閑話休題 澪との馴れ初め
今から一年と少し前――。
曇り空の午後、映画研究会の部室は静まり返っていた。
古びたソファと、積み上げられたDVDの山。窓際には埃をかぶったフィルムカメラ。活動しているのか幽霊部なのか分からないその空間で、彼女――白雪澪は脚を組み、紅茶を片手に新入生を待っていた。
「私が、映画研究会の部長の白雪 澪だ。……では、自己紹介してくれ」
ソファに背を預けたまま、少しぞんざいに声をかける。
入部希望者の顔を見ても、すぐに心を閉じるのが彼女の癖だった。
――どうせ続かない。
毎年、数人は物珍しさで顔を出す。けれど数週間もすれば姿を消す。
結局、残るのは自分ひとり。そんな繰り返しに、澪はもう慣れていた。
目の前の少年が口を開いた。
「一年A組、家成一人です。映画はなんでも観ます。最近観たのは『ジャスティスリーグ』のザック・スナイダー版と『ダンケルク』です。クリストファー・ノーランが好きです。マーベルよりは……DC派ですね」
淡々とした自己紹介。
(……ああ、やっぱりね)
内心でため息をつく。こういう“硬派ぶった新入生”は毎年一人はいる。熱があるのは最初だけ。やがて来なくなる。彼女のルーティンを乱す存在は、正直ありがたくなかった。
――そう思った、その時だった。
「あと……アンパンマンも好きなんです。子供っぽいと思われるかもしれませんけど……泣ける話が多くて」
澪の心臓が跳ねた。
思わず紅茶のカップを置き、身を乗り出す。
「……それは、どの作品だ? どれを観たんだ?」
声に抑えきれない熱がこもる。
驚いたように一人が答える。
「えっ……えっと、一番好きなのは『いのちの星のドーリィ』です。……やっぱり子供っぽいですか?」
その瞬間、澪の胸の奥で何かが爆ぜた。
(そうだ……そうなんだよ。やっと、わかるやつが来た!)
「じゃあ、その映画のどこがいいと思う?」
気づけば言葉が食い気味に飛び出していた。
一人は少し考え込んでから、真っ直ぐに答える。
「“命”がテーマだと思うんです。『なんのために生きるのか』……それを考えさせてくれる映画だって」
――その答えを聞いた瞬間。
澪の目が見開かれ、全身を駆け抜けるような電流が走った。
(……そうだ。それだ。それこそが!)
誰にも理解されなかった。
「子供向け」で片づけられ、笑われ、語る相手もいない。孤独の中で胸にしまい込んでいた情熱。
それを、目の前の少年は迷いなく言葉にした。
「ふふ……ふふふ……ふふふふっ……!」
堪えきれず笑い声が漏れる。
震える指先を握り締め、彼女は宣言した。
「いいぞ……! 久々のルーキーだ。そうだ、アンパンマンは“子供向け”なんかじゃない。珠玉の名作が揃ってる……その『いのちの星のドーリィ』、私の一押しだ。お前、気に入ったぞ」
紅茶の香りの漂う部室で――。
澪の胸に、久しく忘れていた熱が蘇った瞬間だった。
こうして、ほとんど幽霊部員だけで成り立っていた映画研究会に、初めて“仲間”と呼べる存在が加わったのである。
ディスクのケース、観終えた後の紅茶の香り、スクリーンの残像──そのひとつひとつが、いつもの澪の時間だった。
「インターステラー」「ダンケルク」「オデッセイ」。
どれも澪がぎりぎり許容する重さ、ぎりぎり楽しめる“端っこ”を狙った映画だった。
映画の余韻を共有する――それだけのことが、澪には確かな満足を与える
彼が選んだタイトルは、澪の趣味と綺麗に重なり、静かな幸福を紡いだ。
彼の横顔を見ているだけで、澪の胸は柔らかくなる。そんな瞬間だった。
だが、その幸福は突然、鋭く切り裂かれた。
一人が額を押さえ、言葉を失い、膝から崩れ落ちる。最初は目眩か貧血かと澪は考えた。
だが、回復の呪文を伸ばした瞬間、事態は“普通”ではないことを教えた。
澪の掌に触れた空気が震え、見慣れた回復の詠唱が、うまく効かない。
魔力が跳ね返されるような違和感。澪の手が、知らず知らずに彼の胸に触れた――そして世界が一瞬、別の色を帯びた。
掌の中に、滲むような光景が浮かぶ。魂の図譜。古い刻印。重なり合う痕跡。澪は冷ややかな興奮とともに、その光景を解読し始める。
言葉が頭をよぎる――「サマエル」。伝承でしか見たことのない名が、指先の温度とともに澪の脳裏へ落ちた。
胸の奥で、澪の心が跳ねた。長年追い求めてきた謎――不死、契約、魂の刻印。幾つもの研究と好奇が、彼の胸にまとめて押し寄せる。
生き続けることの味気なさ、不死がもたらす虚無、そしてそれを解く“鍵”の存在。
全てがこの場に収束していることを、澪は直感した。直感というより、運命だと感じた。
(――ついに、見つけた)
澪の中で、冷徹な喜びが膨らむ。長いあいだ、不死を解除する方法を探してきた。
だがその方法は、いつも遠くにあって、指の間から零れ落ちる水のように掴めなかった。
今、手の中で震えているのは、指で絡め取れるほど具体的な「何か」だ。これが鍵なら、私の生きる意味は変わるかもしれない――そんな予感が澪の血を熱くした。
同時に、澪は自分の胸に別の感情が宿っていることにも気づく。
それは、独占。いとおしさが暴力に近い欲望に変わる瞬間。
彼と一緒に過ごした映画の時間、彼の何気ない台詞、彼が選んだあのシーンの切り取り方――すべてが澪にとって宝物になっていた。澪はその宝物を自分だけのものにしたいと思った。
知的好奇心と所有欲が、静かに重なっていった。
数分の静寂の後、一人はゆっくりと目を開けた。薄い痛みを堪えながら彼は言う。
「すみません。急に頭が痛くて……」
澪は冷たくも優しく答える。
「病院に行った方がいい。今日は私が送る」
外に出ると、街灯が列を作り、LEDの白が道を洗った。
二人で歩む帰り道は、いつもより少しだけ長く感じられた。
家の前で彼が振り返り、「ありがとうございました」と言う。
澪はその後ろ姿に、静かに囁いた。
「一人、もうお前は私のものだ。私だけのものなんだ」
声は小さかった。だが澪の胸の内に宿る決意と欲望は、夜の空気に濃く溶け込んでいく。
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