第76話 夜の国(5)
ー別宇宙 リアのアパートにてー
薄曇りの朝。
アパートの小さなリビングには、微妙な緊張が漂っていた。
亜紀はマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと口を開く。
「多分……永遠は帰ってこないと思うんです。」
その声音には確信があった。
昨夜、何かを悟った者に特有の、落ち着いた絶望の色。
リアはソファにもたれ、長いため息をひとつ。
「だろうね。吸血鬼だよ。
即物的で、直情的。
こっちの事情なんて知ったこっちゃない。」
「永遠」という名を口にするだけで、空気がどこか鉄の匂いを帯びる気がした。
だが、亜紀は躊躇わず言う。
「私も行こうと思います。」
リアは意外そうに眉を上げたが、すぐ苦笑に変わる。
「お前が傍についてくれるなら、安心だよ。」
そして指を折りながら言う。
「他の三人の嫁はダメ。
特にエイシェトとナアマのペアは、ほんとにダメだった。」
リアの顔に珍しく本気の疲労が浮かぶ。
「暴走してんのにアクセル踏むタイプでさ……
こっちが止める前に壁突き破るタイプなんだよ、あいつら。」
「たしかに」と亜紀は苦笑した。
あの二人は激情の化身のようなものだ。
リアは続ける。
「リリスは……ああ見えてバランス感覚あったし……
お前がいないとダメなんだよ、ほんと。
バカのこと、頼むよ。」
「バカ」
そう言われても亜紀は否定しない。
誰のことか、即座にわかってしまう自分も腹立たしい。
リアは真顔で確認する。
「でも、あそこは血生臭い世界だよ?
行けば、もう前と同じじゃいられない。
……それでもいいの?」
亜紀はゆっくりマグカップを置き、リアを見つめ返す。
「ふふ……こう見えて、私が一番血の気多いの知ってるでしょ?
寧ろ、あってますよ。」
リアが吹き出した。
「だな。ふふっ。」
一瞬だけ、重かった空気が和らぐ。
それでも、亜紀には譲れない願いがあった。
「……お願いがあるんです。」
リアは即答した。
「わかってるよ。
“改変”してほしいんだろ?」
「はい。
一人とサマエルの出会いを……改変できますか?」
リアは首を横に振る。
「それは無理。
高位存在そのものの改変は、私でも手を出せない。」
亜紀の瞳が揺れる。
だがリアは続けた。
「でも、記憶改変ならできる。
世界のほうの“認識”をいじるのは簡単だ。
……それでいい?」
「はい。お願いします。
みんなの記憶から、
一人とサマエルの関係……全部消してください。」
リアは一瞬だけ沈黙し、覚悟を決めるように息を吐いた。
「……うん。
でも戻ってきたくなった時は言えよ。
なんとか修正するから。」
「はい……それと。
向こうに送ってもらえますか。」
リアは立ち上がり、亜紀の肩を軽く抱いた。
「いいよ。
弟のこと、頼むよ。」
2人は静かに抱きしめ合った。
別れを惜しむように。
最後のぬくもりを確かめるように。
ー次の日の朝ー
薄いカーテン越しの光が差し込み、
一人はゆっくりと目を覚ました。
ベッドの隣に昨夜までいたはずの吸血鬼はそこにおらず、
代わりに部屋の奥で黒いワンピースを身にまとっている永遠の後ろ姿があった。
その背中は、いつもより“戦う女”の雰囲気が強い。
寝癖のついた髪のまま、ぼんやりと声をかける。
「おはよう……どうしたの?どこか出かけるの?」
永遠は振り返り、微笑んだ。
その笑顔は優しいのに、どこか後ろめたい色を帯びている。
「うん。ごめんだけど……2〜3日、家を空けるから。」
「えっ……2〜3日って……どこに?」
永遠は口元に指を当て、いたずらっぽく笑う。
「秘密だよ。ふふっ。」
そして一歩近づき、一人の顎をそっとつまんだ。
「いい? 絶対このマンションから出たらダメだからね。」
その声音は甘いのに、背筋がぞくりとするほど強い“命令”だった。
「必要なものは全部揃えてあるから……
退屈したら映画でもゲームでもしてていいよ。」
素直に頷くしかない一人。
「う、うん……」
だが不安な表情は隠しきれず、それを見た永遠はふっと表情を変える。
「いい? 外の世界は危険がいっぱいなの。」
永遠は一人の頬に触れ、囁くように続けた。
「ここ……“貞操逆転世界”だからね。」
耳元で“世界”を強調してくる。
「君みたいな男は、ほんとに狙われやすいんだよ。」
永遠の瞳が深く赤く光った。
「周りにいる女性たちは、どんなに若く見えても全員“経産婦”。
子育て終えて金も時間も余ってるマダムが、
男を買うために集まる……そういう街なんだ。」
一人はごくりと喉を鳴らす。
「う、うん……大人しくしてる……」
その返答を聞き、永遠は満足げに微笑む。
そして机の上に、黒いカードと分厚い封筒を置いた。
手に取っただけで高価だと分かる。
「必要なものは、デリバリーで全部手に入るから。」
永遠は一人の手を取って、その掌にカードを押しつけた。
「——いい? 外には絶対、出ちゃダメ。」
声が甘く落ちて、どこか所有を示す響きがある。
永遠がヒールを履きながら玄関に向かおうとしたその時、
一人は意を決したように声をかけた。
「あ、あのさ……」
永遠は動きを止め、肩越しに振り返る。
「何?」
一人は言葉を探し、唇を噛む。
「永遠はさ……僕が澪に“騙されてる”って言うじゃないか。
でも……僕にはわからないんだ。何を騙してるって意味なんだ?」
永遠は長いまつげを一度だけ瞬かせ、やれやれと息を吐く。
「このタイミングでそれ聞くの?!
ほんと……ズレてるとこが君らしいけどさ。」
呆れたように笑うが、どこか愛しげでもある。
一人はさらに続ける。
「それと……あの日、部室から聞こえた声の娘たち……あれは誰なの?」
永遠は一瞬だけ表情を固め、視線をそらした。
そして低く、静かに言う。
「……澪との約束で、私からは言えない。」
「……」
「でもね。知りたいなら——“あの日、あの場所”で何があったのか。
自分で調べてみることね。今は、それしか言えないの。」
一人は困惑する。
「“あの日、あの場所”って……なんのこと?」
永遠は目を細める。
その眼差しは、優しさと厳しさが混じり合ったまるで教師のようだった。
「あなたは、本当はわかってるはずよ。」
一人は反論しようとしたが、永遠が口を開く。
彼女の声は、まるで“何百年も生きたものの教え”のようにゆっくりと、深く響いた。
「いい? 大切なのはね、自分で“問い”を見つける姿勢なの。」
「与えられた問いに、与えられた答え……そんなものは意味がない。」
永遠は一人に歩み寄り、指先でその胸元を軽く突く。
「この世界に“はじめから答えなんてない”の。
だから君は、自分で疑問を抱いて、自分で答えを探しなさい。」
「悩んで、苦しんで、迷って……
その“ゴミ山みたいな試行錯誤”の中で掴んだ答えだけが、
真実になるのよ。」
一人は息を呑んだ。
永遠の声音は、どこか哀しげでもあった。
「迷ったら、ヒントだけをもらうの。
ヒント“だけ”。答えはもらっちゃダメ。」
永遠はそっと一人の顎を持ち上げ、目を合わせた。
「そして——自分の中に答えができたら、当事者に聞いてみなさい。
それが“答え合わせ”。」
「どんなに受け入れがたい真実でも、それが“あなたの真実”になるの。」
永遠は最後に微笑んだ。
「まぁ……いずれ全部、わかるようになるわよ。
覚えておきなさい、今言ったのは“心得”みたいなものだから。」
そして、踵を返し、ドアノブに手をかける。
ギィ……
蝶番が鳴り、ドアが開く。
永遠は振り返らずに、軽く手を振った。
「じゃ、行ってくるね。
いい子で待ってて。」
バタン。
玄関が閉まる音は、妙に重く響いた。
部屋に残された一人の胸に沈んだのは、
言葉にできない孤独と、不安と……ほんのわずかな焦燥。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
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