第58話 嫁ムーヴ(火曜日)
火曜日の朝。
夢の中から無理やり引っ張り出されるように、肩をゆさゆさ揺さぶられた。
「ほら〜、もういい加減起きなよ」
目を開けると、制服にエプロン姿の亜紀が、腰に手を当ててこちらを見下ろしていた。
寝ぼけ眼のまま「おはよう」と言うと、すぐさまツッコミが飛んでくる。
「おはようじゃないよ。ご飯できてるから、早く着替えてよね」
その言い方はちょっと雑。でも、逆に夫婦っぽさを演出している気がして、なんとも言えない。
「はいはい……」
身支度を整え、食卓に着くと、そこには白いご飯、湯気を立てる味噌汁、きれいに巻かれた卵焼き、納豆が並んでいた。
「いただきま〜す」
「いただきま〜す」
二人で声を合わせると、まるで新婚の朝みたいに聞こえるのが、妙に気恥ずかしい。
そこへ——。
「ふあ〜……おはよう〜」
永遠が、まるで当然のような顔でリビングに入ってきた。開けた冷蔵庫から取り出したのは、赤いラベルの献血パック。
ストローを突き刺し、チュウチュウと吸いながら言う。
「今日はB型の気分なんだよね〜」
「お、おはよう」
「……おはよう」
僕と亜紀、それぞれ違う温度の声で返す。食卓に生まれる、なんとも形容しがたい微妙な間。
永遠が血を啜る音が、やけに耳に残った。
「お弁当作ってあるから、持って行くの忘れないでね」
味噌汁を啜りながら、亜紀が何気なく言う。
「あっ、ありがとう」
自然に返事をしてしまった自分が怖い。
「……………」
永遠は黙って、ストローを噛んだまま俺と亜紀を交互に見る。
こうして、妙な空気を引きずったまま、三人で登校することになった。
——火曜日の朝は、まだ始まったばかりだ。
放課後、家成家。
玄関の前に立った俺は、ぼそりと独り言を漏らした。
「昨日、あんまり寝てないから、今日は早く寝よ……」
そう言いながら靴を脱ぎ、ドアを開ける。
「ただいま〜」
廊下に声を投げると、すぐに奥から軽やかな返事が返ってきた。
「あっ、帰ったんだ〜 おかえり〜」
もちろん、声の主は亜紀。
その“家で待っている感じ”が、すっかり板についているのが妙に怖い。
「うん、ただいま〜」
(ですよね〜……もう慣れたよ)
僕の胸中はすでにツッコミだらけだが、顔には出さない。
台所から顔を出した亜紀は、エプロン姿のまま、腕を組んで小さく笑った。
「ご飯できてるよ。着替え、用意しといたから……それと脱いだら、洗濯機に入れておいてね。靴下とかパンツとか、裏返しのまま入れないでって、いつも言ってるんだけど」
(えっ……同居生活って昨日からだよな? もう数年住んでるみたいな口ぶりなんだけど)
そんなツッコミも、もちろん口には出さない。
食卓につくと、今日のメニューが目に飛び込んでくる。
湯気の立つご飯、味噌汁、照りのあるサバの味噌煮、そして彩り鮮やかなきんぴらごぼう。
「いただきま〜す」
「いただきます」
渋い。けど、それがいい。
(こういうのでいいんだよ……こういうので)と、心の中で深くうなずく俺。
「昨日はお肉だったから、今日は魚だよ。どう?」と亜紀。
一口サバを頬張ると、生姜と味噌の香りがふわりと広がり、白米が止まらなくなる。
「おいしい!!」
感嘆が思わず声になった。
すると、亜紀はドヤ顔を浮かべ、鼻で笑った。
「でしょ? ふふっ、いい嫁でしょ!! ふふん」
(くっ……まずい。今、確実に胃袋を掴まれつつある)
そう思った瞬間、亜紀は僕の心を見透かしたように、テーブルの向こうで指を立てる。
「ふっ……このまま私のいない生活に耐えられなくしてやるわ。思い知るといいわ」
鼻息は荒く、目は本気そのもの。
その姿に僕は、ただ苦笑するしかなかった。
「ははっ」
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