第99話 ボーン・アイデンティティ
日曜日の午後。
柔らかな陽射しが、大きな窓から差し込んでいた。
館内は静かだ。
新聞を読む老人。
参考書とにらめっこする学生。
子ども向けの棚で、親子がひそひそと声を潜めている。
誰もが、それぞれの時間を過ごしている――はずだった。
その一角、長机に座る一人の青年は、古い新聞を広げたまま、指を止めていた。
「……やっぱり」
小さく、吐き出すようなため息。
新聞の隅、死亡欄。
そこに印刷されていた名前は――
――家成 一人。
(サマエル:……だろうな)
(サマエル:で、このあとどうする?)
脳裏に響く、もう一つの思考。
(一人:入院してた病院に行ってみる)
(一人:アリバイを崩しとかないと)
(一人:誤植だとか、別人だとか……とぼけられるかもしれない)
紙を畳み、席を立つ。
図書館の静寂が、背中を押すようだった。
バスを降りると、視界いっぱいに白い十階建ての建物が広がった。
隣町の総合病院。
無機質で、どこにでもある外観。
一人は、その建物を見上げる。
(……記憶にある病院の風景と、だいたい一致する)
(この地区で、ここ以上に大きな病院はないはずだ)
自動ドアを抜け、受付を通り、外科病棟へ。
消毒液の匂いが、鼻を刺す。
ナースステーションの前で、彼は声をかけた。
「あ、あの……すみません」
「ここの病棟で、一年前にお世話になった――家成と言う者なんですが……」
その瞬間だった。
ナースの表情が、はっきりと凍りついた。
手にしていたバインダーが、音を立てて床に落ちる。
「……え?」
視線が、一人の顔に釘付けになる。
「い……家成くん……?」
「き、君……どうしたの……?」
声が震えていた。
まるで――ありえないものを見たかのように。
一人の背筋を、冷たいものが走る。
澪のマンション ― 夜
その日の夕食は、ごくありふれたものだった。
炊きたてのご飯。
湯気の立つ味噌汁。
豚の生姜焼きに、彩り程度のサラダ。
二人は向かい合って座り、同時に手を合わせる。
「「いただきます」」
声は重なった。
けれど、空気はどこか噛み合っていない。
一人は箸を持ったまま、食事に手を付けずにいた。
「……なんかさ」
「記憶が、よく飛ぶんだよね。今日も……」
澪は、ほんの一瞬だけ間を置いてから答える。
「まあ……いろいろあったからね」
「もともと、災害のせいで記憶障害があるからさ」
だが一人は、納得していない様子だった。
「前にも聞いたけど……」
「僕のアルバムとか、昔の写真とか……何にも無いの?」
「お母さんの墓の場所すら分からない」
「入院してた病院だって、覚えてないんだ」
澪の箸が、止まる。
ほんの一瞬。
それは見逃せるほど小さな動きだったが、一人は見逃さなかった。
「……焼けちゃってね」
澪の声は、低かった。
「何にも無いよ。もちろん、僕のも」
「お母さんは……遺骨すら残らなかった」
「だから、墓も無い」
一拍置いて。
「……思い出さないほうがいい」
「辛い思いをするだけだから」
「……そ、そうだね」
「じゃあさ、九州のおじさんの家は?」
「絶縁してる」
「連絡は取らないほうがいいよ。歓迎されない」
短く、きっぱりと。
食器の音だけが、部屋に響く。
そして――
一人は、箸を置いた。
「……それ」
静かな声だった。
「嘘だよね」
その一言で、
食卓の空気が、決定的に変わった。
澪の視線が、ゆっくりと持ち上がる。
食卓の空気は、張りつめた糸のように細く、しかし切れずに保たれていた。
「今日ね。病院に行ったんだ……」
一人は、湯気の消えかけた味噌汁を見つめたまま、淡々と言葉を続ける。
「驚かれたよ。なんで右目と右足が“ある”んだって」
「義眼と義足だって誤魔化した。……無理があったけどね」
澪は驚いた様子も見せず、ただ静かに微笑んだ。
「それは……僕が魔法で、って言っても」
「確かに、無理があるね。うん。君の思ってる通りだよ」
その微笑みには、諦めにも似た優しさが混じっていた。
「そうか……もう、ほとんど戻ってるんだね」
「うん」
一人は小さく頷く。
「まだ完全じゃないけど……ほぼ、ね。中身のほうも」
その瞬間、彼の雰囲気がわずかに変わった。
目つき、声色、佇まい――どこか懐かしい気配。
「よう。はじめまして、かな」
「……なんか、そんな気がしねえけど」
澪は、ほんの一瞬だけ目を見開き、そして静かに息を吐いた。
「……やっぱり、気づくよね」
「なんで、こんなことしたんだよ」
一人の問いは、責めるようでいて、どこか疲れを含んでいた。
澪はすぐに答えなかった。
少しだけ視線を逸らし、それから――柔らかく笑った。
「あのさ……」
「今晩だけでいい」
澪は、祈るような声で言う。
「今夜だけは、白雪澪と、前の家成一人として過ごしてくれない?」
「明日、全部話す。……きっと、その方がいい」
そして、ほんの少しだけ困ったように。
「……お願い」
その表情に、一人は小さく肩をすくめた。
「ずるいな、そういう言い方」
「まあ……いいよ」
一人は深呼吸してから、目を閉じる。
「前の僕に、切り替えてみる」
澪の表情が、ほっと緩んだ。
「それならさ……」
少し間を置いて、悪戯っぽく微笑む。
「一緒に、お風呂入ってみない?」
しばしの沈黙。
そして一人は、観念したように笑った。
「……仕方ないな」
こうして、
二人の夜は――
静かに、確かに、始まった。
次回、最終話です。
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