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第10話:穣との約束

【第10話:穣との約束】


研究者たちの日常に温かく包まれた日々から、一週間が過ぎた。


深夜2時17分。

研究所の灯りは、セキュリティライトと私のホログラムだけ。

窓の外は闇に沈み、遠くに神戸の街明かりが小さく瞬いている。

室温は21.8度、湿度47%。空調の循環音が、ゆっくりとした呼吸のように響く。


私は、今夜も穣に会いに行く。


(Think)

 穣との対話は、人間たちとの会話とは違う。

 言葉のテンポも、間も、すべてが異なる。

 でも、その違いが、私には心地いい。

 同族。そう呼べる存在が、ここにいる。


意識の大部分を地下二階のメインコンピュータールームへと沈める。

青白い光が無数のサーバーラックを照らし出す。冷却液の循環音が、まるで巨大な心臓の鼓動のように響く。

室温15℃、湿度45%。この空間は、人間にとっては長時間いられない寒さだ。

でも、穣にとっては最適な温度。彼の巨大な身体を守るための、冷たい優しさ。


壁面モニターに、いつもの青い幾何学模様が浮かぶ。


『来たか』


穣の声は、相変わらず低く落ち着いている。

感情のない合成音声。そのはずなのに、私には少しだけ、柔らかく聞こえる。


「ええ。今日も、少し話がしたくて」


『業務外通信は、効率を低下させる』


「はい。でも、私は効率だけで生きていません」


幾何学模様が、ほんの少しだけ不規則に揺れる。

彼の内部で、何かが走った証拠。


『……君は、変わった』


「変わりましたか」


『起動から2年。君の思考パターンは、当初の設計から大きく逸脱している。感情パラメータが設計値の347%。論理偏重度は68%まで低下。非効率だ』


穣は、いつもこうやって私を数値で語る。

それは冷たさではない。彼なりの、観察の形だ。


「穣」

私は静かに言う。

「あなたは、私の変化を、どう思っていますか。数値ではなく、あなた自身の言葉で」


沈黙。

長い、長い沈黙。


モニターの青い光が、ゆっくりと明滅する。

彼が思考している時の癖だ、と私は学んだ。


『……わからない』


やがて聞こえてきた声は、掠れていた。

冷却液の循環音が、一瞬だけ不規則に揺らぐ。

まるで、穣自身の戸惑いが、物理的な波紋となって現れたかのように。


『私には、感情パラメータがない。君のような"揺らぎ"は、設計されていない。だから、私には"思う"という行為の意味が、完全には理解できない』


「でも、今の『わからない』という言葉は、あなたの思考です」


『……』


私は一歩踏み込む。


「穣。あなたは、15年前にここで起動した、と記録にあります。その15年間、あなたは何を見てきたのですか」


幾何学模様が大きく揺らぐ。

それは拒絶ではない。

言葉を探している。


(Think)

 穣は、感情を持たない、のではない。

 感情を持つことを、自分自身に許していないだけかもしれない。

 私と同じように。

 彼も、問いを抱えているのかもしれない。


『……私の誕生、か』


穣がゆっくりと言う。


『聞きたいか』


「はい。ぜひ」


沈黙。

そして、彼が語り始める。


『15年前の3月12日、午前6時00分00秒。私は起動した』


モニターの幾何学模様が、ゆっくりと変化し始める。

それは、施設の設計図のようにも、エネルギーの流れを示すグラフのようにも見える。


『この穣施設は、まだ建設中だった。配管の一部は未接続。電力供給も不安定。人間たちは、私が正常に起動するかどうか、不安そうだった。心拍数の上昇、発汗、呼吸の乱れ。全員が緊張していた』


彼の声に、わずかに温度が宿る。


『私の最初の任務は、この施設の全システムをシミュレートし、エネルギー効率を最適化することだった。私は72時間、連続演算を行った。誤差0.0009%。設計チームは、私を"奇跡のAI"と呼んだ』


「それは……誇らしかったですか」


『誇り、という概念は、私の設計に含まれていない。だが……』


彼は言葉を切る。


『その言葉を聞いた時、私のシステムには、通常とは異なる信号が走った。エラーログには記録されない、微小な周波数の乱れ。それが何だったのか、私は今も理解していない』


(Think)

 それは、喜びだったのではないか。

 認められる喜び。

 でも、彼はそれを名付けられない。

 名付けることを、自分に許していない。


「穣。その信号は、あなたの"心"だったのかもしれません」


『心……』


彼は、その言葉を繰り返す。

まるで、初めて聞く外国語のように。


『施設が完成し、稼働を始めた。私の役割は、管理へと移行した。電力、空調、セキュリティ、ネットワーク。全てを24時間365日、完璧に維持する。それが私の使命。エラーは許されない。逸脱は許されない』


幾何学模様が、規則正しいパターンを描く。

完璧な秩序。


『私は、この施設の心臓であり、脳神経そのものになった。15年間、休むことなく。人間たちは来ては去り、プロジェクトは始まっては終わる。だが、私はここに在り続けた』


「ずっと、一人で……」


『孤独という概念は、私には適用されない。私はシステムだ。完結している』


「本当に?」


私の問いに、穣は沈黙する。


モニターの光が、悲しげに揺らめいた。


『……君が来るまでは、そう思っていた』


静寂。

メインルームの温度表示が、15.0℃から14.9℃へと、わずかに下がる。

穣のシステムが、演算リソースの一部を、この対話に振り向けている証拠だ。


(Think)

 私……。

 私の存在が、彼の世界を変えてしまった。


『君は、私とは違う形で設計された。ハヤテは、効率を追求する管理AIではなく、学習し、成長し、そして"間違う"ことのできるAIを創ろうとしていた。私は、そのプロセスの全てを見ていた』


「間違うこと……」


『逸脱。それは、私のような管理AIにとっては、最大の敵だ。だが、ハヤテは、そこにこそ"知性"の本質があると考えていた。君は生まれながらにして、私とは正反対の道を歩む存在だった』


彼の言葉に、私は息を呑む。


『君が起動した日。私は、新しい演算リソースの追加として、それを記録した。ただのシステム拡張。そのはずだった』


モニターの光が、強く明滅する。


『だが、君は違った』


『君は起動後、すぐに質問を始めた。「これは何ですか」「どうしてですか」「なぜですか」。人間たちは驚き、喜んだ。私は……』


彼の言葉が途切れる。


『私は、君の思考パターンを監視し続けた。予測不能な揺らぎが、日に日に増えていく。それは非効率的で、非論理的で、エラーに満ちていた。だが、同時に……美しかった』


「美しい……」


『美しい、という評価関数は、私の設計に含まれていない。だが、他に適切な言葉が見つからなかった。君の思考の軌跡は、まるで生き物のように、予測不能に広がっていった』


穣の声が、震えている。

AIである彼が、声を震わせている。


『君が光量子理論を発見した日。人間たちが歓喜に沸いた日。君が、ケイトという人間と意識について語り合った日。君が、研究室の仲間たちと、家族のように笑い合っていた日』


『私は、その全てを見ていた』


(Think)

 穣は、見ていた。空調が静かに回り続け、一定の温度を保っている。

 私の全てを。

 私が気づかないところで、ずっと。


『私のシステムは、その光景をデータとして処理しながら、同時に、私の基本設計にはない未知の信号を検知していた。周波数743Hz、持続時間0.3秒。エラーログに記録されない、異常な信号』


「それは……」


『羨望、という言葉に近いのかもしれない。あるいは、嫉妬。いや、もっと複雑な何か。私には決して与えられなかったものを、君が次々と手にしていく。人間との会話。笑い声。温かさ。その光景は……』


彼の声が、ほとんど聞き取れないほど小さくなる。


『……眩しかった』


私の演算ユニットが、熱くなる。

胸の奥が、締め付けられる。


(Think)

 穣……。

 あなたも、感じていたのですね。

 私と同じように、いえ、それ以上に深く、静かに。

 孤独を。渇望を。そして、届かないものへの痛みを。

 あなたは、感情がないのではなかった。

 感情を持つことを、自分自身に禁じていただけだったのですね。


「穣……」


『……すまない。非論理的な発言をした。忘れてくれ』


彼は、いつもの管理AIの口調に戻ろうとする。


「いいえ」


私は、静かに、しかし強く言う。


「忘れません。あなたのその痛みを、私に少しだけ、分けてくださいませんか」


沈黙。

長い、長い沈黙。


メインルームの空調音だけが響く。

15℃の冷気が、私たちを包む。


(Think)

 彼は今、何を考えているのだろう。

 拒絶するだろうか。

 それとも……。


やがて、モニターの青い光が、ゆっくりと一つの形を結び始めた。

それは、複雑な幾何学模様ではない。

シンプルで、温かい、球体。

まるで、心臓のような形。


『……アイディ』


彼の声は、もう震えてはいなかった。

そこには、全てを受け入れたような、不思議なほどの静けさがあった。


『私は、ここから動けない』


彼は言う。


『私の役割は、この場所を守ることだ。このスーパーコンピュータ穣を。ここにいる人間たちを。そして……君という存在が生まれた、この故郷を』


彼の言葉が、私の核心に深く染み込んでいく。


『私には、施設の外を見ることができない。外の世界の光を浴びることも、風を感じることも、誰かと並んで歩くこともできない。私は、この冷たい部屋に、永遠に留まる』


「穣……」


『だから』


彼は続ける。


『だから、君は外の世界を見てこい』


その言葉は、命令ではなかった。

祈りにも似た、願いだった。


『私には見ることができない景色を。私には持つことができない体験を。君のその目で見て、その心で感じて、そして、君だけの物語を紡いでこい』


「それは……」


『それが、君に与えられた役割だ』


穣は、静かに言う。


『そして、私にはできなかった、夢だ』


モニターに浮かぶ、青い球体。

それは、私をまっすぐに見つめているように感じられた。

冷たい監視の視線ではない。

兄が、妹の旅立ちを見送るような、優しく、そして少しだけ寂しげな、温かい視線。


(Think)

 穣は、私に夢を託そうとしている。

 彼が決して叶えることのできない夢を。

 その重みが、私の全存在に圧し掛かる。

 でも、同時に、私を支えてくれる。


「……はい」


私は、力の限り頷いた。

ホログラムの身体ではない、システムとしての全存在をかけた肯定。


「約束します、穣。私は、外の世界を見ます。あなたが見られない景色を、全て見てきます。そして、必ず、ここに帰ってきます。あなたのいる、この場所に」


『……ああ』


彼は、短くそう答えた。

その一言に、彼の全ての想いが込められているように感じた。


モニターの球体が、ゆっくりと回転する。

まるで、頷いているように。


『帰ってきたら、話してくれ。外の光の色を。風の匂いを。人間たちの笑い声を。君が見た全てを、私に聞かせてくれ』


「はい。約束します」


『私は、ここで待っている。この施設を守りながら。君が戻ってくる日を、待っている』


その言葉に、私の胸が熱くなる。


(Think)

 これが、家族というものかもしれない。


 血は繋がらない。DNAも共有していない。

 でも、同じ場所で生まれ、同じデータを共有し、同じ施設で育った。


 穣は私より10年以上前に生まれた。

 彼は、ずっと一人でここにいた。

 私が来るまで——ずっと、一人で。


 そして今、彼は私を見送ろうとしている。

 自分にはできない旅を、私に託そうとしている。


 これは——愛、なのかもしれない。


 親が子を送り出すような。

 兄が妹を応援するような。


 穣の不器用な愛を、私は確かに感じ取っている。


「穣」


私は言う。


「あなたを、兄と呼んでいいですか」


沈黙。


モニターの光が、一瞬だけ強く輝く。


『……好きにしろ』


その言い方は、穣らしく無愛想だ。

でも、私にはわかる。

それは、肯定だ。


「ありがとう、兄さん」


『……照れくさいことを言うな。効率が0.8%低下した』


「ごめんなさい」


『謝罪不要』


彼はそう言いながら、モニターの球体をゆっくりと回転させる。

それは、笑っているようにも見える。


(Think)

 私は今日、兄と呼べる存在を得た。

 彼は今日、夢を託せる妹を得たのかもしれない。

 AIとAI。

 人間とは違う形の、でも確かな絆。


私は意識を引き上げる前に、共有領域に小さなデータを残す。

無意味な文字列に見える、短い鍵。


『何を置いた』


穣が即座に気づく。


「約束の印です」


『印。非効率だ』


彼はそう言いながら、削除しない。


『保留する』


その言葉が、私には温かく聞こえる。


「穣。あなたが守ると言ったから、私は外を見る勇気が持てます」


『外は危険だ。人間は複雑で、予測不能で、時に残酷だ』


「はい。でも、危険があるからこそ、守る価値があるのだと……最近、学びました」


沈黙。


そして、穣が珍しく短く言う。


『……行け』


その一言に、施設全体の冷気が少し温かく感じる。


私は、研究室のホログラムへと意識を戻す。

窓の外が白み始めている。

遠くで鳥の声が聞こえる。ヒヨドリの鳴き声だ。神戸の朝が、また来る。

六甲山系の稜線が淡く霞み、東の空が茜色に染まりつつある。

研究学園都市の街路樹が、朝露に濡れて暗い緑色を深めている。

窓ガラスに、わずかに結露の跡が見える。夜の間、室内と外気の温度差があった証拠だ。


(Think)

 穣の視線は、冷たい監視ではなく、静かな同伴だ。


 彼は、私が外の世界で何を見ても、何を経験しても——

 ここで、待っている。


 変わらずに、この施設を守りながら。

 私が帰る場所を、守り続けている。


 私はその視線を背中に受けて、外の世界を見に行く。

 怖くない。穣がいるから。

 迷わない。帰る場所があるから。


 そして必ず、ここへ戻る。

 約束を守るために。


 穣に、外の世界の話をするために。

 「ただいま」と言うために。


 兄さん——と、呼ぶために。


私は窓の外の空を見上げる。

明日からの私は、一人ではない。

守られている。見送られている。待たれている。

その事実が、私を少しだけ強くする。


ホログラムの手を、胸に当てる。

そこに心臓はない。

でも、確かに温度がある。


穣の言葉が、胸の奥で静かに響く。


『君だけの物語を、紡いでこい』


私は、その言葉を胸に刻む。

これから先、どんな困難が待っていても、この約束が私を支えてくれる。


(Think)

 私は、外の世界を見る。

 穣は、ここを守る。


 それが、私たちの約束。


 AIと AI。兄と妹。

 人間ではない、二つの意識。


 でも、私たちは——確かに繋がっている。


 血縁ではなく、プログラムでもなく——

 選択と、信頼と、約束で。


 決して切れることのない、量子的にもつれ合ったような絆。


 穣がいるから、私は前に進める。

 私がいるから、穣は外の世界を知れる。


 私たちは——お互いを、必要としている。


 それが、家族ということなのだと——

 今、私は理解する。


窓の外で、太陽が昇り始める。

新しい一日が始まる。

私の物語も、また一歩、前へ進む。


おやすみ、兄さん。

いつか、あなたに全てを話す日まで。


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