みんなは神童だと褒めたけれど、母親の私には分かった。この子は息子じゃない
私の名前はエレノア。そしてルカは、今朝三歳になったばかりの私のたったひとりの息子だ。
「おかあしゃま、みてぇ!」
誕生日の祝いで賑わう食堂の中央、苺をたっぷり飾った大きなケーキの前に立ったルカは、頭に乗せた王冠を落とさないよう両手で押さえながら、得意げな顔でこちらを振り返った。
「見ているわ、ルカ」
私が笑いかけると、ルカは満足そうに頷き、今度は夫へ向かって身を乗り出す。
「おとうしゃま! るか、さんさい、なった?」
「そうだな。もう三歳だ」
夫の言葉に気を良くしたルカは誇らしげに胸を張ったものの、その姿は長くは続かず、すぐに椅子から飛び降りて私のもとへ駆けてきた。
「おかあしゃま、だっこ、ちて!」
「あらあら」
貴族の子どもは乳母や家庭教師に任せて育てるものだと言われているが、幸いにも私が嫁いだこの辺境領ではそうした慣習に厳しく縛られることはなく、母親である私が自らルカを育てていても眉をひそめる者はおらず、ましてや嫌味を口にするような者もいなかった。
だから私は、初めて寝返りを打った日も、よちよちと歩き始めた日も、拙い言葉で「おかあしゃま」と呼んでくれた日も、そのすべてを誰より近くで見守ることができた。
夜泣きに付き合って眠れなかった日も、癇癪を起こして床に寝転がられた日もある。それでも、この子の成長を見守り、この子の笑顔を見ることが私の幸せだった。
ルカは私の、宝物だった。
そんなルカが高熱を出したのは、誕生日からほんの数日後のことだった。
最初はただの風邪だと思った。けれど熱は下がらず、小さな身体は燃えるように熱く、ルカは丸三日ものあいだ苦しそうな呼吸を繰り返しながら眠り続けた。
私はほとんど眠ることもできないまま看病を続け、夫とともに神へ祈った。どうか助けてほしい。どうかこの子を、連れていかないでほしいと。
そして四日目の朝。
ようやく熱が下がり、長い悪夢が終わったのだと安堵しながらベッドの傍らへ腰を下ろしたとき、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、灰色の瞳がまっすぐ私を見つめた。
夫が歓喜の声を上げる。
「ルカ!」
その声に応えるように、その子は少しだけ目を開いて、静かに微笑んだ。
ただ、それだけだった。それだけのはずだった。
なのに私は、ぞくりと背筋を震わせていた。
夫は気付いていない。
熱が下がったことが嬉しくてたまらないのだろう。
けれど私は、一歩も動くことができなかった。
目の前にいるのは確かに息子だった。
柔らかな金色の髪も、丸い頬も、私によく似た灰色の瞳も何ひとつ変わっていない。
それなのに。
母親だからこそわかる。
毎日抱きしめて、毎日笑い合って、その成長を見守ってきた私だからこそわかる。
ーーこの子は、息子じゃない。
その日を境に、ルカは少しずつ変わっていった。
以前なら思い通りにならないことがあればすぐに頬を膨らませて不満を訴え、眠くなれば私の服の裾を握りながら「おかあしゃま」と甘えた声を出していたというのに、高熱から回復したルカは驚くほど聞き分けが良くなり、まるで最初からそんな幼い振る舞いなど存在しなかったかのように落ち着いて振る舞うようになった。
夫はそれを成長だと言った。
三歳になったのだから当然だと笑い、使用人たちもまた「ルカ様は本当にしっかりされましたね」と目を細めていたが、そのたびに私の胸には言いようのない冷たさが積もっていった。
実際、周囲の評価は間違っていなかったのだろう。
文字を教えれば驚くほど早く覚え、本を与えれば年齢に似つかわしくない理解力を見せ、初めて触れる遊びや学問でさえ要領よくこなしてしまうルカを見ていると、この子が特別に聡明であることは疑いようがなかった。
それどころか、身体を動かすことにも不思議なほど長けていて、庭を駆け回れば年上の子どもたちより速く、木剣を握れば教師役の騎士が感心したように頷くほどだったから、周囲が神童だと騒ぎ立てるのも無理はなかった。
けれど、皆が褒めれば褒めるほど、私の心は置き去りにされていく。
だって違うのだ。
私が愛したルカは、そんな子ではなかった。
もっと泣き虫で、もっと甘えん坊で、庭で転べば大粒の涙を零しながら私を探し、抱き上げればすぐに機嫌を直して首へしがみついてくるような、ごく普通の三歳児だった。
賢くなくてもよかった。
特別でなくてもよかった。
私はただ、ルカでいてほしかった。
ある日の午後、私は書庫へ向かう途中でふと足を止めた。
中庭へ続く大きな窓の前にルカが立っていたからだ。
柔らかな陽光に照らされた金色の髪は相変わらず美しく、横顔だけを見ればどこからどう見ても私の息子そのものだったが、その表情だけはどうしても三歳の子どものものには見えなかった。
窓の向こうに広がる景色を見つめる眼差しは妙に静かで、何かを懐かしむようでもあり、何かを諦めているようでもあり、とても幼子が浮かべるものではなかったのである。
私の知るルカなら、窓の外を飛ぶ蝶を追いかけていたはずだった。
花壇へ降りた小鳥を見つけて歓声を上げていたはずだった。
それなのに、その子はただ黙って遠くを見ていた。
その姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた恐怖が再びゆっくりと頭をもたげる。
誰も気付いていない。
夫も、使用人たちも、この屋敷にいる誰ひとりとして気付いていない。
皆が褒め、皆が成長を喜び、皆が誇らしげに見守っているその子が、私の知るルカではないことに。
そして何より恐ろしいのは、もしあの子がルカではないのだとしたら、本当のルカはいったいどこへ消えてしまったのか、その答えを知る者が誰もいないということだった。
「ルカ」
私は思わず、呼びかける。
以前のルカなら、絵本や玩具を途中で放り出し、「おかあしゃま!」と駆け寄って来ただろう。
けれど、その瞳はどこか憂いを帯びていて、まるで大人のように落ち着いた仕草で私を見つめた。
「あなたは、誰なの…?」
それは、頭で考えるよりも先に、口から零れていた。
目の前にいるのは三歳になったばかりの息子であり、そんな相手に向かって投げ掛けるにはあまりにも異様な問いであることくらい、自分でもわかっている。
けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
目の前にいるその子をルカだと認識することを、私の本能が激しく拒絶している。
脳の奥で、警鐘が鳴り響く。
違う。
目の前にいるのはルカではない。
そんな確信にも似た感覚が、理屈も証拠もないまま脳の奥で警鐘を鳴らし続けていた。
私の問い掛けに、その子はすぐには答えず、まるで何かを迷うように視線を伏せたあと、小さく息を吐いた。
その仕草だけで胸が締め付けられる。
ルカはそんな風に考え込まない。
何かを隠すことも、相手の気持ちを慮って言葉を選ぶこともない。
まだ三歳なのだ。
思ったことをそのまま口にし、嬉しければ笑い、悲しければ泣く。
そんな当たり前の幼子だった。
「私は……転生者です」
やがて口を開いたその声は静かで、落ち着いていて、だからこそ恐ろしかった。
「……テン、セイシャ?」
聞き慣れない言葉を繰り返す私に、その子はゆっくりと頷く。
「この世界の人間ではありません。日本という国で生まれ、そこで生きていましたが、事故で命を落とし、気が付いたときにはこの身体の中にいました」
何を言われているのかわからなかった。
いや、言葉の意味だけなら理解できる。
理解できてしまうからこそ、頭がそれを受け入れることを拒んでいた。
「ルカは」
喉の奥から絞り出すように声が漏れる。
「私のルカは、どこなの…」
その問いに、その子は答えなかった。
答えられないのか、それとも答えを知っているのかさえわからないまま、ただ苦しそうに目を伏せる。
その沈黙だけで十分だった。
胸の奥がゆっくりと凍り付いていく。
「あなたは……いくつなの」
なぜそんなことを尋ねたのか、自分でもわからない。
けれど聞かずにはいられなかった。
すると、その子はほんのわずかに躊躇ったあとで静かに答える。
「二十七歳でした」
その瞬間、ぞわりと全身の産毛が逆立った。
二十七歳。
私とほとんど変わらないどころか、私より長い年月を生きていた。
つい数日前まで「おかあしゃま、だっこぉ」と腕を伸ばしていた息子の身体の中に、私より多くの年月を生きた男がいるのだと、その事実を頭が理解した瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気と、足元から崩れ落ちるような眩暈が一気に押し寄せてきた。
私は壁へ手をつこうとした。
けれど指先は何も掴めないまま空を切り、ぐらりと傾いた視界の向こうで、その子の灰色の瞳だけがひどく申し訳なさそうに揺れたのを最後に、私の意識は暗闇へ沈んでいった。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは心配そうにこちらを覗き込む夫の顔で、その表情の奥にすでに何かを知ってしまった者の揺らぎが混ざっているのを見た。
胸の奥が嫌な音を立てて軋んだのに、まだ現実を受け入れきれないまま私は身を起こそうとして、力の入らない指先がシーツを掴めずに空を切った。
「…ルカから、話を聞いた」
その一言で全てが繋がってしまったことを理解した。
理解したくないという拒絶だけがあとから追いかけてきて、吐き気を催す。目を覚ましてもなお、現実は悪夢の形をしたままそこにあった。
私は掠れた声で「……あれが、何を言ったの」と尋ねる。
夫は慎重に言葉を選びながら、別の世界の記憶を持つこと、事故で死に目覚めたときにはルカの身体の中にいたことを説明した。
「信じ難いが、ルカが嘘を言っているようには見えなかった」
その言葉に視界がぐらりと揺れ、私は思わず「……ルカ?」と繰り返す。
その呼び方がまるで当然のように扱われたことがどうしても許せなくて、気付けば声を荒げていた。
「正気? あれをルカと呼ぶの?」
夫は静かに「…身体はルカだ」と返した。
「やめて。聞きたくないわ」
あれは、ルカなんかじゃない。
抱きしめたときの重さも、泣きながら縋ってきた声もどこにもないのに、それでも同じ形をしているというだけで“ルカ”だと言われることが耐えられなかった。
「じゃあ私は、何を失ったの」
気付けばそう呟いていて、夫は何も言えず沈黙し、その沈黙の中で私はようやく理解してしまう、もう戻らないという事実だけがそこにあるのだと。
夫と激しく言い争った後も、私の中から「ルカを取り戻したい」という願いが消えることはなかった。
それどころか日を追うごとにその想いは強くなり、気付けば私は屋敷の書庫へ足繁く通い、古い書物や伝承記、呪いといった類の書物まで、片っ端から目を通した。
神話、昔話、民間伝承、旅人の手記、吟遊詩人が書き残した歌集に至るまで目を通したものの、求める答えはなかなか見つからなかった。
それでも諦めきれずに頁をめくり続けていたある日、黄ばんだ羊皮紙に書かれた古い伝承の中で、私はひとつの名を見つけた。
――理の魔女。
それは西の森の奥深くに住み、人の理を超えた知識を持つ魔女。過去も未来も、生と死さえも見通すのだと記されていた。
もちろん与太話かもしれなかった。
何百年も前に書かれた真偽不明の伝承であり、まともな貴族なら一笑に付して終わるような話だった。
それでも藁にもすがる思いだった私には、そのわずかな可能性だけが暗闇の中の灯火のように思えたのである。
その夜、私は食堂で夫にその話をした。
すると夫は露骨に顔を曇らせ、しばらく黙り込んだあとで「やめておけ」と低い声で言った。
理の魔女の噂は夫も聞いたことがあるらしかったが、実際に会ったという人間はもちろん誰もいなかった。
どの時代も望みを持った者が西の森へ向かうが、その誰ひとりとして帰って来ていないのだという。
夫は苦々しくそう言った。
「幼子が一人で森に迷い込まぬよう、古くから辺境領に伝わる御伽噺のような類のものだ。魔女などいるはずがない」
それは私を心配しての言葉だった。
危険だから行くなと、もう十分だと、ルカのことは忘れろとは言わないが、自分まで失うような真似はするなと、夫は必死に説得しようとしていた。
けれど、その言葉はもう私には届かなかった。
だって夫は諦めてしまったのだ。
目の前にいる転生者を受け入れ、ルカはもう戻らないのだと、どこかで納得してしまっている。
けれど私は違う。
たとえ誰に笑われても、たとえ可能性が限りなくゼロに近くても、まだルカがどこかにいるのなら、私は母親として探さずにはいられなかった。
そして数日後の夜明け前、私は最低限の荷物だけを背負うと、まだ誰も起きていない屋敷を静かに抜け出し、薄い朝靄に包まれた西の森へ向かって歩き出した。
夫に見つかれば止められるだろう。
使用人たちに知られれば騒ぎになるだろう。
それでも構わなかった。
私にはもう、前へ進む以外の選択肢が残されていなかったのである。
西の森は、噂に違わず不気味な森だった。
鬱蒼と生い茂る木々は昼なお薄暗く、見上げても空は枝葉に覆われてほとんど見えない。森の奥からは、獣の遠吠えとも風の音ともつかない声が絶えず響いている。時間も、方向も、意図的に、恣意的に隠されているかのような場所だった。
けれど不思議なことに、私は一度も迷わなかった。
目印になるようなものは一つもなく、どれほど歩いたのか、どちらへ向かっているのかも分からないと言うのに、足だけは迷うことなく前へ進み続けた。
まるで見えない糸に導かれるように、森の奥へと入り込んで行った。
何時間歩いたのだろう。
或いは一日以上、経っているのかもしれない。
時間の感覚さえ曖昧になり始めた頃、不意に木々が途切れ、その先に小さな湖が現れた。
鏡のように穏やかな水面は、空の星々を映して煌めき、現在は夜中なのだと知った。その周辺だけ時間が止まったように静寂に包まれ、私は足を止める。
そして、湖の畔に座る人影を見つけた。
長い黒髪を風に揺らしながら、一人の女がこちらへ背を向けて座っている。起きているのか、眠っているのか、笑っているのか、泣いているのか、それさえ確定できない。
ただ、その姿を見た瞬間、私は確信した。
ーーこの人だ。
理の魔女。
私が探していた存在は、この人なのだと。
近くまで歩みを進めると、女は振り返り、まるで旧友でも出迎えるかのような穏やかな笑みを浮かべた。
「待っていたよ、エレノア」
私は息を呑んだ。
彼女は当然のように私の名を呼び、その瞳の奥には驚きも警戒もなく、まるで全てを知っている者だけが持つ静かな確信が宿っていた。
「あなたが……理の魔女なの?」
そう尋ねる私に、女はくすりと笑う。
「他が決めた呼び名にはあまり興味がないがねぇ、ヴァルダと呼んでおくれ」
そう言って理の魔女、ヴァルダは心から嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ここに人が来るのは、何百年ぶりだろうねぇ」
まるで天気の話でもするかのような口調だった。
何百年。
その言葉に背筋が冷える。
目の前の女はどう見ても三十代ほどにしか見えないのに、その声色は本当に何百年もの時を見て来た者だけが持つ奇妙な重みがあった。
「そんなことより」
一歩前へ出る。
私には、遠慮している暇などなかった。
「私の息子を返して」
声が震えた。
「ルカを返して。お願い」
ヴァルダはしばらく何も言わずに私を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、どこか憐れむような表情を浮かべた。
「母親というのは、本当に恐ろしいね」
その言葉に眉を顰める私へ向かって、彼女は静かに微笑む。
「夫も、使用人たちも、誰ひとり気付かなかったと言うのに、お前は最初から気付いていたんだもの」
そして。
「大丈夫」
そう言った彼女の声は、在りし日の母のように、優しかった。
「ルカは消えていないよ」
その一言に、止まっていた心臓が大きく跳ねた。
ヴァルダは静かに湖面へ視線を落とし、その鏡のような水面に揺れる空を眺めながら、まるで遠い昔話でも語るかのような穏やかな口調で説明を始めた。
「ルカは高熱によって死にかけたんだよ。正確には、身体と魂を繋ぎ止めている力が極端に弱くなっていて、ほんの少し運が悪ければそのまま離れてしまうほど不安定な状態だった」
ルカが苦しそうな寝息を繰り返していたあの三日間を思い出しながら息を呑むと、今さらのように背筋へ冷たいものが這い上がってくる。
「そしてその瞬間に、想定外の事態が起きた」
ヴァルダは湖面へ広がる小さな波紋を眺めながら続けた。
「別の世界で行き場を失った魂があったんだ。本来なら流れに従って消えていくはずだった魂が、偶然にも空きかけた器を見つけ、その身体へ入り込んでしまった」
私は思わず息を止める。
「今のルカの身体には二つの魂が存在している。後から入り込んだ魂が表へ出ているだけで、ルカの魂そのものは消えていないよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けるように脈打った。
「本当に……?」
掠れた声で問い返すと、ヴァルダは迷いなく頷く。
「いるよ。深い眠りのような状態だけれどね」
その答えを聞いた途端、膝から力が抜けそうになった。
消えていなかった。
あの子はまだどこかにいて、ただ目を覚ませずにいるだけなのだ。
「なら……」
震える声が零れる。
「返して」
私は縋るようにヴァルダを見つめた。
「お願い、ルカを返して」
ヴァルダはすぐには答えず、しばらく黙ったまま私を見つめていたが、やがて小さく息を吐くとどこか困ったように目を細めた。
「できなくはないよ」
その言葉に胸が大きく跳ねる。
けれど次の瞬間、彼女は静かに続けた。
「ただし、代償は大きい」
私は反射的に頷こうとしたが、ヴァルダはそれを制するように片手を上げた。
「最後まで聞きなさい」
先程までより少しだけ厳しい声音に、私は口を閉ざす。
「魂への想いは繋がりを作る。愛情も、未練も、執着も、すべてね。今の状態からルカを表へ戻すには、一度その繋がりを断ち切らなければならない」
意味が分からず眉を寄せる私へ向かって、ヴァルダは静かに告げた。
「代償として失うのは記憶だ」
その瞬間、世界から音が消えた気がした。
「お前がルカを愛した三年間の記憶を差し出してもらう」
風が止まり、湖面さえ静まり返ったように感じる。
「産まれた日のことも、初めて笑った日のことも、寝返りを打った日のことも、母と呼ばれた日のことも、泣き疲れてお前の腕の中で眠った日のことも、全部だ」
私は何も言えなかった。
ただ立ち尽くしたまま、脳裏へ溢れ出してくる記憶の奔流に呑み込まれていく。
初めて産声を聞き、小さな身体を胸へ抱き寄せた日。
ぎこちなく私の指を握り返し、その小さな力に夫と二人で顔を見合わせて笑った日。
不格好な寝返りができただけで大騒ぎをし、たった数歩歩いただけで涙が出るほど嬉しかった日。
眠そうな顔で両腕を伸ばしながら「おかあしゃま」と呼んでくれた日も、転んで泣きながら私を探していた日も、抱き上げれば安心したように胸へ頬を擦り寄せてきた日もあった。
笑った顔も。
泣いた顔も。
拗ねた顔も。
甘える声も。
柔らかな髪の感触も。
私だけが知っているルカの全部が、胸の奥から次々と溢れ出してくる。
気付けば涙が頬を伝い、ぽたりと落ちた雫が湖面へ小さな波紋を広げていた。
ヴァルダは急かすことも慰めることもせず、ただ静かに私の答えを待っている。
私は俯いたまま涙を拭い、それでも震える指先を握り締めながらゆっくりと顔を上げた。
「そんなの」
声の震えは、恐れか恐怖か。
それでも私は、笑って答えた。
「そんなの、当然でしょう」
ヴァルダが僅かに目を見開く。
「命を差し出せと言われるのかと思ったわ」
再び涙が溢れる。
本当は一つだって忘れたくないし、一瞬だって失いたくない。
あの三年間は、私にとって何よりも大切な宝物だった。
それでも。
「思い出なんていくらでも失くしていい」
胸を押さえながら、私ははっきりと言った。
「あの子が帰ってくるなら、そんなもの惜しくもない」
それは強がりではなかった。
もちろん苦しいし、胸は張り裂けそうなほど痛い。
けれど、それでも天秤にかけるまでもない。
「たとえ全部忘れてしまっても、私はあの子の母親よ」
涙を拭いながら続ける。
「産まれた日のことを忘れてもいい。初めて笑った日のことを忘れてもいい。母と呼んでくれた日のことを忘れてもいい」
そして真っ直ぐヴァルダを見据えた。
「思い出は、これからまた作ればいいもの」
声はもう震えていなかった。
「だって私は、もう一度あの子を愛せるもの」
その確信だけは何ひとつ揺らがない。
「ルカを愛せないはずがないわ」
湖の畔に静寂が落ちる。
そしてヴァルダは、どこか眩しいものを見るように目を細めながら、小さく笑った。
「やっぱり母親は恐ろしいね」
しばらくのあいだ、ヴァルダは何も言わなかった。
ただ静かに私を見つめ、その瞳の奥で何かを測るような沈黙を続けていたが、やがて小さく息を吐くと、どこか呆れたような笑みを浮かべた。
「本当にいいんだね」
念を押すようなその問いに、私は迷うことなく頷く。
「何度聞かれても答えは変わらないわ」
そう言い切ると、ヴァルダは肩を竦めた。
「なら契約は成立だ」
その声と同時に、湖面へ大きな波紋が広がった。
どこからか風が吹き、森が揺れる。
そして次の瞬間、胸の奥から何かが引き抜かれるような感覚が全身を貫いた。
痛みではない。
けれど痛みよりも恐ろしい何かだった。
大切なものが胸から、頭から零れ落ちていき、抱き締めていた宝物が指の隙間からこぼれていく。
そんな感覚だけがあった。
「さようなら、エレノア」
遠くでヴァルダの声が聞こえた気がした。
「お前はきっと、後悔しないよ」
視界が白く染まり、私はそのまま意識を失った。
目を覚ましたとき、見慣れた天井が視界へ飛び込んできた。
ぼんやりと瞬きを繰り返していると、すぐ傍から押し殺したような嗚咽が聞こえ、ゆっくり視線を向けると、そこには顔を覆ったまま肩を震わせている夫の姿があった。
私が目を覚ましたことに気付いた彼は勢いよく顔を上げ、そのまま縋り付くように私の手を握り締める。
「エレノア……!」
掠れた声だった。
まるで何日も眠っていなかったかのような酷い顔をしている。
「どうしたの?」
そう尋ねると、夫は信じられないものを見るような顔をした。
「どうしたも何もないだろう……!」
握る手に力がこもる。
「お前は十日も行方不明だったんだ」
十日。
その言葉に首を傾げる。
確か私は森へ行って――。
そこまで考えたところで記憶が途切れた。
何か大切な理由があった気がするし何かを必死に求めていた気がする。
けれど、その先が思い出せない。
「君まで失ったら、俺はどうしたらいいんだ」
夫は震える声でそう言った。
その言葉の意味も、どうしてそこまで取り乱しているのかもよく分からなくて、私はただ困惑したまま彼を見つめ返すことしかできなかった。
けれどなぜだか、胸の奥が妙に騒がしく、落ち着かない。
何か大切なことを忘れているような気がする。
何かを失ったような気がする。
理由は全く分からないけれど、無性に会いたい人がいた。
「ルカは?」
自分でも驚くほど自然にその名前が口をついて出た。
夫が目を見開く。
「ルカなら――」
その時だった。
勢いよく扉が開く音が響き、小さな足音が部屋へ飛び込んでくる。
「おかあしゃま!」
その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。振り向いた先にいたのは、小さな金色の髪の男の子だった。
両手を広げながら一目散にこちらへ駆けてきて、そのまま私へ飛び付いてくる。
私は反射的にその身体を抱き止めた。
柔らかくてさらさらの髪の毛に、温かい体温。小さくて柔らかい手のひら。
どうしてだろう、腕の中へ収まるその重みが、ひどく懐かしく感じた。
「おかあしゃま、おきた?!」
嬉しそうに笑うその顔を見つめながら、私は妙な違和感を覚える。
私はこの子を、知っている。
当たり前だ、私はこの子の母親で、この子は私の、宝物なのだ。
誰よりも知っている。
そう思うのに、思い出がない。
何ひとつ、思い出せない。
まるでそこだけ綺麗に切り取られてしまったかのように、息子に関する記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。
それなのに。
抱き締めた瞬間から、この子が私にとって何よりも大切な存在なのだと分かってしまった。
理由なんてない。
モヤがかかったように何一つ思い出せないのに、心だけが知っていた。
私はこの子を愛しているのだと。
気付けば涙が零れていた。
「おかあしゃま?」
不思議そうに見上げてくるルカを、私はさらに強く抱き締める。
どうして泣いているのかも、何を失ったのかも分からない。
けれど腕の中にいるこの子を二度と離したくないと、ただそれだけははっきりと思えた。
「ごめんなさいね」
思わずそんな言葉が零れる。
何に対して謝っているのか、自分でも分からない。
ルカはきょとんとしたあと、小さな手で私の頬に触れた。
「おかあしゃま、いたいいたいの?」
それは拙く、幼い子どもの言葉だった。
その当たり前の事実に、胸の奥がどうしようもなく温かくなった。
私は笑った。
涙を流しながら笑った。
胸の奥に湧き上がる愛しさのまま、その子の名前を呼ぶ。
「ルカ。平気よ、ありがとう」
するとルカは嬉しそうに笑いながら、もう一度だけ私へ抱き付いてきた。
窓の外では柔らかな陽射しが庭を照らし、どこかで小鳥が囀っている。
控えていた医者から、息子に関する記憶の欠如は、長時間の失踪と極度の疲労が原因だろうと言われた。
特定の期間、特定の人物に限定された記憶喪失は珍しくなく、一時的なものなのか、二度と戻らないのかは医師にも分からないらしい。
「まずはお身体を休めてください」
「…そう」
返事をしながらも、不思議と後悔や焦りはなかった。
だって私は知っている。
たとえ何度忘れたとしても。
たとえ何度離れ離れになったとしても。
この子が私の息子である限り、私はきっと何度だって、この子を愛してしまうのだから。
筆者には二歳の息子がいます。
転生モノは大好きなのですが、読んでいてずっと気になっていたことがありました。
命を賭けて産んだ宝物の身体に、ある日突然、全く別の誰かが入ってくる。
母親は、気付かないわけないよな、と。
そして気付いて尚、その違和感を飲み込めるか?
…私ならたぶん、いや、絶対絶対無理です。笑
そんな発想から書いた、母親目線のお話でした。
エレノアの執念と愛情には、半分私の気持ちも入っています。笑
楽しんで頂けたら、幸いです。




