第50話 ローン・サバイバー
前方に広がる光景を、アグラットの瞳はぼんやりと眺めていた。
大地は裂け、空は血のように赤く染まっている。
遠くで落ちる雷撃と噴き上がる業火が交差するたび、世界そのものが呼吸を止めるように揺れた。
「もう勝ち目はない」──誰が見ても、そう映る戦場だった。
無数の軍勢が押し寄せ、地を這う死の匂いと、鉄と硝煙の味が鼻腔を刺す。
兵たちの叫び、甲冑がぶつかる音、斬鉄の金属音。
視界に映るものすべてが既に終焉のアクセスを刻んでいる。
その上空に、四人の女がふわりと浮かんでいた。
薄い布が風になびき、戦場の地獄を他所にするように穏やかな顔立ちで。
宙に舞う姿は、どうしようもなく優雅で、しかしその言葉は冷たかった。
「まあ、楽しかったしね。ここでみんなと死ぬのもいいかもね。」
アグラットは微笑んだ。──死に赴くにふさわしい冗談だと思ったから。
「一人くらい、サマエルのところに行ってさ、いっしょに死んでやりなよ」
金髪ツインテールのリリスは鼻で笑う。妖艶さの縁に皮肉が宿っている。
「そうそう なんだかんで かまってちゃん だもん。」
黒髪ロングのナアマは楽しげな毒を含ませ、言葉を投げる。
「アグラット あんた行きなよ。一応、私らの頭なんだから。」
青い髪のエイシェトは、冷静に事態を見渡しながら、そう告げる。
女たちの声はやわらかく、無慈悲だった。
アグラットはその調子に応えるように肩をすくめる――ああ、ここで死んでも構わない。
そう、ほんの一瞬、彼女は思った。
だが、その「構わない」は、諦観と諦念の混ざった薄い膜であり、中身はもっと濃厚な別の感情に満ちていた。
「私たち、お互い牽制し合ってたけど、それはそれで、楽しかった。いいよ。サマエルの死に水取るの、あんたに任せる。」
エイシェトの言葉は、優しい諦観のようにも聞こえた。
ナアマがぽつりと言った。
「でもさ、私らのこと゛神聖娼婦゛って、非道くない?サマエルしか知らないのに」
リリスが鼻先で吹き出す。
「だね。来世でそれ、撤回しようよ。」
──その先は、地獄だった。戦場は既に地を這う業火の楽団と化し、叫びと崩落のシンフォニーを奏でる。
阿鼻叫喚、血しぶき、仲間が地に伏し、敵が堆く積み上がった。
この光景は、映画にも小説にも収まらない現実だった。アグラットは刃を握りしめ、体の奥に渦巻く冷たい何かを抑えた。
だが、気づけば彼女は生け捕りになっていた。足は鎖に繋がれ、視界は遠く、地の匂いは腐臭に混じる。
衝撃と熱と、何より自分がまだここにいることの不条理が胸を締め上げる。
──そして場面はスイッチする。高層ビルの夜景でも、戦場の轟音でもない、
殺風景なマンションのリビング。
テレビは淡く点いているだけで、部屋は何も飾られていない。
そこに並ぶのは、ただ数点の装飾品だけだった。
腕輪、チョーカー、リング。光を受けて微かに揺れるそれらは、かつての彼女のあらゆる愛と誓約の残滓のように見えた。
彼女はグラスに焼酎を注ぎ、指先で輪郭をなぞる。
冷たい酒は喉を通り抜け、胸の奥に小さな火種を灯す。
目の前に置かれた装身具は、義妹たちのものだった。かつて共に笑った者たち、今はもう居ない者たち——サマエルの妻だった三人の形見。
「リリス、ナアマ、エイシェト⋯あんたたちの仇は…必ず取るから…」
独り言のように呟く声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
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