第三章 性悪 vs 性悪⑥
「672円のお釣りです。どうもありがとうございました」
可愛らしい小さな手がお客へと硬貨を手渡す。
定食屋”花月”のレジ前はもはや完全にユティーのテリトリーと化していた。
(そろそろルートとミラの休憩が終わる時間かな。今度は社長とレイヤに休憩に行ってもらわないと)
素早い動きでレジのボタンを弾き、午後二時現在における売上を確認しながらユティーは思案する。
時間毎にパート分けされCPUから派遣されてくる労働力とは違い、彼女らは開店から閉店まで働かなくてはいけないため交代で休憩をとっているのだ。
なのでホールにて接客に励んでいるハズの雇い主に声を掛けようとしたのだが、どういうわけかいくら見回しても姿が見当たらない。
まさか自分の”管理”から逃げ出したのか、とユティーは少しムッと眉を釣り上げ口をへの字にする。
(そういえばさっき、表の仕事を任せていたレイヤが帰ってきたような……)
レジを打っている最中にそのすぐ側にある店の入り口が開き、そこからウキウキとした顔のカトレイヤ・リア・シュヴァイツフェルドが戻ってきたことを思い出す。
あれは確実に何かを企んでいる顔だった。
今までの付き合いからそう断言できる。
(と、いうことは……)
両者の姿が見当たらないのは二人が一緒にいるからだろう。
ユティーの頭脳がそのまま二人の居場所と行動内容を推理しようとした瞬間、再び傍らにある扉が開いた。
「邪魔するわよッ!」
「お仕事中、失礼いたします」
乱暴に扉を開け、店内に乱入してきたのは犬塚英理子と荻原イヅルだった。
犬塚は相変わらず不遜な態度と傲慢なボディでユティーを見下ろし、荻原はそんな彼女の後ろで苦笑いを浮かべ立っている。
今現在、花月とミラーチェは交戦状態にあるハズだが、なんの意図があってやってきたというのだろうか。
「何か?」
ユティーが抑揚のない口調で短く尋ねる。
若干の敵意は込められていたのかもしれないが、それはあからさまに、というほどのものではない。
しかし今の犬塚にはその言葉が100%自分に対しての皮肉に聞こえてしまうのだ。
”あなたのせいでこの店はこうなりました”、と。
「き、今日はアンタ一人なのね。他のちっちゃいのや工藤は?」
「半分は休憩をとっています。社長を含むもう半分は現在捜索中です」
「そ、捜索中……!?」
”捜索中”。
犬塚の脳裏に再び悪いイメージが浮かび出す。
まさか店内を占領されただけでなく、その身すらも占有されてしまったというのか。
殺害、失踪、人身売買。
次々にネガティブな発想ばかりが生まれ、その白く綺麗な背中がじっとりと汗をかくのを感じる。
「? 顔色が悪いようですが、どうかしましたか?」
「な、なんでも無いわよッ!」
必死に平静を装いながらさりげなく店内を見回すも目に映るは中年やオタク、ヤクザばかりで目当ての人物、工藤亮治の姿は見当たらない。
犬塚英理子はいよいよ真剣に焦り始めていた。
大量のアオダイショウに囲まれたアマガエルのような勢いでだらだらと汗をかいている気すらする。
「すみません、私達は工藤亮治くんに用があって来たんですが、これは出直したほうが良さそうですか?」
柄にもなく狼狽える自身のわがまま姫を気遣ってか、荻原が代わりに尋ねる。
眼鏡の奥の瞳は落ち着いており、社会人だけあって一つ一つの対応が丁寧だった。
もっとも、冷静な態度を生み出している一番の原因は、犬塚英理子というじゃじゃ馬に散々振り回されてきた経験から来ているものだろう。
「ちょっと荻原、アンタなに勝手に……ッ!」
自身の動揺を、心の弱りを見透かされたことにカチンと来たのか犬塚が慌てて口を尖らせ噛み付く。
顔を赤くし、ムキになっているあたり荻原の気の使い方は的確だったようである。
「英理子様、いないものは仕方がないですよ。お気持ちは察しますが一度出直しましょう」
「でもッ……!」
「いえ、社長なら少々お待ちいただけましたら探して――――」
犬塚の手を引き歩き出そうとした荻原にユティーが声を掛けた時だった。
「俺ならここだ」
聞こえてきたのは紛れもなく三人が探していた人物、工藤亮治の声。
その声に犬塚は心底ホッとした表情を一瞬だけ見せる。
「なァんだ、いるんじゃな……」
”一瞬だけ”というのは振り向いた彼女が絶句したからだ。
「リョージ、無理しないでね?」
「ああ、悪いなレイヤ」
満身創痍。
体中傷らだけであることを意味する四字熟語。
それが今の工藤亮治を表すのに最も的確な言葉だった。
「なっ……え、え、えっ……?」
犬塚英理子がようやく発見したと思った対戦相手は頭や腕に包帯を巻き、足にはギプスをつけ、手には松葉杖持って登場した。
やや日に焼けた少年らしい肌には目に付くだけでも数カ所の打撲箇所が見受けられる。
傷だらけのその姿は、明らかに「ちょっと階段から落ちた」とかそういうレベルのものではなかった。
「よぉ犬塚……と、誰だっけ?」
「は、はじめまして。英理子様の付き人兼家庭教師の荻原イヅルと申します……」
「ああ、こちらこそはじめまし……くっ! 肩の傷がっ!」
「リョージッ!」
目の前の様子にさすがの荻原もわずかにたじろぐ。
ボロボロの亮治は松葉杖をつきながらおぼつかない足取りでレジ前へと向かってき、長い金髪の少女はそれを支えるように寄り添っている。
実に痛々しい、実に甲斐甲斐しい姿だ。
事情を知らない人間にとっては、だが。
「……ふぅ」
息を吐く。
彼女の小さな桃色の口唇を奪おうと顔を近づけていなければ気づかない程度の小さな溜め息。
事情を知る人間として、ユティー・リティーは目の前で繰り広げられているこの馬鹿げたシュールな光景の真意を一瞬で理解したのだ。
犬塚英理子が店にやってきた理由も、亮治とレイヤがやろうとしていることも。
「待たせて悪ぃな犬塚。それで、何か用か?」
「え? い、いや、あー……えーと……」
ようやく亮治が皆がいるレジ前までたどり着く。
予想外とも、予感的中とも言える状況に犬塚英理子はさらにテンパり出し、先程まで冷静だった荻原までもが黙りこんでしまっていた。
普段の彼女からは考えられない弱々しいその姿に、亮治とレイヤは心の中でほくそ笑んだ。
(フフフ……本当に怪我したように見えるでしょ? 僕が腕によりをかけて施した特殊メイクだからね~)
(昨日のお返しだ。散々おちょくった挙句、これを理由に慰謝料ふんだくってやる)
決して表には出さず、演技という仮面の下で悪人面を浮かべる。
そう、二人がやろうとしていることは、犬塚英理子とファミリーレストラン”ミラーチェ”への小規模な復讐である。
店前での彼女らの会話を聞いたカトレイヤ・リア・シュヴァイツフェルドはすぐさま店内へと戻り、亮治に提案したのだ。
”僕がリョージを怪我人に仕立てあげるからさ、ちょっとエリコを驚かせてやろうよ”
発想自体は十二歳の少女が考える可愛らしいもの。
だが、技術力が桁違いだった。
シード・ライヴにおける種族の一つ、メディアン種。
その特徴は「作る物の形の有無を問わず創作力や技術力に優れていること」
当然、レイヤもその例外ではない。
会話から犬塚と荻原が店内へと入ってくるのはわかっていた。
だから彼女はすぐさま自前の創作道具を駆使して亮治を入院患者にドレスアップさせ、二人を待ち受けていたのである。
「ね、念のために聞いておくケド……その傷はどこで?」
あまりの出来事に半笑いを浮かべ、犬塚は恐る恐る尋ねる。
「実は―――」
「実は昨日、店内のお客さんと席待ちのお客さんの間でトラブルが起こりまして、社長はそれを止めようとして……」
亮治の声に割り込みユティーが深刻な表情で事情を説明し始める。
待ち時間が長すぎて痺れを切らしたお客が任侠一家”萱島組”の組員だったこと。
店のウェイトレスが組員に絡まれたこと。
それを亮治が制止しようとしたこと。
その結果、亮治が重症を負ったこと。
ユティーが話をすればするほど犬塚の顔は真っ青になり、引きつった笑みを浮かべていた。
手足がガタガタと震え、心の臓はフル稼働、長いまつげが美しい瞳は亮治を直視できず彷徨っている。
何故、こうなったのか。
いや、もはやそれすらも考えられぬほど犬塚英理子の頭の中は真っ白になっているのかもしれない。
「と、いうわけで社長は今現在満身創痍に近いボロボロの状態ですが勝負はこのまま続行いたしますのでどうぞお気になさらず実習に励んで下さい」
冷静に明快に高速にユティーがすらすらと言い放つ。
そういう演技をしているのだから当然といえば当然だが、投げやり気味な彼女の台詞は犬塚英理子の心の奥底に存在する良心をグサグサと的確に攻撃し、この場からの離脱を促進させる。
「そ、そう。せ、せいぜい頑張り過ぎないよう身体にはき、気をつけることね!」
「ああ、勝負の最中なのにヘマやっちまって悪い。俺のことは気にせず今までどおりで構わねーから、お前も実習に集中しろよ」
「も、もちろんそのつもりよっ!」
うわずった声で虚勢を張るも、それは普段と比べあまりにも弱々しい。
意気消沈とは無縁そうな、向上心や反骨心の塊である犬塚英理子の心は完全に萎えていた。
ツンと張りのある、まるで彼女を体現するかのように強く自己主張する胸の膨らみも、今は少し縮んでいる気すらする。
「リョージ、もうそろそろベッドに戻って寝てなきゃ駄目だよ」
「ああ、いつまでもお前達に迷惑も掛けてられないからな」
「気を使ってくれるのはありがたいですが、今は一刻も早く傷を治すことに専念してください社長」
「そうだよリョージ。もうリョージ一人の体じゃないんだからね。 お店のことは僕達に任せてゆっくり休んで?」
「私達はもう社長がいなければ生きていけませんから……」
「お前ら……ありがとよ」
再び鬱陶しいくらい爽やかな茶番を繰り広げ始める三人。
バックヤードに向け歩き出そうとする亮治と、彼に寄り添い支える小さな身体の金髪少女、レイヤ。
そしてそれを心配そうに見送る褐色肌の少女、ユティー。
事情を知らないものから見れば病気の兄を支える二人の妹のような健気な光景に見えるだろうが、事情を知っている本人らにしてみれば吹き出すのをこらえるので精一杯だった。
(駄目、駄目だよリョージ! まだ我慢してなきゃ!)
(お前だってもう笑ってんじゃねーか!)
わざとらしくよろめきながら小声で言葉を交わし合う。
亮治とレイヤの顔はもう完全にニヤけていたが、背を向けられているため犬塚や荻原が気付くことはない。
そうしているうちにバックヤードへと消える二つの体。
これで終わりかと思いきや、無言で二人を見送り、未だ唖然と立ち尽くす犬塚にユティーが追い打ちをかけにかかる。
「ご心配なさらないでください。命に別状はない、せいぜい全治二ヶ月程度の怪我ですから」
「そ、そう……」
犬塚はユティーを見ることもせず、気不味そうに視線を落とし答える。
その弱り切った姿を見るに、悪戯の立案者である亮治とレイヤが期待した効果は十分に現れているようだ。
後はネタばらしをして、もう一度彼女が羞恥にまみれる反応を楽しむだけであろう。
しかし、この褐色肌の参謀役、ユティー・リティーの気はそれだけでは済まなかったのだ。
「……犬塚さん。念を押しておきますが、くれぐれもこの件で同情して日和らないようお願いします。あなたにはもう手加減する余裕なんてありませんから」
「……………………なんですって?」
挑発的な言葉に犬塚の瞳が野生を取り戻す。
背も胸も自分より小さい小学生の言葉とはいえ、聞き流すわけにはいかなかった。
「こちらには”秘策”があります。現状の不利をひっくり返してしまうほどの」
翡翠色の瞳が真っ直ぐに犬塚を貫く。
ユティーがわざわざ策の存在を犬塚に話したのは当然、言葉通り彼女の勢いが衰え、勝負の行方がうやむやになることを心配したからではない。
本調子の彼女を真正面から叩き潰さなければ気が済まなかったからだ。
普段からポーカーフェイスを保ち、冷静沈着に見えるこの褐色肌の少女も心の内では怒りを覚えていたのだ。
雇い主である工藤亮治に牙を剥き、昨日においてはその彼を危機に追いやった人間に。
一歩間違えば、アーミラ・カスペルスキーという護衛少女がいなければ、亮治は本当にあのような怪我をしていたかもしれない。
そんな思いがユティーの中で渦巻き、犬塚英理子への敵対心を強めていく。
このタイミングで”秘策”の存在を仄めかしたのは、彼女による挑発まじりの予告なのだ。
このままでは間違いなく私達が勝ちますよ?、と。
「フン、何? まだ二日も残ってるのにもう勝利宣言ってやつ?」
「そう聞こえたのならそうなんでしょう」
「あっそ、それは気をつけないとねぇ?」
普段の獰猛さを取り戻した犬塚英理子は瞳をギラつかせ、ユティーの眼前まで近づくと彼女の褐色に染まる小さな顎をくいっと持ち上げる。
「見せてもらおうじゃない。アンタの言う”秘策”がどの程度のものなのか」
鼻で笑うように上から睨みつける犬塚に対し、ユティーは抵抗も瞬きもせず人形のような普段の表情を崩さず犬塚を見上げていた。
交差する二人の少女の視線。
やがて威圧しても効果が見られないことに気づいたのか、犬塚の手がユティーの顎から離れる。
「帰るわよ、荻原っ!」
不機嫌そうに大股で扉へと向かい歩き出す犬塚に短く答え、荻原も後に続く。
閉じられる扉。
ただの一度も振り向かなかった犬塚も、その背を見送ったユティーも感じていた。
次に会うのは、勝負が決着した時だと。
* * *
「へー、そんなことがあったのね」
「帰ってきてみりゃコイツが大怪我してるからどういうことかと思いきや……仕事サボって何やってんだよお前ら」
「「「だって面白そうだったからつい」」」
「ハモるな!」
狙ってやったかのように声を揃えて供述する亮治、レイヤ、ユティーにルートがツッコミを入れる。
ちょうど犬塚達が去った後、休憩を終えた彼女とミラはホールへとやってきたのだ。
「でも良かったわ、レイヤによる作り物の怪我で。もし亮治くんにこんな怪我負わせたら間違いなく代表に怒鳴られるし、自分で自分が許せないと思う」
未だ体に包帯を巻き、ギプスと松葉杖を装備した状態の亮治をミラが見つめる。
護衛の彼女が一番恐れていることは、間違いなく雇い主である亮治が傷つくことであろう。
「しっかし相変わらず器用だなレイヤは」
「ルートも本当に怪我したと勘違いして、泣きながら社長へ駆け寄ってきましたしね」
「私はそんなことやってないっ!」
ユティーによるあからさまな嘘にルートが顔を赤らめて反論する。
泣いても駆け寄ってもいないが、心配そうな顔を見せたのは事実だ。
「もー! ルートにも見せてあげたかったよエリコのあの青ざめた顔!」
ケタケタとレイヤがお腹を抱えて笑う。
今まで自分達を苦しめていた敵の滑稽な姿がよほどケッサクだったのか、今にも笑い転げそうな勢いでバンバンとレジ台を叩き、瞳には涙まで浮かべていた。
「あの傲慢で自己中で性格の悪い犬塚があんなに狼狽えるなんてなぁ」
「私としては社長が足のギプスを服の上から装着していたにも関わらず、犬塚さんがそれに気づいていなかったことが一番の笑いどころだと思うのですが」
「「「「え」」」」
ユティー以外の四人の視線が亮治の右足に集中する。
「もしかして……レイヤも社長も知らずにやっていたんですが? 私はてっきりそういうドッキリだと」
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「工藤亮治ぃぃィィイイイイっっっ!!!!!!!!」
(気づいてなかったんですね英理子様……)




