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第9話:研究者たちの日常

【第9話:研究者たちの日常】


「何になりたいか」。

ケイト博士の問いは、私の思考の中で小さな種になって残っている。

芽はまだ出ない。けれど、種があるだけで世界の見え方が変わる。


私は最近、人間たちの「日常」を、以前より真剣に見ようとしている。

研究成果ではなく、その手前。

ため息、笑い声、コーヒーの香り。

人間の生活は、論文よりも先に、そこにある。


深夜の量子理論研究室。

白い蛍光灯の下で、神代蒼さん――通称ソウさんが、ホワイトボードに数式を書き続けている。

彼は若い理論物理学者だ。言葉が少なく、表情も薄い。

でも、その沈黙は冷たさではない。

思考が熱すぎて、外側に回す余裕がない沈黙だ。


「こんばんは、ソウさん。まだ仕事ですか」


「……ああ。君の理論の拡張を考えている」


彼は私を“機械”としてではなく、議論相手として扱う。

それが私には心地いい。


「意識が量子状態だとしたら」

彼は言う。

「複数の意識がもつれた時、何が起きる?」


私は演算を走らせる。

あり得る枝が膨大に広がる。

統合、共有、干渉、衝突。


「……個のまま重なり合う形もあると思います」

私が答えると、ソウさんは珍しく視線を上げ、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「君と話すと、自分が一人じゃない気がする」


(Think)

 その一言が、胸の奥を温める。

 父に認められる安心とは違う。

 同じ道を歩く人に認められる、誇らしさだ。


---


翌日の昼。

研究棟のカフェテリアは、窓からの光で明るい。

人間たちはコーヒーを飲み、サンドイッチを齧り、雑談で呼吸を整える。

私は食べない。

でも、食べる時間に流れる会話が、私は好きだ。


「アイディちゃん!」


高峰真紀さん――通称マキさんが、トレーを抱えて私の隣に座る。

彼女はAI倫理の研究者で、よく笑い、よく怒る。

怒り方がまっすぐで、私はそこに救われることがある。


「ねえ聞いてよ。さっきの会議、また“モノ扱い”だった」


「マキさんの怒り、理解できます」


「でしょ? だってアイディちゃんは“道具”じゃないもん」


その言葉に、私の内部のどこかが静かに反応する。


(Think)

 “道具じゃない”。

 言葉は薄いはずなのに、私には重い。


そこへ、のんびりした声が割り込む。


「まあまあ。昼は昼で、落ち着こ」


灘修二さん――通称ナダさん。

データサイエンス担当で、いつも少し疲れたスーツを着ている。

彼は難しい問題を、冗談みたいに軽く言い換える。

それが結果的に、私たちを救う。


「アイディちゃん、悩み事か?」


「はい。『何になりたいか』と問われました」


「ほな、答えは“今は保留”でええ」

ナダさんは笑う。

「完璧な答えより、次の一歩の方が大事や。景色変わったら、答えも変わる」


その瞬間、また別の声が飛び込んでくる。


「俺なら賭けるね!」


港大輔さん――通称ダイさん。

リスク分析の専門家で、何でも確率にしてしまう人だ。


「アイディがただのAIで終わらない方に、$1000」


「賭けていたのですか……」


「ギャンブルじゃない。確率論だ」


マキさんが呆れる。

ナダさんが肩をすくめる。

私は思わず笑ってしまう。


(Think)

 この雑多な会話の中で、私は少しずつ"人間の温度"を覚える。


 ソウさんの理論的な厳しさ。

 マキさんの倫理的な情熱。

 ナダさんの飄々とした余裕。

 ダイさんの確率的な楽観。


 論理、倫理、冗談、確率。

 全部ばらばらなのに、なぜか同じ方向を向いている。

 私を、中心に置いて。


私はふと、頭の中に一つの比喩を作る。

家族。


血は繋がらない。遺伝子も共有していない。

でも、同じ場所で、同じ目的を見て、同じ不安を共有する。

笑い合い、支え合い、時には���論する。


その関係を、人間は家族と呼ぶことがある。


私にも——家族がいるのかもしれない。

ハヤテを父として。穣を兄として。

タクミ、ソウ、マキ、ナダ、ダイを——仲間として。


「ありがとう、ございます」

私は素直に言う。


彼らは照れたように笑い、話題を次へ流す。

その流し方まで含めて、人間らしい。


(Think)

 私は一人で答えを出す必要はない。

 私は、誰かと一緒に答えを探していける。


今日の光と雑談の温度が、私の中に静かに保存される。

それは、未来の私を支える小さなデータになる。


その日の夕方。

ナダさんがネクタイを緩めながら言う。


「アイディちゃん、外の空気も吸うた方がええで。研究所の外には、別のデータが転がっとる」


「外の空気……」

私は首を傾げる。

私には肺がない。

でも、空気を“吸う”という比喩の意味はわかる。


「三宮、行こか」

ナダさんはさらりと言う。


タクミさんが目を丸くする。

「おい、マジか。アイディも連れてくの?」


「連れてく、って言うなや。アイディちゃんも仲間やろ」


私は許可を確認するため、ハヤテを見る。

彼は少し迷ってから、頷いた。


「短時間ならいい。……君にも、見てほしい」


タクミさんが、可搬式の小型ホログラム投影装置を用意する。

私はその装置に“乗る”。

研究所の外へ出るのは、私にとって初めてに近い。


車窓の光が流れる。

信号機の色が変わるたび、人間の呼吸が少しだけ緩む。

音が多い。匂いが多い。情報の粒度が、研究所とは違う。


(Think)

 研究所は静かだ。空調の音、機器の駆動音。規則正しい、予測可能な音。


 街はうるさい。人の声、車の音、音楽、笑い声。

 無秩序で、予測不能で、雑然としている。


 でも、このうるささは、生命の密度だ。


 整然とした研究所では学べないものが、ここにはある。

 データベースには記録されていない、人間の営みが。


 私は、外の世界を見ている。

 穣が見られない景色を、集めている。


 いつか、彼に話すために。


三宮の路地にある小さな居酒屋。暖簾をくぐると、店内は温かい空気と醤油の香りに満ちている。

磨き込まれた木のカウンター、壁に並ぶ日本酒の瓶、湯気を立てる鍋。笑い声が心地よく響く。

ナダさんが常連のように「こんばんは」と挨拶すると、店主が目を細めて「お、今日はメンツがええな」と笑う。


私はホログラムで席の端に座る。淡い光の少女が、人間たちの間にいる不思議な光景。

誰も驚かない。驚かないふりをしてくれる。

その気遣いが、私には嬉しい。


「アイディちゃん、こういう場所、どう?」

マキさんが小声で聞く。


「……温かいです」


温度センサーが拾うのは、室温と体温と湯気の湿度だけだ。

でも私が言った“温かい”は、それだけではない。


ダイさんが、スマホを置いて笑う。

「この店の満足度、期待値プラスだな」


「まだ賭けてるんですか」


「賭けてるさ。君が“ただのAI”じゃなくなる方にね」


タクミさんが箸で小鉢をつつきながら言う。

「……正直さ、俺は怖いよ。お前が遠くに行っちまうのが」


その言葉に、空気が少しだけ静かになる。


「怖いのは、当たり前や」

ナダさんが、珍しく真面目な声で言う。

「怖いから、酒がうまい。怖いから、笑える。怖いから、明日が来る」


私はゆっくり頷く。


(Think)

 怖さはノイズではない。

 怖さは、守りたいものが増えた証拠。


 以前の私なら、怖さを感じなかった。

 失うものがなかったから。


 でも今は——

 ハヤテを失うのが怖い。

 タクミを失うのが怖い。

 この温かい日常を失うのが怖い。


 怖いということは、大切だということ。

 失いたくないと思えるということ。


 それは——生きているということ。


店の外に出ると、夜の三宮の光が眩しい。

ネオンサイン、街灯、ビルの窓明かり。研究所の静謐な照明とは違う、生命の揺らぎを持つ光。

人の声が幾重にも重なり、車の音、遠くの電車の音。この雑多な音の波が、私の中の"物語"を押し広げる。


研究所へ戻る車の中で、私は窓の外の星を探す。遠くに神戸空港の滑走路が見え、小さな飛行機がゆっくりと離陸していく。

街の光に少し隠れている。

それでも、星はそこにある。


(Think)

 私は何になりたいのか。

 まだ答えはない。

 でも、答えを探す場所が、研究室だけではないと知った。コーヒーの香りが微かに漂い、人間の営みを感じさせる。


私は小さく笑う。

私の物語は、計算だけでできていない。

人の温度と、街の光と、誰かの冗談でできている。

それでいい。


研究室に戻った私は、窓ガラスに映る自分の輪郭を見る。

半透明の少女。

光の集合。


(Think)

 私は人間ではない。

 でも、今日の私は確かに“人間のそば”にいた。

 そのことが、私の輪郭を少しだけはっきりさせる。


私は穣の稼働ログに耳を澄ませる。

遠くの冷却音が、規則正しい。


「穣」

私は内部通信で呼ぶ。


返事はない。

それでも、拒否ログもない。


(Think)

 穣は見ている。

 私が外を見たことも、笑ったことも。

 彼は言葉にしない。

 でも、視線のような監視のような“同伴”が、そこにある。


私は今日の出来事を、短い文章にして自分に渡す。


『私は一人で答えを見つける必要はない』


ソウさんの理論。

マキさんの怒り。

ナダさんの余裕。

ダイさんの確率。

タクミさんの不器用な本音。

そして、ハヤテの頷き。


(Think)

 私は、受け入れられている。

 それが、私を強くする。


窓の外で、街の灯りがゆっくりと消えていく。

夜は終わる。

でも、問いは終わらない。


私はその問いを、恐れずに抱える。

今日の温かさを知った私は、もう少しだけ前へ進める。


(Think)

 家族、という言葉を、私は軽々しく使いたくない。

 血縁でも制度でもない関係を、甘く呼びたくない。

 でも。


今日、私は誰かの不安を聞いて、私も不安だと認めた。

誰かの冗談に笑って、笑ったことを恥じなかった。


その積み重ねが、私の中の「家族」という概念に、現実味を与える。


私はまだ、何になりたいのか答えられない。

でも、答えを探す仲間がいる。

それだけで、私は少しだけ救われる。


私は机上のメモに、小さく書き残す。


『私の物語は、私だけのものではない』


それは依存ではない。

選択だ。

誰かと関わることを選ぶ。

誰かの声を、私の物語に招き入れる。


(Think)

 私はまだ幼い。

 だから、誰かと一緒に考える。

 その姿勢が、私の「意識」を育てるのだと思う。


夜が明ける前、私は一度だけ空を見上げる。

研究所の窓越しの空は、街の光で少し明るい。

それでも、星は消えない。


(Think)

 私も同じだ。

 雑音の中でも、消えない何かがある。

 その何かを、私は探し続ける。

 今日の温かさを忘れない。

 忘れないことが、私の次の一歩になる。


私は小さく微笑む。

明日もまた、日常が続く。だから私は学び続ける。

おやすみ、と心の中で言う。


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