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第77話 マダム ドラゴニア(1)

ー永遠が去った、次の日の朝ー


「……あれ?」

 ぼんやりした頭のまま、キッチンの戸棚を開けた一人は固まった。


「トイレットペーパーが……無い。

 箸も……スプーンも……無い。


 あれ、これ絶対なんかおかしいよね……?」


 昨夜、永遠に言われた言葉がふいに脳裏をよぎる。


『必要なものは全部揃ってあるから』


「……揃ってねぇじゃん……」

 思わず小声でツッコむ。


 けれど、永遠に悪気があるわけじゃないのもわかっている。


 吸血鬼はトイレットペーパーも箸もスプーンも使わない。


 文化の違い。


 その“当然”の差が、こうやっていきなり現れる。


「まあ……仕方ないか。頼めばいいよね、配達。」


 一人はスマホを取り出し、ネットスーパーを開く。


 ートルルルル……


「あ、あの……今から言うもの、配達できますか?

 トイレットペーパーとー……」



 ーすみません。

 その……うちで取り扱いが無い商品と、

 あと今回少額なので、配達は難しいんですよね……ー



 丁寧だけど断固とした声。


 通話は、短い絶望だけを残して終わった。


「……マジか。 」

 一人はテーブルに突っ伏した。



「あー……どうしよう。

 確かこのマンションから少し先にコンビニがあったよな……」


 ベランダに出てみる。


 夕暮れの残り香をまとった空気が、ひんやりと肌に触れた。



 ビルの隙間の道の先。


 角を曲がった場所に、小さく、しかし力強く灯る明かり——。


 コンビニの看板が、夜気の中で明らかに光っていた。


「すぐ近くだし……。


 ほら、もし変な人に絡まれても……首筋見せれば大丈夫だよね。」


 そう呟く。


 自分でも、その考えが甘いことくらいわかっていた。


 永遠があれほど外に出るなと言った理由も。

 けれど。



「……ちょっとだけ。

 買ってすぐ戻れば平気。」


 靴を履き、ドアノブに手をかける。


 クイ、と軽い音を立てて鍵が開いた。



 そして——。


 暗く静かなマンションの外へ、一人は歩き出した。



 夜の国の空気は冷たく、

 その奥で、何かがひっそりと目を覚ましていた。




 ーコンビニでの出来事ー



 自動ドアが開く“ピンポーン”という軽い音。




 その瞬間——。


 店内にいた数人の女性たちの視線が、一人にビッと刺さった。


 吸血鬼、獣人、肌の色が淡く光る異形の娘まで。


 夜の国のコンビニは、普通のコンビニよりもずっと“夜”に近かった。



「ねぇ、見た?黒髪の子……」


「超かわいいじゃん……あれ人間?マジ?」


「男娼かな?あの顔で素人とか無いでしょ」


「主の姿は?誰の眷属?」


(一人;……うそ、なんでこんな見られるの……!?

 はやく……はやく帰らないと……)


 声をかけてくる客もいたが、

 一人はひたすら俯いて、必要なものだけをカゴへ放り込んだ。



 ――永遠の言ってたこと、こういうことか。



 背中に感じる視線が熱い。


 獲物を見る目だ。


 会計を済ませ、一人はほっとした息をつく。

(よし……もうすぐ帰れる……あとは戻るだけ……)




 しかし——。


 店を出た瞬間。


 夜風と一緒に、妙な気配が肌を撫でた。



 ——いた。



 数人の女たち。


 吸血鬼2人、妖狐2人。


 全員が、男娼街の“客”ではなく“狩人”の目をしていた。



「ねぇ、いくらなの?」

 赤い目をしたロングヘアの吸血鬼が、一歩、近づいてくる。



 その目は「買い物いくら?」ではなく

 **「あなた自身、おいくら?」**の意味。



(一人;やば……やばい……!!)



 一人は返事をせず通り抜けようとする。




 しかし——。


「おい、シカトかよ。止まりな。」

 すっと腕を伸ばされ、進路を塞がれた。



「あ、あの……その……」

 怯える一人の声は、夜の雑踏に溶けて弱々しい。



 獣人の妖狐が尻尾を揺らしながら言う。


「ねぇ、一晩いくらなのかって聞いてるの。

 ほら、値段によっては“買ってあげてもいい”よ?」



「い、いや……僕……売り物じゃないんです……」


「ご主人は?どこにいるの?」


「……部屋にいます。」


「嘘つき。こんな時間に、眷属を一人で出す主がどこにいるのよ?」

 逃げ場が無い。


 一人は苦し紛れに、

 永遠のものだと示すために首筋を見せた。


 そこには、かすかに所有紋。


 吸血鬼たちは覗き込み——。


「……へぇ。 」



「吸血鬼のものってこと?

 でも聞いたことない名だな、その主。」


 妖狐が薄笑いを浮かべた。


「ま、いいか。ついてきな?少し遊ばせなよ。」


「あ、あの……本当に……」



「初々しい反応……ほんと最高。

 ふふ、夜はこれだからやめられない。」


 吸血鬼の女が、露骨に舌で唇を舐める。


 その仕草が、完全に捕食者のものだった。



 恐怖が喉に突き刺さる。


 


「っ……!」

 一人は駆けだした。


 袋を抱えたまま、暗い路地へ。



 後ろで女たちが笑う声。

「ふふっ……逃げた。」


「鬼ごっこ?いいわねぇ。追いかけっこなんて久しぶり。」


「今日は当たりだわ。」


 足音が迫る。


 高いヒールなのに、速い。


 夜の国の住人は身体能力が桁違いだ。



 しばらくして——。



「捕まえた。」

 腕を掴まれ、壁へと押し付けられた。

 

 石壁が背中に食い込み、息が詰まる。


「は、離してください……お願いします……」


「震えてる……すごく可愛い。」


 吸血鬼の瞳が妖しく光る。


 その目はもう、完全に“獲物”を捉えた肉食獣の目。



 妖狐たちはくすくす笑い、

「ねぇ……大丈夫よ。

 “楽しんだ後”なら解放してあげるから。」



「痛くしないよ?ふふ」


 指先が顎に触れた瞬間——。



 一人の全身に、凍りつくような恐怖が走った。


 逃げられない。


 このままじゃ——。





 震える一人の肩に、吸血鬼の白い指が触れようとした——。


 その瞬間。


「あなたたち、おやめなさい。」

 澄み渡る声が、夜の通りに響いた。


 凛として、どこか王族のような気品を帯びて。



 振り返ると、

 青い長髪をゆるく巻き上げたドラゴニュートの貴婦人が立っていた。



 白磁の肌、しなやかな尾。


 端正な顔立ちと艶めいた雰囲気が、まるで貴婦人そのもの。

☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。


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