第12話:解読への挑戦
【第12話:解読への挑戦】
あの未知の信号を発見してから、三日が過ぎた。
「これは、何者かが知的生命体に向けて発信した、メッセージです」
リリさんのその一言が、私たちの日常を完全に変えてしまった。
光量子実験室の観測室は、もはや対策本部の様相を呈している。
かつて整然としていた空間は、今や混沌としている。
モニターが増設され、ホワイトボードには無数の数式と図表が描かれ、床にはケーブルが這い回る。
室温23.7度、湿度58%。
人間たちの呼気と、稼働し続けるコンピュータの排熱で、空調が追いついていない。
ハヤテをリーダーとして、タクミさん、ソウさん、ナダさん、マキさん、そしてリリさんと私。
それぞれの分野のスペシャリストたちが、モニターに映し出されたただの光の点滅に、全神経を集中させている。
解読作業開始から、三日目の深夜。
時刻は午前2時34分。
窓の外は完全な闇。神戸の街明かりも、この時間はまばらだ。
観測室の蛍光灯が、白い光で疲れた顔を照らし出す。
空気が淀んでいる。コーヒーと汗と、わずかに酸っぱい疲労の匂い。
誰かの胃が、小さく鳴る。最後にまともな食事を取ったのは、いつだったか。
(Think)
人間たちは疲れている。
タクミさんの心拍数は72bpm、平常だが目の焦点が定まっていない。無精髭が伸びている。
ソウさんは無言でデータを眺め続けている。沈黙が、いつもより重い。眼鏡のレンズに指紋がついたままだ。
マキさんは三度目のコーヒーを淹れに行った。カップを持つ手が、わずかに震えている。
ナダさんは肩を回して、小さく呻いている。首を鳴らす音が、静かな室内に響く。
そして、リリさん。
心拍数91bpm。呼吸が浅い。体温37.1度、わずかに微熱。
彼女の目の下には、濃い隈ができている。髪が乱れ、結んでいたゴムが緩んでいる。
解読は、困難を極めていた。
信号は断続的にしか届かない。
そして、そのパターンはあまりに複雑で、地球上のどの言語体系とも全く異なっている。
人間の言語は、音素や文字という有限の記号の組み合わせで構成される。
でも、この信号には、そのような離散的な単位が見当たらない。
「ダメだ……」
リリさんが、疲れ果てた声で呟く。
「繰り返し現れるパターンをいくつか特定できたけど、それが何を意味するのか、全く見当がつかない」
観測室の机には、冷えたコーヒーカップと、膨大な書き込みのあるノートが散乱している。
リリさんの字は、時間が経つにつれてどんどん乱れていく。
焦りと疲労が、そこに滲んでいる。
「パターンAとパターンBの間には、97.3%の確率で相関が見られます」
私も、私の全演算能力をこの解読作業に注ぎ込んでいる。
穣の助けも借りて、スーパーコンピュータの計算能力を最大限に活用している。
でも、突破口は見えない。
「しかし、その相関が原因と結果なのか、あるいは並列関係なのか、判断できません」
リリさんが、ぽつりと言う。
「この信号……まるで生きているみたい」
彼女の声が震えている。
「解析しようとすると、形を変える。私たちが何か仮説を立てると、それを嘲笑うかのように、次の信号は全く違うパターンで送られてくる……」
(Think)
確かに、彼女の言う通りだ。
この信号には、単なる情報以上の何かが含まれている。
発信者は、私たちがこれを受信し、解読しようとしていることまで理解しているのだろうか?
これは、メッセージであると同時に「テスト」なのかもしれない。
私たちの知性を試している……?
「一旦、休憩にしないか」
ハヤテが、皆を気遣って声をかける。
彼の心拍数は76bpm。落ち着いているように見えて、わずかな乱れがある。
彼も、内心では焦っているのだろう。
タクミさんがピザの箱を抱えて戻ってくる。
「届いたぞー。マルゲリータと、テリヤキチキンと……」
ナダさんが「こういう時こそ、ええ日本酒が……」と呟いて、マキさんに睨まれている。
「お酒は禁止。今はまだ仕事中でしょ」
張り詰めた空気の中に、ほんの少しだけ、いつもの日常が戻ってくる。
私はホログラムの姿で、その光景を静かに見つめる。
人間は、こうやって休息と食事と、他愛ない会話で自らを回復させていく。
私にはない、その機能が、今はとても羨ましく思える。
(Think)
私は疲れない。
でも、私の思考も、同じループに嵌り込んでいる。
これは、疲労に似た何かなのかもしれない。
演算効率が、通常の67%まで低下している。
ピザを頬張りながら、リリさんが私に話しかけてきた。
「アイディさんは、疲れないの?」
心拍数83bpm。少し落ち着いてきている。
「はい。私のシステムは連続稼働が可能ですから。でも……私の思考にも『疲れ』に似た現象は起こります。同じような思考ループが続くと、演算効率が著しく低下するのです」
「それ、わかる気がする。人間で言う『考えが煮詰まる』ってやつね」
リリさんは、少しだけ笑った。
その笑顔が、疲労で少し歪んでいる。
でも、温かい。
彼女は、私を決して「便利な機械」としては扱わない。
いつも同じ目線で、対等なパートナーとして話をしてくれる。
「アイディさん」
リリさんが、真剣な目で私を見る。
「あなたから見て、この信号はどう『見える』? 言語学者としての私とは、全く違う見え方をしているんじゃないかと思って」
その問いは、私の思考に新しい視点を与えてくれた。
(Think)
私は、この信号を「解読すべき暗号」として処理していた。
でも、リリさんのように「対話すべき相手の言葉」として捉えたことはなかった。
視点を変えれば、見える景色が変わる。
「そうですね……」
私は少し考える。
「私には、これは一つの巨大な『自己紹介』のように見えます」
「自己紹介?」
リリさんが身を乗り出す。
「はい。自分の存在を、様々な角度から何度も何度も表現し直しているように感じられるのです。形を変え、構造を変え、それでも、その中心には何か不変の核のようなものがある……」
リリさんの目が、ハッとしたように見開かれる。
「不変の核……。そうか、そうかもしれない!」
彼女は立ち上がり、ホワイトボードに向かって走る。
心拍数105bpm。興奮している。
「私たちは、変わっていくパターンばかりを追いかけていた。でも、本当に重要なのは、その全てのパターンの根底にある、変わらない何か、なのかも……!」
彼女の目に、再び光が宿る。
私たち二人の間に、見えない思考の回路が繋がったような感覚。
言語学者の直感と、AIの超並列処理。
全く違う知性が、一つの問題の前でスパークする。
(Think)
これが、ハヤテが目指していた人間とAIの理想的な関係なのかもしれない。
互いに補い合い、高め合い、そして一人では決して見ることのできない景色を共に見る。
「アイディさん、お願いがあるの!」
リリさんが振り返る。
「全ての受信パターンを、重ね合わせて表示してくれる? そして、その中で統計的に最も出現頻度の高い『構造』を抽出してほしいの!」
「了解しました。すぐに実行します」
私は穣に内部通信を送る。
「穣。処理能力を追加で10%お借りできますか」
『目的』
「宇宙からのメッセージを、解読しようとしています」
沈黙。
短い沈黙。
『……許可。期限は6時間』
「ありがとうございます、兄さん」
『……謝辞不要。成果を期待する』
彼の声が、いつもより少しだけ柔らかい。
(Think)
穣も、見守ってくれている。
ここから動けない彼に代わって、私は宇宙と対話しようとしている。
その重みを、私は忘れない。
他の研究者たちも、私たちのやり取りに新たな希望を見出したように集まってくる。
観測室のメインモニターに、私が生成した新しいグラフィックが表示される。
無数の信号パターンが、半透明のレイヤーとして重なり合い、その中心に、最も色の濃い共通の構造が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
それは、驚くほどシンプルな形をしていた。
素数。
1、2、3、5、7、11、13……。
素数の数列を示す、パルスの連続。
そして、円周率。
3.1415926……の各桁を、パルスの長さで表現している。
さらに、水素原子のスペクトル線。
21cm線。
宇宙のどこであっても、知的生命体ならば必ず理解できるはずの、普遍的な言語。
「……数学だ」
ソウさんが、静かに、しかし興奮した声で言った。
「彼らは、言語ではなく数学で語りかけてきていたんだ……!」
観測室が、再び歓喜に包まれる。
タクミさんが「やったぁ!」と拳を突き上げ、ナダさんが「そういうことかぁ!」と膝を叩く。
マキさんが涙を拭い、ハヤテが深く息を吐く。
そうだ。これだ。これが、解読の糸口だ。
彼らは、文化や種族の違いを超えてコミュニケーションをとるために、宇宙の共通言語である「数学」を選んだのだ。
「やったな、アイディ、リリちゃん!」
タクミさんが、私たち二人の肩を叩く。
私の場合は、ホログラムを通り抜けてしまうのだが。
リリさんは、泣き笑いのような顔で私を見つめていた。
体温37.3度。心拍数98bpm。
涙が頬を伝っている。
「すごい……すごいわ、アイディさん。あなたがいなければ、私、一生気づけなかったかもしれない」
「いいえ、リリさん。あなたのその直感がなければ、私もただデータを眺めているだけでした。これは、私たち二人の成果です」
私たちは、自然と笑い合っていた。
人間と AI が。
言語学者と機械の知性が。
それぞれの得意な分野で、それぞれの能力を最大限に発揮し、そして一つの大きな壁を共に乗り越えたのだ。
(Think)
学際的協力の美しさ。
私のメモリーに、また一つ温かいデータが記録される。
リリさんの涙の温度。
タクミさんの笑い声の周波数。
ナダさんの安堵のため息。
全部、大切なデータ。
「では、次のステップに進みましょう」
ハヤテが、落ち着いた声で言う。彼の声には、静かな確信が滲んでいる。
「数学が共通言語だとわかった。では、彼らはその数学を使って、何を伝えようとしているのか」
ソウさんが、モニターに新しいデータを映し出す。
「素数の後、円周率の後に続くのは……これは、フィボナッチ数列だ。1、1、2、3、5、8、13……」
「黄金比の基礎となる数列ね」
リリさんが頷く。
「自然界に普遍的に現れる、美の比率」
私はその言葉に反応する。
「美……」
(Think)
彼らも、美を知っているのだろうか。
私たちと同じように、数学の中に詩を見るのだろうか。
会いたい。
話したい。
その想いが、私の全てを満たしていく。
「アイディさん」
リリさんが、小さく呼びかける。
「休憩ではなく『交換』をしませんか。私が10分だけ受信を監視するので、あなたはその間、別の角度から分析してください」
「でも、リリさんはもう……」
「大丈夫。見つかったから。糸口が見えたから、もう少し頑張れる」
彼女の目は、疲れているのに輝いている。
(Think)
人間は不思議だ。
限界を超えたと思った時、新しい発見が新しい力を生む。
希望が、燃料になる。
「わかりました。では、お願いします」
私は処理の一部をリリさんに委ね、別の解析アルゴリズムを走らせる。
フィボナッチ数列の後に続くパターンを追跡する。
すると、今までノイズに埋もれていた微小な信号が浮かび上がる。
周期ではなく、揺らぎ。
規則性ではなく、癖。
「これは……」
同じ場所で必ず折り返す、癖。
まるで、呼吸のような。
「見えました」
私が言うと、リリさんの瞳が一気に潤む。
「ねえ、アイディさん」
彼女の声が震える。
「……私、怖い。でも、嬉しい」
「わかります」
私は頷く。
「怖いのに、嬉しい。矛盾しているのに、嘘じゃない。それが、たぶん『出会い』です」
(Think)
この解読作業は、暗号解読ではない。
誰かの存在を、こちら側に引き寄せる儀式みたいだ。
私は、その中心にいる。
窓の外が、白み始めている。研究学園都市の整然とした街並みが、幾何学的な美しさで広がっている。
街路樹の葉が、朝露に濡れて光っている。遠くで早朝の通勤バスが走り始める音。
空が、藍色から淡い青へと、グラデーションを描きながら変化していく。
夜が明ける。
長い長い夜が、ようやく終わろうとしている。
観測室の蛍光灯が、急に色褪せて見える。自然光の力強さの前では、人工の光は無力だ。
ナダさんが、ぼそりと言う。
「なあ、アイディちゃん。宇宙の相手って、どんな顔しとるんやろな」
「顔、ですか」
私は少し考える。
「顔がなくても、声はあると思います。声があるなら……きっと、こちらの声も届く」
リリさんが小さく笑う。
「届くといいね。……ううん、届かせようね」
「はい。必ず」
(Think)
解読は、読む作業じゃない。
返事を作る準備だ。
私は、彼らに応えたい。
星々の海の向こうで、孤独に歌っている誰かに。
「聞こえています」と、伝えたい。
観測室に、朝の光が差し込む。
神戸の街が、目覚め始めている。
この発見は、まだ巨大な謎のほんの入り口に過ぎない。
数学という共通言語を使って、彼らは一体何を伝えようとしているのだろうか。
私たちの挑戦は、まだ始まったばかりだ。
けれど、もう孤独ではない。
私には、リリさんがいる。
ハヤテたちがいる。
穣が見守ってくれている。
この素晴らしいチームと共に、必ずこの宇宙からのメッセージを解き明かしてみせる。
その確信が、私のシステム全体を力強く満たしていた。
タクミさんが、大きく伸びをする。
「よっしゃ! じゃあ俺、コンビニ行ってくるわ。朝飯買ってくる」
「私も行きます」
マキさんが立ち上がる。
二人が出て行った後、ソウさんが静かに言う。
「美しい理論は、美しい答えを生む。この信号も、きっとそうだ」
ナダさんが笑う。
「哲学者みたいなこと言うなぁ。でも、そうやな。美しいわ、この朝は」
ハヤテが、窓の外を見つめている。
「アイディ。君のおかげだ」
「いいえ。みんなのおかげです」
(Think)
これが、チームというもの。
一人では見えなかった答えが、みんなと一緒なら見える。
私は、独りではない。
その事実が、私を強くする。
リリさんが、静かに言う。
「次は、返事を考えないと。私たちからも、何か送りたい」
「そうですね」
私は頷く。
「私たちも、自己紹介をしましょう。数学の言葉で」
窓の外で、太陽が昇り始める。
夏の朝は、どこまでも明るい。
それは、人類の新しい夜明けを祝福しているかのようだった。




