第28話 りりちゃん
――仄暗い闇の中。
形を持たぬ“それ”は、濁った水底の泡のように漂い、そしてゆらめく。
輪郭はない。ただ、ただ黒。
声もなく、ただ震える“気配”がそこに在る。
やがて、底冷えするような愉悦が滲み出した。
声にならぬ声。それは確かに耳を打ち、心の奥をえぐる。
「……まだだ。まだ、この檻の中に囚われている。だが――」
沈黙が、嘲笑のように続く。
矮小な存在に縛られ、押し潰され、長き眠りを余儀なくされた日々。
しかし、薄氷のような枷はもはや耐えきれない。
「……いずれ。もうすぐだ。帰還の時は、必ず訪れる」
闇が揺れる。
それは遠雷の前触れのような震動であり、何かが蠢く不快な音でもあった。
世界の裏側に積もり重なった怨嗟。
憎悪と嘆き。
かつて焼き尽くし、なお飽き足らなかった炎の残滓が――息を吹き返す。
「今度こそ……」
低い呟きは、確かな執念を孕んでいた。
「今度こそ、この世を燃やし尽くす。すべてを灰とし、すべてを滅ぼし……」
ぞっとする熱気が広がる。
闇は形を帯び始める――巨躯か、翼か、それとも牙か。
まだ輪郭は曖昧だが、その圧は確かに強まっている。
息を呑むような緊張感が、どこからともなく世界の亀裂に滲み出す。
誰も気づかない。だが確実に迫っている。
「……帰還の時は近い」
木曜日の放課後
木曜日の夕方。学校から帰ったばかりの僕は、玄関をくぐる前に違和感を覚えた。
隣の家の前に停まっている大きなトラック。すでに荷物は運び込まれ、作業員たちは最後の点検をしている。
「……引っ越し?」
思わず呟いた瞬間だった。
「お兄ちゃ〜ん♡」
背後から、柔らかい声と共に抱きつかれる衝撃。
肩口から回された小さな腕。その細さと温もりに、僕は一瞬、心臓を止められた気分になった。
「えっ……?」
振り返ると、そこには――見覚えのある金髪ツインテールの少女が立っていた。
黒い大きなリボン、ふわりと揺れる黒いワンピース。
年齢にして小学校高学年から中学生くらいだろう。まだ胸元は控えめで、幼さが色濃く残っている。
だがその瞳に宿る光は、どうしてか年齢不相応に妖艶で、僕は思わず言葉を失った。
「え……りりちゃん? ……5年ぶり、かな。大きくなったね」
そう言うと、彼女は照れ笑いを浮かべた。
「えへへへ♡」
その笑顔は無邪気そのもの。けれど、首を少しかしげる仕草や、細めた瞳には危うい甘さが漂っていた。
と、玄関から声がする。
「あら、お久しぶりね」
りりちゃんのお母さんだ。長いブロンドの髪、端正な顔立ち。やはりハーフの血を引いているだけあって、まるで映画女優のような華やかさがある。
僕は思わず背筋を正した。
「あっ……おばさん。りりちゃんと一緒に戻って来たんですね」
「そうなのよ。主人は後から来る予定なの。いまから、そちらにご挨拶に伺おうと思ってたところなのよ」
優雅に微笑む姿に、思わず「うわぁ」と感心してしまったのが、どうやら表情に出てしまったらしい。
すぐ後ろから、りりちゃんが小さな声で囁く。
「……お兄ちゃん。お母さんに鼻の下伸ばしてる……浮気性なの?」
「なっ、違っ……」
思わず咳払いしてごまかす。
りりちゃんは「ふふん」と小さく笑って、僕の手をきゅっと握った。
「また、よろしくね」
そう言ったその瞬間。
――誰にも聞こえないような吐息混じりの声で、彼女は続けた。
「お兄ちゃん……あの“約束”、守ってもらうからね」
にこり、と笑うその顔は、幼さを残した少女ではなかった。
夜の月明かりに照らされた大人の女のように――ぞっとするほど妖艶だった。
金曜日。
夕暮れに染まる帰り道、ランドセルを背負った愛川りりは、軽い足取りで角を曲がった。
その瞬間――彼女の時間は止まった。
「あっ……お兄ちゃんだ!」
笑顔で声をかけようとした。けれど、その横にいた“誰か”を見た途端、全身の血が凍る。
黒髪をなびかせた女子高生。白いブラウスに映える、すらりとした肢体。
――そして、お兄ちゃんが、その子に向かって笑っていた。
(……なに、これ……どうして……?)
胸が締め付けられる。息ができない。
あの日の約束が、破られる音がした気がした。
「――あっ、りりちゃん!おかえりなさい!」
無邪気な声が突き刺さる。
お兄ちゃんは、何も知らない笑顔で、彼女を紹介する。
「隣に住んでる愛川りりちゃんだよ。こっちに帰ってきたんだ。」
女子高生はにこやかに微笑み、軽やかに名乗った。
「こんにちは、りりちゃん。月永永遠です。よろしくね。」
(……すごい。きれい。かわいい……誰、この女……彼女……なの……?)
耳が熱いのに、体は氷のように冷たい。
お兄ちゃんと永遠は家の中へ消え、りりは取り残された。
声が、出ない。
呆然と立ち尽くす。
(どうして……どうして……約束したじゃない……?)
唇が震え、涙がこぼれそうになる。
だが、その夜、さらなる絶望がりりを襲う。
――お兄ちゃんと永遠が、恋人つなぎで歩いていく姿を見てしまった。
そして翌日。
勉強を教えてもらおうとお兄ちゃんを訪ねた時、家族から返ってきた言葉は――
「ごめんね、今日はお泊りでいないのよ」
日曜日まで帰ってこなかった。
(もう……終わりだ……)
世界が真っ黒に沈んでいく。
机に突っ伏しながら、りりは古びた学習帳を開く。
子どもの字で書かれた、幼い誓い。
「うぐっ……うぐっ……なんで……なんでよ……約束したじゃない……契約したじゃない……どうして……」
涙がページを濡らす。
だが、唐突に泣き声が途切れた。
代わりに響いたのは、幼い少女のものとは思えぬ低い声。
「……こうなったら仕方ないわね」
振り返らずに告げる。
「――来い」
背後に、黒い影がにじむ。人ならざる気配が、闇から滲み出た。
「お呼びですか」
姿は見えない。ただ、そこに確かに“従うもの”がいた。
「あぁ……お兄ちゃんのことを調べろ。良からぬ虫がついているようだからな。相手は“人外”だろう。決して悟られるな」
「はっ」
影は掻き消える。
その瞬間、りりの口元に浮かんだのは――小学生とは思えない、邪悪で冷たい笑み。
「絶対に取り戻してみせるからね……お兄ちゃん」
月明かりの下、その金色の瞳にはもはや幼さはなく、底なしの闇を宿していた。
――少女は、確かに悪魔リリスへと歩み始めていた。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
次回の更新は9月11日 12時です。
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