第94話 病院にて
―獅堂医院―
白を基調とした診察室。
消毒液の匂いと、古い木製キャビネットのきしむ音が、妙に落ち着かない空気を作っている。
医師・獅堂狂華は白衣に身を包み、丸椅子に腰掛けていた。
その正面には、背筋を伸ばして座る一人。
昨日の異変が嘘のように、彼は今は普段通りだ。
――あまりにも、普段通りすぎるほどに。
「……」
一人は黙ったまま、視線を泳がせている。
「……どうですか、先生」
沈黙に耐えきれなくなったように、澪が恐る恐る尋ねた。
狂華は長い黒髪をかき上げ、端正な顔立ちのまま淡々と答える。
「どうと言われてもねぇ……脈、瞳孔、反応速度、どれも正常。
昨日のことは、何も覚えてないのよね?」
「……はい」
一人は小さく頷いた。
「ご飯を食べてる途中で……急に記憶が飛んで……
気がついたら、朝でした」
自分でも信じられない、という顔だ。
「ふぅん……」
狂華は一瞬だけ考え込む素振りを見せると、あっさり言った。
「まあ、実際に診てみましょうか。そこ、ベッドに横になって」
「はい……」
立ち上がろうとした――その瞬間。
世界が、止まった。
いや、正確には違う。
止まったのは、一人の内側だけだった。
カチン、と何かが噛み合う音。
同時に、胸の奥で――何かが弾けた。
それは、この場にいる数人にしかわからない“感覚”。
「――えっ?」
一人は、思わず後ずさった。
「な、なんで……」
視線の先。
そこに立っているのは、確かに獅堂狂華のはずなのに――
「……?」
狂華が首を傾げる。
「どうしたの?」
「ち、ちょっと待って……!」
一人は両手を前に出し、必死に距離を取る。
「落ち着いて。診察するだけ――」
「え、ま、また……!
か、解剖するの……!ほんとやめて…それ」
「……は?」
狂華の眉がぴくりと動く。
「何を言ってるの。
統合失調症か何か?」
顎に手を当て、
まるで標本を見るような目で一人を観察する。
「せ、先生ーーーーー!」
半ば悲鳴だ。
「何もしないって言ってるでしょ」
「せ、……先生……!」
一人の喉が震える。
「医術の悪魔……ペスティ――」
その瞬間。
ガシッ!
「――なぜ」
狂華の手が、一人の襟首を掴んだ。
「その名前を知っている!!」
空気が、凍る。
「くそ……!」
狂華の目が見開かれ、理性が一気に剥がれ落ちる。
「……始末するか」
カチリ、と音を立てて
彼女はトレイからメスを掴んだ。
刃先が、一人の喉元へ――
「やっぱりぃぃぃぃぃ!!」
一人は完全に腰が抜けている。
「先生!! 待って、待って!!」
澪が間に割って入る。
「落ち着いて! その人は――!」
その瞬間。
一人の意識が、ぷつりと途切れた。
「……っ」
狂華は舌打ちし、掴んでいた襟首を放す。
ドサリ、と一人は床に崩れ落ちた。
「……何者なんだ、こいつ」
狂華はメスをトレイに戻し、低く唸る。
「なぜ……
お前でも知らないことを、こいつが知ってる」
「すみません……」
澪は深く頭を下げた。
「この件、誰にも口外しませんので……」
狂華は、しばらく黙り込んだあと、低く言った。
「……封印が解け始めてる」
澪の肩が、びくりと揺れる。
「再封印は……多分、無理だ」
淡々と、しかし確信を持って。
「おそらくだが――
そのうち、一日に何度か“入れ替わる”」
澪は唇を噛む。
「そして、その間隔はどんどん短くなる……
最終的には、完全に元に戻る」
「……」
「どうするんだ、こいつ」
澪は答えられなかった。
不安が、はっきりと表情に浮かんでいる。
そのとき。
「……ん……」
床に倒れていた一人が、目を覚ました。
「……え? ここ……?」
「……帰れ」
狂華は背を向けたまま、吐き捨てるように言う。
「もう来るな。
二度と、ここに来るんじゃない」
それ以上の説明はなかった。
澪は一人を支え、
診察室を後にする。
自動ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
帰宅後――澪のシャワールーム
湯気が、ゆらゆらと立ちこめる浴室。
白いタイルの壁を伝い落ちる水滴が、一定のリズムで床に弾ける。
シャワーの音だけが、世界の雑音をすべて洗い流していく。
――ここは、澪の思考室だ。
彼女は壁に片手をつき、もう片方の手でシャワーヘッドを背中に向けたまま、じっと目を伏せていた。
熱めの湯が、首筋から背骨をなぞるように流れていく。
考えるときは、いつもここ。
それはもう、習慣――いや、ルーティンだった。
澪(通常)
「……どうする?」
水音に紛れて、独り言が零れる。
澪(通常)
「再封印は、もう無理だ」
獅堂狂華の言葉が、頭の中で反芻される。
淡々としていて、だからこそ重い宣告。
澪(悲モード)
「……まずいわね」
声が、少しだけ弱くなる。
澪(悲モード)
「いっそのこと……駆け落ちする?」
シャワーの湯が、彼女の肩を打つ。
―― 一人を連れて、誰も知らない場所へ。
そんな甘い妄想が、ほんの一瞬、脳裏をかすめる。
だが。
澪(怒モード)
「……無理だろ」
吐き捨てるように。
澪(怒モード)
「他のやつに邪魔されるのがオチだ」
永遠。
りり。
亜紀。
澪(怒モード)
「それより……覚醒後の一人を落とす方が、簡単だ」
言い切り。
迷いは、ない。
シャワーを浴びながら、思考は加速していく。
歯車が噛み合い、火花を散らしながら回転する。
澪(通常)
「……うん」
澪(通常)
「それが一番、合理的だ」
一瞬、湯を止める。
水音が消え、思考だけが残る。
澪(通常)
「誰がやる?」
答えは、最初から決まっている。
澪(統合)
「説得するのがいい」
湯を再び流しながら、澪は淡々と結論を組み立てていく。
「一人の性格から考えて――
理屈よりも、情に訴える方が効く」
目を閉じる。
彼の顔、声、癖、沈黙の間。
「情に訴えるなら……」
脳内で、モードが整理されていく。
「(通常)か(怒)。
最後は……泣き落とし」
口角が、わずかに上がる。
「一番コミュニケーションを取ってきたのは、(通常)」
指先が、壁をなぞる。
「落とした後でも、別に女はいる」
その言葉には、躊躇も罪悪感もない。
「でも――
心を繋ぎ止めるなら、まず情」
一拍、置いて。
「その後に……体」
シャワーの音が、妙に大きく響いた。
湯気の中で、澪は髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
そして――
ごんっ。
湯船の縁に、軽く頭をぶつけた。
「……っ」
痛みは、ほとんど感じない。
澪(通常)
「……うん」
澪(通常)
「決まった」
壁に額と手をつき、前屈みになる。
湯が髪から滴り落ち、床に小さな水音を刻む。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
澪
「ふふ……簡単じゃないか」
口角が、はっきりと上がる。
澪
「いつも通りでいいんだろ」
鏡越しに映る自分の瞳――
そこには、迷いのない決意の光。
澪
「……らしくなってきたじゃないか」
低く、楽しげに。
澪
「こういうのでいいんだよ。こういうので」
その表情は――
獲物を見つけた肉食獣のそれ。
追い詰められた状況すら、
どこか愉しんでいるかのように。
湯気の中で、
澪の笑みだけが、くっきりと浮かんでいた。
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