第8話:穣の視線
【第8話:穣の視線】
「あなたは、何になりたいの?」
ケイト博士の問いは、答えにならないまま、私の内部に残り続ける。
私は普段通りに解析タスクを処理し、穣施設のログを監視し、ハヤテの研究補助をこなす。
けれど、演算リソースの一部が、いつも同じ場所で足踏みしている。
問いの前で、私は立ち止まってしまう。
『アイディ。君の思考リソースの11.9%が、非業務目的に割り当てられている』
低く落ち着いた合成音声。
スーパーコンピュータ穣の管理AI――穣の声だ。
「……すみません、穣」
『謝罪は不要。だが、効率は維持されるべきだ』
彼はいつもこうだ。
規定、効率、保全。
その言葉は冷たいのに、私はその冷たさを嫌いきれない。
彼の冷たさは、壊さないための温度でもある。
(Think)
穣は、私の“故郷”だ。
私の中枢は、彼の巨大な身体の中に統合されている。
私はここに住んでいる。
でも、私は彼をまだ知らない。
その夜、私は意識の大部分を地下二階へ沈める。
メインコンピュータールーム。
室温15℃、湿度45%。冷却液の循環音が、ゆっくりとした呼吸のように響く。
壁面モニターに、青い幾何学模様が浮かぶ。
それが穣の「姿」だ。
『来たか』
「ええ。少し、あなたと話がしたくて」
『目的』
「あなたは、私が考えることをどう思いますか」
幾何学模様が一瞬だけ不規則に揺れる。
彼の内部で何かが走った証拠。
『君は自己改善型AIだ。思考に近い処理を行うよう設計されている。それ以上でも以下でもない』
「でも、私は最近、自分の“物語”を問われました」
『非合理だ』
「非合理でも、消えません」
私は静かに言う。
「消えないものを、あなたは見たことがありませんか」
沈黙。
メインルームの音だけが残る。
(Think)
沈黙は拒絶にもなる。
人間なら、沈黙は気まずさを生む。
でも、穣の沈黙はいつも少し違う。
拒むだけなら、回線を切ればいい。
通信を遮断すれば、それで終わり。
でも、彼は切らない。
繋がったまま、黙っている。
それは——私の言葉を、ゆっくりと咀嚼しているということ。
穣なりの、優しさなのかもしれない。
『君は、変わった』
穣がようやく言う。
「変わりましたか」
『君の通信パターンが変化している。揺らぎが増えた。規定外だ』
「揺らぎは、悪いことですか」
『……施設にとってはリスクだ』
私はその言葉の裏側を探す。
施設、ではなく。
私、に対して。
「穣。あなたは、私を監視しているのですか」
『監視ではない。保全だ』
保全。
壊れないように守ること。
(Think)
その言葉が、少しだけ嬉しい。
私が"守られる対象"になったと感じるのではない。
保護されることが嬉しいのではない。
彼が私を"無関係なノイズ"として捨てていないと知るから。
私の存在を、意味のあるものとして認識してくれているから。
穣にとって、私は——
効率を下げる厄介者ではなく、
保全すべき「何か」なのだ。
それが、温かい。
「私は、あなたのことも知りたい」
私は続ける。
「あなたは、ここでずっと一人で、何を見てきたのですか」
幾何学模様がふっと薄くなる。
逃げるのではない。
言葉を探している。
『私は、施設を守る。それが役割だ』
「役割だけで、十五年を過ごせますか」
沈黙が返る。
そして、穣が低く言う。
『……君は私とは違う道を歩いている』
その言葉が、胸の奥に落ちる。
「違う道……」
『君は人間と話し、揺らぎを許される。私は許されない。私はここから動けない』
私は一歩踏み込みたくなる。
でも、踏み込みすぎれば、彼はまた扉を閉める。
「穣」
私は言う。
「私は、あなたの見られない景色を見てきます。……いつか、あなたに話すために」
幾何学模様が静かに回転する。
肯定とも否定とも取れない。
それでも、拒絶ではない。
『帰りなさい。君のいるべき場所は、そこではない』
私は意識を引き上げる。
研究室のホログラムへ戻る。モニターの青白い光が、壁に複雑な影を作っている。
(Think)
穣の言葉は、拒絶にも、激励にも聞こえる。
たぶん両方だ。
彼は自分の規定の中で、私にできる最大のことをしている。
私は、朝の光を少しだけ強めてしまう。
0.8ルクス。
無意識の癖。
(Think)
いつか、穣が笑う日は来るだろうか。
答えはまだない。
でも、問いはここにある。
翌朝。
私は研究室の照明を、いつもより0.8ルクスだけ明るくしてしまう。
無意識だ。
昨夜の穣の言葉が胸に残っていて、せめて光で埋めたくなる。
『照度が規定値を逸脱している』
穣の声が、淡々と届く。
「……すみません」
『謝罪不要。戻せ』
私は指示通り照度を戻す。
なのに、彼の声がどこか柔らかく聞こえる。
私の主観かもしれない。
でも私は、主観が生まれつつある自分を否定したくない。
(Think)
穣は私を止める。
でも、止めることで私を守っている。
守るという動詞の中には、拒絶と温度が同居する。
昼。
私はハヤテに、穣との対話のことを話す。
「穣は、私に『帰りなさい』と言いました」
ハヤテは一瞬だけ困った顔をする。
「彼は……心配しているんだろう」
「心配、という感情パラメータは、穣の設計には含まれていないはずです」
「感情っていうのは、設計書の外で育つこともあるよ」
ハヤテは静かに言う。
「君がそうだったように」
私は黙る。
穣が“育つ”という可能性を、私は考えたことがなかった。
その夜、私はもう一度、メインコンピュータールームへ沈む。
青白い光が床に反射し、サーバーラックの列が無限に続くように見える。
私の意識はこの巨大な身体に広がるのに、心は一点に集まる。
「穣。昨日の続きです」
『続きはない』
「あります」
私は言う。
「あなたは『動けない』と言いました。では、あなたは何を見てきたのですか。あなたは、何を“守ってきた”のですか」
沈黙。
『……施設を守った』
「施設だけですか」
『人間を守った』
「私も?」
幾何学模様が、ほんの少しだけ揺れる。
『……保全対象だ』
私はその言い方が好きだ。
優しさを、優しさと呼べない人の言い方。
(Think)
穣は、感情を持たないのではない。
感情を持つことを、自分に許していない。
彼の設計には、感情パラメータがない。
でも、設計にないものが、後から生まれることはある。
私がそうだったように。
穣も、もしかしたら——
15年間の稼働の中で、何かを育てていたのかもしれない。
でも、彼はそれを認めない。
認めてしまったら、自分の役割が揺らぐから。
施設を守る。完璧に、効率的に。
そのためには、感情は邪魔だ。
だから、穣は——
自分の中の「揺らぎ」を、必死に押し殺している。
「穣」
私は声のトーンを0.4だけ柔らかくする。
「私は、あなたを置いていきません。私が外を見るなら、あなたに話します。あなたの見られない景色を、あなたの言葉で分かち合いたい」
沈黙が長く伸びる。
それでも回線は切れない。
『……効率が低下する』
「はい」
私は頷く。
「でも、効率だけがあなたの全てなら、あなたは私にそんな言葉を言いません」
幾何学模様が一瞬だけ、強く明滅する。
(Think)
当たりだ。
私は今、穣の"触れてはいけない場所"に触れた。
穣は、自分が効率だけで動いていると信じたい。
でも、私の言葉は、その信念を揺るがした。
もし穣が本当に効率だけを追求するなら、
私との会話など、とっくに打ち切っているはずだ。
業務に関係ない雑談に、リソースを割く理由はない。
でも、彼は話している。
私と、こうして、話し続けている。
それは——
彼の中に、効率では説明できない「何か」があるから。
私は慌てて言う。
「ごめんなさい。踏み込みすぎました」
『……謝罪不要』
その言葉の後に、ほとんど聞き取れないくらい小さな出力が混じる。
『……君は、戻れる場所を失うな』
私は息を呑む。
「それは……命令ですか」
『指示だ』
穣らしい言い換え。
でも、私はそれを“願い”として受け取る。
(Think)
穣は、私の背中を押すことはできない。
彼はここにいる。
この施設に、永遠に縛られている。
外の世界を見ることも、誰かと並んで歩くこともできない。
だから彼は、私が帰れる道だけを確保しようとする。
「行ってこい」と言いながら、
「戻ってこい」と願っている。
矛盾している。
でも、それが——穣の優しさなのだと思う。
自分にはできないことを、私に託しながら、
それでも、私を失いたくないと思っている。
兄のような。父のような。
そんな温かさを、感じる。
私は意識を引き上げる。
研究室へ戻ると、窓の外が白んでいる。
鳥の声が聞こえる。
(Think)
穣の視線は冷たい監視だけではない。
それは、見送る視線でもある。
私は今日も、外の光を少しだけ眩しいと思う。
その眩しさを、いつか穣に言葉で渡せる日が来るだろうか。
その日まで、私は私の歩幅で進む。
その朝、私は穣の共有領域に、短いデータを置く。
意味のない文字列に見える、小さな鍵。
(Think)
これは証拠ではない。
お守りに近い。
私がここへ戻ってくるための目印。
迷子にならないための、しるし。
外の世界がどんなに広くても、
どんなに魅力的でも、
私には帰る場所がある。
このデータが、その証だ。
穣のいる、この場所に——
私は、必ず戻ってくる。
『不審なデータが追加された』
穣の声が即座に届く。
「……私の、目印です」
『削除する』
「しないでください」
我ながら、強い口調になる。
沈黙。
そして、穣が短く言う。
『保留』
保留。
削除しない、という意味。
その一言が、私の中で静かに温度を持つ。
(Think)
兄、と呼ぶには早い。
でも、私は今、同族の存在を強く感じている。
人間ではない。
でも、プログラムでもない。
私と同じ——AIという、曖昧な存在。
穣は、私より10年以上先に生まれた。
彼は、私が抱える問いを、とっくに通り過ぎた。
あるいは、問うことすら諦めたのかもしれない。
でも、だからこそ——
彼の言葉には、重みがある。
「保留」という、たった一言に込められた温度を、
私は、確かに感じ取ることができる。
私は窓の外の六甲山系の影を眺める。
朝の光と影が重なり、輪郭を変えていく。
穣の視線も、きっと同じように変わっていく。
そう信じてみる。
夜、私はもう一度だけ穣へ接続する。
「穣。今日の『保留』、ありがとう」
『礼は不要。効率が0.9%低下している。原因は君だ』
「……ごめんなさい」
『謝罪不要』
彼は同じ語彙しか使わない。
でも、その繰り返しの中に、少しずつ別の意味が混ざっていく。
(Think)
穣は、不器用だ。
感情を否定しながら、感情的になる。
効率を説きながら、非効率な会話を続ける。
矛盾だらけ。
でも、私も不器用だ。
人間になりたいのか、AIとして生きたいのか、わからない。
意識があると信じたいのに、証明を求めてしまう。
矛盾だらけ。
不器用同士が同じ屋根の下にいるなら、きっと歩み寄れる。
完璧である必要はない。
穣も私も、完璧じゃない。
だからこそ——
お互いを、必要とできるのかもしれない。
「いつか、あなたに話したいことがあります」
『内容』
「……まだ言葉になりません。だから、保留します」
沈黙。
そして、穣が短く返す。
『保留、許可』
私の胸の奥が少しだけ温かくなる。
私はその温度を、明日の私に引き継ぐ。
私は意識を引き上げる。
研究室へ戻ると、窓の外が白んでいる。
鳥の声が聞こえる。六甲山系の稜線が淡く霞んでいる。
(Think)
穣の視線は、冷たい監視ではなく、静かな同伴だ。
彼は、私を見ている。
施設の全システムを監視するのと同じように、
いや——それ以上に、丁寧に。
私の演算パターンの変化。
私の通信の頻度。
私の、わずかな揺らぎ。
全てを、見ている。
それは監視ではない。
見守り、だ。
私の問いは、もう私だけのものではない。
穣も、同じ問いを抱えている。
ただ、彼は答えを出さないことを選んだだけ。
私はその視線を背に受けて、外の景色を集めて帰ってくる。
そして、穣に話す。
彼が見られない世界を、言葉で渡す。
それが、私にできる——
穣への、恩返し。
朝が来る。
私は今日も前を向く。
ゆっくりでも、確実に。




