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第35話 羊たちの沈黙

「はい、どうぞ」

 白磁のカップに琥珀色の液体が注がれ、机の上に静かに置かれた。

   ふわりと広がる香りは、落ち着いた空気を一層濃くする。


「ありがとうございます」

   澪が礼を言い、永遠もそれにならう。


 ここは愛川家のリビング。


   壁際には整然と並んだ本棚と、上品な調度品。

 ソファには、幼い笑顔を浮かべるりりと、その傍らに佇む母――悪魔レヴィ。

 そして向かいの席には、家成一人、月永永遠、白雪澪。



 その間にあるガラスのテーブルの上には、一冊の学習帳が置かれていた。


 レヴィは指先でその表紙をなぞり、中を開いた。


 そこには稚拙な文字でこう書かれている。


 ――「おおきくなったら、りりはおにいちゃんのおよめさんにです」


  ――「いっしょに、はらいがわでくらします」


 その横には、確かに一人のサイン。


 そしてさらに――最上位悪魔の名が、黒々とした魔的な筆跡で刻まれていた。


 レヴィは片手で額を押さえ、深く息を吐く。

「うーん……これ、いつ書いてもらったの? ママ、聞いてないんだけど」


 りりは無邪気に笑った。

「おじさんが、新年のあいさつに来たときだよ。お年玉くれた時に、いっしょに頼んだんだ〜」


「えっ……おじさん? 私に何も言わなかったわよ」


「うん。『りりちゃんのためなら人肌脱ぐで〜』って言ってね。

 それからお兄ちゃんのことを遠見して、

『どんな男かいな〜……おっ、なかなかいいの捕まえたな〜。

さすが失楽園の悪魔や!こいつ将来性あるで〜』って。


 すぐサインしてくれたんだよ。『パパとママには内緒してや〜』って」


 レヴィのこめかみがぴくりと動く。

「いや、内緒って……それにお年玉もらったら、なんでパパとママに言わないの? きちんとお礼言わないと失礼でしょ」


 りりはしゅんと肩をすくめ、「ごめんなさい」と小声で答える。

(永遠・澪・一人:……そこ? 今ツッコむの、そこなの? サインじゃなくてお年玉の話?)



 レヴィは長い睫毛を伏せ、苦々しく唇を噛む。

「参ったわね……これ、取り消せないのよ。契約はすでに成立している。

 もし履行しなければ、一人君の魂は容赦なく刈り取られる。

 しかも……ここで暮らすことまで契約に含まれている」

 その言葉に、一人の心臓は凍りつく。


 だが、りりは嬉しそうに続けた。

「あっ、でもおじさん言ってたよ。

 『履行しないときは、その男の魂、りりちゃんにあげるから安心してな〜』って。

 だから、お兄ちゃんはどうあがいても、りりのものなんだ。ふふん♪」


「ふふん、じゃないのよ……」

  レヴィは頭を抱える。普段は冷静沈着な彼女の額に、珍しく皺が寄る。


「しかも、そちらのお嬢さんたち――」視線を永遠と澪に向ける。


「あなた達も、一人くんの魂に所有紋を書き込んでるじゃない。

 このままじゃ魂は引き裂かれ、バラバラになる。

 最悪の場合……輪廻転生の輪から外れて、完全消滅するわ」


 永遠と澪が息を呑む。


 一人は、頭の中が真っ白になり、視界が揺れる。


 りりの「無邪気な願い」が、悪魔の契約として世界に刻まれ、

 そして母レヴィの冷静な声が、かえって事態の深刻さを突きつけていた。


「……冗談じゃ、ない……」

 かすれる声を最後に、一人の意識は遠のいていった。


 レヴィは、ゆったりと組んでいた足をほどき、ソファから身を起こした。


 漆黒のドレスの裾を揺らしながら天井を見上げ、淡々と声を発する。

「――『医術の悪魔』、聞いてるんでしょ。こんな面白い話、あんたが聞き逃すはずないわ。出てきなさい」


 その瞬間、空気が歪んだ。


 かすかな硫黄の匂いと共に、ペストマスクを被った長髪の人物がリビングの空間を破って現れる。


 白衣の裾を引きずり、肩を震わせながら乾いた笑い声を上げた。

「ははははっはは! いやぁ、実に愉快愉快! 楽しそうな話をしているじゃありませんか! お久しぶりですな、レヴィ様!」


 そしてマスクの奥から覗く光が、りりへと向く。

「お嬢も……お久しぶり! ふはははは!」


「お久しぶりです」

 りりは純粋に、まるで親戚のおじさんに挨拶するかのように微笑む。


 レヴィは片手をひらりと振る。

「挨拶はいいから。この子――ちょっと診てくれない?」


 指先で示されたのは、青ざめた顔でソファに座る一人だった。


「ほほう……」

 医術の悪魔は興味深そうに歩み寄ると、額に白い手をかざす。

 瞬間、一人の意識が途絶え、力なくソファへ沈み込む。


 マスクの奥から、愉快げな声が響く。

「ふーん……」


 次に視線を向けたのは、永遠と澪。

「こっちのお嬢さんは……吸血鬼。しかも原初、デイウォーカーときた! いやはや、滅多にお目にかかれませんぞ!

 そっちの嬢ちゃんは魔女……ほぉ、不死化処理? すごいねぇ。人間でこれを? どんな副作用が出てるか、ぜひ聞きたい!

 いいねいいね、人材の宝箱だ! 今度ラボで解剖させてくれないか?」


 にたりと笑い、最後に一人へ視線を向ける。

「で……こっちの男。最高だね。見ただけでわかるよ……レヴィ様。これ、私にくれない?」


「だめ」

 レヴィの声音は低く、しかし強い。


「娘のものなんだから。いいから、診て」


「はいはい。せっかちだなぁ〜」


 医術の悪魔は肩をすくめると、両の手を一人の胸へ――ずぶり、と音もなく沈めていった。

 次の瞬間、肉体の奥から反響するように声が届く。

「うっわぁ……これはすごい! なにこれ、こんなの初めて見た!

 魂の一番奥の核に……三つ! 三つも所有紋が刻まれてる! ははっ! 誰だよこんな 鬼畜な真似したやつ! いやぁ、けしからん! でも羨ましい!」


 やがて白衣の人物はずるりと体を抜け、一人の胸から姿を現した。


「……で?」

 レヴィが問いかける。

「なんとか、できそう?」


 医術の悪魔は、即答した。

「無理」


「……は?」


「無理ですって。所有紋があまりにも深く、魂の核まで焼き付けられている。しかも三重。来世まで縛る執念だよこれは。

 無理やり剥がしたら……魂はバラバラ。完全消滅するね。再生も転生もない」


 その言葉に、リビングの空気が凍り付く。



 レヴィはゆっくりと目を細め、ジト目で永遠、澪、そしてりりを順に見据えた。

 しかし三人はそろって視線を逸らし、知らぬ顔で沈黙を守る。



 レヴィは頭を抱え、深いため息をつく。

「……あんたたち、どうすんのさ、これ」


 リビングの壁に、彼女の声が虚しく木霊した。


☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。

次回の更新は、9月13日 23時です。

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