第75話 夜の国(4)
静まり返った部屋に、夜の国の月光だけが差し込んでいた。
大きなベッドの上、一人と永遠は枕を並べて横たわる。
だが──一人の胸は重かった。
澪の顔が、ずっと頭から離れない。
こんなふうに吸血鬼の少女と同じベッドにいることが、どうしようもなく罪悪感を呼び起こしていた。
その揺れが表情に出ていたのだろう。
永遠は、柔らかく、少し寂しげな目で一人を見つめた。
「君はさ……あいつに騙されてる。
それ、君だって気づいてるはずだよ。」
「……それでも。何か事情があるんじゃないかって思うんだ。」
永遠は、小さく鼻で笑った。
「事情ねぇ。
まあ“独りよがり”って言うか……
あいつの都合を押しつけてるだけに見えるけどね。」
ふっと天井を見上げ、永遠は続けた。
「まあ……
義理立てしなくてもいいと思うよ。
所詮、私もあいつも……
自分の欲求に正直なだけなんだから。」
その言葉は妙に人間臭く、乾いていた。
一人が黙っていると、永遠は少しだけ声を落とした。
「……私はね。昔、人間だったの。
でもその時のものを、全部置いてきた。
キラキラしたもの……
楽しいもの……
大事だったもの……全部。」
永遠の長いまつ毛が震え、視線が伏せられる。
「だから君は……それを失くさないでね。
その輝きは――
神でさえ嫉妬する魂の光なんだから。」
「永遠……」
呼ぶと、永遠はかすかに笑った。
その笑顔は、大人びているのにどこか幼い。
月光に照らされた白い肌は、薄い光沢を帯び、
その肢体は華奢で、触れれば消えてしまいそうなくらい儚い。
「悠久の時を生きるとね……削れていくの。」
囁きは震えていて、泣き声に似ていた。
永遠は一人の胸に額を寄せ、ぽつりと呟く。
「だから……今を楽しも? ふふっ」
その笑みは艶やかで、どこか寂しい。
吸血鬼である前に──
目の前の少女は、確かに“少女”だった。
その事実が胸を締めつける。
やがて永遠の指が一人の頬に触れ、そっと引き寄せる。
唇が触れ合い、ゆっくりと重なった。
温かく、かすかに甘い息が混ざり合う。
舌が触れた瞬間、二人の間に細い糸が光を反射して伸びた。
永遠の身体が重なる。
華奢なのに、どこか抱きしめられるような温もり。
吸血鬼の体温は低いはずなのに、不思議と心まで熱くしていく。
少女の吐息が耳元で震えた。
「……ねぇ、一人。
今だけは……私だけを見て。」
夜の国の月が、静かに二人を照らしていた。
静寂。
深夜の空気が部屋を包み、呼吸の音さえ吸い込んでしまいそうなほど静かだった。
永遠は、横で穏やかな寝息を立てている一人をじっと見つめていた。
ゆっくりと、ためらいもなく──その身体に跨る。
月光に照らされた永遠の瞳は、少女のものではなかった。
獣めいた光と、古い知識を宿す魔性の光が混ざっていた。
「……じゃあ。
そろそろ“会いに行きますか”。」
永遠の指先が、一人の胸元に触れた瞬間。
肌に触れた彼女の身体が──
波紋のように揺れ、光でも影でもない何かに変わり始める。
永遠の姿は液体のように滑り、
輪郭を失いながらゆっくりと一人の身体へ沈んでいった。
指先が沈む。
腕が沈む。
足が沈む。
髪が吸い込まれ、最後にその瞳が──
溶けた。
一人の胸の中へ、まるで帰る場所に戻るように。
深く。
さらに深く。
意識の奥底へ。
そこは、人の心とは思えない場所だった。
巨大な神殿のような建造物が、闇の底にそびえ立っていた。
古い祭壇、巨大な柱、そして冷たく光る封印の紋章。
その最奥に──牢獄があった。
永遠が足を踏み入れると、鎖がゆっくりと軋む音が響いた。
「久しぶりね。……出てきなさいよ。」
暗闇が一度、脈打つように揺れた。
そして、牢獄の中から低い声が響く。
「……久しぶりだな。 なんの用だ。」
それは“影”とも“意志”ともつかない黒の塊だった。
形は人のようで、人ではない。
深淵そのもののような存在。
永遠の表情がわずかに硬くなる。
「もうすぐ出られるんでしょ?
リリスに会ったらしいじゃない。」
闇はくつくつと笑った。
「ああ……会ったな。」
---
ふ、と目を開ける。
そこはもう、夜の国のベッドの上だった。
静かに眠る一人の顔が、すぐ横にある。
永遠はその頬に指を添えた。
吸血鬼とは思えないほど優しく。
「さて……これからが本番、ってわけ。
立ち回り、大変そうだわ。」
唇の片端を上げ、妖艶に笑う。
「でも……主導権は“こっち”のもの。」
その言い方は、まるで勝利を確信する者のそれだった。
寝息を立てる一人を、永遠は愛おしむように撫でる。
月光だけが、その一部始終を静かに見守っていた。
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