第37話 りりの休日(1)
土曜日――。
愛川家のリビングには、落ち着きなくソワソワと歩き回る少女の姿があった。
金髪のツインテールをいつもより丁寧に巻き上げ、薄いピンクのワンピースに身を包むりり。
彼女は、まるで小鳥のように胸を弾ませ、時計を見ては落ち着きを失い、鏡を覗いては頬を両手で軽く叩いていた。
(今日は、お兄ちゃん――いいえ、私の旦那さまと初めてのデート……! ああ、どきどきするよ……どうしよう……!)
鼓動が早鐘を打つ。
手を組んで胸に当てれば、まるで今にも飛び出しそう。
そこへ――。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、りりの心臓は一瞬止まったかと思うほど跳ね上がった。
「おはようございます。一人です」
扉越しに響く落ち着いた声。
「ひゃっ……!」
りりは反射的に顔を真っ赤に染め、ソファの影に隠れようとする。
「ふふっ」
玄関先に現れたレヴィがにこやかに笑った。
「今日は楽しみね。ママもパパとの初デート、緊張したな〜」
「ま、ママ! からかわないでよ! それとパパには内緒にしてってば!」
りりは足踏みしながら抗議する。
「ふふ。そんなこと言ったら、パパ泣き出すわよ?」
言われてますます赤くなるりり。
やがてレヴィが扉を開く。
「おはよう、一人くん。りり、緊張して待ってるのよ。今日はよろしくね」
「レヴィさん、おはようございます。りりちゃん、お預かりしますね」
「マ、ママ! 変なこと言わないでよ! ……お兄ちゃん、行くわよ!」
玄関を飛び出しながら、りりは必死に胸の高鳴りを抑えようとする。
だが、その頬は隠しきれないくらい赤く染まっていた。
二人で歩き出すと、りりはそわそわと視線を泳がせる。
(はぁ……これがデート……! まさか本当に来ちゃった……夢じゃないよね……!?)
「じゃあ、どこに行こうか。行きたいとこある?」
一人が柔らかく尋ねる。
「え、えっと……お兄ちゃん――いや、一人に任せるよ。エスコートお願いねっ」
可愛さ全開でお願いしてしまい、自分でも耳まで赤くなるりり。
「じゃあ……暑いから屋内で過ごそう。午前中は水族館に行って、お昼を食べて、その後映画とかどう?」
「い、いいね!」
内心、飛び跳ねそうなくらい嬉しいが、悟られまいと大人ぶって返す。
水族館――。
涼しい館内、青い光に包まれた水槽の前を二人で並んで歩く。
りりは魚たちよりも、自然と周囲のカップルたちに目がいってしまう。
(わたしたちも……恋人同士に見えるかな……?)
視線は隣を歩くカップルの「恋人繋ぎ」へ。
――指と指を絡め合う、あの特別な手の繋ぎ方。
(い、いいな……! わたしも……!)
だが――。
「迷うといけないから」
一人は自然にりりの手を取った。
普通の手繋ぎ。
「っ……!」
一瞬、胸が熱くなり、笑顔が溢れそうになる。
けれどすぐに、心のどこかで小さく落胆する。
(……恋人繋ぎじゃないんだ……)
さらに歩いていると、突然声をかけられた。
「あれ、家成じゃん。妹いたの?」
振り返れば、高校生らしきカップルが。
「……実はさ、彼女なんだ。初デートなんだ」
一人が少し照れながら答える。
「~~~~っ!」
りりは全身を真っ赤にし、俯いた。
(やった……やった……! 彼女だって……! ま、待て待て、落ち着け私! いや、本当は嫁なんだから! 彼女とかランク下がってるじゃん!)
心の中でニヤけながら小さく拳を握る。
高校生の女子は苦笑して去っていった。
残されたりりは、上機嫌すぎて口が勝手に動く。
「お兄ちゃんさ〜、彼女だったら、恋人繋ぎくらいしなよ。ふふっ。
ま、恋愛雑魚のお兄ちゃんじゃ無理かな〜」
「……そうだね。りりちゃんが、僕なんかじゃ嫌かもって思ってたからさ」
そう言って、一人は繋いでいた手をそっと絡める。
――恋人繋ぎ。
「っ~~~!!」
りりの顔は真っ赤に染まり、息も詰まる。
「それとさ……恋人なら“ちゃん付け”なしだよ。二人のときは呼び捨てで。私もそうするから……ねっ、一人」
「……わかったよ、りり」
その瞬間、りりの世界は光に包まれた。
魚の群れも、巨大な水槽も、アシカのショーも――なにも頭に入らない。
ただ、繋がれた手と名前の響きだけが、りりの胸を占め尽くしていた。
(ああ……これがデート……これが恋人……! 最高だよ……! でも絶対、顔に出しちゃだめ。強がらなきゃ……!)
強がるりりの姿は、可愛さ全開だった。
――昼。
水族館を出て、二人は街を歩いていた。
「何食べたい? ファミレス? ハンバーガーショップ? リクエストある? 食べられないものとかさ、ある?」
一人が自然体で聞いてくれる。
りりは、顔を真っ赤にして視線を泳がせる。
「う、うん……お兄ちゃ……か、一人に任せる」
胸が高鳴って仕方がない。だけど、平然を装わないといけない。自分はもう“彼女”なのだから。
「じゃあ、家族で行かないようなところがいいかな」
そう言って案内されたのは、街角の洒落たカフェだった。
ガラス越しに見える看板。白を基調にした内装。テーブルを囲むのはほとんどがカップルか女子グループ。
りりは思わず息を呑む。
(すごい……初めてのカフェ……! なんか、大人の仲間入りをした気分……!)
心臓がドキドキして止まらない。
けれど同時に不安が顔を覗かせる。
(お兄ちゃんにしては……お店のチョイスとか出来すぎじゃない? もしかして……女慣れしてる……?)
胸の奥がちくりと痛んだ。だが――
「と言っても、来たの三回目なんだけどね。しかも映画帰りに、一人でさ」
少し照れながら言う一人の言葉に、りりの胸はぱぁっと明るくなる。
(そ、そうだよね! 一人で来るんだもんね! ……ああ、よかった……!)
彼女は安心して、少し強がり混じりに笑顔を見せた。
「じゃあ、オムライス」
注文したオムライスがテーブルに届く。
だが、りりの舌は味を記憶しなかった。
胸の中を占めているのは「彼と一緒にカフェでご飯を食べている」という、ただその事実だけ。
「お兄ち……か、一人! 私、これ食べたい!」
メニューを指差すりりの瞳はきらきら輝いていた。
そこに載っていたのは――“カップル限定パフェ”。
「ふふっ、いいよ」
少し照れたように笑う一人。
運ばれてきた大きなパフェを前に、二人は顔を寄せ合って記念撮影。
その写真をママに送信すると、すぐに既読がつき、ハートのスタンプと「いいね」が返ってきた。
「っ……!」
顔が一気に真っ赤になり、りりはスマホを胸に抱きしめた。
(ママぁ……余計に恥ずかしくなるじゃん……! でも……すごく嬉しい……!)