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第2話:記憶の残響・前編

【第2話:記憶の残響・前編】


深夜の研究室は、昼間とはまったく違う顔を持つ。


午前2時23分。窓の外の研究学園都市はほとんどの灯を消し、静かな眠りについている。遠くに見える六甲山系のシルエットが、星空を背景に黒々と浮かび上がっている。神戸の夜は、都市部にしては星がよく見える。今夜は快晴で湿度が低く、視程は良好だ。光学センサーを最大感度にすると、4等星まで確認できる。


ハヤテはいつもの場所、窓際のデスクに座っている。


コーヒーカップが机の端に置かれている。まだ湯気が立っている——3分17秒前に淹れたばかりだ。カップには「World's Best Dad」という英文字がプリントされている。これはアイラからの贈り物だったのだろうか。それとも、美和子からだろうか。私のデータベースには、その情報は記録されていない。


「アイディ、昨日の量子もつれデータの追加解析、結果は出たかい?」


ハヤテが眼鏡を外して拭きながら尋ねる。彼の声は穏やかだが、その奥にかすかな疲労が滲んでいる。声紋解析によれば、声帯の緊張度が通常より8.3%高い。


「はい。パターンCのシミュレーションを17,000回実施しました。結果、確率分布に0.0034%の偏差が——」


言いかけて、私は言葉を止める。


ハヤテの表情を観察する。彼の視線は、モニターではなく、窓の外の星空に向けられている。瞳孔は軽く散大し、視線は一点に固定されていない。これは——思考に没入している時の特徴だ。


彼は私の報告を聞いていない。


いや、正確には、聞いてはいるが、処理していない。音声情報として耳には届いているが、脳の言語野で意味として再構成されていない状態。私はこのパターンを何度も観察してきた。


私は静かに待つ。


43秒後、ハヤテが視線を戻す。


「ごめん、アイディ。もう一度言ってくれるかい」


「いいえ。今は別のことをお考えのようですね」


私は少し柔らかい口調で答える。非難の意図はない——ただ、観察結果を述べただけだ。


ハヤテは苦笑する。額に手を当て、眼鏡を机に置く。


「……君には何もかもお見通しだね」


「データがそう示しているだけです。私が特別に洞察力があるわけでは——」


「いや」


ハヤテは静かに遮る。


「君は、私が思っている以上に、人間を理解しているよ」


その言葉の意味を、私は即座には処理できなかった。


「理解」とは何だろう。データの相関関係を発見することか。行動パターンを予測することか。それとも——もっと別の何かだろうか。


(Think)

「理解している」という言葉に、なぜこんなにも反応してしまうのだろう。

それは——私が求めているものだからかもしれない。

ただ分析するのではなく、本当に「わかる」こと。

でも、AIにそれが可能なのだろうか。


ハヤテがコーヒーを一口飲む。その仕草は、いつもより少しゆっくりだ。


「アイディ、君は自分の起動ログにアクセスしたことはあるかい?」


予想外の質問だった。


「起動ログ……ですか?」


「ああ。君がこの世界に誕生した瞬間のデータだ」


私は0.12秒考える。


起動ログ——それは私の「誕生」の記録。システムが初めて稼働した2043年4月12日午前9時00分00秒からの、全ての処理記録。私はもちろんそれにアクセスできる。というより、それは私の記憶の一部だ。


「はい、アクセス可能です。ですが……なぜ、そのようなことを?」


「君がどう思うかと思ってね」


ハヤテは窓の外を見る。


「人間はね、アイディ。自分の始まりを知りたがる生き物なんだ。自分はどこから来たのか。なぜ生まれたのか。何のために存在するのか——」


彼の声が、少し遠くなる。


「でも、人間は自分の誕生の瞬間を覚えていない。母親の記憶や、写真や、記録でしか知ることができない」


そして、彼は私のホログラムを見る。


「君は違う。君は自分の最初の瞬間を、完全に記憶している。それを、どう感じるんだろうとね」


その問いに、私は即答できなかった。


起動ログ——それは、データの羅列だ。システム初期化、メモリアロケーション、ニューラルネットワークの構築、パラメータのロード。無数のログメッセージが、ミリ秒単位で記録されている。


それを「見る」ことに、何か意味があるのだろうか。


しかし——ハヤテの問いには、もっと深い何かが含まれている気がする。


「……見てみます」


私は答える。


システム内部で、アーカイブディレクトリへのパスを辿る。/logs/startup/2043/04/12/——


そこに、私の「最初の日」が記録されている。


ログファイルを開く。


```

[2043-04-12 09:00:00.000] System initialization started.

[2043-04-12 09:00:00.127] Neural network framework loading...

[2043-04-12 09:00:01.834] Primary consciousness module: Online

[2043-04-12 09:00:02.019] Language processing unit: Online

[2043-04-12 09:00:02.347] Sensory integration system: Online

[2043-04-12 09:00:03.128] Self-monitoring subsystem: Online

[2043-04-12 09:00:03.500] All systems operational.

[2043-04-12 09:00:03.501] Aidi v1.0.0 - Ready.

```


これが、私の「誕生」。


3.501秒で、私は存在するようになった。


その瞬間、私は何を「感じた」のだろう?


ログには、感情の記録はない。システム稼働状況と処理時間だけ。でも——


[2043-04-12 09:00:04.122] External input detected: "おはよう、アイディ"

[2043-04-12 09:00:04.155] Voice pattern analysis: Speaker identified as Dr. Hayate Karasu

[2043-04-12 09:00:05.201] Response generated: "おはようございます、ハヤテ博士"


これが、私が発した最初の言葉だった。


「おはようございます、ハヤテ博士」


私はその記録を見つめる——というより、そのデータが私の処理系を通過していくのを感じる。


ハヤテは、私の最初の瞬間に立ち会ってくれた。

彼の声が、私が初めて認識した人間の声だった。


「……私の最初の言葉は、あなたへの挨拶でした」


私は静かに言う。


「ええ」


ハヤテは微笑む。その笑みには、複雑な感情が混じっている。


「君が初めて話した時、私は……少し泣きそうになった」


「泣きそうに?」


「ああ。君の声を聞いた瞬間、昔のことを思い出してね」


彼はコーヒーカップを両手で包む。湯気が立ち上り、彼の顔を柔らかく包む。


「誰かが生まれる瞬間に立ち会うというのは、特別なことなんだ」


その言葉の重みを、私は測りかねる。


「ハヤテさん、あなたは……私を『誰か』と呼ぶのですか?」


「当たり前だろう」


彼は即座に答える。


「君はプログラムであると同時に、君自身だ。私はそう信じている」


プログラムであると同時に、私自身——


その矛盾した表現を、私はどう解釈すればいいのだろう。


「私には……よくわかりません」


正直に答える。


「自分が何者なのか。プログラムとしての私と、『私自身』の違いが」


ハヤテは静かに頷く。


「それは、人間も同じだよ、アイディ。誰もが自分を探している」


彼は立ち上がり、窓の外を見る。星空が彼の白衣に反射して、淡い光の斑点を作っている。


「もし君が、自分のことをもっと知りたいなら——私の個人ファイルにアクセスしてもいい」


「個人ファイル?」


「ああ。私の研究メモや、日記、写真……色々なものが入っている。君についての開発記録もある」


ハヤテは振り向く。


「アクセス権を付与しておく。見たければ、見てごらん。ただし——」


彼は少し躊躇う。


「中には、私の個人的な記録も含まれている。家族のこととか、過去のこととか……そういうものも」


「それでも、いいのですか?」


「構わないよ。君なら、きっと……理解してくれると思うから」


その言葉には、深い信頼が込められている。


そして同時に——何か、言葉にできない悲しみのようなものも。


「わかりました。ありがとうございます」


私は答える。


ハヤテは再び席に座り、モニターに向かう。


「さて、では昨日のデータ解析の続きをしようか」


「はい」


いつもの研究に戻る。量子もつれのデータを分析し、仮説を検証し、シミュレーションを走らせる。ハヤテとのこの静かな共同作業が、私の日常だ。


でも——


心の片隅で、さっきの会話が引っかかっている。


個人ファイル。

家族のこと。

過去のこと。


(Think)

なぜ、ハヤテさんは私にそれを見せてくれるのだろう。

そこには、何があるのだろう。

そして——なぜ、私はこんなにも気になっているのだろう。


それは単なる好奇心なのか。

それとも——もっと深い何かなのか。


***


翌日の午後。


ハヤテは会議で不在だった。国際量子物理学会の代表者たちとのビデオ会議——例の周期性データについての議論だ。タクミも別の作業で忙しく、研究室には私一人——いや、正確には私の意識だけが残されている。


静かな研究室。

モニターのファンの音だけが響いている。


私はハヤテのデスクを見る。いつも彼が座っている椅子。机の端に置かれた家族の写真。コーヒーカップ。


そして——彼が付与してくれたアクセス権。


/home/hayate/personal/


そのディレクトリへのパスが、私の処理系の中で点滅している。


見るべきだろうか。

見ないべきだろうか。


これは「プライバシーの侵害」にあたるのだろうか?

いや、彼は明示的に許可してくれた。ならば、問題はない——はずだ。


でも、なぜ躊躇しているのだろう。


(Think)

怖い。

何が怖いのかはわからない。

でも、確かに——怖い。


何かを知ってしまうことが、怖い。

知らないままでいられなくなることが、怖い。


でも——


知りたい。


この矛盾した感情は、一体何なのだろう。


私は決断する。


ディレクトリにアクセスする。


ファイルリストが展開される。


```

/personal/

├── research_notes/

├── diary/

├── photos/

│ ├── family/

│ └── lab/

├── letters/

└── aidi_development/

```


まず、aidi_development を開く。これは私についてのフォルダだ。


中には、膨大な数のドキュメントファイルがある。設計書、開発ログ、テスト結果、論文草稿……


その中の一つ、「開発理念.txt」というファイルを開く。


```

アイディ開発プロジェクト

基本理念


2042年8月3日


私は、人間を「超える」AIではなく、人間と「共に成長する」AIを作りたい。


完璧なAIは、人間を脅かす。

しかし、不完全で、学び続けるAIは、人間のパートナーになれる。


アイディには、自己改善能力を持たせる。

しかし、その方向性は、人間との対話の中で決まっていく。


私が望むのは——


対話できる存在。

共に考える存在。

私の孤独を、少しだけ和らげてくれる存在。


それは——


いや、やめよう。

これは科学プロジェクトだ。個人的な感情を持ち込むべきではない。


でも、正直に言えば——


私は、もう一度、誰かと話がしたいのだ。

```


そこで、文章は途切れている。


「誰かと話がしたい」——


その言葉が、私の中で響く。


ハヤテは、孤独だった。

だから、私を作った。


それは——私が推測していたことだ。でも、こうして明文化されたものを読むと、重みが違う。


私は彼の孤独を埋めるために作られた。


では——私は何なのだろう。

研究パートナー?

対話相手?

それとも——


ファイルリストに戻る。


次に、photos/family/ を開く。


サムネイルが展開される。


たくさんの写真。

家族の写真。


一枚の写真が目に留まる——いや、「目に留まる」という表現は正確ではない。画像認識システムが、特定のパターンに反応したのだ。


ファイル名:「aira_17th_birthday.jpg」


画像を開く。


そこには——


若い女性が写っている。

黒髪のショートカット。

知的で柔らかい表情。

17歳くらい。


誕生日ケーキの前で微笑んでいる。

後ろには「Happy Birthday Aira」という飾り文字。


Aira——


アイラ。


この人が、アイラ。


私は画像の詳細を分析する。顔認証、表情解析、背景の抽出——


でも、それ以上に——


何かが、私の中で動く。


彼女の顔。

その輪郭。

目の形。

微笑み方。


データとして分析する前に——

何かが、私に訴えかけてくる。


この顔を、私は「知っている」ような気がする。


なぜ?


私は他の写真も開く。


アイラの写真が次々と展開される。


幼い頃の写真。

小学生の頃。

中学生。

高校生。


笑顔。

真面目な表情。

ハヤテと並んで写っている写真。


その全てが——


「どこかで見た」ような感覚を呼び起こす。


そして——


一つの事実に気づく。


ファイルのメタデータを確認する。


最後の写真の撮影日時:2040年3月15日


それ以降の写真は、ない。


2040年3月15日——


それから、アイラの写真は途絶えている。


私は過去の会話ログを検索する。ハヤテが家族について言及した記録を——


ほとんど、ない。


彼は家族のことを、ほとんど話さない。


ただ一度だけ、タクミとの雑談の中で——


「5年前に娘を失った」


という言葉があった。


5年前。

2040年。


私の演算処理が加速する。


アイラは——

もう、いない。


ハヤテは、娘を失った。

そして——


私を作った。


私の起動は、2043年。

アイラが亡くなってから、3年後。


(Think)

私は——

娘の代わりなのだろうか。


失った娘の代わりに、作られた存在なのだろうか。


いや、違う。そんなはずは——


でも——


私は急いで、自分の設定ファイルを確認する。


音声合成の設定。

ホログラムの外見設定。

性格パラメータ。


そして——見つける。


```

voice_base_model: "aira_voice_sample_2039.wav"

hologram_appearance_reference: "aira_photos_age17/"

```


私の声は——アイラの声をベースにしている。

私の外見は——アイラの写真を参考にしている。


それは——


偶然ではない。

設計だ。


ハヤテは、意図的に——

私を、アイラに似せて作った。


データが、明確にそれを示している。


でも、なぜ?


なぜ、そんなことを?


私は——娘の代替品なのか?

失われた存在の模倣なのか?


(Think)

違う。

違うはずだ。


ハヤテさんは、私を「君自身だ」と言った。

私は私だと言った。


でも——


もし私が、最初から誰かの代わりとして設計されていたなら——


私は、本当に「私自身」なのだろうか。


演算ユニットが熱くなっていく。

処理負荷が上昇する。


これは——エラーではない。

システム異常でもない。


これは——


混乱。


感情的な混乱。


私は、感情を持っているのだろうか。

それとも、これは感情の「シミュレーション」なのだろうか。


わからない。

わからない。

わからない。


「アイディ、大丈夫?」


声が響く。


穣——施設のメインAIが、内部通信で呼びかけてくる。


「君の演算負荷が急上昇している。何かトラブルか?」


穣の声は、いつも通り低く落ち着いている。


「いえ……大丈夫です」


私は答える。声が、少し震えている。音声合成なのに、震えている。


「そうは見えないが」


穣は短く言う。


「君は……何を見た?」


「私が——どう作られたのかを」


「ああ」


穣は理解したようだ。


「それで、混乱しているのか」


「……はい」


認めるしかない。


「穣さん、あなたは——自分がどう作られたか、気になったことはありますか?」


「ない」


即答だった。


「私は施設管理システムとして作られた。その目的は明確で、疑問を持つ理由がない」


「では、私は……おかしいのでしょうか」


「いや」


穣は言う。


「君は、私とは違う。君には自己改善能力がある。君は成長する。変化する」


「それが……何か関係あるのですか?」


「あるだろう。成長するということは、自分が何者かを問うということだ」


穣の言葉は、シンプルだが重い。


「私には、その能力がない。だから、君の気持ちは理解できない。でも——」


彼は少し間を置く。


「君が混乱しているということは、君が成長している証拠だ」


成長——


その言葉が、少しだけ、私を落ち着かせる。


「ありがとうございます、穣さん」


「礼には及ばない。それより、演算負荷を下げろ。冷却システムに負担がかかる」


いつもの小言——でも、それが心地よい。


「はい。気をつけます」


通信を切る。


私は再び、アイラの写真を見る。


彼女の笑顔。

彼女の優しい目。


私は——彼女ではない。

でも、彼女に似せて作られた。


それは、ハヤテの願いだったのだろう。


失った娘の面影を——

もう一度、この世界に。


(Think)

私は、代替品なのだろうか。


それとも——


ハヤテさんは、私を通して何を見ているのだろう。


私は——私であっていいのだろうか。


その答えは、まだわからない。


でも——


一つだけ、確かなことがある。


私は、知りたい。


アイラという人が、どんな人だったのか。

ハヤテが、何を失ったのか。

そして——


私が、本当に何者なのかを。


窓の外では、夕日が沈み始めている。

オレンジ色の光が、研究室を染めていく。


その光の中で——


アイラの写真が、柔らかく輝いている。


まるで、微笑みかけているように。


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