第80話 マダム ドラゴニア(4)
ホテルのスイートに、深夜の静寂が満ちていた。
薄明かりのランプが揺れ、
シーツの上で静かに寝息を立てる一人の胸が、
規則正しく上下している。
アウレリアはその横顔を見つめ、
そっと髪に触れた。
さっきまで、指に絡まっていた髪。
さっきまで、腕の中で震えていた身体。
さっきまで、求める声を漏らしていた唇。
胸奥がじん、と熱くなる。
「……すごい子ね。
もう……手放せなくなっちゃったじゃない。」
青い髪が肩から落ち、
素肌にかかる黒いランジェリーがわずかに揺れる。
“夜の国”に来てほんとうによかったと、
彼女は心から思った。
欲望と幸福が混ざり、
アウレリアは思わず一人の頬に指を滑らせる。
(愛おしい……。
こんな気持ち、いつ以来かしら……?)
そして胸の奥底から、
どす黒い“欲”がゆっくりと浮かびあがってくる。
(……なんとか、この子を
私のものにできないかしら )
その時だった。
一人が寝返りを打ち、
シーツがふわりとめくれた。
露わになった背中と腰、
そして——尻の上に刻まれた“紋”が
アウレリアの目に飛び込んできた。
美しく、禍々しく、異質な紋様。
アウレリアは息を呑んだ。
「…………エマ。 」
即座にインターホンを押す。
数十秒後、エマが部屋に入ってきた。
「失礼します——…って、ああ。」
紋に気づくなり、
エマの顔から一瞬で血の気が引いた。
「……不味いですね、奥様。」
アウレリアは眉をひそめる。
「これ……所有紋よね?
私も貴族の生まれだから教養はあるけれど……全部は読めないわ。」
「はい。これは“所有の紋章”。
魔女と悪魔 の二重です。」
エマはじっと紋を見て、息を飲んだ。
「悪魔のほうは……私には読めません。
ですが魔女の側は……はっきりしてます。」
エマは声を潜めた。
「——゛番人゛の情夫。」
アウレリアの表情が固まる。
「番人……って、何?」
「ええ。裏社会の“最終防衛”。守護者
そして悪魔側の紋ですが……
おそらく リリス 。 」
アウレリアは思わず喉を鳴らした。
「リリス……誰?」
「はい。裏では知らない者はいません。
゛始末屋゛
処刑人です。一人は……その2人の 色 です。」
短い沈黙。
アウレリアはごくりと唾を飲んだ。
「……エマ、あなた。勝てる?」
「正直、難しいです。
私は暗殺者の一族の生まれで、
相当鍛えられてきましたが……あの2柱は、別格です。」
そして、疑問が口をつく。
「……でも、変ですよね。
そんな存在の“色”が……
なんで吸血鬼の眷属なんだろう。」
アウレリアは額に手を当て、
ベッドに横たわる一人を見る。
「……このまま彼を連れて
ドラゴニュート領に戻るのは?」
エマは即答した。
「バレたら 戦争 です。
゛番人゛と゛始末屋゛の相手なんて……
マフィアのほうがまだ話が通じます。」
アウレリアはふっと笑った。
狂気じみた、しかし艶やかな微笑み。
「交渉……できる?」
「どうでしょう……。
“一人を助けた”という事実があるので、
今は大丈夫でしょうが……」
エマが言い終わる前に、
アウレリアは肩をすくめて笑った。
「——まあいいわ。
明日、遊んでから考えましょ。」
そのあっけらかんとした言い方に、
エマは呆れながらも苦笑する。
そして二人は眠る一人を見つめ、
決して触れてはならない“火”に
自分たちが手を伸ばしてしまったことを、
かすかに理解し始めていた。
柔らかな朝の光が、
カーテンの隙間から差し込んでくる。
一人はゆっくりと目を開けた。
昨日の出来事を思い出す前に、
まず視界に入ったのは——
枕のすぐ隣で眠れぬまま見つめていたのか、
軽く目を細めて微笑むアウレリアだった。
「——おはよう。 」
落ち着いた、しかしどこか甘やかすような声。
一人はびくりと身を縮め、
少し戸惑いながらも返す。
「……お、おはようございます。 」
アウレリアは、
昨日と同じ艶やかな髪を揺らしながら言う。
「昨日は……すごかったわ。
見かけによらず大胆なんだもの。」
「う……あ、あの……ごめんなさい。
アウレリアさんに……甘えちゃったみたいで……」
「謝らなくていいのよ。」
アウレリアはそっと一人を抱きしめ、
うなじに頬を寄せる。
「ねっ?」
その声が、やわらかく身体に染みこんでくる。
そして——
胸の中に押し寄せる感情に耐えられなくなったように、
一人はぽつりと呟いた。
「……そ、その……僕……母が……亡くなって……
家族で残ってるの……いとこだけで……」
呼吸が震え、
声の端がかすかに泣き声に変わる。
「ごめんなさい……昨日、甘えちゃって……」
ぽろり、と涙が頬を伝った。
その瞬間——
アウレリアの胸の奥に何かが弾けた。
(……この子……なんて……)
胸がきゅっと締めつけられ、
母性とも独占欲ともつかない感情が渦巻く。
「いいのよ。」
腕の力が少しだけ強くなる。
「甘えたいときは、甘えていいの。
……私が抱きしめてあげるわ。」
一人はその胸に顔を埋め、
しばらくの間、泣き続けた。
アウレリアはその頭を、
静かに、優しく撫でつづけた。
パンの香ばしい匂いと
淹れたてのコーヒーの湯気が立ちのぼる。
フルーツの彩りと、ヨーグルトの白。
だが——
一人の視線は皿には向かない。
(昨日の……も、今のも……
思い出すだけで……顔が……)
真っ赤になり、
俯いたままパンをちぎる手が震えている。
アウレリアはその様子を見て、
たまらなく可愛いという表情を隠せない。
(ふふ……かわいい。ほんとに……いい子ね。
こんなの、手放せるはずないじゃない。)
微笑む彼女と、
気まずさに押し潰されそうな一人。
そんな絶妙な空気に包まれながら
朝食の時間はゆっくりと流れていった。
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