第51話 96時間
一人が永遠の作った“お弁当”を食べた次の日――。
教室にはいつもの姿がなかった。
隣の席にあるはずの鞄も、彼の声も、何ひとつ。空っぽの椅子が、やけに大きく見える。
「……いない」
小さく呟いた亜紀の胸の奥に、ざわりと黒い影が差し込んだ。
――昨日、澪が言った言葉が耳の奥で繰り返される。
『亜紀、あんたはね。彼の中のサマエルを愛しているだけ。今はない彼の幻影を追ってるだけ。一人のこと、何もわかってない。“今の彼”を見てないんだ』
「……そんなことない」
否定しようとする声は弱々しく、そして揺れていた。
机の下でスマホを開き、RINEを送る。
――『今日、休んでるの?大丈夫?』
だが返事は来ない。
既読すらつかないまま、画面は沈黙を続ける。
胸に冷たい針が突き立つ。
これはただの風邪や気分じゃない。なにか、もっと良くないことが――。
昼休み。
「あんたさ〜」亜紀は永遠の机に身を乗り出す。
「一人がなんで休んだか、知ってる?」
永遠は顔を上げる。
「知らないわね。昨日あんな調子だったし、気分でも悪くて休んでるんじゃない? 放課後、家に行ってみるわ」
「ふーん……う、うん。昨日って――!!」
言いかけた瞬間、亜紀の頭に閃光のような直感が走った。
血の気が引く。手のひらが汗ばむ。
「……あっ、もしかして!!」
椅子が大きな音を立てて倒れ、亜紀は立ち上がった。
次の瞬間には、教室のドアを蹴るように開けて走り出していた。
永遠は唖然としたまま
「え……なに? どうしたんだろ……」
呟きは虚しく教室に溶けた。
――その後姿を追うように、ざわめく心臓の鼓動だけが、亜紀の胸を叩き続けていた。
彼女の中で膨れ上がる確信――
「何かが、一人に起きている」
止められない焦燥感に突き動かされ、亜紀は走り続けた。
二時間前――。
「せ、先生……昨日の肉が悪かったのか、お腹の調子が……」
一人は顔面蒼白で、みぞおちを押さえていた。
「ふむ? どんな肉だ?」
「紫色の……炭みたいな煙を吐く肉です……」
「……それ、食べ物か?」
呆れる間もなく、目の前には白衣姿の女医――獅堂狂華。
世間では「医術の悪魔」ペスティア・アルケミラと呼ばれる女である。
「うーん、じゃあ診察だ。これでチェック!」
彼女は胸ポケットから聴診器を取り出すと、なぜか自分の額にペタリ。
「……いや、なんで額に?」
「ここに当てると脳波が共鳴して患者の状態がわかるのだ!」
「嘘ですよね!?」
ツッコミも虚しく、彼女はすでに手袋を装着。
「じゃあちょっと失礼」
そう言うや否や――ズブズブズブッ。
「ぎゃああああああ!? 手ぇ沈んでる!? 僕の腹に沈んでる!!」
「おお〜これは……腸内が芸術的に荒れている! いやぁ実に美しい腐敗だ!」
「美しいって言わないで!」
満面の笑みで手を抜いた彼女は、注射器を二本構えた。
「さぁ治療だ! 一発じゃ足りん! 二本だ! ふはははは!」
「テンション上がりすぎです先生ぇ!」
ブスッ。一本目。
「これは食あたり用! すぐ効くぞ!」
「ありがとうございます……」
ブスッ。二本目。
「これは……なんですか?」
「……ふふ、睡眠薬だよ」
「え、ちょ……えええ……」
意識が闇に沈む一人。耳に残ったのは、ペスティアの狂気じみた笑い声だった。
目を開ければ――知らない天井。
LEDのライトが冷たく照らし、周囲には不気味な計器。
そして自分は、手足も首も胴も縛り付けられていた。
「な、なんで!?」
「おはよう。もう少し寝ていればよかったのに」
現れたのはペストマスクを被ったペスティア。
メスを片手に、楽しげに一人へ近づいてくる。
「先生、もうお腹治りました! すっかり元気です! 解放してください!」
「それはそれは、良かったな。うんうん」
にこやかに頭を撫でながら――その手はいやらしく身体をなぞる。
「じゃあ、解剖の時間だ」
「いやいやいやいや!? なんでそうなるんですか!? 治ったんですよ!?」
「治ったからこそ切りたいのだ! 健康な臓器の方が美しい! ひっひっひ!」
「理屈が狂ってるぅぅぅ!」
迫るメス。迫る狂気。
「先生お願い! やめてください!」
「お願いは逆効果だよ……全部、任せなさい。すぐ終わるから……ひひひひ!」
ペストマスクの奥の瞳は、完全にイっていた。
――その時。
ドガァッ!!
手術室の扉が吹き飛ぶ。
そこに立つのは、亜紀。
「サマエル!」
「誰だ貴様! 私の研究を邪魔する気かぁ!」
叫ぶペスティア。だが次の瞬間、亜紀の拳が彼女の顔面を直撃。
ズドンッ!
医術の悪魔は壁に叩きつけられ、そのまま白目を剥いて気絶した。
「危ないところだったわね、一人くん」
「……あ、亜紀ちゃん……君、いったい何者なんだ……?」
怯えと安堵の入り混じった声が、手術室に響いた。
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