エピローグ(1)パラ・ベラム「戦への備えをせよ」
ここはドラゴニア邸。
本邸から少し離れた場所に建てられた、エマが住む離れの屋敷だ。
白い外壁に絡みつく蔦が、昼なお薄暗い影を落としている。
――コン、コン。
静寂を破る、控えめなノック音。
エマはソファから腰を上げ、反射的に口を開いた。
「はーい」
自分の声が響いた、その瞬間だった。
胸の奥に、ぞわりと冷たいものが走る。
(……なに?)
理由は分からない。
だが確かに――危険だと、本能が叫んでいた。
(まずいわね……すごく、嫌な予感がする……)
エマは音を立てぬよう歩き、棚の下に隠していたククリナイフを片手に取る。
刃を逆手に持ち、背中へと隠す。
そして、玄関のドアノブに手をかけた――その刹那。
(――っ、まずい。
これは……本当に、まずい……!)
心臓が強く脈打つ。
エマは反射的に一歩、二歩と後ずさった。
その直後。
「あの〜……僕だけど……一人だけど……」
ドア越しに聞こえたのは、確かに夫の声。
だが、何かが決定的に違う。
エマの尻尾が、意思を持ったかのようにだらりと垂れ下がる。
警戒の証だ。
「……一人?」
声がわずかに強張る。
「今日は来る日じゃないけど……どうしたの?」
「君に会いたくてね」
甘い響き。
だが、その言葉が、逆に寒気を呼んだ。
エマはナイフを構え、ドアから距離を取る。
「へぇ……」
「私の旦那様って、いつからそんなに積極的になったのかしら?」
沈黙。
ほんの一拍遅れて、声が返ってくる。
「いや、どうしても君に会って、話したくてさ。
ほら……開けてよ」
――ダメ。
この声は、知っている声をなぞっているだけ。
「ごめんね」
エマは腹部に手を当て、嘘ではない理由を口にした。
「つわりが酷くて……今、そんな気分じゃないの。
今日は帰ってくれない?」
再び、沈黙。
「……うーん」
やがて、諦めたような声。
「じゃあ、仕方ないか」
足音が遠ざかっていく。
砂利を踏む音が、屋敷の外へ消えていった。
(……帰った?)
エマは息を詰めたまま、数秒動けなかった。
(……いいえ。
これで終わるとは思えない)
背中に冷たい汗が伝う。
そして、振り返った――その瞬間。
「はじめまして、エマ」
にっこりと微笑む少女が、そこにいた。
赤いヘアバンド。
プラチナブロンドのミドルヘア。
年齢不詳の、美しい――だが、ぞっとするほど不自然な笑顔。
「――――っ!?」
エマは声にならない悲鳴を上げ、腰が抜けるように床へ崩れ落ちた。
「ひっ……!!」
「そんなに怖がらなくてもいいのに」
少女――亜紀は、楽しそうに首を傾げる。
十五分後――
応接室の空気は、重く沈んでいた。
柔らかなソファに腰掛けるエマは、背筋を伸ばしたまま微動だにできずにいる。
向かいには、一人。
そして、その隣に腕を組んで座る亜紀――いや、アグラット。
亜紀は明らかに不満そうだった。
唇を尖らせ、視線だけで相手を射抜くその様子は、まるで獲物を前にした猛獣だ。
一方のエマは、顔面蒼白。
指先が小刻みに震え、尻尾も力なく垂れている。
「……はじめまして、だね。エマ」
一人が静かに口を開いた。
「記憶が戻ったんだ。前の一人と……ほとんど同じだけど」
その声に、エマの喉が鳴る。
「あ、あの……」
「……私を、殺すの?」
その瞬間だった。
一人の雰囲気が、がらりと変わる。
空気が張りつめ、重力が増したかのような錯覚。
瞳の奥に、別の“何か”が灯る。
「よっ」
軽い調子とは裏腹に、圧倒的な存在感。
「俺はサマエル。――一人の本体、ってやつだな」
エマの心臓が跳ね上がる。
「心配するな。俺はな」
「自分の女には、手を上げないって決めてる」
「……そ、そう……」
わずかに安堵しつつ、エマは視線を横へ移す。
そこにいたのは、腕を組んだまま睨みつけてくる亜紀だった。
「私はアグラット」
「でも、亜紀でいいわ」
彼女は親指でサマエルを指し示し、宣言する。
「私が、この男の本妻なの」
「あなたをどうするか――それは、あなた次第ね」
冷たい微笑み。
逃げ場はない、と無言で告げている。
(……戦っても、勝ち目はない)
エマは瞬時に悟った。
格が違う。次元が違う。
(でも……交渉の余地は、ありそうね)
その視線を、亜紀は見逃さなかった。
ゆっくりと立ち上がり、エマの前に立つ。
頭の先から爪先まで、値踏みするように眺め――
ふと、視線が止まる。
エマの下腹部。
「……あなた、妊娠してるわね」
エマの肩が跳ねる。
「しかも――双子」
「男の子と、女の子……」
淡々と、だが確信に満ちた声。
「……いいわね」
その一言に、エマは堪えきれず声を上げた。
「お、お願い……!」
「この子たちだけは……見逃して……!」
「罪はないわ……!」
必死の懇願。
母としての本能が、言葉を突き動かしていた。
亜紀は、しばらく黙ってエマを見下ろしていたが――
やがて、ゆっくりと頷く。
「そうね」
「この子たちには、罪はないわ」
エマの表情に、かすかな希望が灯る。
――だが。
「でも」
亜紀の声が、冷たくなる。
「あなたは、違う」
「……じゃあ……どうするの?」
震える声で問うエマに、亜紀はにっこりと笑った。
振り返り、扉の向こうを示す。
「本邸に行きましょう」
「みんな揃ってるし」




