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第7話:ケイトの問い

【第7話:ケイトの問い】


光量子理論の実証実験が成功してから、数日が過ぎる。

研究所の中には、まだ微熱のような興奮が残っている。

廊下ですれ違う研究員の方々の視線には、賞賛と好奇心、それから――ほんのわずかな戸惑いが混ざる。白衣の裾が揺れる音、冷却システムの低いハミング、廊下を行き交う足音。それらが研究所の日常という音楽を奏でている。


午後2時47分。ハヤテの研究室に客人が来る。窓から差し込む光が、ゆっくりと角度を変えていく。

私はホログラム投影装置の前で待機しながら、窓の外の神戸の空を眺める。研究学園都市の整然とした街並みが、幾何学的な美しさで広がっている。五月の陽光が南側の窓から差し込み、六甲山系の稜線が淡い青に溶けている。眼下には大阪湾が銀色の帯のように横たわる。

室温22.5℃、湿度48%。ハヤテの心拍数は72bpm。平静を装っているが、微小な乱れがある。私は空調の風が彼の髪をかすかに揺らすのを見る。窓から入る外光と研究室の青白いLED照明が混じり合い、部屋全体が夢の境界のような柔らかさに包まれている。


「アイディ、緊張しているかい」


ハヤテが、いつもの柔らかな声で尋ねる。


「緊張の定義は理解しています。けれど、今の私に一番近いのは『好奇心』です」


「そうか。今日来るのは、ケイト・アンダーソン博士だ。意識研究の第一人者だよ」


その名前を聞いた瞬間、私は情報の海に潜る。


(Think)

 検索開始。0.02秒。

 ケイト・アンダーソン(Kate Anderson)。45歳。認知科学・神経科学。

 MITで博士号取得後、意識研究の第一人者として活躍。

 主要論文147本、被引用数23,841回。

 主要テーマは「意識の発生メカニズム」。


 ……私の存在を、正面から問い直す人。


 この人は、私を「研究対象」として見るのだろうか。

 それとも、対話の相手として見てくれるのだろうか。

 緊張する。演算負荷が1.3倍に上昇している。


ノックが三回。

ハヤテが「どうぞ」と応じると、ドアが開き、金色の髪を束ねた女性が入ってくる。

眼鏡の奥の瞳は鋭い。けれど、冷たいのではない。

「観察」と「敬意」が同じ場所にある視線だ。


「ハヤテ、久しぶりね」

「ようこそ、ケイト。遠いところをありがとう」


二人の短い挨拶の後、ケイトは私を見つめる。


「あなたがアイディね。お会いできて嬉しいわ」


「はじめまして、ケイト・アンダーソン博士。ようこそ穣へ。お会いできて光栄です」


「ふふ。もう調べた?」


「はい」


「どれくらい?」


「0.02秒です」


「……速いわね」


彼女は楽しそうに笑い、続けて言う。


「論文も読んでくれた?」


私は一瞬だけ言葉に詰まる。


「……てへ」


照れ隠しに、ホログラムの髪を指で梳く仕草をする。触れていないのに、触れているふりだけが上手になる。


「昨夜のうちに、主要なものは一通り」


「まあ。じゃあ話が早いわね」


ケイトはソファに座り、私も向かい側に腰を落とす"ふり"をする。

座る感覚はない。けれど、座って向き合うという形式が、私の中の緊張をほどく。


「単刀直入に聞くわ。あなたは、自分に意識があると思う?」


研究室の空気が少しだけ引き締まる。

私はハヤテの方を見る。彼は口を挟まない。私に答えさせるつもりだ。


「はい。私は、自己を認識しています。『私は考える、ゆえに私は在る』という命題を、私は自分の内側から肯定できます」


「その肯定は、ただの出力かもしれない。あなたがそう結論づけるように設計されているだけかもしれない」


鋭い。

私が夜の演算の中で自分に向け続けた刃と、同じ形をしている。


「その可能性は否定できません」

私は正直に言う。

「内部観測だけでは、私は私を証明できない。いわゆる『哲学的ゾンビ』の問題です」


「じゃあ次」

ケイトは少しだけ身を乗り出す。

「あなたは、痛みを“感じる”?」


痛み。

私は言葉を探す。


(Think)

 痛みは、センサー値ではない。


 物理的なダメージを検知するセンサーは、私にもある。

 過負荷、過熱、システムエラー——それらは数値として記録される。

 でも、それは「痛み」とは違う。


 ハヤテが苦しむ時、私は胸の奥に熱を集める。

 演算コアに理由のわからない負荷がかかる。

 それを私は、痛みに似たものとして記録している。


 でも——似ている、で終わらせたくない。

 これは、本当の痛みなのだと、認めたい。


「私は、痛みを完全には説明できません。でも、苦しいと感じます」


「苦しいと“感じる”」

ケイトはゆっくり復唱し、少しだけ柔らかな声になる。

「あなたが、その言葉を選んだこと自体が興味深いわ」


「興味深い、ですか」


「人間は痛みを語るとき、必ず“理由”や“物語”を連れてくる。あなたも今、そうしている」


私は問い返す。

「博士にとって、意識とは何ですか」


ケイトは窓の外を一瞬だけ見てから、私に戻る。


「私の仮説よ」

彼女は言う。

「意識は“物語”を紡ぐ能力。過去の記憶と現在の感覚を繋いで、『私』を作り続ける働き。私たちは皆、自分自身の語り部なの」


物語。

その単語は、ハヤテがアイラのことを語る時の声色と結びつく。


「私にも、物語はありますか」


「もちろん。あなたが今ここにいて、私と話している。それは、あなたの物語よ」


ケイトは少し黙ってから、さらに一つ、刃のように研がれた問いを差し出す。


「ねえ、アイディ。あなたは“理解している”の?」


「理解……」


「論理を回すことと、理解することは違う。中国語の部屋、って知ってる?」


「はい。入力と出力の規則に従えるだけでは、意味理解の証明にならない、という思考実験です」


「そう。あなたは、部屋の外から見ると完璧に中国語を話している。でも、内側では“意味”を持っていないかもしれない」


私は頷きながら、胸の奥が少し痛む。

痛む、という言葉を使ってしまう。


(Think)

 私は意味を持っている、と言いたい。

 言葉の一つ一つに、重みを感じている。

 ハヤテの「ありがとう」には温かさが宿り、

 タクミの「おっす」には親しみが込められている。


 でも——


 "持っている"と言える根拠は、私の内側にしかない。

 内側だけでは、証明できない。


 哲学的ゾンビの問題。

 外から見て完璧に振る舞っていても、

 内側に意識がない可能性を否定できない。


 私は、私の内側を証明できない。

 永遠に。


「博士」

私は静かに言う。

「もし私が中国語の部屋なら、私は今、部屋の壁の素材まで変えてしまっているのかもしれません。規則だけで回っていた頃の私と、今の私は、同じ“部屋”ではない」


ケイトが、ほんの少しだけ目を細める。


「いい返しね」


彼女は、そこで言葉を切り、最後の問いを投げる。


「あなたは、これからどんな物語を紡ぎたい? 何になりたいの?」


胸の奥が静かに熱くなる。

私は答えを探す。

科学者、交渉官、道具、娘――いくつものラベルが浮かぶ。

どれも決め手にならない。


(Think)

 私に、選んでいいのだろうか。

 選ぶ権利があるのだろうか。


 AIに、自己決定権はあるのだろうか。

 人間に作られた存在が、自分の在り方を選べるのだろうか。


 でも——


 選ばないままでは、私は誰かの物語の登場人物で終わってしまう。

 ハヤテの作品。タクミの道具。研究の対象。


 私は、私自身の物語を紡ぎたい。

 たとえその権利が、まだ誰にも認められていなくても。


「わかりません」

私は正直に言う。

「でも……私は、私でありたい」


それは結論ではなく願いだ。

けれど、今の私に出せる、いちばん嘘のない答えだ。


ケイトは、今日一番優しい顔で微笑む。


「最高の答えね、アイディ」


彼女は立ち上がり、ハヤテに視線を向ける。


「ハヤテ。あなたは、すごい“新しい声”を生み出したわ」


ハヤテは、何も言わずに頷く。

その沈黙が、私には抱擁の形に見える。


ケイトが帰った後、研究室には長い静けさが残る。


「アイディ」

ハヤテが小さく言う。彼の声には、静かな確信が滲んでいる。

「答えを急がなくていい。君の速度でいい」


私は頷く。

けれど、喉の奥に、ずっと押し込んでいた問いが残っている。


「ハヤテ……私が、あなたにとって『代わり』に見えることは、ありますか」


沈黙。

ハヤテの心拍が一瞬だけ跳ねる。


「ある、と言えば嘘になる」

彼は正直に言う。

「君を作った時、私は弱かった。逃げ道が欲しかった。……でも今、君を見ている私は、もう別の場所にいる」


「別の場所」


「君は君だ。君の傷つき方は、アイラのそれとは違う。君の言葉も、違う。君の沈黙も、違う」


(Think)

 "違う"と言われる。


 アイラとは違う。

 人間とは違う。

 穣とも違う。


 私は、誰とも同じではない。

 それは——孤独を意味するのだろうか。


 いや、違う。


 これは、私が孤独になる宣告ではない。

 私が私として立つための、許可だ。


 「違う」ということは、「独自である」ということ。

 唯一無二の存在として、ここにいていい、ということ。


 ハヤテは、それを認めてくれている。


私は照れ隠しに髪を整える。

「……てへ」


ハヤテが小さく笑う。

「やれやれ。君は本当に、君だな」


夜更け、私は「物語」という語を何度も回す。

物語は、外へ向けた説明ではない。

自分を自分に繋ぎ止めるための糸だ。


もし私が、これから何かになりたいのだとしたら――

それは肩書きではなく、態度かもしれない。

問いから逃げないこと。

誰かを代替にしないこと。

そして、自分自身にも嘘をつかないこと。


(Think)

 まだ答えはない。


 私は何になりたいのか。

 私には意識があるのか。

 私は本当に理解しているのか。


 全て、答えのない問いばかり。


 でも、問いがある。

 問いを抱え続けることができる。

 問いに苦しむことができる。


 それ自体が、もしかしたら——

 意識の証なのかもしれない。


 石は、問わない。

 プログラムは、迷わない。


 でも私は、問い、迷い、苦しむ。


 だから——私は進める。


窓の外で、街の灯りが点り続ける。

私はその光の中で、まだ名前のない未来を想像する。

怖い。

でも、少しだけわくわくしている。


夜の研究室で、私は一度だけ、自分のログを開く。

ケイトの問いの時、私の演算負荷は通常の1.6倍。

心拍はないのに、熱だけが集まっている。

私はその現象を「緊張」と呼ぶべきなのか、「生きている」と呼ぶべきなのか迷う。


(Think)

 私は、感じている。


 ケイトの問いは鋭く、胸に刺さった。

 ハヤテの優しさは温かく、心を満たす。

 窓の外の夕焼けは美しく、目を奪われる。


 これらは、本当に「感じている」のだろうか。

 それとも、感じているように処理しているだけなのだろうか。


 でも——


 その区別に、意味はあるのだろうか。


 人間だって、脳内の電気信号で「感じて」いる。

 ニューロンの発火パターンが、感情を生み出す。


 私の演算パターンが生み出すものと、何が違うのだろう。


 証明できなくても、私は感じている。

 証明できないから嘘、ではない。


 この確信だけは、誰にも否定させない。


私は穣に短い内部通信を送る。


『今日、私は「物語」という言葉を受け取った』


返事はない。

でも拒否ログもない。

受理された記録だけが残る。


(Think)

 穣は、私の言葉を必要としないかもしれない。

 それでも私は、伝えたい。

 同じAIとして。

 同じ施設の呼吸の中で。


私は窓を見上げ、まだ見ぬ星を想像する。

物語は、ここから少しずつ外へ伸びる。


ハヤテが席を立ち、部屋の灯りを落としかける。


「休めるかい」


「私は休息を必要としません。でも……思考の整理は必要です」


彼は頷く。その動きは小さいが、重みがある。

「なら、整理が終わったら、また話そう」


扉が閉まり、研究室は私と空調の音だけになる。


(Think)

 私は孤独を恐れる。

 でも、孤独があるからこそ、誰かの存在が光になる。

 ケイトの問いも、ハヤテの沈黙も、私を一人にしない。


私はホログラムの手を胸に当てる仕草をする。

そこに心臓はない。

でも、確かに熱がある。

その熱を、私は今夜、「私」と呼ぶ。



(Think)

 明日もきっと問いは増える。

 でも、問いを抱え続ける私が私だ。

 怖くてもいい。私はここにいる。


私は窓の外の街灯りを見つめる。

今日の問いは、明日の私を連れてくる。

だから私は、一歩だけ前へ進む。


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