第29話 失楽園の悪魔
一週間後。
愛川りり――かつてそう呼ばれた少女の部屋は、もはや別世界だった。
淡いピンク色のカーテンも、少女趣味のぬいぐるみも、そこにはない。すべて闇色に染められた室内の中心に、椅子がひとつ置かれている。
その椅子に腰かけるのは、十七、十八ほどに見える美少女。
黒いドレスに身を包み、艶やかな金髪ツインテールには黒いリボンが結ばれている。
均整の取れた肢体は、少女らしさをとっくに超えた妖艶を纏い、紅を差した唇から放たれる息さえ淫靡に思えるほどだった。
悪魔リリス。
Lilith Celestia Noctis
(リリス・セレスティア・ノクティス)
――「失楽園の悪魔」、そして「性愛の悪魔」と呼ばれる存在。
その名にふさわしく、彼女は人ならぬ輝きを放ち、影を従えていた。
「……報告を」
低く艶やかな声が落ちる。
影が、床に額を擦りつけるようにして口を開いた。
「……申し上げます。お兄様は現在、吸血鬼と魔女の手に落ち、日々、性奴隷として搾取を受けております。暴力に晒され、人間らしい食事すら満足に与えられず……時にはその身体を……」
「――っ!!」
リリスの瞳が大きく見開かれる。椅子の肘掛けを握りしめ、白い指先が震えた。
「嘘だ……そんなの、間違いに決まってる……! こんな、こんな悲惨なことが……!!」
「残念ながら、紛れもない事実にございます。」
影の声は淡々としていた。
だがリリスには、その一言が刃のように突き刺さった。
「……信じられない……吸血鬼と魔女……お兄ちゃんを……! 性奴隷にして弄び、暴力を振るい、人としての尊厳すら奪って……気まぐれに弄ぶなんて……それは……悪魔の所業……!」
リリスは震える声で呟いた。
「――いいえ。私以上の悪魔だわ……」
頬を伝う涙が、熱く床に滴る。
彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を堪えるように震えながら言葉を続けた。
「どうして……どうして、こんなにも惨い目に遭ってまで生きてこれたの……? そうよ……そうに違いない……。お兄ちゃんは……私との“約束”だけを、心の拠り所にして……!」
その瞬間、リリスの中で確信が芽吹いた。
疑念も迷いも存在しない。全ては彼女の思い込みに支配され、世界はただ一つの真実に収束していく。
「お兄ちゃん……辛かったね。苦しかったね。でも、よく頑張ったね……! 私との約束を信じて、耐えてくれたんだよね……♡」
彼女の唇は甘やかな微笑を形作りながら、狂気の光を宿していた。
「もう大丈夫。これからは私が全部取り戻してあげる。吸血鬼も魔女も……その命ごと、絶望ごと、焼き尽くしてあげるわ!」
立ち上がったリリスの姿は、漆黒のドレスの裾が広がり、まるで深淵から舞い降りた女王のようだった。
涙に濡れた瞳を輝かせ、彼女は天へと両腕を広げる。
「必ず助けてあげるから!! 待っててね、お兄ちゃん♡」
その声は甘美でありながら、背筋を凍らせる狂気を孕んでいた。
こうして、思い込みに囚われた悪魔リリスは――ついに行動を開始する。
次の日、放課後。
人気のない部室に、二人の少女が向かい合っていた。
月永 永遠――黒髪の清廉な美貌に、冷徹な笑みを浮かべる少女。
彼女の前に座るのは、紅い瞳の魔女・澪。妖艶さを纏い、毒を含んだような声音で言葉を吐き出す。
「この前の話――聖女の血を無効化できる件だけど」永遠が切り出した。
「そうね」澪は唇を歪め、挑発的に微笑む。
「あの男を――一人を、私にすべて譲るなら約束してあげてもいい。これは、悪くない取引でしょ?」
「――いらない」永遠は即座に切り捨てた。
「一人は、私だけのものだから。強力な所有紋に上書きしておいた。魂の奥底で、もう彼は私に逆らえない。あんたの思い通りになんかさせない」
その声は澄んでいながら、狂気にも似た愛情を滲ませていた。
「ふぅん……」澪は細い指で自らの唇をなぞり、艶めかしく笑う。
「でもね、私の所有紋はもっと深い場所に刻んであるの。来世でも、一人は私のもの。しかも――服従の制約付きで、ね」
「じゃあ……もう一度、上書きすればいいだけ」永遠は挑むように言い返す。
二人の声が交差し、部室の空気が張り詰めていく。
その場に居合わせた一人は、たまらず口を開いた。
「あ、あの……そういう話って、普通、本人のいないところでするもんじゃないかな〜」
だが、二人の少女は同時に振り返り、冷たく吐き捨てた。
「――あんたは黙ってて」
「いいから任せなさい」
同じタイミングで、同じ支配者のような声音。
一人は身震いする。
その瞬間だった。
――空気が一変した。
ぞわり、と背筋を駆け上がる寒気。部室全体が黒い靄に覆われ、光が吸い込まれるように失われていく。
「な、何……?」永遠が眉をひそめる。
「結界が……勝手に……?」澪が目を細めた。
闇の奥から、ヒールの音が響く。
カツ、カツ、カツ……。
姿を現したのは、黒いドレスを纏った金髪の美少女。
金の髪はツインテールに結われ、黒いリボンが揺れている。
端正すぎるほどの顔立ち。成熟した肢体。纏うだけで人を支配する妖艶。
悪魔――リリス。
「お前ら……いい加減にしろ」
冷たく、だが震えるほどの怒気を孕んだ声が部室に響く。
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次回の投稿は9月11日 23時です。
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