第47話 酒と泪と男と女
ここは、裏路地にひっそりと灯りをともすスナック──「魔女の大鍋」。
紫煙のゆらめきと、アンティークなシャンデリアが落とす柔らかな光。
その奥、カウンターにひとり、赤髪の女がグラスを傾けていた。
「ママ、もう一杯。ロックで」
差し出された細い指に、どこか諦めの色がにじむ。
「イゾルデ……もうそろそろ飲むのやめたらどう?」
グラスを拭いていた巨漢のママ──アラディアは、ため息を混じらせる。
「いいの! 飲みたいの! お金ならあるんだから」
どこか子どものように駄々をこねる声。
しかし、その眼差しは遠く、悲しみの奥底を映していた。
「これで最後にしときなさいよ」
アラディアはやれやれと肩をすくめ、琥珀色の液体を氷の上に落とす。
「いいのよ……もう、好きなものを飲めるのも、あと少しなんだから」
イゾルデは呟き、グラスを見つめる。その声音は、まるで夜の底に沈んでいくように重かった。
──チリン。
ドアベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃ〜い」
明るく声をかけるアラディア。
しかし、次の瞬間、彼女の顔はきゅっと曇る。
「……あら、珍しいお客さまね。ひさしぶり。飲みに来たってわけじゃなさそうだけど」
ドアの向こうから現れたのは、プラチナブロンドの可憐な少女。
夜の闇に映えるその姿は、まるで月の化身のようだった。
「そんなことないわ。奥に友達がいるから……いっしょに飲もうと思って」
少女──アグラットが微笑む。
だが、その奥に隠された何かを、アラディアは敏感に嗅ぎ取っていた。
「アグラット。この店でトラブルはごめんだよ。いい?」
「そんなことするわけないでしょ。……それに、アラディア。少しは“魔女の女王”である私に敬意を払いなさいな」
「はいはい」
アラディアは肩をすくめ、あえて軽口を叩く。
「どこでも座って。飲み物は何にする?」
「芋焼酎ロック。『魔王』か『天使の誘惑』……なければ「白波」でいいわ。あと、もつ煮込みを、あてにお願い」
「はいよ、『天使の誘惑』ならある。……もつ煮込みもね」
アラディアの声がカウンターに溶ける。
紫煙とネオンの残照のなか、赤髪の女──イゾルデは、グラスを握りしめたまま、堰を切ったように泣き崩れていた。
「うぐっ……うぐっ……なんでよ……なんでなのよ……」
肩を震わせ、涙を氷の溶けかかった琥珀色に落とす。
その泣き声は、狭い店内に、やけに大きく響いていた。
その横から、柔らかくも妙に甘い声がする。
「わかるわよ、その気持ち……悔しいよね。怖いよね」
イゾルデは、反射的に顔を上げる。
「……あんたに何がわかるっていうのよ! 適当なこと言わないで!」
視線の先、隣に立っていたのは、プラチナブロンドの可憐な女──亜紀だった。
その女は、にこりと微笑みながら、首を傾ける。そして、白い指先で自らの襟をずらし、首筋をさらす。
そこには、黒く焼きつけられた契約紋が……。
「でねっ、私、騙されたんだよ。『いい話がある』って呼び出されて……そしたらアイツが、『勇者の代わりに戦え』って。……そんなの、ある?」
イゾルデは、口元に笑みを貼りつけたまま、苦い言葉を投げる。
「……」
イゾルデの涙は止まらなかった。
「うん、うん……わかるよ。私もコレだもん」
亜紀はもう一度、首筋を傾けて契約紋を見せる。
その仕草は、あえて見せびらかすように、艶やかで挑発的だった。
「アイツらさ、汚いんだ。ただ戦力を温存したいだけなんだ……!」
「うぐっ……うぐっ……」
イゾルデは顔を両手で覆い、さらに声を詰まらせる。
亜紀はすかさず寄り添うように腰掛け、背中にそっと手を添えた。
「辛いよね……悔しいよね……ほんと、ひどい話さ。私も同じ目に遭ってる」
その声音は、慰めるようでいて、どこか計算高い。
イゾルデの心が弱っている隙間に、するりと入り込むような調子だった。
「イゾちゃんはさ……私と同じで、不器用なんだよ。だから、貧乏くじばっかり引いてるのさ」
「亜紀ちゃん……私……どうしたらいいの?」
泣き腫らした目で、イゾルデはすがるように問いかける。
亜紀は一瞬、意味深な沈黙を置いた。
その間合いは、獲物をじらす猫のように。
そして、グラスをゆっくりと傾け、唇を濡らしてから、甘やかに囁いた。
「……手はあるよ。イゾちゃん次第だけど、ね」
彼女の瞳は、夜の闇よりも濃く、そして妖しく光っていた。
スナックのスピーカーから、河島英五の「酒と泪と男と女」が流れはじめる。
その歌声は、ふたりの運命をより深く絡め取るかのように、店の空気を染めていった──。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。
今後もよろしくお願いします!