悪漢はそれを許さないだろう。
「クククっ……痛ぇか? 痛ぇだろ? オレも痛かったぜぇ?」
ミラにやられ理性のタガが外れたのか、タンクトップの男は半狂乱状態にあった。
顎に受けたダメージのせいでうまく喋れないのか口の端からはヨダレを垂らし、よく見れば下半身も笑っている。
片腕は力なくダラリと垂れていたがやはり迂闊には動けない。
普通じゃない表情や言動から察するに、妙な動きを見せたら躊躇せず引き金を引くだろう。
「ルート……私が隙をつくるから、その間に他のみんなを」
倒れ苦しむ風を装い、ミラが小声でルートへと話しかける。
「でもお前だって怪我して……っ!」
「大丈夫。知ってるでしょ? 私の体質。血は出てるし痛いけど、もうこれ以上、私があいつに傷つけられることはないわ……」
額に汗をかき、苦しげに息を吐きながらもミラは笑ってみせた。
「次にアイツが銃を構えたら飛びかかるわ。だから、頼んだわよ」
「…………わかった」
チームの護衛担当の提案にルートは強くうなずいた。
「オシャベリは終わったか? わりぃがもう上からの許可なんてもう待ってられねぇわ。テメーら皆殺しだ。特に散々邪魔してくれた赤い髪のガキは念入りに殺してやる」
明らかに異常な瞳をギラつかせながら気持ち悪いほど口元を歪め、男は笑う。
そうして右手に持った黒光りする拳銃を構えた瞬間――――
「させねぇよ!!」
タンクトップの男へと向かい飛ぶひとつの物体。
亮治がポケットに入れていたケータイを素早く取り出し牽制代わりに男へと放り投げたのだ。
(正直、一か八かだ。大人しくミラが動くのを待っていたほうが利口ってのもわかる)
そのまま亮治は倒れる犬塚英理子に覆いかぶさるように守るミラより早く前に、飛び出し、男へと走りだす。
(けどな、目の前で小学生の女子が撃たれて黙っていられるほど、男ってのは賢くねぇんだよ――ッ!)
そこからは一瞬の出来事だった。
「クソガキがあああああああああああああああああっっっ!!!!」
パァン! パァン!
激昂したタンクトップの男が亮治へと引き金を引くも、飛来物の不意打ちにより一瞬だけ怯んだため反応が遅れ照準が定まらない。
三秒でいい。
三秒もあれば必ずミラがこの事態を解決し俺たちを救ってくれる。
そう信じ固く唇を結び、頬と腹に焼けるような感触を味わいながらも工藤亮治は突っ込んでいく。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおッッッっ!!!」
ダンッ!!
体ごと突っ込んできた亮治によってタンクトップの男が壁へと叩きつけられる。
同時に亮治は身体から力抜けるのを感じ、男と折り重なるように一緒に床へと倒れこんだ。
味わったことないほどの強烈な熱と痛みがとめどなく腹部から全身へと広がる感触に襲われるも、もはや亮治に叫ぶほどの力は残されていなかった。
「へ、へへ…ざまぁ……みやがれ……っ」
出血によっておぼろげになる意識の中、ミラがこちらへ飛び込んでくるのを確認すると亮治は深い闇の中へと沈んでいった。
2016年6月11日 誤字脱字修正。




