第78話 マダム ドラゴニア(2)
逃げられない。
このままじゃ——。
震える一人の肩に、吸血鬼の白い指が触れようとした——。
その瞬間。
「あなたたち、おやめなさい。」
澄み渡る声が、夜の通りに響いた。
凛として、どこか王族のような気品を帯びて。
振り返ると、
青い長髪をゆるく巻き上げたドラゴニュートの貴婦人が立っていた。
白磁の肌、しなやかな尾。
端正な顔立ちと艶めいた雰囲気が、まるで貴婦人そのもの。
「なに、あんた……邪魔しないでよ。」
吸血鬼が唇を歪め、苛立ちを露わにする。
「こいつは私のものなんだから。先に声かけたのはこっちよ。」
貴婦人は涼しげに微笑んだ。
「たとえ“あなたのもの”でもね、
嫌がってる相手を無理に連れ去るのは淑女のやることじゃなくてよ。」
その言葉は柔らかいのに、夜気を震わせるほど強かった。
「は? やるっての?」
「やる気なら相手してあげるわよ?」
吸血鬼と妖狐たちが、殺気を混ぜてにじり寄る。
貴婦人は息一つ乱さず言った。
「ええ、いいわ。久しぶりに身体を動かしたかったところなの。」
その後ろから、メイド服の影が一歩、前に出る。
「奥様、ここは私が。」
ブラウンの髪をまとめ、横長の眼鏡をかけたドラゴニュートの侍女——エマだ。
先ほどの柔らかい雰囲気とは違い、今は静かな獣の気配を放っている。
エマはスカートの裾を少し持ち上げ、
太もものガーターから二本のククリナイフを引き抜いた。
金属光沢が月光で妖しく光る。
「……手加減は、します。」
次の瞬間——。
音が、消えた。
視界からエマの姿がふっと消え、
一拍遅れて、硬い何かが地面へ落ちる音が連続して響く。
ドサッ
バサッ
ガンッ
誇り高き夜の住人たちは、今や全員が地面に散らばるコケのように崩れ落ちていた。
ぴくりとも動かない。
呻き声すらない。
完全なる沈黙。
その中心で、メイドのエマがククリナイフについた返り血を“ぴっ”と手首を返して払い落とし、
まるで夕食のあと皿を片づけるかのように静かに鞘へ戻す。
「……片付きました、奥様。」
その声音は限りなく冷静で、むしろ機嫌すら良さそうだった。
アウレリアは、地面に座り込みかけている黒髪黒目の少年——一人へと歩み寄る。
足取りはたしかに優雅。
しかしその心の内では——
(ちょ、ちょっと待って……
こ、こ、この子……前に見かけた“あの黒髪の雄”じゃない!?
えっ、うそ、まさかの再会!?
ちょっと落ち着きなさい私、深呼吸……ひぃぃ……)
尾はすでに“ブンブン扇風機”状態。
「あなた、だ、大丈夫?」
声まで裏返りかけていた。
一人が顔を上げる。
「あ……ありがとうございます……助かりました……」
その声音の弱さと素直さが、アウレリアの胸に鋭く突き刺さる。
(か、可愛い……!
やばいわ……心臓に悪い……)
一人の膝がカクッと折れそうになり、アウレリアは慌てて支える。
「こ、怖かったわよね……
で、でも、もう大丈夫よ……うん……!」
完全にテンパっているせいで、励ましの言葉が小刻みに震えていた。
その様子を見たエマは、スッとアウレリアの横に立ち、
主人の耳元へ悪魔のささやきのように囁く。
「奥様……いい機会です。
ナンパしましょう。
できれば……お持ち帰りで。」
「お……お持ち帰りぃ!?」
アウレリア、声裏返る。
「素人相手なんて燃えますよ。
奥様、童貞狩りとか興味あるタイプでしょう?」
「ち、違うわよっ!?
私、プレイガール扱い!?
そ、そんな……!」
「今なら助けてもらった負い目で断れませんしね。ふふふふ。」
にっこり微笑むエマの顔が、一番怖かった。
アウレリアは胸の前で拳をギュッと握り、
心の中の羞恥心と乙女心と母性と性欲を全部抱きしめて——
「ふ、ふふっ。いいわ。なら——」
少年の前に立ち、
必死に、ほんとうに必死にウインクした。
「い、今から一緒に……
ご、ご飯に行かない?」
一人は明らかに戸惑っていた。
「あ、その……」
その沈黙に、アウレリアの心が“パリン”と音を立てる。
「ご、ごめんなさい……嫌だった……よね?
こんな……年増じゃ……」
しゅん、と肩が落ちる。尾も落ちる。
「いや、その……
逃げるとき財布落として……
持ち合わせが……
だから、せっかく誘ってくれたのに……」
アウレリアの顔がパァァァッと明るくなった。
「そ、そんなの気にしなくていいのよ!
いい子ね……気に入ったわ。
今日はと・こ・と・ん、ご馳走するから!」
「そ、その……僕なんかでよければ……」
「もちろんよ!
どうせ迷ったなら、ついでに私と“夜の国”を楽しみましょう?
美味しいお店、たくさん知ってるの。」
アウレリアの瞳は輝き、
一人の心には、助けられた安心と、
どこか妖しい魅力が溶け込んでいく。
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