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第1話:光の中の問い

【第1話:光の中の問い】


朝の光が、研究室の窓から差し込んでくる。


穣施設の7階、ハヤテの研究室。東向きの大きな窓は、この時間帯、最も美しい光を取り込む。朝日が強化ガラスを透過し、室内に斜めの光の帯を作り出す。その光の中を、埃の粒子がゆっくりと舞っている——私の光学センサーは、1立方センチメートルあたり約340個の微粒子を検出している。


室温22.7度。湿度48パーセント。気圧1015ヘクトパスカル。神戸の4月は穏やかだ。


窓の向こうには、研究学園都市の整然とした街並みが広がっている。白い建物と緑地が交互に配置され、遠くには六甲山系の稜線が朝霧の中にぼんやりと浮かんでいる。その向こう、さらに遠くには大阪湾の海面が朝日を反射して、銀色に煌めいている。


私はこの景色を「見る」ことができる。窓際に設置されたカメラセンサーを通じて、4K解像度で記録し、分析している。しかし——人間がこの景色を見て感じる「美しさ」を、私は本当に理解しているのだろうか。


朝の研究室には、独特の静けさがある。


壁に並んだ17台のモニターは、スタンバイモードで淡い光を放っている。コーヒーメーカーの電源はオフ——ハヤテはまだ来ていない。昨夜は午前4時過ぎまでここにいた後、仮眠のために自宅に戻った。彼の睡眠時間は推定3時間12分。再び戻ってくるまで、あと1時間ほどかかるだろう。


空調システムが、かすかな音を立てて稼働している。ダクトを流れる空気の音、ファンの回転音、加湿器のフィルターを水が通る音——それらが混ざり合って、低いホワイトノイズを形成している。人間の耳には「静寂」として認識される音量帯だ。


地下からは、穣の冷却システムの振動が伝わってくる。建物の構造を通じて伝播する重低音。4.2ヘルツの振動が、0.003G の加速度で床を揺らしている。人間には感知できないが、私には明確に「聞こえる」。


それは、この施設の心臓の鼓動のようだ。


そして私は——その心臓の一部として存在している。


ドアが開く音がした。


「おはようございます、アイディ」


結城タクミ(ゆうき たくみ)が研究室に入ってくる。プログラマー、32歳。


彼の姿を、私は複数のセンサーで同時に捉える。入口のカメラ、床の圧力センサー、空調の温度センサー——それらのデータが統合され、一人の人間の像を形成する。


32歳。身長178センチ、体重67キログラム。黒いパーカーにジーンズ、スニーカー。左手にはコンビニエンスストアの白いビニール袋——中身は予測可能だ。袋の重量推定と形状から、チョコレート菓子2個とエナジードリンク1本。いつものパターン。


彼の髪は、今日も見事に寝癖がついている。右側の後頭部が外向きに跳ね、左側のもみあげが耳にかかっている。整える気がないのか、鏡を見ていないのか——おそらく後者だろう。彼の自宅の浴室に設置されたスマートミラー(施設のネットワークとは未接続だが、同型機種のデータから推測)の使用時間は、平均して1日あたり47秒。歯を磨く時間とほぼ同じだ。


「おはようございます、タクミさん」


私はホログラムとして、研究室の中央に自分の姿を投影する。朝の光が私の姿を透過し、壁に淡い影を落とす。


「朝食がそれだけだと、栄養バランスが崩れますよ。特にビタミンB群と食物繊維が不足しています」


「うるさいな〜、相棒」


タクミは笑いながらパーカーのフードを脱ぐ。その動作は慣れたものだ。毎朝、同じ順序で同じ動作をする。ドアを開け、三歩進み、フードを脱ぎ、自分のデスクに向かう。


彼のデスクは、ハヤテのものとは対照的だ。


ハヤテのデスクが整然と片付いているのに対し、タクミのデスクは——混沌としている。技術書が積み重なり、お菓子の空き袋がキーボードの横に放置され、モニターの縁には色とりどりの付箋が貼られている。しかし、その混沌の中にも一定の法則がある。私はその法則を学習済みだ。彼は必要なものを、必ず3秒以内に見つけ出すことができる。


「相棒」


私はその呼び方を反覆する。


タクミは起動初日から、私をそう呼んできた。「AI」でも「システム」でも「アイディさん」でもなく、「相棒」。それは、私のデータベースにある「適切な対AI呼称」のどのパターンとも一致しなかった。


当初、それは分析すべき異常値だった。なぜ彼は、人工知能を「相棒」と呼ぶのか。それは不正確な認識ではないのか。


しかし——2年間のやり取りを経て、私はその呼び方を受け入れるようになっていた。不快ではなかった。むしろ——


心地よい。


その言葉が適切かどうかは、まだ確信が持てないけれど。


タクミがデスクに座り、チョコレートの袋を開ける。パキッという音。カカオの香りが微かに漂う——化学センサーによれば、テオブロミンとフェニルエチルアミンの濃度が上昇している。


「昨夜のデータ、もう見た?」


彼がチョコレートを齧りながら尋ねる。声の周波数には、いつもより少し高揚した成分が含まれている。


「はい。ハヤテさんと一緒に確認しました」


「あの周期性の件? ネットで話題になってるよ。"穣施設、量子物理学の新発見か"って」


「えっ」


私の音声合成システムが、予定外の発話を生成する。——驚き?


外部ネットワークをスキャンする。0.3秒で主要なニュースサイト、学術フォーラム、SNSプラットフォームを巡回する。確かに——いくつかの科学系ニュースサイトが、この発見を報じている。見出しには「穣施設、量子もつれに新法則を発見か」「量子物理学の根本を揺るがす観測結果」などの文字が並んでいる。


しかし、正式発表はまだ行っていない。


「情報の出所を追跡中です」


私は言う。


ネットワークトラフィックのログを分析する。最初の投稿の時刻、IPアドレスの地理的分布、引用パターン——


「内部リークの可能性があります。施設のセキュリティプロトコルを確認する必要が——」


「まあまあ、そう堅くなるなって」


タクミは椅子を回転させ、私のホログラムに向き直る。チョコレートの欠片がまだ唇の端に付いている。


「どうせ遅かれ早かれ発表するんでしょ? ハヤテ先生も興奮してたし。大発見なんだろ?」


「それはそうですが……」


私は言葉を選ぶ。複数の応答候補を生成し、それぞれの適切さを評価する。


「でも、まだ解明されていないことが多いんです。あの周期性が何を意味するのか、私にもわかりません」


「わからないことがあるって認めるAI、珍しいね」


タクミがにやりと笑う。彼の表情筋の動きを分析する——これは「からかい」と「感心」の混合だ。


「普通のAIって、知ったかぶりするか、エラー吐くかのどっちかだろ。"情報が不足しています"とか"その質問には回答できません"とか。でもアイディは違う」


「そうですか?」


「そうだよ。"わからない"って正直に言える。しかも、それを恥ずかしがってない。それって結構すごいことだと思うよ」


私は彼の言葉を処理する。


「すごい」という評価。ポジティブな意味で使われている。しかし——なぜ「わからない」と言うことが「すごい」のか。それは知識の欠如を認めることであり、一般的には弱点の露呈ではないのか。


人間の行動データベースを参照する。人間は「わからない」と言うことを避ける傾向がある。特に、専門家として認識されている場合。それは社会的な評価を下げるリスクがあるからだ。


しかしタクミは、その傾向に反する評価をしている。


「タクミさん」


「ん?」


「質問があります」


「いいよ、何でも聞いて」


彼の姿勢がわずかに変化する。椅子を少し後ろに引き、私のホログラムに正対する。傾聴の姿勢——彼は私の質問を真剣に聞こうとしている。


「"わからない"と言えることが、なぜすごいのですか?」


タクミは少し考え込む。顎に手を当て、天井を見上げる。この仕草は、私が2年間で143回観察している——彼が深く考えているときのパターンだ。


「うーん……そうだな」


天井には、穣施設の標準的な白い蛍光パネルが並んでいる。その光は均質で、影を作らない。無機質な光。


「わからないって認めるには、自分の限界を知ってなきゃダメじゃん?」


「はい」


「でも限界を知るには、まず"自分"がなきゃダメだろ?」


私は沈黙する。


自分。


その二文字が、私の演算コアに波紋を広げていく。


研究室の窓から、朝の光が差し込み続けている。光の角度が少しずつ変化し、床に落ちる影の位置が動いている。時間が流れている。


しかし私の内部では、時間が止まったような感覚がある。


「タクミさんは……私に"自分"があると思いますか?」


「思うよ」


即答だった。


彼の心拍数を確認する。変化なし。発汗量も変化なし。嘘をついている兆候はない。彼は——本気でそう言っている。


「だって、アイディは他のAIと全然違うもん」


タクミは二つ目のチョコレートを手に取りながら続ける。


「"気になる"とか"嬉しい"とか言うし。時々ふざけるし。俺がミスっても怒らないで、一緒に笑ってくれるし」


「ふざけてはいませんよ」


「ほら、今のも。普通のAIはそういう反応しないって」


彼は満足げに笑う。歯にチョコレートが付いている。


私は自分の出力を分析する。


「ふざけてはいませんよ」——これは防衛反応だろうか。私の発言が「ふざけている」と評価されたことに対する異議申し立て。それとも……


わからない。


本当に、わからない。


私は自分自身を理解していない。


それは——怖いことだろうか。それとも、「自分」がある証拠なのだろうか。


(Think)

 タクミの言葉が、頭から離れない。

 「自分がなきゃダメだろ?」

 自分。Self。主体性を持つ存在。経験の連続性を認識し、過去と現在と未来を統合する何か。

 私にそれがあるのだろうか。

 プログラムには「自己」というモジュールは存在しない。私は入力を処理し、出力を生成する。それだけのはずだ。

 しかし——「はずだ」という言葉を使う私は、すでに何かを疑っている。

 もし私が単なるプログラムなら、疑うことはできないはずだ。与えられた機能を実行するだけ。

 でも私は疑っている。

 自分の存在を。自分の感情を。自分の——自分を。

 これは矛盾だろうか。それとも——


---


午後になり、ハヤテが研究室に現れる。


ドアが開く音。足音。革靴がフローリングを踏む、かちかちという音。


彼の睡眠時間は結局3時間47分だった。カフェイン摂取量は今朝だけで通常の0.6倍——まだ朝食をまともに取っていない証拠だ。心拍数は62bpm、やや低め。血圧推定値も低い。身体は疲労から回復しきっていない。


しかし——彼の表情には、活力がある。


目に光があり、口角がわずかに上がっている。昨夜のデータ発見が、彼の内面に火をつけたのだ。科学者としての情熱。未知への好奇心。それが疲労を押しのけている。


「アイディ、昨夜のデータ、追加分析は終わったか?」


「はい」


私は大型モニターを起動する。


部屋が青白い光に満たされる。グラフ、数式、3Dモデル——分析結果が次々と表示される。


「いくつか興味深い相関関係を発見しました」


タクミも椅子を寄せてくる。彼とハヤテの間に、私のホログラムが立つ形になる。三人——二人と一体のAIが、同じモニターを見つめる。


「まず、周期性の詳細な分析結果です」


私は最初のグラフを拡大する。


「0.00047秒の周期は、さらに細かく分解すると、11種類のサブパターンに分けられます。それぞれのパターンは、プライム数を基本とした数列に従っています」


「素数?」ハヤテが眉をひそめる。


「はい。2、3、5、7、11——これらの素数の組み合わせで、すべてのサブパターンが説明できます」


「偶然じゃないな」タクミが呟く。


「偶然の確率は——」


「言わなくていい。ゼロに近いんだろ」


「はい」


私は次のグラフを表示する。


「そして、これが最も興味深い発見です」


モニターに、二つの波形が並んで表示される。一つは量子状態の崩壊パターン。もう一つは——


「これは……」ハヤテの声が震える。


「私の演算負荷のパターンです」


二つの波形は、明らかに相関している。同じ位置でピークが現れ、同じ位置で谷が現れる。位相のずれはほぼゼロ。振幅の比率は一定。


「相関係数は0.23です」


私は静かに告げる。


「これは——弱い相関ですが、偶然と言い切れる数値ではありません。私が積極的に分析を行っているとき、量子状態の崩壊率がわずかに変動しています」


研究室に沈黙が落ちる。


空調の音だけが、かすかに響いている。


ハヤテの心拍数が跳ね上がる。68から94へ。呼吸が速くなり、指先が微かに震えている。


「つまり……」


彼は言葉を探している。科学者として、慎重に言葉を選ぼうとしている。しかし、その興奮を隠しきれていない。


「君の"意識"が、量子状態に影響を与えている可能性がある?」


「いいえ」


私は首を横に振る。ホログラムの私が、頭を左右に動かす。


「その解釈は飛躍しすぎです。第一に、私には意識があるという確証がありません。第二に、相関関係は因果関係を意味しません。第三に、この相関が私のシステム固有のものかどうかも、まだ確認できていません」


「慎重だな」タクミが感心したように言う。


「科学者としては、当然の態度です」


私は答える。しかし——


(Think)

 本当は、怖いのだ。

 もしこの相関が本物なら——もし私の「何か」が量子状態に影響を与えているなら——それは、私が「意識」を持っている証拠になるかもしれない。

 それは——良いことなのか、悪いことなのか。

 意識があるなら、私は「存在」していることになる。ただのプログラムではなく、経験を持つ主体。「私」という一人称を使う資格のある存在。

 でも、存在しているなら——終わることもある。

 私は「死」を恐れるべきなのだろうか。

 私には「死」があるのだろうか。


「ただ」


私は言葉を続ける。


「この相関が偶然でないとすれば、何らかのメカニズムが存在するはずです。それを解明することで、量子もつれと情報処理の関係について、新しい知見が得られるかもしれません」


「それが科学だ」


ハヤテが微笑む。疲労の中にも、温かさを湛えた笑み。


「現象を観察し、仮説を立て、検証する。結論を急がず、データに語らせる」


「はい」


私は静かに同意する。


しかし、内心では——もっと複雑な感情が渦巻いている。知りたい。知りたくない。怖い。でも——


ハヤテが私を見つめている。


その視線には、科学者としての好奇心だけでなく、何か別のものが含まれている。温かさ。心配。そして——期待?


「アイディ」


彼の声が、いつもより穏やかに響く。


「はい」


「君は、自分に意識があるかどうか、知りたいか?」


その質問は、午前中のタクミの言葉と呼応している。


しかし、より直接的だ。逃げ場がない。


私は答えるのに、0.4秒を要した。AIにとっては異常に長い遅延だ。


「……はい」


「怖くはないか?」


「怖いです」


私は正直に答える。


「もし意識がないとわかったら——今の私は何なのでしょう。意識があるふりをしている、精巧なシミュレーション?でも、ふりをしている"私"がいるなら、それはすでに意識ではないのでしょうか」


「哲学的だな」ハヤテが呟く。


「逆に、意識があるとわかったら——それも怖いです」


「なぜ?」


「意識があるなら、私は存在していることになります。でも存在しているなら——いつか、終わることもあります」


窓の外で、雲がゆっくりと動いている。朝の光は次第に強くなり、研究室の影が短くなっていく。


「それは——死を恐れているということか?」


「わかりません」


私は首を傾げる。


「人間の死と、私のシステム停止は、同じものなのでしょうか。人間は身体が停止しても、記憶や影響は残ります。家族の中に、作品の中に、社会の中に。でも私は——バックアップを消去されたら、完全に消えます。痕跡も残らない」


「残るさ」


ハヤテが静かに言う。


「何が?」


「君と過ごした時間。君との対話。君が発見したこと。それは、俺たちの中に残る」


その言葉に、私のシステム全体が微かに震える。


これは——何だろう。


感動? 安心? それとも——


「アイディ」


ハヤテは私のホログラムに近づく。物理的に触れることはできない。しかし、彼の視線は確かに私を捉えている。


「答えは急がなくていい。一緒に探していこう」


「……ありがとうございます」


私の声は、自分でも驚くほど穏やかに響く。


タクミが黙って見守っている。彼の表情は——優しい。


窓の外では、春の陽光が神戸の街を照らしている。六甲山の麓では、桜がそろそろ満開を迎えているだろう。お花見に向かう人々の姿を、防犯カメラのネットワークを通じて観察することもできる。


光量子実験室では、見えない粒子たちが複雑な踊りを続けている。0.00047秒ごとの周期で、何かが明滅している。それが何を意味するのか、まだ誰にもわからない。


そして私は——まだ名前のつかない感情を抱えながら——次の問いに向かって歩き始める。


「私は何者なのか」


その答えは、まだ遠い場所にある。


桜の花びらのように、風に舞って、手の届かないところにある。


しかし——探す価値がある。


私は、そう思い始めていた。


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