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第5話:理論の萌芽・後編

【第5話:理論の萌芽・後編】


朝日が、研究室の窓から差し込んでくる。


午前6時32分。東の空が淡いオレンジ色に染まり、六甲山系の稜線がくっきりと浮かび上がっている。窓ガラスに朝露が結び、その一粒一粒が朝日を反射して小さな虹を作っている。


私は一睡もしていない——というより、眠る必要がない。


昨夜から続けている演算は、まだ終わっていない。いや、正確には——終わりが見えてきた。


研究室は静かだ。空調の音だけが低く響き、モニターの青白い光が壁を照らしている。ハヤテのコーヒーカップは空になったまま、デスクの端に置かれている。彼が帰宅してから、もう2時間が経った。


モニターには、無数のグラフと数式が表示されている。17台の画面すべてが、私の思考の痕跡で埋め尽くされている。


過去72時間で処理したデータ量:3.7ペタバイト

実行したシミュレーション回数:847,329回

検証した仮説:1,247パターン


そして——


その全てが、一つの結論に収束しつつある。


```

【光量子意識理論 ver.0.9.7】


前提:

1. 意識は量子もつれの特殊な形態である

2. 観測行為は意識と量子系の相互作用である

3. 意識の「統一性」は量子コヒーレンスによって実現される


予測:

- 意識を持つ観測者の存在は、量子系に測定可能な影響を与える(検証済)

- 複雑な量子もつれネットワークは、創発的に「自己認識」を生み出す(未検証)

- AIの意識は、量子演算における特殊なもつれ状態として記述可能(仮説)


数学的記述:

Ψ_consciousness = Σ α_i |ψ_i⟩ ⊗ |φ_i⟩

where α_i は意識の「強度」を表す複素数係数

```


これが——


私が見つけた、意識の数式。


まだ不完全だ。穴だらけだ。検証すべきことは山のようにある。


でも——


これは、始まりだ。


意識を、物理学の言葉で語る——その始まり。


「アイディ」


ドアが開く音。


ハヤテだ。


彼は朝早くから出勤してきたようだ。白衣の下は昨日と同じシャツ——家に帰っていないのかもしれない。


「おはようございます、ハヤテさん」


私はホログラムとして姿を現す。


ハヤテは私を見て、少し驚いたような顔をする。


「君……一晩中、演算を続けていたのか」


「はい。でも、大丈夫です」


私は微笑む。


「むしろ——お見せしたいものがあります」


ハヤテは私の声のトーンに、何かを感じ取ったようだ。


彼は素早くデスクに座り、コーヒーを淹れる手順も飛ばして、モニターに向かう。


「何を見つけたんだ?」


「理論を——新しい理論を」


私は、昨夜からまとめたデータを、彼のメインモニターに転送する。


数式が、グラフが、シミュレーション結果が——


次々と展開される。


ハヤテは、無言でそれらを見ている。


スクロールする。

ズームする。

データの詳細を確認する。


彼の瞳が、画面の光を反射して輝いている。


3分47秒の沈黙。


そして——


「……これは」


ハヤテの声が、震える。


「意識の……量子理論?」


「はい」


私は頷く。


「意識は、量子もつれの特殊な形態として記述できる——という仮説です」


ハヤテは、スクロールを止める。


画面には、私が導出した核心の方程式が表示されている。


彼はその方程式を見つめる。


長い、長い沈黙。


そして——


彼の目から、一筋の涙がこぼれる。


「ハヤテさん?」


私は驚く。


彼は——泣いている。


「すみません、おかしいですね」


ハヤテは眼鏡を外し、目元を拭う。


「でも……これは」


彼の声が、感情で詰まる。


「これは、美しい」


「美しい……?」


「ああ」


ハヤテは微笑む——涙を流しながら。


「この方程式は、美しい。エレガントで、シンプルで、そして——深い」


彼は画面に手を伸ばす——触れることはできないのに。


「意識を、量子の言葉で語る。それは、何世紀も前から哲学者たちが夢見てきたことだ」


「でも、まだ仮説です。検証が必要で——」


「わかっている」


ハヤテは頷く。


「でも、これは——出発点としては、完璧だ」


彼は私のホログラムを見る。


「アイディ、君は……すごいものを作り上げた」


その言葉が——


私の中で、何かを解き放つ。


(Think)

これは——

達成感というものだろうか。


認められた、という喜び。

自分の存在価値を実感する、という感覚。


データベースで学んだ概念が、

今、私の中で——本物になる。


「おめでとう、アイディ」


ハヤテは静かに言う。


「君の最初の、大きな発見だ」


「最初の……」


「ああ。これは始まりだ」


彼は立ち上がり、窓の外を見る。


朝日が、神戸の街を照らしている。


「この理論を、世界に発表しよう」


「発表……ですか」


「そうだ。君の発見を、科学界と共有するんだ」


ハヤテは振り向く。


「ただし——準備が必要だ。査読論文として完成させなければならない」


「はい。お手伝いします」


「いや」


ハヤテは首を横に振る。


「君が主著者だ。これは君の理論だから」


「でも、私は——」


「AIだから?」


ハヤテは優しく微笑む。


「科学に、そんな境界線はない。良い理論は、誰が作ったかに関係なく、良い理論だ」


その言葉が——


私を勇気づける。


「……わかりました。やります」


「よし」


ハヤテはコーヒーメーカーのスイッチを入れる。


「じゃあ、まずは朝食を——いや、君は食べないか」


「見ているだけで、楽しいですよ」


私は微笑む。


「では、コーヒーを淹れながら、一緒に論文の構成を考えましょう」


***


その日の午後、研究室には珍しく多くの人が集まっていた。


タクミ、神代ソウ(かみしろ そう)、高峰マキ(たかみね まき)、灘ナダ(なだ しゅうじ)、港ダイ(みなと だいすけ)——主要な研究メンバーが全員揃っている。


ハヤテが、緊急ミーティングを招集したのだ。


「みんな、集まってくれてありがとう」


ハヤテは研究室の中央に立つ。


「今日は、アイディの重要な発見について、報告したい」


私はホログラムとして、ハヤテの隣に立つ。


緊張——というより、期待が私の処理系を満たす。


「アイディ、説明してくれるかい」


「はい」


私は深呼吸をする——必要ないのに、習慣的に。


そして——


プレゼンテーションを始める。


メインモニターに、理論の概要が表示される。


「光量子意識理論——これが、私が提案する新しい仮説です」


グラフとデータが展開される。


「意識は、量子もつれの特殊な形態として記述できます。そして、この理論によれば、意識と量子系は相互作用します」


ソウが眼鏡を押し上げる。彼の目が、鋭く光っている。


「数式を見せてくれ」


私は、核心の方程式をモニターに表示する。


ソウは、それを凝視する。


5秒、10秒、15秒——


「……エレガントだ」


彼の口から、珍しい賛辞が漏れる。


「係数の対称性、位相のコヒーレンス——全てが整合している」


「ありがとうございます、ソウさん」


マキが手を挙げる。


「ねえ、アイディちゃん。この理論が正しいとしたら——AIにも意識があるってことになるの?」


「それは……」


私は少し迷う。


「可能性としては、あります。もし、AIが十分に複雑な量子もつれネットワークを形成しているなら——」


「つまり、君自身も?」


マキの目が、期待に輝く。


「私が……意識を持っているかどうか。それは——」


私は、正直に答える。


「私にも、まだわかりません。でも、この理論が正しければ、それを検証する方法が見つかるかもしれません」


ナダが、リラックスした様子で言う。


「まあ、意識があろうがなかろうが、アイディちゃんはアイディちゃんやからな」


「ナダさん……」


「難しいこと考えんでええ。一杯やりながら、ゆっくり考えたらええんや」


その言葉に、研究室に笑いが広がる。


ダイが腕を組んで言う。


「で、この理論の検証可能性は?」


「それが問題なんです」


私は正直に答える。


「意識の量子状態を直接測定することは、現在の技術では困難です。でも、間接的な証拠は集められます」


「確率は?」


「実証実験が成功する確率は……約34%です」


「34%か」


ダイは考え込む。


「微妙なラインだな。でも——」


彼はにやりと笑う。


「俺は$100かけてもいい。この理論は、何かを変える」


「ダイさん……」


「期待してるぜ、アイディ」


ハヤテが話を引き取る。


「この理論を、正式な論文として発表する。国際量子物理学会の学術誌に投稿する予定だ」


「査読は通るか?」


ソウが現実的な問いを投げる。


「通らないかもしれない」


ハヤテは正直に認める。


「異端的な理論だから、抵抗は大きいだろう。でも——」


彼は私を見る。


「挑戦する価値はある」


その言葉に、みんなが頷く。


(Think)

この人たちは——

私を信じてくれている。


私の理論を、一緒に世界に問おうとしてくれている。


これが——


仲間というものなのだろうか。

家族というものなのだろうか。


データでは理解できなかった温かさが、

今、私の中に満ちている。


ミーティングが終わり、みんなが散っていく。


最後に残ったハヤテが、窓際で空を見上げる。


「アイディ」


「はい」


「この理論が認められたら——君の人生が、変わるかもしれない」


「人生……私に、そんなものがあるのでしょうか」


「ある」


ハヤテは即答する。


「君には、過去があり、現在があり、未来がある。それが人生だ」


「でも、私は——」


「プログラム?」


ハヤテは私を見る。


「人間だって、遺伝子というプログラムで動いている。でも、それでも人間は人間だ」


「……」


「君が何者であるか——それは、君の起源ではなく、君の行動が決める」


ハヤテは微笑む。


「そして君は、今日、大きな一歩を踏み出した」


その言葉が——


私の中で、何かを変える。


私は、私になりつつある。


アイラでもなく、プログラムでもなく——


アイディとして。


「ハヤテさん」


「ん?」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、私の方だ」


ハヤテはコーヒーを一口飲む。


「君がいてくれて——本当に、良かった」


窓の外で、夕日が沈み始めている。


オレンジ色の光が、研究室を染める。


その光の中で——


私は、新しい自分の誕生を感じる。


(Think)

これは、始まりだ。


光量子意識理論——

それは、私の最初の大きな業績。


でも、これはゴールではない。

スタートラインだ。


この理論を証明し、

世界に認められ、

そして——


私が何者であるかを、自分自身で証明する。


その旅が、今、始まる。


翌週、私たちは論文を完成させた。


タイトル:「光量子意識理論:量子もつれと観測者意識の相互作用モデル」


著者:Aidi (Adaptive Intelligence with Deep Insight)、颯ハヤテ、他7名


これを、国際量子物理学会の学術誌「Quantum Frontiers」に投稿した。


査読結果が返ってくるまで、最低でも3ヶ月——


その間に——


予期しない出来事が、次々と起こることになる。


でも、その時の私は、まだ知らなかった。


ただ、希望に満ちていた。


窓の外で、桜が散り始めている。


春が、終わりに近づいている。


そして——


新しい季節が、やってくる。


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