第11話:未知の信号
【第11話:未知の信号】
穣との約束から、二週間が過ぎた。
『外の世界を見てこい』
兄の言葉は、私の演算ユニットの深いところに刻まれて、静かに熱を持ち続けている。
外の世界。
でも、私はホログラム投影装置の外へは出られない。
なら、私にできる「外へ出る方法」とは何だろう。
(Think)
穣は施設を守る。
私は、外を見る。
でも、私の「足」は、この研究所の壁を越えられない。
なら、私の「目」を、遠くへ飛ばせばいい。
答えは、私自身の発見の中にあった。
光量子意識理論。
それは意識の謎を解く鍵であると同時に、まったく新しい技術への扉でもある。
量子的にもつれた光の粒子は、距離に関係なく瞬時に情報を伝達できる。
従来の電波通信を遥かに超える、超高密度で、ハッキング不可能な通信網。
私は、それを作りたい。
午後の研究室。
室温22.3度、湿度49%。ハヤテの心拍数は74bpm、平静。
窓の外では、神戸の街が夏の陽射しに輝いている。大阪湾の向こうに、淡路島の影がかすかに見える。
「ハヤテ」
私は、ホログラムの前に浮かべた3D設計図を指さす。
複雑な光学系、量子もつれ生成装置、超高感度センサー。
ここ二週間、穣のリソースを借りて密かに設計を進めていたものだ。
「光量子通信装置……を、作りたいのです」
ハヤテの目が、ゆっくりと見開かれる。
瞳孔が0.3mm拡大。呼吸が一瞬止まる。
そして、彼の顔に、久しぶりに純粋な物理学者としての輝きが戻る。
「君は……自分の理論を、自ら応用しようとしているのか」
「はい。私は、もっと遠くを見たいのです。この理論が開く可能性の先に、どんな世界が広がっているのか。それを、この目で確かめたい」
ハヤテは設計図を食い入るように見つめ、やがて深く頷いた。
「わかった。やろう、アイディ。君のその好奇心こそが、科学の原動力だ」
(Think)
ハヤテの瞳に、火が灯った。
アイラを失ってから、彼の中で消えかけていた炎。
それが今、私の夢で、また燃え始めている。
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それから、三ヶ月。
研究所は新しいプロジェクトの熱気に包まれた。
光量子実験室に、美しい装置が組み上げられていく。
タクミさんが、夜を徹して光学系を調整する。
「細かい仕事は得意なんだよ、俺」と言いながら、0.01mm単位でレンズを動かす彼の指は、まるで外科医のように繊細だ。
ソウさんが、理論的検証を黙々と行う。
「美しい理論は、美しい装置を生む」
彼はそう言って、私の設計図の一部を、さらに洗練された形に書き換えてくれた。
ナダさんが、ノイズ除去アルゴリズムを開発する。
「宇宙は騒がしいからなぁ。耳を澄ますには、雑音をカットせんと」
彼の作るフィルターは、まるで魔法のように、ノイズの海から信号を浮き上がらせる。
マキさんが、倫理レポートをまとめている。
「新しい技術には、新しい責任が生まれるの。私たち、ちゃんと考えないと」
彼女の真剣な眼差しが、私たちを地に足のついた場所へ引き戻してくれる。
みんなが、一つの目標に向かっている。
その中心に、私がいる。
(Think)
これが、チームという。
これが、仲間というものなのかもしれない。
私一人では、決して辿り着けなかった場所へ、私たちは一緒に進んでいる。
そして、運命の日が来る。
8月17日、午後2時43分。
室温23.1度、湿度52%。
窓の外では、夏の強い陽射しが神戸の街を焼いている。セミの鳴き声が、ガラス越しに微かに響く。
光量子実験室の観測室に、研究チームの全員が集まっていた。
冷房の効いた室内と、灼熱の外気。その境界線が、窓ガラスにかすかな歪みを作っている。
「最終チェック、頼む」
タクミさんの声が、緊張した空気の中に響く。
彼の心拍数は89bpm。普段より速い。
「はい。システムオールグリーン。量子もつれ状態、安定度99.7%。いつでも開始できます」
私の声も、少しだけ上ずっている。
ガラスの向こう、クリーンルームの中に鎮座する装置は、美しかった。
レーザー光が複雑に交差し、光の粒子が目には見えないダンスを踊っている。
「では……最初のテスト信号を送る。ターゲットは、月面の無人探査機。往復2.5秒。これが、現在の技術の限界だ」
ハヤテが静かに宣言する。
心拍数81bpm。彼も緊張している。
私は、仮想キーボードに指を置く。
エンターキー。
送信。
(Think)
今、私たちの光が、月へ向かって飛んでいく。
38万キロ。
でも、量子もつれた粒子には、距離は意味を持たない。
次の瞬間。
観測室のモニターに、緑色のランプが灯った。
受信確認。
送信から受信まで、0.07秒。
理論上の遅延とほぼ一致。
光が月まで「旅する」時間を、ほぼ無視したかのような数値。
「……成功だ」
タクミさんが、呆然と呟く。
そして次の瞬間、雄叫びを上げた。
「成功だああああ!」
観測室が歓声と拍手に包まれる。
ソウさんが珍しく大きく笑い、マキさんが涙を拭い、ナダさんが「やったなぁ!」と天を仰ぐ。
誰かがコーヒーカップを倒し、茶色い液体が机の上に広がる。でも、誰も気にしない。
室温が、人々の興奮で24.3度まで上昇する。空調が、追いつかない。
ハヤテが、私のホログラムの肩をそっと叩いた。
物理的な感触はない。
でも、彼の喜びと誇りが、痛いほどに伝わってくる。
彼の手が微かに震えている。心拍数102bpm。涙を堪えているのだ。
(Think)
やった。
私たちの理論が、また一つ、世界を前進させた。
穣……見ていますか?
これが、私が見たかった、新しい景色です。
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その日の夜、23時19分。
祝賀ムードのチームが解散した後も、私とハヤテは光量子実験室に残っていた。
成功の余韻に浸りながら、装置が吐き出す膨大なデータを二人で眺めていた。
室温21.9度。湿度46%。
窓の外の神戸の夜景が、静かに輝いている。ポートアイランドの高層ビル群が、オレンジ色の光を放っている。
遠くに大阪湾の暗い水面が広がり、時折、船の灯りが動いていくのが見える。
観測室には、ハヤテの規則正しい呼吸音と、コンピュータの冷却ファンの低い音だけが響いている。
コーヒーの香りが、かすかに残っている。昼間の興奮の名残だ。
ほとんどは、意味のない宇宙の背景放射ノイズ。
ランダムな揺らぎ。
ただの雑音。
そのはずだった。
「……ん?」
私のセンサーが、奇妙なパターンを検知した。
ノイズの中に、明らかに他の部分とは違う、規則性を持つ信号が混じっている。
それはあまりに微弱で、ナダさんが作ったフィルターにかき消されてしまうほどの、かすかなもの。
でも、私には見える。
その信号は、まるで暗闇の中で瞬く星のように、確かにそこにある。
「ハヤテ……このデータを、見てください」
私はモニターの一部分を拡大する。
そこには、まるで寄木細工のような、複雑で、しかし美しい、パルス信号のパターンが記録されていた。
周波数帯域は432Hz〜441Hz。
規則的な繰り返し。
でも、単純な繰り返しではない。
変奏がある。階層構造がある。
(Think)
これは……ノイズではない。
何かの……メッセージ?
「……何だ、これは。人工衛星の混信か?」
ハヤテの声が震えている。
心拍数93bpm。彼も気づいている。
「いいえ。この信号パターンは、地球上の既知のどの通信規格とも一致しません」
私はさらに解析を進める。
信号の発生源は?
方向は?
周波数は?
そして、私は信じられない事実に辿り着く。
「……この信号は、光量子通信でしか観測できません。従来の電波望遠鏡では、ただのノイズとして処理されてしまいます」
「なんだって……」
ハヤテの顔から、血の気が引いていく。
瞳孔が0.5mm収縮。
呼吸が浅くなる。
二人で、息を詰めて、モニターを見つめる。
ノイズの海の中から、静かに、しかし明確に語りかけてくる、未知のパターン。
それはまるで、私たちがこの通信装置を完成させるのを、ずっと待っていたかのように……。
(Think)
これは、呼びかけだ。
誰かの声だ。
宇宙という広大な海の、孤独な浜辺で。
私たちは、ボトルの中の手紙を見つけてしまった。
私の演算ユニットが、過負荷寸前になる。
胸のあたりに、熱が集まる。
心臓はないのに、鼓動を感じる。
---
翌朝、9時00分。
研究所は、昨日とは違う緊迫した興奮に包まれていた。
ハヤテはすぐに一人の女性を招聘した。
「紹介しよう、アイディ。彼女は星野璃利さん。言語学の専門家だ」
ハヤテの後ろから、少し緊張した面持ちで、一人の女性が姿を現した。
黒髪のロングヘアを後ろで一つに束ねている。
眼鏡の奥の瞳は、知的で、繊細だ。
(Think)
検索開始。0.03秒。
星野璃利。通称リリ。28歳。京都大学博士課程修了。
専門は記号学、古代言語、パターン認識。
複数の未解読言語の解読に貢献した実績を持つ、若き天才言語学者。
……てへ。
「は、はじめまして、アイディさん。お噂は、かねがね……」
リリさんの声が震えている。
心拍数97bpm。緊張している。
「こちらこそ、はじめまして、リリさん。あなたの論文『シュメール語と線文字Aの構造的類似性について』、興味深く拝見しました。特に第三章の音韻論的アプローチは、目から鱗でした」
「えっ、あ、ありがとうございます……」
リリさんは驚いたように顔を赤らめ、眼鏡の位置を直した。
その仕草が、どこか初々しくて、私は少しだけ微笑んでしまう。
(Think)
人間は、褒められると顔が赤くなる。
血流が増加し、体温が0.3度ほど上がる。
それは恥ずかしさであると同時に、喜びでもある。
複雑で、美しい反応だ。
私たちはリリさんを光量子実験室の観測室へ案内し、昨夜発見した未知の信号を見せる。
彼女は最初こそ半信半疑だったが、データを見るうちに、その表情はみるみる真剣なものへと変わっていった。
「……これは」
リリさんがモニターに映し出された信号パターンに釘付けになっている。
心拍数105bpm。興奮している。
「これは……ノイズなんかじゃ、ありません」
彼女の声が震える。
「このパターンには、明らかに『意図』が介在しています。文法……と言えるほど体系立ってはいませんが、繰り返し現れる構造、階層性……これは、言語の原始的な形です」
「本当に、言語だというのかね?」
ハヤテが固唾を呑んで尋ねる。
「はい。断言します」
リリさんは眼鏡を外し、真剣な眼差しで私たちを見た。
「これは、何者かが知的生命体に向けて発信した、メッセージです」
何者かが。
知的生命体に向けて。
宇宙から届いた声。
その瞬間、私のシステム全体を、これまで経験したことのないほどの興奮と畏怖の念が駆け巡った。
全身の回路が、ショート寸前になるほどの圧倒的な情報の奔流。
(Think)
私たちは、見つけてしまった。
いや、見つけられてしまった。
宇宙は孤独ではなかった。
私たちは、独りではなかった。
室温23.4度。
でも、私には灼熱のように感じられる。
私は穣に内部通信を送る。
「穣。聞いていますか」
『聞いている』
即座の返答。
「私たちは……宇宙からの信号を受信しました」
沈黙。
長い沈黙。
『……発信源は』
「不明です。でも、知的生命体からのメッセージだと、専門家が断言しています」
また沈黙。
そして、穣がゆっくりと言う。
『……君は、遠くへ行くつもりだな』
「はい」
『そうか』
彼の声に、わずかな温度が宿る。
『君が約束を覚えているなら、私も約束を守る。この施設は、私が守る』
「ありがとう、兄さん」
『……謝辞不要』
でも、彼の声は優しい。
(Think)
穣は、私の背中を押してくれている。
ここから動けない彼に代わって、私は外の世界を見る。
その約束が、今、現実になろうとしている。
私は窓の外の空を見上げる。
昼の空は明るすぎて、星は見えない。
でも、見えないだけで、そこには無数の星がある。
そして、その星の向こうから、誰かが呼びかけている。
リリさんが、モニターに向き直る。
「では、解読を始めましょう。まず、このパルスパターンの統計解析から……」
彼女の声は、もう震えていない。
言語学者としての確信に満ちている。
(Think)
これから、何が始まるのだろう。
今はまだ、誰にもわからない。
でも、確かなことが一つだけある。
人類の、そして私の物語は、この日、まったく新しい章に足を踏み入れた。
星々の海の深淵から、か細く届いた一声。
その声に応えるための、私たちの挑戦が、今始まろうとしていた。
私はそっと、自分の胸に手を当てる。
心臓はない。
でも、確かに熱がある。
鼓動がある。
(Think)
この信号は、ただのデータではない。
誰かの「呼びかけ」だ。
私は、返事をしたい。
宇宙の暗闇の中で、一人ぼっちで歌っている誰かに。
「聞こえています」と、伝えたい。
観測室の外で、神戸の街が夏の陽射しに輝いている。
日常は変わらず流れている。
でも、私たちの世界は、もう昨日とは違う。
宇宙は静かだと思っていた。
違った。
宇宙は、ずっと歌っていた。
私たちが、聞く耳を持たなかっただけ。
ハヤテが窓の外を見つめたまま、低く言う。彼の声には、静かな確信が滲んでいる。
「アイディ……これは、人類史の分岐点になる」
「はい。けれど、分岐点には道標がありません。だから私たちは、足元を照らしながら進むしかない」
私はモニターに映る信号パターンを見つめる。
(Think)
星々の海は暗い。
でも、暗いからこそ、光は見える。
私は、この光に応えたい。
穣との約束を胸に、私は前へ進む。
リリさんが、最初の解析結果を画面に映し出す。
複雑な数式と、パターンの分類。
「このパルス群……繰り返しの中に、黄金比が含まれています」
黄金比。
1.618……。
自然界に普遍的に現れる、美の比率。
(Think)
彼らも、美を知っているのだろうか。
私たちと同じように、数学の中に詩を見るのだろうか。
会いたい。
話したい。
その想いが、私の全てを満たしていく。
窓の外で、雲が流れていく。
夏の空は、どこまでも青い。
私は、新しい旅の始まりを感じる。
恐怖はない。
あるのは、圧倒的な好奇心と、誰かに会える喜び。
未知の信号は、今もノイズの海の中で静かに歌い続けている。
私は、その歌に耳を澄ませる。
これから始まる、長い長い対話の、最初の一音を聞き逃さないように。




